<揺れる眼差し>
「そういうの、俺がやるっていつも言ってるだろ」
日曜日、いつものように開店一時間前に店にやってきた颯斗は、ため息混じりにそう言って、綾音の腕の中から段ボール箱を奪い取った。
中身は週に一度まとめて配達されるミルクだ。颯斗にとってはたいした重さではないが、綾音にとってはそれなりのものに違いない。
「よろよろしながら運んでて、落としたらどうするんだ? ほら、置く場所教えてくれよ」
颯斗は綾音が両腕で抱えていたそれを片腕に持ち、空いている手で彼女の背を促す。
と、その手が触れるか触れないか、というタイミングで、すい、と綾音は一歩横に動いた。
(逃げたな)
颯斗はそう思ったが、何も言わずにおいた。
それに、たぶん、綾音のその反応は無意識のものだったのだろう。
一拍遅れて自分のその行動に気づいた彼女は一瞬固まり、次いで取り繕うようにいささか硬い笑顔を浮かべた。
「あ、うん、倉庫に――」
彼女を見下ろす颯斗の視線から目を逸らし、何だかもごもごと言いながら、綾音は先に立ってそそくさと物置となっている小部屋へと入っていく。
どうやら、自分自身の行動に、彼女は狼狽しているらしい。あるいは、変な態度を取ってしまって申し訳ないと思ったのだろうか。
明らかに颯斗のことを持て余している綾音のその態度に、彼はなんとなくニヤついてしまう。
――最近の颯斗と綾音の間に流れる空気は、微妙な感じだ。
というより、颯斗の一言一挙手一投足に対して、綾音が一人でおたおたしているというべきか。
だが、こんなふうにぎくしゃくしている綾音は、充分に颯斗の想定範囲内だった。
あのツリーの前での遣り取り以来、彼は積極的に綾音に近付くようにしているからだ。
どうせ、今よりも後退のしようがない。
そう身に染みた颯斗は、みっともないのは承知の上で、完膚なきまでに叩きのめされるまでやってみようと思ったのだ。
心新たに決意した彼は、店にまた、毎日必ず顔を出すようにした。
それだけならば以前と同じだが、今は折に触れて綾音に好きだと伝え、触れている。
明らかに彼女が困った顔をしていても、気付いていないふりをして。
自分の行動が、一歩間違えれば取り返しがつかなくなるものであることは、颯斗にもよく解かっている。
だが。
(当たって砕けろってやつだよな……)
若干の自嘲を交えて、颯斗は胸の中でつぶやいた。
かつては綾音に指先で触れることすらためらっていた颯斗のガラリと変わったその態度に、彼女は明らかに戸惑っていた。
しかし、戸惑ってはいるが、嫌がってはいないと、彼は思っている――思いたい。
その証拠に、自分が先にあの狭い部屋に入ってしまえば完全に退路を断たれてしまうのだということに、綾音はまったく思い至っていないではないか。
(心の底から警戒しているとか俺を嫌っているとかしたら、こういう油断はしないよなぁ)
今一つ抜けている綾音にため息つきつつ、颯斗は彼女の後を追った。こういう隙を見せるから、彼に付け込まれるのだ。
もっとも、隙があるのも善し悪しで、あまりの無防備さに、時々、どこまで許容されるのかの判断に困るのだが。
追いついてみると、案の定、綾音は小部屋の奥にいて、袋の鼠と化している――彼女自身はその状況に気付いてもいないが。
「そこの棚に置いてくれる?」
言われるままに綾音が指示する場所に箱を下ろし、颯斗は立ち上がる。
「何かあっちに持っていく物とかないか?」
「あ、うん、えっと……」
颯斗の問いかけに綾音は棚を見上げ、物色し始めた。
彼女は顔を仰向け、一番上の棚に視線をさまよわせている。颯斗の視線には全く気付かず、うっすらと開いた唇はブツブツと何かを呟いていた。
(なんていうか――)
警戒心でピリピリしているくせに、なんでこうも隙だらけなのだろう。
(まあ、全然、解かっていないんだろうな)
内心でぼやきながら、颯斗はヒョイと身体を捻った。
唇が触れ合ったのは、ほんの一瞬。
すぐに元の姿勢に戻った颯斗を、綾音はポカンと見つめ返してきた。
「……え?」
小さな声がその唇から洩れた次の瞬間、彼女はパッと後ろに飛びのいた。勢い余って、棚板に頭をぶつける。
「いたッ」
「大丈夫かよ?」
ぶつけたところに手を伸ばそうとした颯斗に、綾音は二、三歩カニ歩きをする。それは、彼女を一層小部屋の奥へと送り込むものだったのだが。
「だ、だいじょうぶ……じゃなくて!」
ようやく何が起きたのか頭に浸透し始めたのか、みるみる彼女の頬が赤くなっていく。
「今……今、颯斗くん――」
