<変化の兆し>
「ねぇねえ、で、どうだった?」
八月に入り本格的に夏休み気分になってきた頃、颯斗は、隆そして木下桃子と額を合わせて課題に取り組んでいた。
この三人の中で、まだほとんど課題に手を付けていないのは隆くらいだ。他の二人はほぼ終わらせていて、それぞれの解からないところを訊き合っている。
それもたいして量があるわけではないので、木下はそろそろ勉強以外のことに気が向き出したようだ。
「どうだったって、何が?」
数学のノートの上に身を乗り出して興味津々の眼差しを注いでくる木下に、颯斗は目も上げずに問い返す。彼がしているのは二学期の予習だ。木下は颯斗の視線を塞ぐようにノートの上に両手を広げ、声を潜めて突っ込んでくる。
「だから、映画。あのひと、誘ったんでしょう?」
そう、綾音を心底震え上がらせた映画のチョイスは、この木下によるものだった。
颯斗としては、複雑な心境だ。
綾音とあんなふうな会話を交わすことができたのはあの映画のお陰ではあったけれど、『恋人同士が盛り上がること間違いなし』というのは、絶対違う。
「綾音は滅茶苦茶ビビってた」
「え、そうなの? じゃ、効果テキメン?」
「は?」
「ほら、怖いモノとか見たり、ドキドキした後って、恋に落ちやすくなるって言うじゃない。吊り橋効果だっけ? あと、『きゃー、こわーい』でギュッと抱き付いてきたりとか!」
言うなり、木下はテーブルの上にある颯斗の右手を両手でギュッと抱き締め胸元に引き寄せた。
「そこですかさず肩に手をまわして抱き締めたら、『ああ、颯斗クンって、こんなに頼れる人だったんだぁ』みたいな、ね?」
そう言って可愛らしく首をかしげた木下に、颯斗は深々とため息をついた。
「そんな簡単にいくか」
「ええ? じゃ、ダメだったの? 何も収穫なし?」
木下は、さもがっかりしたように肩を落とす。
颯斗はそれに否定も肯定も返さなかった。
何も得られなかった、というわけではないと思う。何かのとっかかりにはなったという実感はあるが、綾音の中で恋愛感情方面で進展があったかというと、多分ないのだろう。
「そんな簡単なもんじゃないんだよ」
掴まれていない方の手で頭を抱え込むようにして、颯斗は思わず深々とため息をこぼす。
と、やけに強い視線を感じた。
目を上げると、木下がまじまじと彼を見つめている。隆は訳知り顔でニヤニヤしていて、何だか腹が立つ。
「何だよ」
「え、いや……そういう有田君って、なんかいいね」
「はあ?」
「何か普通っぽくて可愛いわ。いつもはすかして『俺にできないことはない』って感じだけど。ツンデレってヤツ? 無敵そうなのがちょっと弱み見せると、なんか萌えるわね」
「だろ? いや、ほら、例の彼女の隣にいるところとか見たら、もう、オレでもキュンと来るぜ」
「それは是非とも」
木下と隆はおかしな盛り上がりを見せている。二人が颯斗に向けてくる生温い眼差しが――
「気持ち悪い」
「ええ? 何で? 好きだって言ってるのに。ねぇ、隆?」
木下に話を振られて、隆は深々と頷いた。
颯斗は顔をしかめて自分の右手を取り戻す。
「いい――」
加減にしろ。
そう返そうとした彼の前に、そっとカップが三つ載ったトレイが置かれる。
ハッと顔を上げると、綾音だった。
「宿題、進んでる?」
そう言って、皆にニッコリと笑いかける。
「俺はもう終わってるから」
何となく、彼女の笑顔に違和感を覚えつつ、颯斗は答えた。いつも通りの笑みの筈なのに、何かが変だ。
「そうなんだ? えらいねぇ」
ニコニコと、微笑み続ける。
「綾音、どうかした?」
「え、何で?」
「何でって……」
徹頭徹尾笑顔のままで返されて、颯斗は言葉に詰まった。口ごもったままの彼に首をかしげると、綾音は他の連中に顔を向ける。
「みんなも頑張ってね。あ、コーヒーは差し入れなの。休憩入れた方が効率上がるでしょう?」
そう言ってまたニコリと笑うと、綾音は離れていった。
