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凍える夜、優しい温もり  作者: トウリン


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25/33

<膨らむ欲>

 まだ乾いた枝ばかりが目立つ桜並木を弾む足取りで歩いている綾音あやねの後を、颯斗はやとは数歩遅れて追いかけていた。

 彼女は早足になったかと思うと樹の前で足を止めてジッと枝を見上げ、少し残念そうな顔になるとまた歩き出す。

 その表情だけで彼女の心の内が透けて見えて、颯斗の口元は自然と緩んでしまう。


 ――店が終わった後に散歩に行きたいと言い出したのは、綾音の方だ。


「桜を見たいな」


 店の掃除をしている颯斗に近づいてきてそう言った綾音に、彼は思わず首をかしげてしまった。

 確かに駅前通りはそこそこ立派な桜並木だが、まだほとんど咲いていない。というより、咲いている花を見つける方が難しいレベルだ。


「もっと咲いてからがいいんじゃないか?」

「いいの。段々花が増えていくところを見たいから」


 期待に満ちた眼差しを向けてくる彼女は、本当に楽しみにしているように見えて。

 固い蕾ばかりの茶色い樹を眺めて何が楽しいのかと思ったが、まあ、彼女がそれでいいならば、と、颯斗は黙ってうなずいたのだ。


 いつもの時間に店を閉めて、まだ人の多い通りをゆっくりと進む。

 花など咲いていないから、綾音の他は誰も桜の樹など気にも留めない。せかせかと帰りを急ぐ人の中で、まるで彼女だけが別の世界を歩いているように見えた。

 綾音は開いている花を数えようとするように一本一本樹を見上げているけれど、時折彼を振り返って、目が合うとにこりと笑う。

 口元に笑みを刻んだままその表情は、とても柔らかい。颯斗に向けられる眼差しも笑顔も、打ち解けて自然なものだった。


 あの海から帰った日以来、綾音は目に見えない薄皮を剥いでいくように、日に日に変わっていく。いや、変わっていくというよりも、中に隠れていたものが現れてきただけなのかもしれない。


「颯斗君」


 彼女が、甘く柔らかな声で彼の名前を呼ぶ。

 ただそれだけで、颯斗の胸の奥は熱を帯びる。

 姿を見る、声を聴く、目が合う――それだけで、彼女に触れたくて抱き締めたくて、時々、噛み付きたいような気持にすらなった。


(これは、絶対、おかしいよな)


 颯斗もそう自覚しているから自重しなければとは思っているのだが、こんなふうに綾音の側の壁が消え失せている今は、自分の身体を制御することがとても難しくなる。

 変わりつつある綾音を邪魔したくないから、押し過ぎて彼女にプレッシャーをかけまいと言葉も行動も自制しているところだ。

 けれど、それで綾音は安心したのか、今度はまるで警戒心の欠片もなくなっている。


 颯斗の方は我慢に我慢を重ねているのに、綾音の方は容赦なく彼の理性を跡形もなく消し去ってくれそうな表情を見せたりするのだ。


(避けられている方が楽と言えば楽だったな……)


 ため息つきつつ、颯斗は今も彼に向かって手招きをしている綾音に少し足を速めて近づいた。

 隣に立った颯斗の袖を、彼女は樹を見上げながらクイクイと引く。


「ほら、あそこ、見て」

「あそこ……?」


 よく、判らない。

 颯斗は綾音と同じ目線になるように少し膝を曲げて、彼女が言う方向へと目を向けた。と、フワッと甘い香りが鼻先をくすぐって、身体の右側――綾音がいる方がほんのりと温かくなる。


「ほら、あそこだよ」

 少し跳ねてる彼女のくせっ毛が、颯斗の頬をかすめた。


 頬が触れ合いそうになっているのに、綾音は全然気付いていない。いや、気付いていないというよりも、気にしていない、なのか。

 こんなに近付いているのに触れられないとか、ほとんど拷問ではないか。

 やめておけと思いつつ、綾音の香りを吸い込んで、颯斗は全意識を注いで彼女が指さす先に目をやった。


「あそこ、あの上の方」

 内緒話をするように耳元で囁く声。


(ああ、クソ……)


 グラグラしながら視線をさまよわせると、ようやく、樹の上の方、三輪ほど、薄紅色の花が開いているのを見つけた。


「ね、見えた?」

 互いの目を覗き込まんばかりの距離で、クルリと綾音が颯斗の方に顔を向ける。


(もう、限界だ)