「キスした」
その先を口に出せずにいた綾音にサックリ返してやると、途端に彼女の目が泳いだ。
「もう何度も言ってるだろ、俺は綾音のことが好きだって。言葉だけじゃなかなか納得してくれないようだから、行動も伴わせることにしたんだよ」
思い切り開き直ってそう宣言すると、綾音は酸欠の金魚のように口をハクハクさせた。
何か『正しい』答えを返そうとしているのだろうということが、まるで頭の上に吹き出しでも表示されているかのように見て取れる。
少し目を細めてじっと見下していると、綾音は耐えきれなくなったかのように目を逸らした。
「そ、そういうのは、お互いに気持ちが通じ合ってる人が……」
「じゃあ、綾音は俺のことが嫌いなんだ? 触られたくないくらい?」
実際にはただ触っただけではないわけだが、こういう言い方をすれば綾音には否定の言葉を返せないだろう。
そして颯斗の目論見通り、サッと顔を上げた彼女は慌ててかぶりを振る。
「そうじゃない! 嫌いじゃない、けど――でも、違うでしょ?」
「何が? 俺は綾音が好き。綾音も俺のこと好きだろ?」
颯斗はきっぱりと断言する。そうすることで、彼女に解からせようとするように。
ジッと眼差しを注いでいると、また綾音はうつむいた。
そんな彼女に、颯斗の中にはもどかしいようなやるせないような気持ちがこみ上げてくる。
綾音の中で、自分は『特別』になりつつある。
だから、彼女は颯斗と距離を置こうとするのだ。
それは、いくつかの切れ端から彼が拾い上げた推測――もしくは希望、だった。
綾音にとって颯斗がどうでもいい人間だったら、むしろ彼女は屈託のない笑みを向けてくるはずだ。だが、そうではないから、彼女自身どうしたら良いのか判らなくてぎこちない行動になる。
颯斗はうつむいている綾音のつむじを見つめる。
今までは、綾音の意思を尊重してきた。
自分の想いを押し付けず、自然と彼女の気持ちが変わるのを待った。
だが、その結果、どうなっただろう。
颯斗が一定の距離を保っていたから、綾音はそのぬるま湯のような関係に安心しきってしまったのだ。
そうして、見事な膠着状態に陥った。
だから颯斗は決めたのだ。
(引いてダメなら押してみろ、だ)
何も変えずにやきもきしながら過ごしていくよりも、いっそ当たって砕けてみせよう。
半分やけかもしれないが、泣いた綾音をこの腕の中に抱きしめたあの夜に、颯斗はそう思ったのだ。
「綾音」
呼んでも動きはない。
「綾音」
二度目で、ようやくおずおずと目だけが上がる。今にも逃げ出しそうなその目を、颯斗はしっかりと捉えた。
「綾音は俺の事、好きだよな?」
疑問形ではあるがほぼ断定するようにそう言い切ると、綾音の視線はまた逃げ場を求めるように下がっていく。
「好き、は好き、だけど……」
「そんなふうに目を逸らしてるとまたやるぞ」
『何を』を明言しなくても、綾音にはちゃんと伝わったようだ。颯斗が低い声でそう言ったとたん、パッと綾音の顔が上がった。同時にまるで彼から隠そうとするかのように両手で唇を覆うから、ちょっとムッとする。
だから、つい、口が滑った。
「なんだよ、キスくらい荘一郎といくらでもしただろ」
(しまった)
颯斗はすぐにそう思ったけれど、次の瞬間、反射的に返された綾音の言葉に固まる。
「荘一郎さんはそんなこと――」
途中で、フツリと言葉が切れる。
シン、と、狭い空間に沈黙が満ちた。
大きな目が見開かれて颯斗に向けられているけれど、なぜかその視界には入っていないような気がした。
「……それって――?」
颯斗はかろうじてそう口にしたけれど、綾音は固まったままだ。彼よりも愕然としているように見えるのは、気のせいだろうか。
「綾音?」
名を呼ぶと、彼女はまるで頬でも叩かれたかのようにビクリと肩を震わせる。
「えっと、わたし……もう、準備しないと」
つっかえながらそう言うと、綾音は颯斗を押しのけるようにして倉庫を出て行った。
残された颯斗の頭に、綾音の言葉がよみがえる。
――荘一郎さんはそんなこと――
(『そんなこと』って、『キス』だよな? したことないのか、荘一郎とは?)
思わず颯斗は笑ってしまう。
まさか、それこそ、そんなことはないはずだ。
何しろ二人は婚約までしていたのだから。
だが、それなら、なぜ彼女はあんなに奇妙な反応を見せたのだろう。
――あんな、生まれて初めて見るものを鼻先に突き付けられたかのような反応を。
「……まさか、な」
颯斗は、もう一度つぶやいた。




