<見えない気持ち>
「最近、あんたとアヤ、なんかちょっといい感じじゃない」
利音と二人きりでカウンターの奥にいた時。
ふらりとやって来て隣に立った彼女にそんなことを言われて、颯斗は一瞬耳を疑った。
「はぁ?」
それは、嫌味か何かのつもりだろうか。
そう思って横を見れば、ニヤ付く利音の顔がある。この上なく楽しそうな、顔が。
どうやら、彼女は嫌味を言ったわけではなく、からかっているだけだったようだ。
むっつりと口をつぐんだまま颯斗はシンクの中に手を伸ばし、グラスを拾って泡だらけのスポンジでこする。
「あれ、怒った?」
心外そうな利音のその声に、颯斗はいっそう腹が立った。まともに目が見える者であれば、今、颯斗と綾音の間に流れている空気がどんなものなのか、充分に見て取れるはずだ。
ましてや、鋭い利音のこと。
絶対に、気付いている。気付いていないわけがない。
「……怒ってない」
奥歯を噛み締めるようにして颯斗がボソッと答えると、利音はこれ見よがしなため息をついた。
「愛想ないわねぇ。せっかく、亀の歩みとはいえ三年越しの初恋がようやく進展を見せつつあることを祝ってやろうと思ったのに」
途端、取り落としたグラスが洗い桶の中に残っていた食器とぶつかって、派手な音を立てる。颯斗は慌てて溜めていた水を流して、底に沈んでいた物が無事かどうか確かめた。
――どうやら、どれも欠けてはいないようだ。
(どこが『進展』だよ)
慎重な手付きでまた食器を洗い始めながら、彼は胸の中で罵った。
最近の綾音は、颯斗に近付きやしない。
利音がいれば必ず間に彼女を挟むようにして立つし、二人きりの時は何だかんだと理由をつけて颯斗を置き去りにしてどこかに行ってしまう。下手をしたら、彼の姿を見ただけで回れ右することすらあった。
それほど徹底的に避けられているというのに――
「何も進んでねぇよ」
棘のある声でついそう吐露してしまった颯斗に、プッと小さく吹き出す音――明らかな失笑が届く。
ギッと利音を睨み付けると、彼女はごまかし程度に片手で口元を隠しつつ颯斗の背中を宥めるように叩いてきた。
「まあまあ、そんなに焦んなさんなって。あんたの気持ちに気付いていながら明るくスルーされてるより、意識されて逃げられてる方がまだ良くないかい? 意識されてるってことは、見込みがあるってことじゃないか」
「……ただ逃げてるだけだろ」
「まあ、逃げまくってはいるけどね。でも、明らかにあんたのこと、意識してるよ、あの子は」
楽観的な利音の台詞に、颯斗はため息を漏らす。
深々と。
その重さに、少し彼女の声のトーンが変わった。
「あれ、結構ダメージ大きい?」
意外そうにそう訊いてくるが、もちろん、颯斗のダメージはでかいに決まっている。
彼の発言が悪かったのか、行動が悪かったのか、それともその両方が悪かったのか。
とにかく、綾音は颯斗の半径二メートル以内には決して近付こうとしない。
押しの一手で行こうと決めた時、当然、こういう結果を招くかもしれないということは予想していた。が、予想はしていても、ここまで避けられまくると、さすがに颯斗もへこむ。
(この三日、オーダー取る時の声くらいしか聞いてないんじゃないのか?)
