作り方④刻んだチョコをマグカップに入れて
果ても見えぬほどに暗い道。
泥濘んだように足の裏に纏わりつく地面は、歩みを止めてしまえば私を呑み込んでしまいそう。
洞窟の様な寒さに歯はガチガチと音を立て、震える肩を思わず両腕で抱きしめた。
何故こんな場所にいるのかも、どこに向かって歩いているのかもわからずに、ただひたすらに歩く。
だけど、足が重い。
いつから歩いていたかなんてわからない。
ただ、とても長い間歩いていたのだろう。私の足はまるで棒切れのようになっていて、とうとう足を躓かせてしまった。
地べたに手をつくと、泥の海は手に絡みつき、私を呑み込みはじめた。
きっとひとりぼっちの私は、誰にも知られることなくこの足元に広がる泥の海に溺れるのだ。
いやだ。イヤだ。嫌だ。
声が溢れた。
その声はまるであの時の声だった。
あの時?
ああ、そうだ。あの時だ。
あの日は確か、??をいつもみたいに図書室で待ってたんだ。
いつもの席でお気に入りの小説を読んでいると、一人の男子生徒が入って来た。
彼は私の前に立って言った。
「おい、桜坂。お前売りやってるんだろ。」
何のことかわからず、私は間の抜けた声を溢した。
彼は私の口を手で塞いで無理矢理机に押し倒すと「先生には黙っててやるから俺にもやらせろよ。なあ、いいだろ?」と言った。
意味がわからなくて、理由がわからなくて、声を上げようと暴れた。
けれど次の瞬間、頬に痛みが走った。
私の目には、握りしめられた彼の拳と血走った様なギラギラとした二つの目、そして下卑た口元が映った。
それが恐ろしくて、今みたいに歯がガチガチと音を立てていたっけ。
彼は泥だ。
そう、この泥の海だ。
身体を無遠慮に触られ、舌が私の胸から首筋までを舐め上げられる。
やだ。??助けて。助けてよ。
目の前の世界が絶望で歪む。
泥の海に呑まれる瞬間、誰かの声がした。
けれどそれは――。
目が醒めて一番最初に覚えた感覚は、どうしようもない吐き気だった。
身体を起こした私は胸の奥から上がってきた胃液を我慢できず、その場で吐き散らかす。
恐怖で溢れかえる涙。
べっとりとへばりついた泥の様な汗。
兎に角この嫌悪感をどうにかしなきゃ。
熱にでも浮かされたように立ち上がり、ふらつくままに部屋を出る。
覚束ない足取りで階段を降り、やけに長く感じる廊下をひた歩く。
やっと脱衣所に辿り着いた私は服も脱がずに浴室に入り、シャワーのバルブをひねった。
冷たい水に晒されて、身体の芯から凍らせられる。
歯がガチガチと音を立てるけれど、一秒でもはやく身体中にこびり付いた泥を落としたかった。
しばらくして水は湯気を立てる湯に変わり、私の身体を温めてくれる。
でも嫌悪感は未だに落ちなくて、私は着ていたパジャマと下着を脱ぎ捨てて、必死に身体を洗った。
だけど洗っても、洗っても。いくら洗っても、あの感覚が落ちない。
でもほかにやり方なんてわからなくて、その感覚を落とすためにひたすら洗い続けた。
どれくらいの間、身体を洗っていただろうか?
気が付けば白い肌は洗い過ぎで所々赤みを帯びていた。
それはヒリヒリとして少し痛いけれど、おかげで泥はどうにか落ちていた。
「なに、あれ。あんなの知らない。」
やっと口から出た言葉は戸惑い。
あれは本当にあったことなのか、それともただの夢なのか。
その判別がつかないことが恐ろしかった。
私は事実を知る為に、浴室鏡の曇りを手で拭った。
そこには桜坂 姫がいたけれど、それはやっぱり私がよく知る桜坂 姫より少し大人びていた。
私が思い出せていない過去に、一体なにがあったのだろうか?
ただわかることは――
「こんな顔じゃあ、りんさんには逢えないなぁ。」
鏡に映る私が自嘲気味に笑った。
私はシャワーを止めて、脱ぎ捨てた衣服を手に浴室を出る。
びしょ濡れの衣服を洗濯機に投げ入れ、お手軽洗濯&乾燥コースでスタートさせ、バスタオルで身体を拭く。
擦り傷の様に――いや、もはやこれは擦り傷だ。
それらの場所にタオルが当たる度、痛みが走る。
涙を堪えながら身体を拭き、濡れた衣服の代わりにバスタオルをそのまま羽織る。
そしてりんさんから怒られない為に髪の手入れを行う。
洗面台の鏡には少しずつ出来上がる私が映っていた。
綺麗な綺麗な私。
アレはただの夢だ。ただの夢。
あんなことありえない。
そう自分に言い聞かせているうちに、髪の手入れは終わってしまう。
「くしゅんっ」
唐突にくしゃみが出た。
ああ、そうだ。なにも着ていなかった。
しかし廊下は寒いから出たくない。だけど、乾燥が終わるまで一時間以上かかる。その間シャワーを浴び続けているわけにもいかない。
私は心の底から、いやそれ以上に深い場所から溜息を吐き「我慢するしかないよねぇ」と諦めた。
意を決した私はもう三枚ほどバスタオルを取り出して、それに包まる。
これでも全然足りないけど少しはマシだ。
準備が出来た私は、心の中で三つ数えて廊下に出る。
案の定、廊下は寒かった。
正直、バスタオルでは全然寒さを防げてはいなかった。だけど間違いなく、無いよりはマシだった。
私は出来るだけ足音を立てないように部屋に戻り、温風ヒーターの電源を入れた。
震えながらも手早く制服に着替えて、吐き散らかしてしまったものの処理をすると、見計らった様に温風ヒーターの点火音が耳に入る。
私はすぐさま温風ヒーターの前に陣取り、身体を温める。
ああ、温風ヒーターを作った人はきっと天才だ。
こんな人をダメにするものはほかにありはしない。
そんなことを思いながら温風ヒーターの前で丸まっていると、なにかを忘れている気がした。
もちろん、乾燥中のパジャマの事じゃない。
あれは最初から放置する気で回したわけだし。
一体なんだろうか?
そう頭を悩ますも、結局思い出すことが出来ず、一頻り惰性を貪り尽くす。
しばらくして、インターホンの音が遠くから聞こえてきた。
ふと時計を見れば、既に時刻は六時を過ぎており、長い針は短い針と重なろうとしていた。
「ああ!」と声を上げるが早いか、すべてを思い出す。
りんさんを起こすどころか、迎えに来させてしまったのだ。
いや、もちろんあの日記はデタラメだらけだし、昨日だって迎えに来てもらってしまったが、だからといって二日連続でりんさんの手を煩わせてしまうなんて。もう恥ずかしさと申し訳なさで死んでしまいそうだ。穴があったら入りたいというのは正にこんな気持ちなのだろう。
私は温風ヒーターの電源を切り、机の上の鞄を引っ掴んで急いで部屋を出る。
けれど両親はまだ寝ているので、ドタバタと足音を立てるわけにはいかない。
だから足音を立てず、けれど出来るだけ急いで玄関へと向かう。
しかし、階段を降り切った時点で玄関に立っているりんさんと目が合って足を止めた。
おかしい、なんでりんさんが家の中にいるのだろうか?
お母さんたちが鍵を閉め忘れた?
いや、それは考えられない。防犯面だけは昔から気を使っているお父さんとお母さんだ。
その二人が揃いも揃って閉め忘れることなどありはしないだろう。
じゃあどうやって?
