<崖っぷちの一歩>
(どう切り出そう)
胸の中で何度目かに呟いて、颯斗はモップをバケツの中に突っ込んで汚れを落としながら、ポケットの中に忍ばせてある二枚のチケットのことを考える。
それは都心の公園にある水族館のものだった。
手に入れたのは三日前、二学期最後のイベント、期末試験が終わった日だ。
どこかぎこちなくなってしまった綾音との間の空気を何とかしようと考えた末に行き着いたのが、『いつもと違う一日』を作ってくれるはずのこのチケットだった。
基本的に颯斗が彼女と会うのは店の中だ。
日常の中の、接触。
いつも同じで、良くも悪くも変わらない。
(いや、『悪い』な)
颯斗は声には出さずにぼやいて、小さなため息をつく。
あの熱を出した日のことを気まずく思っているだけならば、放っておいてもそのうちまた元に戻るだろうとのんきに構えていたのだ。
それがひと月経ってもふた月経っても変わらない。
あの時、抱き締めたりしなければ良かったのだろうか。
縋り付いてきた腕を振り払って、「傍にいて」という声に耳を塞いで――
(いや、ムリだ)
こんなふうにぎくしゃくしてしまうことが判っていても、同じ状況になったら颯斗はやっぱり同じことをするだろう。
だったら、過去を振り返るのではなく今後の為の打開策を見い出さなければならないわけで。
店で顔を合わせている限り、とうてい変化が望めないと悟った颯斗は、綾音と外で逢うことを考えた。環境を変えて、関係を変える――とまではいかないだろうが、何かを変える為のとっかかりにはできる筈だ。
とはいえ、彼女が荘一郎と出かけた場所に行くのは何となく嫌だった。綾音に、彼のことを思い出させたくない。
散々迷った末に決めたのが、颯斗が生まれる遥か前からあるけれど、一年前にリニューアルしたばかりの水族館だ。一新したあそこなら、荘一郎の思い出と被ることはないはずだった。
颯斗はチラリとテーブルの上を布巾で拭いている綾音に目を走らせる。
(さっさとしろ、俺)
もうすぐ夏休みに入ってしまう。
夏休みに入れば、ほとんど一日中、綾音と過ごすことになる。
そうなる前にどうにかこの空気を修復しておきたい。
颯斗は必要以上に力を入れてバケツの底にあるペダルを踏み付けてモップを絞り、黙々と掃除道具を片付けた。
「やるぞ」
物置になっている小部屋の扉を閉め、彼は自分を鼓舞する。一度ゴツンと扉に額をぶつけ、顔を上げた。
「お疲れさん」
店内に戻ってきた彼を労う利音に小さく頷きを返して、綾音の後ろ姿に近付く。
「綾音」
呼びかけると、腕が止まった。
一呼吸おいて、彼女が振り返る。
颯斗に向けられているのは、笑顔だ。『いつもと同じ』――判を押したように『同じ』、笑顔。
笑っているのにどこか拒まれているような気がして、颯斗は言いかけたことを口の中に押し戻しそうになる。
(いや、言うぞ)
今日は、絶対。
颯斗はポケットの中に手を突っ込み、そこに入っている紙片を掴み出した。
「これ」
颯斗が差し出したものを、綾音はまじまじと見つめている。
何も言わない彼女に、颯斗は言葉を付け足した。
「夏休みに入ったら行こう」
綾音は、まだ黙ったままだ。反応のない彼女にもどかしさを覚えながら、颯斗はチケットを突き出した。
「ここ、知ってるだろ? ほら、去年新しくなった……前と全然違くなったって。クラスの奴がくれたんだ」
サラサラと、彼は前もって考えておいた台詞を口にする。
本当は、高校生になってから利音からもらうようになったバイト代で買ったものだ。だが、このくらいの小さな嘘なら赦される――はず。
うんともすんとも言わない綾音を前に、颯斗は早口で続ける。