いい加減、欲求不満に陥って、そのうち彼女をどこかに拉致ってしまいそうだ。
覚悟を決めていたはずなのにそんなふうに思ってしまう自分が情けなくて、また颯斗が特大のため息をこぼした時、利音が彼の手からスポンジを取り上げた。そうして、代わりに食器を洗い始める。
シンクの中に目を向けたまま手を動かしながら、彼女は口を開いた。
「あの子はさぁ、どんなに嫌な客が来ても、満面の笑みで相手できる子なのよ」
「え?」
唐突な話の切り出しに、颯斗は眉をひそめる。そんな彼に応えたふうではなく、ほとんど独り言のように利音は続けた。
「あの子は、親しいとか親しくないとか、好きとか嫌いとか、そんなの全然判らないくらい、誰に対しても『分け隔てなく』付き合える子なのよ。まあ、私と荘一郎はちょっと別格かもしれないけど、私らは身内判定だからね」
口元に刻まれる、小さな苦笑。
颯斗は何も言わず、利音の言葉を待つ。
少し間をおいて、彼女はまた話し出した。
「私は生まれた時からあの子を見てるけど、アヤが今のあんたにしてるような態度を取ったことはこれまで一度もないのよ?」
「……それくらい嫌われたってことか……?」
颯斗は愕然と呟く。
まるで、脳天に金属バットを叩き付けられたような気がした。
どんな相手も嫌わないという綾音に嫌われるだなんて、もう再起不能ではないか。
放心している颯斗の横っ面を、呆れたような利音の声がはたく。
「だから、違うって」
声の方にぎこちなく顔を向ければ、彼女は手を止め、声と同じく呆れを含んだ眼差しを颯斗に向けていた。
「言ったでしょ? 嫌な相手なら、あの子は簡単に流せるの。あんたのことはどうでも良くないから、逃げてるんじゃない。アヤにとって、あんたは『特別』なの」
ビシッと決めつけるように言われても、颯斗にはピンとこない。
「『特別』……」
疑わしげな声でその単語を繰り返した颯斗に、利音はうなずく。
「そ。あの子もかなり戸惑ってるんだと思うわよ? 色々、考えてるとこなのよ。だからちょっと待ってあげてくれない?」
そこに微かに滲むのは、懇願するような響き。
「何かあるとすぐ逃げ出しちゃうのはあの子の悪いとこなんだけど、あんたからは逃げたままではいないと思うの。きっとね。……あんたもつらいとは思うんだけど、諦めないでやって」
いつも自信満々、飄々としている利音からは、あまり聞いたことのない声だった。
(そのセリフを鵜呑みにできればいいんだけどな)
そう胸の中で呟きはしたが、たとえ綾音にどんな態度を取られたとしても、諦めようにも諦められないのが実情だ。
「……わかったよ」
ため息混じりに颯斗がそう返すと、利音は励ますように微笑んだ。
――利音とそんな遣り取りをしてから、三日後のこと。
その日、店の掃除も終えていつものように帰り支度をしていた颯斗は、突然背後からかけられた綾音の声で手を止めた。
振り返って、一拍置いて、問い返す。
「……今、何て言った?」
彼女の方から話しかけてきたのはおよそ十日ぶりのことだったし、そのセリフの内容もそれまでの状況からしたら突拍子もないものだったから、颯斗が思わず眉間にしわを寄せてしまったのも仕方のないことだっただろう。
固まっている彼に、綾音はもう一度繰り返した。
「だからね、一緒に、海に行って欲しいの」
(現実、か……?)
これは、白昼夢かもしれない。いや、本当は今の颯斗は寝ていて、この会話は夢で観ているものなんだとか。
バカげているかもしれないが、颯斗は九割方、本気でそう思った。
「あの、だめ、かな……?」
黙ったままの颯斗を、綾音はおずおずと見上げてくる。
今にも前言を撤回させそうな彼女の様子に、我に返った颯斗は慌ててかぶりを振った。
「いや、行く、行ける。いつ?」
畳みかけるように返すと、綾音はホッとしたように頬を緩める。
「今度の土曜日とか、だいじょうぶかな」
「ああ、何もない」
今度の土曜というと、二月も後半だ。三月頭には期末試験を控えてはいるが、綾音の方が大事だし、ここから海まで、電車で一時間もあれば行ける距離だ。せいぜい一日潰れる程度のことで、大した影響はない。
第一、そもそも颯斗の頭の中には、綾音からの頼みを断るという選択肢は存在していなかった。
「何時くらいに出る?」
「えっと、ね……」
問いかけながらもすでに頭の中で簡単に予定を組み立てていた颯斗だったが、続いた綾音の言葉に、思わず目を丸くした。