疑問ばかりが頭の中を走り回っていると「おはよ。なに固まってんの?」と声をかけられた。
私は戸惑いながらも「お、おはようございます。」と挨拶を返し「いえ、りんさんが家の中にいたのに驚いて」と思ったことをそのまま口に出した。
するとりんさんは『なるほど』と言うような顔で「昔は寝坊助なあんたを毎日起こしに来てたから。合鍵持ってるの。」と言ってチャリッと音をさせて鍵を私に見せた。
「じゃあ昨日はどうして」と鍵をつかわなかった理由を聞こうとすると、りんさんは笑いながらに「あんたが寝坊助じゃなくなってからは使う必要もなかったから。引き出しにずっとしまいっぱなしだったの」とすぐに教えてくれた。
「まあなんにしても、今日はちゃんと準備終わってるみたいね。」
そう口にするりんさんはどこか残念そうに見えた。
けれどそんなのは本当に一瞬のことで、次の瞬間には踵を返して「ほら、もたもたしてたら朝ごはん食べる時間なくなる!」と私を急かした。
私は「は、はい」と返事をして玄関で靴を履き、りんさんのあとを追うように家を出た。
ガタンゴトンと不規則なリズムで揺れる電車。
例によって、出入り口でりんさんと二人で立つ。
しかし今日は昨日と比べればほんのちょっとだけ人が少なく、潰されるほどに狭いということはない。
けれどいくら昨日より少ないと言っても人は多く、少し手を回せばりんさんを抱きしめることが出来そうなくらいだ。
そしてそれは一種の拷問のようにも思える。
だって、そうすることは許されないのだから。
その事実を恨めがましく思う私を咎めるように電車が大きく揺れた。
突然のことに態勢を崩し、手すりに頭をぶつけてしまう。
あまりの痛みに声を上げてしまいそうになるけれど、打った場所を手で押さえて目をぎゅっと閉じ、それをぐっと堪える。
ああ、これはきっと天罰というやつだろう。
そんなことを思っていると、不意に鼻先を優しい香りがくすぐり、私の手に柔らかで温かなものが触れた。
驚いて目を見開くとそこにはりんさんの顔があって、私の頭を優しく撫でてくれていた。
その距離はさっきよりも近くて、息をすることさえ許されないような気がしてしまう。
「すごい音したけど大丈夫?」
優しい声音で紡がれる言葉が残酷なほどに愛おしい。
りんさんの綺麗な瞳に映ることがとても嬉しい。けれどそれすらも罪深いことのように思えて、私は目を背けた。
「そんなに痛かったの?」
心配そうな声は、私の気持ちをどこ吹く風とでも言うように知らんぷり。
ひどい人。そんなに優しくされたら、甘えたくなってしまう。
私はりんさんの目を見つめ、けれど気恥ずかしさからほんの少しだけ逸らしながら「とっても痛かったです」と答えた。
するとりんさんは「そっか。」と言って優しく撫でてくれる。
しばらく撫でてもらっていると、電車は次の停車駅に止まった。
そして、扉の窓越しによく見知った瓜二つの顔と目が合う。
扉が開く頃には、普段のお行儀の良い顔はどこへやら。悪戯な笑みを浮かべた片割れは電車に乗ってくるなり「朝からお盛んですねぇ」と私とりんさんに冷やかしの言葉を浴びせた。
扉に背を向けていたりんさんは、その冷水を浴びるまで二人の存在に気が付いていなかった。その所為か慌てた様子で「こ、これは違っ!」となにかを誤魔化すように声を上げる。
そんなりんさんにかすさんは「べつに朝からイチャつくのはいいけどさ、せめて周りの目くらいは気にしろよな」と注意しながら、どことなく気まずそうな顔をしていた。
それはそうか。昨日あんな別れ方をしてしまったのだから、気まずくない方が変だ。
「だから違うって言ってるでしょ!?」
りんさんが少し声を荒げながらに言い返すと、さくさんに「はいはい。ごちそうさまです」と言って、りんさんに一つ耳打ちをする。
するとりんさんは頬を赤らめて、諦めたように「違うって言ってるのに」と声を漏らした。
一体なにを言ったのだろうか?
少しの興味が湧いたけれど、それを聞く間もなく電車の扉が閉まり、私達を乗せて動き出す。
私達を挟むように並ぶ双子。
さくさんはりんさんと密談を交わしており、私には聞かせたくないように思えた。
それがどうしようもなく気になるものの『聞いちゃダメですよ』と言わんばかりの笑顔を向けてくるさくさん。
聞き耳を立てることも許さないその注意深さは、きっと彼女の性格そのものに起因するものなのだろう。
そんなことを思っていると、ふとずっと静かにしているかすさんのことが気になって視線を向けると、かすさんと視線がぶつかり合い、すぐに逸らされてしまう。
やはり、昨日のことを謝るべきだろうか。
そう思い口を開こうとすると、その言葉を塞ぐ様にかすさんの口から尖り切れない声で「謝んないから。」と言葉が溢された。
その顔は、私の知る奥山 霞夜じゃなくて、どこか寂しく思えた。
けれどそれは、彼女の――私の大好きなりんさんの事を想ってくれているからこその言葉だから、すこし嬉しくもあった。
だから私は「ありがとう」と言葉を返した。
するとかすさんは目を丸めたけれど、すぐに気恥ずかしそうな顔になったかと思えば思案顔を見せた。けれどそれも長くは続かず、ころころと顔を変え、最終的にどこか決まりの悪い顔をして「べ、べつに。」とだけ言ってそっぽを向いてしまった。
そのぶっきらぼうな言葉はそれ以上続かなかった。
だけどその百面相が、その後に続くはずだった言葉を言っているように思えた。
電車を香里駅で降り、改札を後にした私達はうんざりするほどに長い坂道を歩くことになった。
りんさんはこの坂道が嫌いな所為か、うんざりとした顔をしていた。けれど、私と目が合うとニコリと笑みを見せてくれる。
かすさんとさくさんは日頃から鍛えているからか、なんの苦も感じぬ顔でりんさんのことを冷やかしていた。
そんな二人に文句を返すりんさんを私は愛らしく思った。
坂道を登り終えた私達が校門をくぐろうとすると「桜坂さんおはよう」と挨拶が飛んできた。
目を向ければ、大神先輩が立っていた。
その腕には生徒会の腕章が巻かれており、朝の挨拶活動の最中であることが伺える。
「おはようございます」
そう挨拶を返して過ぎ去ろうとすると、そっと腕を掴まれた。
背筋を蟲でも這うかのような嫌悪感に襲われた。
振り返ると、優しい顔をした先輩が居て「今ちょっといい?」と話しかけて来る。
恐がる必要など微塵もありはしないのに、今はその手を一秒でも早く払いのけたい。
けれど体裁を考えれば、そんなことが許されるはずもない。
私がどうすることも出来ないでいると、りんさんが間に割って入りその手を払いのけてくれた。
もちろんそれもあまり体裁が良いとは言えず、現に先輩とりんさんは睨み合ったままなに一つ口にすることがない。
それでも先輩の言葉に返答するだけの余裕が生まれた。そして同時にとても嬉しかった。
私は深呼吸を一つして、りんさんに「ありがとうございます。先に行ってて下さい。」と耳打ちした。
するとりんさんは少し心配そうな顔をしたけれど、私が笑顔で大丈夫ですと伝えると「じゃあ、またあとで教室でね」と言ってくれた。
かすさんとさくさんはどこか不満そうな顔を見せたけど、りんさんが昇降口の方へと歩き出すと、渋々ながらも二人は私に別れの言葉を残してりんさんについて行った。
「それでなんですか?」
先輩に向き直ってそう話を聞くと、どこか照れた様な顔で「明後日のデートのことなんだけど」と話し始めた。
私は笑顔で応対する。
自分を偽って、自分を騙して、自分を殺して、先輩の話を聞き、頷き、笑う。
簡単だ。大丈夫だ。
ちゃんと理想の幼馴染に近づけてる。
大丈夫。大丈夫。大丈夫――。
***
ひーに背を向け、小走りになりそうな足を無理矢理ゆっくりなものにして昇降口へと歩く。
立ち止まったら、また歩き出すのは難しい。
振り返ったなら、きっと私は前を向くことは出来ない。