 うめき声をこらえながらさっと身体を伸ばした颯斗は、慎重に一歩後ずさって彼女と少し距離を取った。不自然にならないように、細心の注意を払って。

 一方綾音はと言えば、彼のそんな苦労には全く気付いていない様子で、嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。


「こういうの見ると、春が来るんだなぁって思うよね」

「そうか?」

 少し上ずった声で返すと、綾音はまた惜しげもなく笑顔をくれる。

「そうだよ」

 その笑顔に目を奪われたままの颯斗を放って、彼女はクルリと踵を返した。


「もう少し向こうに行くと、陽当たりがいいんだよ。もっと咲いてるかも」

 そう言って、綾音はまた歩き出す。


 ふわりとスカートを揺らしながら歩く彼女の後ろを歩く颯斗は、ふと思った。


 ――幸せだ、と。


 それは、晴れ渡った空から突然ヒラリと雪が舞い降りてきたかのようで。


 思わず、颯斗は足を止める。

 今までも、何となく同じような感覚に触れたことはあったけれど、はっきりとそう感じたのは、初めてかもしれない。


 綾音と『一緒に』いる。

 ただ空間を共にしているというだけでなくて、彼女と何かを共有しているような気がする。

 これは、大きな進歩だと思う。

 そしてものすごく幸運なことなのだとも。

 けれどそう思う一方で、時折、微かな不満、あるいは物足りなさも颯斗の胸をよぎった。


(綾音は俺のことをどう思っているんだろう)


 相変わらず、頼りなく寄る辺ない、『助けたい少年』のままなのか、それとも、別の何かになっているのだろうか。

 颯斗は、自分と同じ気持ちを彼女にも持って欲しかった。

 互いに互いの一番になりたかった。


(――際限がない)


 颯斗は、我ながら呆れてしまう。

 かつては、何かを欲したところでそれが与えられたことがなく、得られなくて残念に思うようなこともなかった。

 だが、綾音と逢ってからは多くのものを与えられ、与えられることでより多くを求めるようになってしまった。

 まるで小さな子どものように、望んだものは手に入れたくてならなくて、手に入らないことが不満だ。手に入ったら入ったで、またもっと欲しくなる。


(どこまで行ったら、満足できるようになるんだろう)

 と、不意に、だいぶ先に行っていた綾音がくるりと振り返った。


「ねえ、颯斗君、誕生日プレゼント、何がいい?」

「たん、じょうび……?」


 何の脈絡もなく唐突に問われて、颯斗は目を丸くする。

 まだ、三月末だ。颯斗の誕生日は五月だから、まだ二ヶ月近くある。いくらなんでも気が早すぎではなかろうか。

 彼は声に出してその事実を教える。


「まだだいぶ先だろ。余裕で一ヶ月以上あるぞ」

「いいの、ちゃんと準備したいから。食べたいものとかも言って。ケーキは何がいい?」


 近づいてみると、彼女は期待に満ち満ちた眼差しを颯斗に向けてきた。


「……なんでもいいわけ?」

「う、えぇっと……あんまり高いものは、ちょっと……」

「金がかからないなら、いいのか?」


 念押しすると、綾音は不思議そうな顔で小さく首をかしげる。


「何かある?」

「それは、まあ……」

「何かごちそう作って欲しい?」

「綾音が作るもんなら何でもいい」

「どこか行きたいとか?」

「別に、店でいい」


 颯斗がかぶりを振ると、彼女は少し困ったような顔になった。


「ごめん……わからないな。わたしにできること?」

 自信がなさそうに見返してくる。


「本当にいいんだな?」

 もう一度颯斗がそう問うと、綾音は少し、不安そうになった。


「え、あ、うん」


 若干視線が泳ぐ彼女は、何だかちょっと、いじめたくなる。

「本当に、どんなことでも、してくれるのか?」


 目を細めてジッと彼女を見下ろす彼から半歩ほど後ずさったのは、無意識なのかどうなのか。


「か、可能な範囲で」


 颯斗が小さく息をつくと、綾音はびくりと肩を跳ねさせる。怯えているようにも見えるその反応に、彼はポケットに両手を突っ込んだ。そうしないと、彼女を引き寄せてしまいそうだったから。

 彼が望んでいることは、綾音にできること、というよりも、綾音にしかできないこと、だ。

 颯斗は彼女を真っ直ぐに見つめて、その願いを口にする。


「答えが、欲しい」


 彼のその言葉に、綾音はきょとんと眼を丸くした。


「……え?」

 困惑で、しばしばと瞬きをする。


「綾音を好きだっていう俺の気持ちに対する、綾音の答えが欲しいんだ」


 小さく息を呑んだ彼女は、そこで固まった。


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