彼女がカウンターの裏まで戻ると、木下がテーブルに伏せるようにしてひそひそと囁きかけてくる。
「あれ、ちょっとまずかった?」
綾音の姿を見送っていた颯斗は、その台詞に向き直った。
「まずいって?」
「だから、勘違いされたんじゃないの? あたしと有田君がイチャイチャしてるって」
「はあ?」
そんなバカな、と思う。
けれど、木下はいたって真面目な顔で眉根を寄せていた。
「有田君の手を握ってあたしが『好き』とか言ってるの、聞かれたかもよ?」
「別に、綾音はそんなこと気にしやしない」
気にしてくれたら嬉しいが、そんなことは有り得ない。綾音にとって颯斗は『子ども』で『弟』みたいなもので、仲良しでいいねとか言われるのが、オチだ。
しかし、ムスッとそう答えた颯斗に返ってきたのは、呆れ返った木下の眼差しだった。
「有田君って、勉強できるのに頭悪いわ」
首を振り振りそう言った木下に、隆がニヤ付きながら頷く。
「対人スキル低いよなぁ」
「何だよ」
「んん、彼女がやきもち妬いてたと思う人、挙手」
パッと二つの手が上がる。
「はい、二対一」
「そんなはずないだろ」
顔をしかめて颯斗が言うと、木下はすっくと立ち上がった。そうして、カウンターの方に顔を向ける。そこにはいつの間にか綾音の姿はなくなっていて、利音だけがグラスを磨いていた。
「あの、お姉さん」
「何?」
不躾な年下の少女の声掛けにも、利音はのんびりと応える。
何か共通する点があるのか、ここに出入りするようになってすぐに、木下と利音は意気投合したのだ。
この間の映画を紹介したのが木下だと言うと利音はいかにも納得したような顔をしていたから、かなり親交を深めているのかもしれない。
そんな利音に向かって、木下は単刀直入に言った。
「妹さん……綾音さん、やきもち妬いてましたよね?」
利音は一瞬目を丸くした。綾音が消えていったらしい倉庫にしている小部屋の方に目をやって、ニヤリと笑う。
「そうかもね。あんなあの子は初めて見たかも」
この世の誰よりも綾音のことをよく知っている利音に言われて、一瞬颯斗の胸は騒いだ。
けれど、やっぱり、颯斗のことで綾音が嫉妬するなど、想像できない。
と、そんな颯斗の胸の内を読んだかのように、利音が苦笑する。
「あんたはあの子を女神さま扱いしてるけど、アヤは普通の子よ? そりゃ、やきもちだって妬くでしょうよ。でもまあ、あの子も戸惑ってるかもね。今までは、そんなふうに感じる相手がいなかったから」
ふと、その眼差しが遠くなる。最近時々見せる、表情だ。そして、そんな顔をすると必ず利音の口から出てくる名前がある。
今回も、利音は颯斗の予想を裏切らなかった。
「荘一郎もしょっちゅう同僚の女の子ここに連れてきたけど、アヤはいつもケロッとしてたのよね」
「それは、荘一郎のこと、信じてたから……」
「そういう考え方もあるかもしれないけど」
利音はそこで肩をすくめた。まるで、彼女自身は違う考えだというふうに。
重ねて彼女に問いかけようとした颯斗の手が、突かれる。
木下だ。
「ねえ、取り敢えず、何かフォローしといた方がいいんじゃないの?」
「フォロー?」
何のことかと眉をひそめると、深々としたため息を返された。
「あたしとはただの友達だよ、とかなんとか。あの『好き』は全然そういうのじゃないんだよ、とか」
「そんなことする必要は――」
「あるの。いいから、女の勘を信じなさいって。後になればなるほどこじれて、厄介なことになっちゃうよ? もしも勘違いだったら、ただの笑い話にしたらいいだけだし。有田君が笑われておしまいなだけでしょ? 女の子の気持ちと男のプライド秤にかけたらどっちが勝つかなんて、考えるまでもないわ」
言いながら、木下は靴の先で颯斗のすねをつついてくる。別にそのせいではないが、彼は立ち上がった。
「アヤは倉庫だよ」
利音が店の奥に顎をしゃくる。
(本当に、綾音は気にしてくれてるのか……?)