下を向いてしまえば、もう立ち直れない。
だから今すぐに逃げ出したかった。
私が私である為に、一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。
だけど、ひーの前でそんなみっともない真似は出来ない。そんな恰好悪いことは出来ない。するわけにはいかない。
やっとの思いで昇降口に辿り着くと、後ろからさくちゃんに「いいんですか?」と聞かれた。
もちろんその言葉の意図はすぐに理解できた。だけど、どうしろと言うのか。記憶のあるひーが受け入れて。そして記憶のないひーも受け入れた。
その相手を認めたくなくても、認めるしかない。
「良いも悪いもないでしょ。ひーが決めたことなんだから。」
振り返らずにそう返すと肩を掴まれて世界が回り、下駄箱に背中がぶつかった。
すぐに胸倉を掴まれ、珍しく怒っているさくちゃんの顔が目に入る。
「なんで。なんでですか!?いつもいつもなんで素直にならないんですか!?どうして嘘ばっかり吐くんですか!?」
微かに濡れた瞳。震える声。
普段、澄ました顔でとんでもないことを口走ったりする彼女が本気で怒っていた。
かすや坂本を叱るような顔ではなく、純粋に怒った顔をしていた。
だから、私はなにも言えずに目を逸らした。
「なんで黙ってるんですか!?」
そう声を上げたところで「さく。」とやんわりとした制止の声がかすの口から溢された。
「でもかす姉!」と声を上げ、はっと我に返ったように私からゆるゆると手を離した。
「すみません。取り乱しました。ちょっと頭冷やしてきます。」
さくちゃんはそう言い残して去って行ってしまう。
かすと目が合うと、彼女はまるで私を元気づけるかのようにニコリと笑った。
「ごめん。さくもりんとひーちゃんのこと心配してて。たぶん我慢の限界だったんだ。アタシからも言っとくからさ。許してやって。」
そう言って、かすはさくちゃんを追いかけて行き、一人取り残された。
そんな私を周囲の目とざわめきが襲う。
とても不快だった。
そのざわめきの中に大切な友人達に対する陰口が聞こえ――気が付けばその言葉を口にした女生徒達を睨みつけてしまっていた。
彼女達は一瞬、小さな悲鳴を上げたけれど、すぐに自分達に数の優位があることを思い出したらしく「な、なによ」と強気な態度に出る。
けれど、それも私が彼女達に詰め寄った時には消え失せ、獅子に怯える野ウサギのようになっていた。
「次、私の友達の悪口言ったら許さないから」
その言葉だけを残して彼女らを通り過ぎる。
すぐに私への文句が大量に並べられたけれど、そんなのはまったく気にならなかった。
階段を登り、廊下を歩き、自分の教室へと入る。
こちらを向く視線の山。
昨日の今日だ。注目されない方がおかしいだろう。
きっと噂の中心の元恋人?のような目で見られているのだろう。
そんなことを思いながら、一つ心の中で溜息を吐く。
誰かにおはようなどと挨拶を交わすこともなく自分の席に座る。
すると、底抜けな明るさと人懐っこそうな笑顔を携えた子が私の席の前に立った。
「ヘェイ旦那ぁ。昨日はお楽しみだったんですかい?」
芝居がかった口調の彼女――大久保さん?は、ひーと仲の良い男女二人ずつの四人グループの一人だ。
たまに私とも話すが、あまり詳しくは知らない。
中学まではもうちょっとクラスメイトに興味も持っていた筈なのに、最近は本当にダメだな。
そんなことを思いながら「なにそれ」と軽く笑って見せる。
すると彼女は「なにって。昨日はひーちゃんと二人でらぶらぶ下校デートだったんでしょ?」と甘噛みするように言う。
「残念ながら、新しく出来た彼氏に盗られました」
そう正直に白状すると、彼女は「えぇ!?」と驚きの声を上げた。
きっと、日頃からひーから惚気話を聞かされているからだろう。恐らく彼女らのグループ内では、私達は夫婦か何かの様に思われていたのだろう。
「驚きすぎでしょ。」
私が苦笑いにそう返すと彼女は「そりゃ驚くよ!」と言ってそのまま宛の無い嘆きを並び立てる。
「あんなどこの馬の骨ともわからん男にやるくらいなら私が貰うのに!」だとか「そもそもひーちゃんがりんぴょんと破局だなんて認められん!お父さん許さないぞ!」だとか。
あれ?なにかおかしかった。
「ねえ。りんぴょんって?」
そう聞くと彼女は不思議そうな顔で私を見て、すぐに「りんぴょんはりんぴょんだよ。なに変な事言ってるの?おかしなりんぴょん」とコロコロと笑う。
かなり久しぶりに変なあだ名が増えてしまった事を心の中で泣きながら「そ、そう。」と諦めの声を溢した。
そんな私達の間に一つの影が落ちる。
そちらに目を向ければ、一人の女生徒が立っていた。名前は「確か静岡さんだっけ。」
「しーずーはーらーよッ!」と名乗って「いや、そんなことはどうでもいいの。いやよくないけど。」とよくわからないことを口にする。
私と小久保さん?が揃って?マークを頭に浮かべていると、彼女は赤面気味に「ああ、もう!」と堪らず声を上げて、それまで背中に隠れていた女生徒を無理矢理私の前に立たせる。
その女生徒は知っていた。
「久池浦さん?」
私が彼女の名前を呼ぶと、びくっと身体を震わせた。
暫しの間が流れ、彼女は恐る恐る私の方を見る。
涙目になりながら所在なさ気にもじもじとしている彼女は、どことなくおいたをした時のひーに似ていた。
「ほらゆい。アンタがしでかした事でしょ?ちゃんとケジメをつけなさい。」
静原さんに叱られて久池浦さんは「だってぇ」と情けない声を溢す。
その日常は、もう私の手から零れ落ちてしまったもので。
もう二度と手にすることができないものだと知っているからこそ、胸の奥がどうしようもなく痛む。
私はその痛みを隠すように微笑んで「大丈夫」と言葉を落とす。
自分を落ち着かせるために落とした言葉を久池浦さんは拾い上げて「ごめんなさい!」と頭を下げた。
あまりに唐突な事で「え?」と間の抜けた声を漏らしてしまう。
しかし、そんな私を気にも留めず静原さんまでもが「私からも謝ります。本当にごめんなさい。」と頭を下げる。
その光景にクラスメイト達の視線が集中することは言わなくてもわかるだろう。あまりな悪目立ちには「いいから顔上げて」と言うほかなかった。
顔を上げた二人に「で、一体何なの?」と聞くと未だにオロオロとしている久池浦さんの代わりに静原さんが口を開いた。
「実は、この子が昨日言ってた桜坂さんの告白の件なんだけど。本当は見てないそうなの。」
呆れた様な、困った様な口調の静原さんの言葉に続くように久池浦さんがもう一度謝る。
けれど、なんで謝られているのかイマイチ理解出来ず「えっと。それだけ?」と聞いてしまった。
その反応が意外だったのか、二人は目を丸くしながら「怒ってないの?」と聞いてくる。
「別に怒ることじゃないでしょ。」少なくとも、あの手紙はひーの字だったわけだし。
そう全部は口に出さず笑うと、久池浦さんはやっと安心したのか「よかったぁ」と涙目ながらに溢した。
私は泣くほど怖がられているのだろうか?
そんなことを思いながら苦笑を浮かべていると「いやぁ。旦那はホントに罪作りですなぁ。」とそれまで静観していた久保田さん?が茶々を入れてきた。
何のことかわからず「何言ってんの?」と白い目を向けると、久保山さん?が「そりゃあ――」と何かを言おうとした。けれど、それを塞ぐ様に久池浦さんが「じゃ、じゃあ私席戻るから!」と慌てた様子で口にして、そのまま席へと戻って行ってしまった。
その後を追うように「それじゃあ私も失礼するわ」と残して静原さんも自分の席に戻ってしまい、その解散ムードからか、それとも深く聞かれることを恐れてか「それじゃあ、あっしも戻りますね」と冗談めかしな言葉を残して久保川さん?は自分の席へと逃げていった。
まったく。一体なんだったんだろうか?