「なんか、彼女と行く予定だったけど、別れたからいらないってさ」
やっぱり、無言。
頼むから、さっさと頷いてくれ。
颯斗はそんな必死な想いが顔に出ないように努めて表情を消して、綾音を見下ろす。
と、彼女の口が動いた。
「だけど、わたしじゃなくても……友だちと行ったら? ほら、今井くんとか……その方が、楽しくない?」
おずおずとした、綾音らしくない笑み。
「その隆からもらったんだよ」
心の中で隆に謝り、颯斗は肩をすくめる。
「彼女に振られちまったのにチケットだけ残ってて、見るのも嫌だからって、くれたんだ。だから、アイツは誘えない。他のヤツも皆部活とか補習とかあるし」
言いながら、チケットをテーブルの上に置いた。綾音の目がそれを追いかけて、ジッと見つめる。
「どう?」
強い口調にならないように、追いかける。
と、綾音はまた顔を上げた。が、目は少し逸れている。
「だけど、えっと、その……お店、あるし……」
明らかに、断る為の口実として口にした台詞だった。
「夏休みに入ったら、俺の方はいつでも良くなるから」
「でも……」
また何か言い繕おうとする綾音に、横やり、いや、颯斗にとっては天の助けがが入る。
利音だ。
「あら、店なら構わないわよ? 昼の忙しい時間が終わったら、平日なら問題ないじゃない」
「お姉ちゃん」
のほほんとした姉を綾音が咎めるような眼差しで睨んだけれど、彼女はどこ吹く風という風情だ。
「なあ、いいだろ? 俺、期末テストとかも結構頑張ったし、気晴らししたいんだよ」
情けないと思いつつ、ねだるように言ってみた。綾音の中では未だに彼は出会った頃の、小学生のままでいるのじゃないのかと疑わせる節がある――あるいは、そうであることを望んでいるような、節が。だから、そんなふうに言う方が効果があるのだ。
狙った通り、綾音の表情が少し緩くなる。
「……仕方ないなぁ」
そう言った彼女は、どことなくホッとしているようにも見えた。
(そんなに俺を子ども扱いしたいのか?)
今に見ていろと颯斗は思ったが、取り敢えず今は綾音の同意を取り付けるのが最優先なので、その一言は腹の底に眠らせておく。そうして、更に綾音の心を動かしそうな事を口にする。
「俺、水族館とか行ったことないんだよな」
これは、本当だ。
水族館やら遊園地やら、遠足で行く機会はあったが遠足代がかかるからいつもその日はすっぽかした。個人的に行くとしても、子ども一人で行けるところはそれほどない。そもそも、日常生活の世話もろくにしない親の元にいるのだ。休みだからとどこかに連れていってもらったりした記憶は、颯斗には皆無だった。
「一度行ってみたいと思っててさ」
いいだろ? と、目で訴えてみせる。
出逢ってから三年経った今でも、綾音の中には颯斗の面倒を見てやらねばという気持ちがあるのだ。結局、その台詞が彼女にとっては決定打になったらしい。
「そっかぁ。じゃ、連れてってあげるよ」
さっきまでの渋さはすっかり消し去って、綾音が笑う。
『颯斗とどこかに出かけること』にはそそられなかったのに『颯斗をどこかに連れていってあげること』には頷くのはちょっと気に入らないが、それでも目的は達成できた。
「じゃあ、夏休みに入ったらすぐ行こう」
力を込めて言った颯斗に、綾音が微笑ましげに首をかしげる。
「そんなに楽しみなんだ?」
「まあね」
もちろん、楽しみに決まってる。
水族館に行くことが、ではなく、綾音と二人きりで出かけられることが、だが。
(取り敢えず、一歩、だ)
踏み出したその一歩が吉と出るか凶と出るかは判らないけれど、少なくとも今の状態よりはマシになることを、颯斗は願った。