まだ迷いが残っていた颯斗はそれを振り払い、意を決してそちらに足を踏み出した。
倉庫の扉は開いていて、覗き込むと綾音の背中が見えた。何か探しているようには見えない。ただ、ジッと佇んでいる。
何となく足音を忍ばせて、颯斗は中に入った。少し迷って、扉は閉めきらずに薄く開けておく。何となく、外の音が聞こえた方が落ち着くような気がしたからだ。倉庫はとても狭い。両側に棚があって、人が四人も入れば身動き取れなくなってしまう。そんな空間に綾音と二人きりでいるのは、色々マズかった。
「綾音」
入り口から一歩入ったところで、颯斗はそっと声をかける。
驚かさないように気を付けたのに、彼女の肩がビクリと跳ねた。
「颯斗くん!?」
パッと振り返った綾音の声は、ひっくり返っていた。取ってつけたような笑顔も硬い。
「どうしたの? あ、お姉ちゃんが何か欲しいって?」
「利音は、何も……」
また一歩近づくと、何故か綾音は後ずさった。もう一歩近づくと、また。それ以上は行けなくて、奥の壁に背中をぺたりとくっ付けている。
(何で逃げるんだ?)
いや、多分、綾音には逃げている気はないのだろう。ただ、颯斗と距離を取ろうとしただけで。
けれど、いつもなら、颯斗がどんなに近付こうが離れていったりしない。
一歩分の距離を置いて立ち止まった颯斗から、綾音はふいと目を逸らした。棚に目をやって何かを探しているような素振りをしているけれど、意図して彼と目を合わせないようにしているのは明らかだ。
やっぱり、おかしい。
(ってことは、木下たちの言うとおりなのか)
そんなふうに思いつつも、颯斗は彼女にどう声をかけていいのか、判らなかった。
(ここは、単刀直入が一番なのか?)
これで綾音が何も気にしていなかったとなったらとんだお笑い草だが、木下の台詞は確かに正しい。その時は颯斗が恥をかくだけだ。
「えっと、さ、木下のことなんだけど」
切り出すと、目を逸らしたままの綾音の肩がピクリと動いた。そして、目が颯斗の顔に戻ってくる。笑顔と共に。
「え、あ、可愛い子だよね。可愛いっていうか、きれい、かな」
「綾音」
話がどこに向かっているのかよく解からず、颯斗は眉をひそめた。綾音は滔々と早口でしゃべり続ける。
「颯斗くんのこと、好きって言ってたね。あ、お付き合いしてるんだ? わたし、気づいてなかった。ごめんね、お姉ちゃんにお休みあげるように言っとくよ。いっつもお店のお手伝いしてくれてるから、デートとか、全然できてないでしょ?」
「綾音」
全然見当違いの方向に話が突き進んでいく。
「いいことだと思うよ? やっぱり、同じ年の子ともっと遊ばなきゃ。颯斗くん、ここで手伝ってるかお勉強してるか、どっちかでしょ? わたしとどっかに行くより、彼女と行かなくちゃ、ダメだよ」
「綾音!」
つい、声が大きく、荒くなってしまった。何故かやけにイライラする。
「颯斗く……」
綾音の口が、小さな声で彼の名をこぼす。
颯斗は、その唇を塞いでやりたくなった――彼自身の唇で。
綾音の言葉を止める為だけではなく。
「ちょっと、黙って」
目を見開いて颯斗を見上げてくる彼女に自制心を揺さぶられながら、彼は一度目を閉じ、深呼吸した。
「木下は、ただの友達だよ。付き合ってなんかない」
「え……」
「俺に彼女なんかいないよ。ここに来るのは、俺が来たいからだ。他の場所なんか、行きたくない」
(綾音の傍にいたいんだ)
そんな台詞は、胸の中だけにとどめておく。
「でも、だって、『好き』って……」
「俺をからかってただけだよ。いつもふざけてるんだ、あいつは」
「けど、手、握って……わたし……てっきり……」
うつむいた綾音の頬が、みるみる紅く染まっていく。
勘違い、したのだ。
木下と颯斗が付き合っていると勘違いして、その場から逃げ出したのだ。
もしも二人がそういう関係であることを何とも思っていなかったら、逃げ出したりしない。綾音のことだから、姉ぶって「颯斗くんのことお願いします」とか言い出すに違いない。
けれど、そうしなかった。
――嫌だったから、逃げ出した。
(そう思って、いいのか?)