そう心の中で思う私に朝の不快感は残ってはいなかった。
***
朝の匂いがまだ残る中庭。
少し肌寒いけれど、今の私には丁度いい。
先輩は生徒会の仕事が残っているらしく、デートの待ち合わせと今日の下校デートの待ち合わせを決めて別れることになった。
けれど、すぐに教室に行く気にはなれず、校内をぶらついているうち、ここに辿り着いてしまった。
私は自販機でホットショコラを買って、近場のベンチに腰掛ける。
本当に、私はどうしたいのだろうか?
最初はりんさんの理想の幼馴染になりたいと思った。
それは今も変わらない。
あの人の望む私になりたいと思ったんだ。
なのに、りんさんが欲しくて欲しくて仕方がない私がいた。それはまるで彼女――桜坂 姫と変わらない私だった。
それがどうしようもなく許せなくて、同時にりんさんの想いに応えたいからこそ彼と付き合うことを選んだ。
だから今の状況は妥当で順当で正当だ。
間違いなんて何一つない。
「なにひとつ、ない。はずなのに。」
そうぽつりと言葉を漏らして、空を見上げた。
私の憂鬱を笑うように晴れた空は高く遠い。それがどこか憎らしく思えてしまう。
不意に足音が聞こえて顔を向けると、少しそばかすが目立つメガネの女生徒が立っていた。
彼女は私の前まで歩いてくると、どこか気まずそうな顔で口を開く。
「こ、この前は、その、ごめんなさい。」
唐突の謝罪の言葉に私はどう反応していいかわからず「あ、はい。」とつい相槌を打ってしまった。
謝ってくるということは、きっと彼女と揉め事かなにかあった人なのだろう。
「でもよかった。彼とのことちゃんと考え直してくれて。」
そう口にする彼女の顔は清々しい程に優しく、そして満ち足りた様だった。
「彼ほんとに真面目でいい人だから、お幸せにね。」
その言葉を残し、彼女は私の前から去っていく。
私は慌てて「待って」と声を上げたが、その声は予鈴に掻き消されてしまい、彼女を引き留めることは出来なかった。
溜息を一つ吐き、手の中に忘れたホットショコラのプルタブを開けて、いくつか浮かんだ疑問と一緒に一気に呷る。
喉に熱くて甘ったるくトロリとした液体が流れ込み、私の冷えた身体を温かなものにする。
りんさんに逢うんだから、情けない顔は出来ない。
私は空になった缶をゴミ箱に捨てて、教室へと急いだ。
教室に辿り着いた時にはもうホームルームが始まっていて、私は所古先生からお叱りの言葉を受けることになった。
お叱りを終えると、そのまま流れるようにクラス全員で体育館へと行き、終業式が始まった。
いろんなところでひそひそ話がする中、先生のスリーピングスピーチがひたすらに流れ続ける。
目を開けているのも億劫になるこれは、まるで一種の魔法のようだ。
「先生来たら起こしたげるから、寝てていいよ。」
隣にいるりんさんの優しい声に、私の意識は溶けていった。
私は歩いていた。
寒空の下、??と二人で歩いていた。
公園の池には薄氷が張っていて、今日の寒さを物語る。
だけどつないだ手は温かくて、その寒さすら忘れさせてくれる。
ああ、この時間がいつまでも続けばいいのに。
「見て、ひー!氷が鏡みたいになってる。綺麗。」
うっとりとした??の言葉に釣られて目を向けると、そこには??と仲良さそうに手を繋いだ私がいた。
次の瞬間、??の隣にいる私――彼女は氷の中の私に飛び掛かって来ていた。
割れる氷。砕ける私。
「ひーの!ひーの??なの!ひーの??なんだから!盗らないでよ!」
その言葉を、私は氷の奥の水面から聞いていた。
声はでない。身体も動かない。
けれど、??はそんな私の手を取って――
「―――きて。起きてってば。そろそろ起立。」
最初に聞こえたのは、りんさんの声。
次に感じたのは、左手を握るりんさんの温もり。
そして最後に見たのは、未だ開くことのできない瞼の中の暗闇だった。
ぼんやりとした頭で考える。
ほんの今、会っていた誰かのことを考える。
あれはたぶん桜坂 姫だ。
氷の中に映る私に嫉妬した彼女は、欲張りで我儘で無鉄砲だった。
けれど、それほどまでにりんさんの事を愛していた。
誰にも渡さないと、自分のものなんだと強く訴えていた。
そんな彼女は、昔読んだ童話に出てくる欲張りな犬に似ていた。
だけど彼女は欲張りな犬とは違って、きっと後悔しない。
だって彼女にとっては、りんさんを失うこと以外のことであれば全て他愛ないことなのだから。
ゆっくりと瞼を開く。
まだ少し眠い。
大きな欠伸を一つすると「やっと起きた。」とりんさんの呆れた声が耳に届く。
私は眠気眼を擦りながら「おはようございます」と間の抜けた声で挨拶をする。
「おはよ。そろそろ先生の話し終わるから、ちゃんと起きてなさいよ?」
そう言ってりんさんは私の左手から去り、壇上へと集中する。
少し寂しさを覚えつつも、私もりんさんに倣い壇上に集中することにした。
壇上では完全に前髪が後退してしまった小太りな男の先生が偉そうに講釈を垂れていた。
どんな内容を話しているか端的に言うと、それは本当に益もないものだった。
学生らしい冬休みの過ごし方というつまらない内容を並べているが、恐らく壇上の男はそんな退屈な冬休みを一度として過ごしたことはないだろう。
というより、そんな人間らしくない内容をどうしてこうも考えられるのか不思議で仕方がない。
その他にも様々理解に苦しむ内容をつらつらと並べて、やっと満足したのか「それでは楽しい冬休みを過ごして、また元気に学校で会いましょう」という言葉でその男の話は締めくくられた。
「校長先生、ありがとうございました。起立ー。気をつけ―。礼。」
放送部か生徒会か、それとも何かの委員が号令を行う。それに従って全員が立ち上がり、体側を整えて礼をする。
体育館内に「ありがとうございました」というほぼ全生徒の声が上がり、壇上の男――校長先生は気分の良さそうなにこやかな顔で退場していった。
やっと解放されることに喜びを隠しきれない生徒達のざわめきが体育館内に広がる。
先生達の誘導によって、クラス毎に順番で体育館から退場していく。
しばらく待たされた後、私達の順番が来てやっと解放された。
外に出ると、見慣れた瓜二つの顔が待っていた。
私達を見つけたさくさんは、少しだけれど気まずそうな、居心地の悪そうな顔をする。けれど、かすさんが手をこちらに振りながら「おーい!」と声を上げたのを切っ掛けに、さくさんの顔は恥ずかし気なものに早変わりし「かす姉やめて下さい。」と言って、かすさんの手を捻り上げる。
じたばたともがきながら「いだッ!痛いたいたいたいッ!」と叫ぶかすさん。それを見て、りんさんはくすりと笑い「なにやってんの」と言いながらクラスの列から外れて二人の傍へと歩み寄って行く。
一歩遅れて、私もりんさんのあとに続いた。
だけど私達が傍に来ても、未だにじゃれ合う二人。
りんさんは呆れ顔で溜息と共に「で、一体何の用?」と言葉を溢す。
するとさくさんはやっとかすさんを開放し、両手を合わせて科を作り「終業式も終わったので、これからみんなでケーキでも食べに行きたいなと思いまして。あ、それと今日は日頃の感謝の意味も込めてかす姉がご馳走しますよ。」と笑顔で口にする。
「あ、そう。でも冬休み明けに宿題は写させないからね?」
間髪入れずにりんさんがそう言葉を返すと、さくさんは「そんな!?それじゃありんさんは一体何のために宿題をやるんですか!?」と涙を見せる。
そんな彼女の叫びに「そりゃ自分の為だろ。」と適切なツッコミを入れつつ「あ、でもあたしには見せてくれよ」とちゃっかりとお願いするかすさん。さくさんの言葉を咎めないところを見るに、どうやらご馳走してくれるという話は本当らしい。
しかし、りんさんは思いの外優しい笑顔で「自分でやりなさい」と彼女を崖の下に突き落とした。
「そんな!?あたし達の友情は!?積み上げてきた信頼は!?」
そう叫ぶ彼女の隣ではさくさんが『ざまあみろ』と言わんばかりの笑みを浮かべていた。
本当にこの二人は姉妹なのだろうか?もう少し仲が良くてもいいのではないだろうか?そもそも性格があまりにも似てない所為もあり、ついつい双子だということを忘れそうになってしまう。だけど全く同じ顔のおかげでどうにか忘れずに済んでいるものの、本当に色々似ていない。
だけどそんな二人にりんさんは「ほんとそっくりよね。あんたら。」と言って笑った。
もちろん二人はその言葉に「どこが!」「どこがですか!」と返したが、りんさんは「そういうとこがよ」と笑って「でもごめん。今日はひーを病院に連れてかなきゃいけないから」と二人の誘いを断った。
その言葉を聞いた私達の反応はそれぞれ違った。
「葉せんせーのとこ?だったら、あたしたちも一緒にー。」とかすさんは微妙に目をキラキラさせながら口にした。
けれどすぐに「どうせかす姉は待ってる間に杏さんからお茶とお菓子をご馳走になろうって考えてるだけですよね?」とさくさんにぴしゃりと言い当てられてぐうの音も出なくされる。
さくさんは困った姉だと言いた気な溜息を溢すも、佇まいを直して「まあ、そういうことなら仕方ないですね。明後日はどうせ予定があるでしょうし。明日駅前――いえ、名鳥駅前に10時に待ち合わせでどうですか?」と約束を取り付けなおす。
りんさんは「ありがと。私は大丈夫だけど、ひーは?」と言葉を回す。
「え?あ、うん。大丈夫です。」
突然こちらに話が回ってきたこともあるが、それ以前に私は違うことに頭を使っていて反応が少し遅れてしまった。
違うことというのは、今朝先輩と約束してしまったことである。
土曜日に葉先生から次の診察日を伝えられていたのに、それを忘れて勝手に約束をしてしまったとりんさんに知られたら、きっと呆れられてしまう。
どうにかしなければと思うものの、頼れるりんさんに相談できるはずもなし。
かと言って、ほかに相談できる相手はかすさんとさくさんくらいなもの。
そんなことを思っていると、りんさんが私の顔を凝視していた。
「ど、どうかしたんですか?」
つい言葉が淀んでしまったけれど、別におかしなところはなかった。
けれどりんさんは呆れたように溜息を吐き、手を上に掲げた。
なにか間違ったのだろうか?と思うが先か、ビシッと額に衝撃が走った。
目の前に星が散るとはこのことか、少し視界がチカチカする。
私は額に走った痛みを堪えながら「なにするんですか」と涙目で問うも「うっさい」ともう一発チョップが落ちてきて更に星が散る。
「どうせなにかやらかして隠そうとしてるんでしょ?あんたの顔見ればわかるっての。で、なにやらかしたの?」
りんさんからずばり言い当てられた私は素直に『実は今朝先輩に放課後デートに誘われてしまって』などと言えるはずもなく「そんなこと、ないです。よ?」と目を逸らすと「正直に白状しなさい!」と更にもう一発チョップが降って来て、また一つ星が散る。
正直結構痛い。これ以上チョップされたらきっと頭が悪くなってしまう。いや、既に悪くなっているかもしれない。
「い、痛いじゃないですか。私が馬鹿になったらどうする気ですか?」
そう涙目で問うと「あんたの頭の悪さはそこの二人とどっこいだから問題ないでしょ」とにっこりと笑顔で今度は握り拳を作った。
ああ、ヤバイ。これは本気だ。いくら嘘を重ねても絶対に信じない上に、正直に言うまでこの拷問は加速度的に威力を増していく。あと、たぶん次のは星が散るどころか、星が降ってくる。きっとクレーター――たんこぶが出来ること間違いなしだ。
「うぅ、言います。正直に言うからその手を下ろして。」
そう懇願すると、やっとりんさんは手を下ろしてくれた。
「実は今朝――」
私は今朝あったことを包み隠さず話した。それはもう洗いざらい白状した。
結果、りんさんの口からは深い深い溜息が溢され、瓜二つの顔からは「ぶっちしよう」「すっぽかしましょう」とこれ以上ない笑顔で言われた。
またもりんさんに呆れられてしまった。いい加減に愛想を尽かされてしまうのではないかと思うと、正直泣いてしまいそうだ。
「ほら、そんな顔しないの。私も一緒に謝ってあげるから。」
私の顔を見たりんさんは『しょうがないなぁ』とでも言うような甘い顔でそう言ってくれた。
「ほんとりんさんって」
そうさくさんが呆れた顔で口にすると、それに続くようにかすさんが「ひーちゃんには甘いよなぁ」と冷やかしの言葉を投げた。
すぐにりんさんは「甘くないから。ふつうよ。ふつう。」と二人の言葉を切って捨てる。
だけど私から見ても、正直甘かった。
けれどそれは口には出さない。だって、今りんさんにへそを曲げられてしまったら、一人で先輩に断りを入れなければならなくなってしまう。それは出来れば避けたい。
でも仮に口に出したとしても、結局りんさんは一緒に謝ってくれるのだろう。
だから私も彼女も惹かれ、恋焦がれてしまうのだろうか?
そんなことを思い、すぐにそれを隠す。
少し熱くなってしまった頬を誤魔化すように指で掻き、戯れる三人に混ざった。
教室に戻ると、冬休みの宿題――少し早いありがた迷惑なクリスマスプレゼントを受け取った。
「これさえなかったら、楽しい楽しい冬休みになるのに、なんでこんなのが配られるの?確かに学生の本文は勉強かもしれないけど、もっとやるべきことがあるんじゃないの?」
というのが、私の目の前で熱く語っている少しぽっちゃりとした女生徒――久保田 真澄さんの言葉だった。
確かに気持ちはわからなくはないけれど、宿題があっても楽しい冬休みであることに変わりはない気がする。
そう考えてしまう私は少し真面目過ぎるのだろうか?
そんなことを思いながら「宿題やーだぁ!やりたくないー!」と駄々をこねる久保田さんに「あはは」と苦笑いを返す。
「すみ。熱くなりすぎ。ひーちゃん困惑してる。」
静かな声で暴走気味の久保田さんを窘めるように言ったのは、仏頂面と涙ぼくろが目印の小学生と見間違えかねないほどの小動物――佐藤 小和さんだった。
二人は――いや、ほかにあと二人男子がいるらしいけれど、彼女らはクラス内でも有名な仲良しグループで、私とも仲が良かったらしい。
と言っても、私はほとんどりんさん優先で、あまり一緒に遊ぶ機会がないらしい。
そして、私が断る度に久保田さんはりんさんを揶揄うのだとか。
なんにしても、私のクラス内での友達はその四人がメインらしかった。
とはいえ、その四人以外にも友達は多いらしい。昨日今日だけでも覚えきれないほどの人に声をかけられた。予想通りではあったけれど、彼女は大人気だった。
しかし、ここまで人気であるならば、嫉妬や逆恨みの一つ二つはありそうなものだ。
けれど今日までの間、そういったものは疎か単純に気に入らないという類のものすらない。
もしかしたら、記憶喪失になったことを不憫に思っているのだろうか?
いや、むしろそういう人間はこういう時こそなにかしてくるものだ。
けれどそういったことは全くなかった。
しかし、そうすると本当に誰からでも好かれる人気者ということになる。
そんな人間が存在しえるのだろうか?