綾音の目がチラリと上がって、見下ろす颯斗と視線が合うと、またパッと逸らした。
その仕草は、『何とも思っていない』ものではない筈だ。
(ヤバい可愛い嬉しい)
そんな気持ちがぶわりと颯斗の中に溢れてきて、彼は綾音に手を伸ばさないようにするのに全力を注がなければならなくなる。
固まったままの颯斗のことをどう思ったのか、綾音が顔を上げた。笑っているが、いつもの彼女の笑顔を知っている颯斗には、それが無理矢理浮かべられたものだと判ってしまう。
「あや――」
「さっきは勘違いしちゃったけど、でも、いつでも颯斗くんは颯斗くんのやりたいことをやったらいいんだからね?」
「は?」
「や、だから、彼女作ったりとか、そういうの、お店のことはいいから……気に、しないで。わたしも、別に、気にしないし、颯斗くんが楽しいならわたしもうれしいし――」
だったら、俺と目を合わせてそう言えよ。
そうしない彼女の肩を掴んで、がくがく揺さぶって、そして抱き締めてやりたい。何もしゃべれなくなるくらいに。
颯斗は、胸のざわつきを懸命にこらえて、押し出すような声で言う。
「俺は気にして欲しい」
「え……?」
伏せられていた綾音の顔が上がり、戸惑いを含んだ眼差しで颯斗を見上げてくる。
綾音は、颯斗のことを、『男』としては見ていない。見ようとしない。
それは、彼も嫌というほど思い知っている。
けれど、颯斗が誰かと付き合ったりすることも、綾音は嫌なのだ。彼女自身、自覚はないけれど。
それは、なんて――
(ずるい)
颯斗の想いは、どんどん育っていってしまっている。
それなのに、綾音は変わらない。いや、変わってきているのに、それに気付いていない。もしかしたら、心の奥底で気付きたくないと思っているのかもしれない。
変化を認めるということは、荘一郎の喪失を受け入れるということだから。
いっそ抱き締めてキスでもしてしまえば、彼女にも解からせることができるのだろうか。
颯斗の中で渦巻くこの想いを。
いつまでも変わらずにいることはできないのだという揺るぎない現実を。
子どもではない力で抱きすくめて、『弟』は決してしないようなキスをすれば、綾音だって思い知る筈だ。
「颯斗くん……?」
名前を呼ばれて、ハッと彼は我に返った。不安そうな色を浮かべた綾音が、彼を見つめている。
まだ、早い。
今焦ったら、綾音は颯斗をいっさい寄せ付けなくなってしまうだろう。きっと、頑丈な殻に閉じこもって、出てこなくなってしまう。
(少なくとも俺に彼女ができると考えたら複雑な心境になってはいるんだ)
今は、この微かな変化の兆しで満足するべきなのだ。
(時間は、いくらでもあるんだから)
颯斗は自分自身に言い聞かせ、無理やり笑みを浮かべる。思ったよりも自然なものになったようで、綾音はどこかホッとしたように笑顔を返してきた。
「俺、もう行かないと」
「あ、うん。わたしも戻るから」
そう言うと、綾音は棚に手を伸ばして、本当に必要だったのかどうなのか判別しづらいいくつかの品を取った。
「持つよ」
手を伸ばして彼女の手からそれらを取り上げようとしたら、よけられた。
「ありがと、でもだいじょうぶ。あんまりないから」
かぶりを振った彼女の頬が少し赤くなったのが何を意味しているのか、颯斗には判らなかった。
黙って身体をずらし、綾音が通る間ドアを押さえてやる。彼女が通り抜ける時、ふわりとシャンプーの香りが鼻先をくすぐった。ほとんど身体がこすれるほどに近付いても、綾音は全然気にしていない。
「ありがと」
これは多分、扉を押さえていることに対しての、礼だろう。
浮かんでいるのは、いつも通りの、笑顔。
その小さな頭の中で綾音が何を思っているのか、颯斗にはやっぱりさっぱり判らなかった。