不意に涌いた疑問を一頻り考えるも、結局答えが出ることはなく、私は溜息を溢した。
そのタイミングが悪かったのか「ほら、やっぱりすみ呆れられてる。」と佐藤さんが拾い「そんなぁ!ひめひめは仲間だと思ってたのに!」と悲痛の声を上げる。
慌てて「違う違う!私も宿題がなきゃいいのになって思っただけだよ!」と話しを合わせる。
すると久保田さんは捨てられて雨に濡れる子犬のような顔で「ほんと?」と聞いてきた。
私がそれに頷くと、そのしおらしさはどこへやら。
すぐに「ほぉら!よりにはわからないだろうけど、わたしとひめひめの絆は固いんだ!」と佐藤さんに勝ち誇った顔で言う。
けれど佐藤さんは「はいはいわかったわかった」とあっさり受け流した。あまりにもつれないその態度に焦りを覚えたのか、久保田さんは「よーりー。焼かないでよー。私はより一筋だってぇ!」と佐藤さんに抱きついて嘘泣きを始める。
本当に仲がいいなぁ。と思いながらに見ていると「さっきからあんたらなにやってんの?」とりんさんの呆れた声が飛んできた。
私はりんさんに向き直って口を開くと「私より背が8cmも高いのに、背丈でお悩みの黒咲さんが気にすることじゃないですよ。」と刺々しい言葉を吐かれた。
もちろん私の口から出た言葉じゃない。私の対面――先程から話している二人の方から発せられた言葉だ。驚いて二人の方に顔を向けると、とても不機嫌な佐藤さんがいた。
いや、さっきからずっと仏頂面ではあったのだけれど、その顔には明らかな嫌悪が見られた。
その言葉で険悪ムード突入かと思った。けれどそれをフォローするように「すみませんね旦那ぁ。よりってば照れちゃってもぉ。いえね、私達は日頃の旦那とひめひめを見習ってイチャラブやってるだけなんですよぉ。」と久保田さんが笑いながらに場の空気を一変させる。
りんさんは顔を真っ赤にして「は、はあ!?」と困惑した声を上げ、佐藤さんは「んな!?この馬鹿すみ!なにわけのわからないこと口走ってるの!?」と噛みついていく始末。
二人の扱いに凄く慣れているように思えることから、きっとりんさんとも親しいのだろう。
私はそんなことを思いながら、一つの興味を口に出す。
それは――
「私とりんさんって、学校でもベタベタしてたんですか?」
純粋な興味。
もちろんりんさんは「あんたもなに変なこと聞いてんの!?ベタベタしてないから!普通だから!」と否定するけれど、二人に「「それはない。」」と一蹴され、言葉を詰まらせる。
どうやら学校内でもベタベタしていたらしい。
彼女には羞恥心や常識というものはないのだろうか?
りんさんは諦めずにぼそぼそと口にしていたけれど、いつの間にか来ていた所古先生の「お前らー。そろそろいいかー?」という呆れた声が、その苦し紛れの抵抗に止めを刺す。
なにも言い返せなくなったりんさんを尻目に二人は自分の席へと戻っていき、残された私は苦笑いで『あんたの所為よ』と言いた気なりんさんを宥めることになった。
程なくして騒ついていた教室内が静かになり、ホームルームが始まる。
先生はいくつか冬休みの過ごし方等を話した後に、面倒臭そうに「最後に。宿題ちゃんとやって来いよ?お前らはやらなくても科目担当の先生に怒られるだけで済むが、担任の俺や担当の先生は給与の査定に響くんだ。」ともの凄く重たい現実を零し「それじゃあ、楽しい冬休みを過ごせよ。日直、号令。」と締めくくった。
日直が「起立!」と声を上げると、全員が席を立ち「気をつけ!」の声で体側を整える。そして「礼!」の号令で、一斉に「「ありがとうございました!」」と礼をした。
顔を上げると、クラスメイト達はそれぞれに帰宅の準備を始めていた。
私もそんな彼らに倣って帰り支度を始める。
とはいえ、すぐにそんなものは終わった。それはそうだ。今日は終業式と宿題の受け渡しのみで学校は終わりだ。宿題を鞄に入れて学校指定のコートを着ればお終いなのだ。
それはみんな同じで、早々に帰っていくクラスメイト達。
「それじゃあね、ひーちゃん。また学校で。」
「またねひめひめー!」
そんな中、私に声をかけて帰っていく二人。その後ろには真面目そうな背の高い男の子と絵に描いたような男の子がいて、私に手を振ってくれていた。
きっと彼らが私と仲が良いという残りの二人なのだろう。
私が彼女らに手を振り返すと、彼女らは楽し気に冬休みの予定を話しながら帰っていった。
ふと、りんさんの方に目を向けると、りんさんの周りには数人の女生徒が居た。
どうやら冬休みどこかに遊びに行こうと誘われているらしい。りんさんはそれをやんわりと断っていた。
その内の二名がりんさんに好意を寄せているであろうことはすぐにわかった。
だってその目が、その声が、その口が、その頬が、その仕草が、私の知る彼女そのものだったからだ。
いいや、私自身がそうだからわかってしまうのかもしれない。
けれど、りんさんはそんな彼女らの想いには全然気づいていないらしく、他愛なく笑う。
そういうところがズルい。
だけど、やっぱり他の人から見てもりんさんは魅力的なんだな。
優しくて、厳しくて、実直で。
そして、とても強い人。
だからこそ思う。誰でも本物の前では惹かれてしまうものなのだと。
ああ、きっとりんさんの隣にいる人は大変だ。
すぐにこんな気持ちにさせられてしまうのだから。
私は席を立ち、話し込んでいるりんさんの隣に立つ。
すぐに気が付いたりんさんは「あ、ごめんひー。すぐ終わるから。ちょっと待ってて」と笑う。
私は素直に頷いて、刺さるような視線を見返した。
案の定、プライドの高そうな女生徒は私を睨みつけていた。
もちろん、りんさんがこちらに顔を向けているほんの僅かな間ではあったけれど。
もう一人の方は少し残念そうな、諦めの見える目をしていた。
話は直ぐに終わり、彼女らは帰っていく。
最後にもう一度プライドの高そうな女生徒――確か静原さんだったろうか?はもう一度私を睨みつけたけれど、私はとりあえず笑顔で返してみた。
結果は言うまでもなく、不機嫌そうに帰る彼女の出来上がり。
どうやら、やはり誰からでも好かれているということはないらしい。
少なくとも、静原さんには嫌われているらしかった。
そんな静原さんに気付くことのないりんさんはきっと鈍感なのだろう。
いや、普通そういう感情を同性に抱くという方が稀で、むしろそれを含めると別にりんさんが特別鈍感ということもないのかもしれない。
そんなことを思っていると「それじゃあ、いこっか」と帰り支度を終えたりんさんに言われ、私は「あ、はい」と頷いて彼女の後に続く。
どこに?とは流石に聞かない。行先など一つしかないのだから。
階段を降りて、二年生の教室が並ぶ廊下に出る。
奇異の目で見られているが、まあ連日の噂に一年生が二人も二年生の教室の前にいるのだ。見られない方が珍しいだろう。
そんな中を歩いていると「で、あの先輩のクラスってどこ?」とりんさんから聞かれ「え?」と間の抜けた返事をしてしまった。
堂々と歩くりんさんは先輩のクラスを知っているとばかり思っていたのだけど、どうやらとりあえず勢いで来ただけらしい。
そして、もちろん私も知らないわけで苦笑いで頬を掻いた。
りんさんは溜息を零して「あんたに期待したあたしが馬鹿だった」と呆れたように言うと、すぐに近場に居た女生徒に声をかけて理由を話す。
すると女生徒はしばし私とりんさんを見回しながら一人で「あー。あー。納得。」と言うなり「大神なら4組だよ。」と素直に教えてくれた。
りんさんが「ありがとうございました」と頭を下げると女生徒は「いいよいいよ。」と笑って、去り際にりんさんになにか耳打ちしていた。
なにを言われたのか、少しりんさんの顔は赤くなっていた。恐らく内容を聞いたら私が怒られるであろうことはなんとなく予想がついたので、聞かないことにした。
教えられた教室に着くと、りんさんが先輩を呼び出してくれる。
すると、すぐに笑顔の先輩が教室の外に出てきた。
「桜坂さんから来てくれるなんて嬉しいな。」
先輩の口から一番に出た言葉はそれだった。
「で、桜坂さんはわかるんだけど、なんで君がいるのかな?」
その分かり易い言葉にりんさんは顔を少し顰めるけど、すぐに「いえ、今日はひーを病院に連れて行かなきゃいけないので、今朝の件を断わりに来たんです」とすっぱり言い切る。
すると先輩は「そうなの?」と私に聞いてくる。
私がそれに「ごめんなさい」と謝ると、先輩は笑顔で「桜坂さんが謝ることないよ」と言ってくれた。
だけど――
「でも、それって別に君が付き添わなきゃいけないことじゃないよね?」
続いた言葉はとても冷たかった。
笑顔を崩さず、声音も変えずに放たれた言葉。
それなのに、どうしようもなく冷え切った言葉。
そんな先輩を少し恐いと思った。
「何が言いたいんですか?」
りんさんがそう聞き返すと先輩は「彼氏の僕が付き添っても問題ないよね?」と言葉を返した。
先輩の言葉は正当だ。
いつもいつもりんさんに付き添ってもらっている。
けれどそれは、りんさんじゃなきゃいけないわけじゃない。
だから、先輩の言葉は正当だ。
それがわかっているから、りんさんはなにも言い返さずに私を見た。
「ひーは、どうしたい?」
彼女の声が聞こえる。
りんさんが良いと叫ぶ声が聞こえる。
りんさんじゃなきゃ嫌だと叫ぶ声が聞こえる。
「わ、わたしは」
くちびるが震える。
言いたい言葉。
言えない言葉。
言ってはいけない言葉。
無理矢理にそれを飲み込んで『私は貴女とは違う。りんさんの重荷になんてならない。』と心の中で言う。
彼女の不平不満が聞こえる。
それでも、私は彼女とは違う。
私は私だ。
「先輩と行ってきます。りんさんは先に帰っててください」
痛い。痛い。痛い。
心が軋む。折れそうなくらいに軋む。その軋んだ音が悲鳴のように耳に聞こえる。
涙が零れそうで、喉の奥から声が溢れそうで、立っているのも辛い。
だけど、私は笑う。
りんさんに安心してもらう為に。
りんさんを心配させない為に。
りんさんに迷惑をかけない為に。
私は笑う。
りんさんは「そっか。」と口にして「ちゃんと病院まで行ける?」と心配してくれる。
「はい、ちゃんと道覚えてます。」
そう答えると「病院についたら診察券出せばあとは杏さん達がやってくれるから。葉先生の言うこと、ちゃんと聞くのよ?」と言われて「はーい。」と返事をする。
ああ、折れてしまいたい。
りんさんが良いと言ってしまいたい。
りんさんの優しさに溺れていたい。
りんさんの厳しさに守られていたい。
きっと、りんさんはそれを赦してくれる。
だからこそ、私は言えない。
言うわけにはいかない。
りんさんの望む理想の幼馴染である為に、言うわけにはいかない。
「それじゃあ、行こうか」
先輩の言葉に頷き、りんさんから逃げるように「それじゃあ、また明日」と手を振る。
「うん、また明日」
その言葉を聞き、りんさんに背を向ける。
先輩は前を向いていて、こっちを見ていない。
今だけ、先輩がこちらを向くまでの間だけ。
頬を流れる。
だけど、声は漏らさない。
りんさんに気付かれてはいけない。
この想いは叶えてはいけない。
この想いは口にしてはいけない。
きっと、りんさんの重荷になってしまうから。
***
部屋に入り、制服のままベッドへと倒れ込む。
どうやって帰って来たかなんて覚えていない。
ここまで知人に会わなかったのと、彩お姉ちゃんが買い物に出かけていたことが救いだった。とてもじゃないけど、こんな顔は見せられない。
特に彩お姉ちゃんに見つかったら、何があったか根堀り葉掘り聞かれてしまう。
そうなったが最後。私が素直に答えるまで、彩お姉ちゃん必殺の五月雨チョップが降り注ぐことになるだろう。
枕に顔を埋め、シーツを握りしめる。
声が漏れるまでに、そう時間はかからなかった。
なんで私ばかりがこんな目に遭うのか。
なんで私から何もかも奪っていくのか。
なんで世界はこんなにも理不尽なのか。
なに一つわからない。
昔、お母さんが聞かせてくれたお話に出てくるような神様なんて、この世には存在しない。
存在するのなら、こんなことはおかしい。間違っている。
仮に存在したなら絶対に赦さない。
何が神様だ。馬鹿馬鹿しい。
一頻り泣いて、考えていたことに呆れて。
気が付いた時には部屋の中は真っ暗になっていた。
「ほんと馬鹿馬鹿しい。」だけど、もし居るのなら――
『コンコンッ。コンッ。』
不意に聞こえた不規則に窓を叩く音。
私は浮かびかけた馬鹿らしい願いを捨てて、ベランダへと近づく。
カーテンを開けると、そこに人影はなかった。
けれど私は迷うことなく鍵を外し、ほんの少しだけ窓を開けて、そいつを家の中に招き入れた。
太々しい顔をしたそいつは私の顔を見て「うにゃう」とお礼を言う。
私は窓を閉めてきちんと鍵をかける。そして、カーテンを閉じてそいつへと向き直る。
向き直った時には、すでにそいつは昨日一昨日と使った寝床を整え始めていた。
野良猫は寒い時期になると車のエンジンルームやエアコンの室外機の下などで過ごすと聞くけれど、ここまで他人様の家にお世話になる太々しい野良猫はほかにいないと思う。
私は小さく緩んだ口許を直し、制服を着替えることにした。
***
リノリウム張りの廊下に相変わらずの消毒液の残り香。
受付に居た人は杏さんや菫さんではなかったけれど、診察カードを出すと丁寧に応対してくれた。
その際、隣に居る先輩が「彼氏さん?彼女の付き添いなんて偉いねぇ。」と冷やかしを受けたけれど、私は作り笑いで受け流した。
待合ロビーで先輩の話に適当な相槌を打つ。
先輩の小さな頃のことや大人になったらやりたいこと。
校長先生の噂話や学校の不思議な話。
私の知らない世界の話は、聞いていて面白い。先輩の話を聞いていると、少しだけ先輩のことを好きになれる。
こうしていれば、いつかりんさんへの想いをきちんと諦められるのだろうか?
そんな疑問が湧いたけれど、すぐに『そんなことあるわけない!』という彼女の叫びと共にズキリとした痛みが頭に響く。
私の変化に気が付いたらしく、先輩は「大丈夫?」と心配そうな顔で聞いてくれる。
痛みはすぐに治まり、私は笑顔を作り直して「ありがとうございます。ちょっと頭痛がしただけなので大丈夫です。」と答えると、先輩は安心した顔をした。
ふと人影が目の前を通り過ぎた――かと思うと、「あれ?」という聞き覚えのある声が溢された。
顔を向けると、どこか面白くなさそうな顔をした杏さんが居た。
「ひーちゃんこんにちは。今日はりんちゃんは一緒じゃないの?」
りんさんのことを聞かれた私は動揺してしまい「こんにちは。えっと、今日はその」と言い淀んでしまう。
それをどう汲んだのかは分からないけれど、先輩は「今日は僕が付き添うことになったんです」と言葉を挟んでくれた。
「なに?もしかしてりんちゃんと喧嘩でもしたの?」
だけど杏さんは悪戯っ子の顔をして、まるで先輩の声など聞こえてないかのように話を続ける。
先輩が顔を歪めているのを尻目に「そういうのじゃなくて」ただのすれ違いです。そう返そうとするけど、すぐに頭を振って「いえ、そうですね。喧嘩なのかもしれませんね」と自嘲気味に笑う。
彼女――桜坂 姫を否定する為にりんさんを遠ざけて。りんさんの望みの為に先輩の傍を選んで。自分の想いを殺して居場所を作って。
彼女は怒っているだろうし、かすさんとさくさんは言うまでもなく怒っている。
きっとりんさんだって、本当はすごく怒っているんだと思う。
「そっか。」
杏さんは優しく私の頭をくしゃりと撫でる。
そして「はやく仲直り出来るといいね」と言ってくれた。
それに「はい」と答えるけど、受付の看護婦さんの「桜坂さん」という声に掻き消されてしまった。
「行っておいで。私も戻らないと」
杏さんはそう言って踵を返し「またね」と見返り美人のように微笑み、手を振って仕事に戻っていった。
「それじゃあ、ちょっと行ってきます」
私は先輩にそう言って受付へと向かう。
背中に「いってらっしゃい」という言葉を聞いたけど、私が振り返ることはなかった。
一目で脱色したわけではないとわかる白髪。
年齢的に考えて、恐らく過度のストレスからくるものだろう。
メガネの奥にある苛つきを含んだ顔には、怯えを覚えてしまう。
カルテを眺め終えた葉先生はしばし私の顔を見据えて、重たい口を開いた。
「なんで今日は一人で来たのかな?」
「いえ、その。一応先輩に付き添ってもらってます」
その問いに言い淀みながら答えると「その先輩とは以前から親しいのかい?」と聞かれて「いえ、最近――記憶をなくした日にお付き合いをはじめたばかりです。」と素直に答える。
「それは君が思い出した事なのかな?」
葉先生の問いに言葉を詰まらせてしまう。
周りから言われて、それが私の字で書かれた手紙があって、私はそれに従った。
そう正直に言えばいいのに、言葉が出ない。
「誰かから言われたことなのかな?」
しばし待っても返答しない私を見兼ねて葉先生はそう尋ねた。
それに頷くと、葉先生は少し呆れた様に短い溜息を吐き、真剣な顔で「なるほど。まあ、恋愛は君の自由だし、君の交友関係も黒咲くんばかりじゃないだろう。けれど、ちゃんと思い出すことを第一に考えて欲しい。」と言った。
それは遠回しに『新しい恋愛に現を抜かしている場合じゃないだろう』というものだった。
葉先生の言う通りだ。
私はりんさんの為に早く記憶を取り戻さなきゃいけないのに、何故こんなことをしているのだろう?
りんさんの理想の幼馴染になる為だからといって、それを閑却しておいていいわけがない。
でも、もしこのまま記憶を取り戻してしまったら、きっとそのままの彼女になってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
私の影を見て「そういうことか」と葉先生は笑みを溢す。
その笑みの理由が分からずに首を傾げると、葉先生は「思い出すことが恐いんだね?」と言った。言われた。言い当てられた。
そう、恐い。私は恐い。彼女が恐い。恐ろしくて恐ろしくて仕方がない。
「今のまま記憶を取り戻したら、自分が消えてしまうような気がして――いや、違うな。桜坂 姫さんになってしまうことが恐いのかな?それは同――いや、これも違うな。原因はむしろ黒咲くんに依存している桜坂 姫さんかな?」
私の顔を見ながら、葉先生は坦々と言い当てていく。
自分で自分のしかめっ面がわかる。
心の中を覗かれるのは、気分の良いものではない。それもひた隠しにしていることなら尚更だ。
「それで今日は黒咲くんじゃなく、その彼氏くんと来たわけだ。」
渋々ながらに頷いて答える。
目の前には最初とは打って変わった清々しい笑顔があって、すごく腹立たしい。
けれど、それを元に戻す手段を持ち合わせていない私にはどうすることも出来ない。
「そう睨まないでくれ。憎まれ役になるのも仕事なんだ」
人を食ったように言い、コインの裏でも見せるように「恐がることはないよ。黒咲くんを救ったのは、他でもない桜坂 姫なんだからね。」と優しく笑った。
その言葉の意味が分からず、私はそれを葉先生に尋ねようと口を開く。
「それはどういう――」
けれど、それを遮る様に「いけないね。何だかんだ言いながら、僕も君たちのことを気に入ってるらしい。これじゃあ杏くん達のことを笑えないな」と自嘲したように言い、これ以上のサービスはしないという顔をした。
結局、それ以上なにかを聞けることはなく、先日と同じように思い出したことを根掘り葉掘り聞かれて、また後日診察に来るように言われた。
鮮烈に燃える綺麗な夕陽。
冬茜と言うに相応しいそれをしばし眺め、駅に背を向けて歩き始める。
あの後、診察を終えた私は先輩と遅めのランチを摂り、流行りの映画を見に行った。
映画の内容は、交通事故に遭って声が出なくなってしまったアイドルとその事故の加害者と疑われてしまった主人公の恋愛話だったらしい。
らしいというのは、私があまり真剣に映画を観たわけではなく、ただスクリーンを見ていただけで、内容自体は映画の後に入った店でコーヒーに角砂糖を適量――八粒ほど入れて、それ飲みながらに先輩から聞いたものだからだ。
その時に他にもいろいろと話しをした。
明後日のデートが楽しみだとか、美味しいものを食べに行こうだとか。それから冬休みの予定の話や初詣の約束もした。
周りから見ても、十二分に年相応のカップルをしていたと思う。
しかしカップルらしい雰囲気というのが、適当に笑っていても作れるというのは正直どうかと思う。
そもそも一緒に居れば私のそんな差異など、すぐにでも見敗れるのではないだろうか?
少なくとも、りんさんなら――
そう考えたところで――いや、考えてしまったところで、私は頭を振って考えるのをやめる。
駅の大通りから家へと続く小道に入る。
この道は、とても見覚えがある。気がする。
近所なのだから、見覚えがあって当然だ。だけれど、喉の奥に小骨がひっかかって取れないような、そんなもどかしさを覚える。
一瞬、傍らを二人の小さな女の子達が通り過ぎて行ったような気がした。
少女達の方を振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
女性は私の顔を見――すぐに嬉しそうな顔をする。
思い出せてはいないけれど、表情から察するに知り合いなのだろう。
「あら、ひーちゃんこんにちは。」
ひどく懐かしい声。
何度も何度も、聞いたことのある筈の声。
それなのに、目の前にいる人が誰だかわからない。
返事をしようと口を開くと、嗚咽が漏れ出た。
理由もわからずに崩れる膝。
りんさんのことが思い出せないのは辛く苦しい。
だけど、この人のことを思い出せないことが辛いとは思わない。この人のことを思い出せないことが苦しいとは思えない。
けれど、これはなんだろう?
言葉では言い表せない程に心が痛い。
何かを訴えるように、心が悲鳴をあげる。
そんな私を、その女性は優しく抱きしめてくれた。
「あらあら。どうしちゃったの?りんちゃんと喧嘩でもした?」
困ったように聞く女性。この人にとっては、私が泣くほどの理由はりんさんだけなのだろう。
私は言葉を返せず、首を横に振ってその言葉を否定する。
「うーん。じゃあ、りんちゃんが楽しみにしてたおやつを食べちゃって怒られたとか?」
続く言葉に同じように否定して、どうにか絞り出した声で「なんですかそれ」と聞く。
すると「ひーちゃんあるあるの一つ」と力強く言ってのけた。
そのあまりな言われようには、少し反感を覚えたけれど、腹ペコ大魔神の名を欲しいままにしていることを思い出し、つい笑ってしまった。
「よかった。笑顔になって。」
そう優しく言うと、女性はなにかを思い出したように「ああ、そうそう。」と声を 上げて抱きしめるその手を解き、ポケットから四つ折りにされた数枚のメモ紙を取り出して「これ渡し忘れてたから」と言って、それを手渡してきた。
私はそれを受け取り、暫しメモ紙を見つめ「これなんですか?」と聞きながらに女性を見上げる。
しかし、そこに女性はいなかった。
私は辺りを見回して女性を探すけれど、右を見れども、左を見れども、どこにも見当たらない。
足音もなく立ち去った女性は、まるでお伽話に出てくる天使か、それとも幽霊のように思えた。
私は探すのを諦めて、四つ折りのメモ紙を広げた。
そこには――
「ただいま」
玄関のドアを開けながら口にした言葉。
けれど、その言葉に対する返答など在りはしない。
そもそも家に誰も居ないのだから当然だ。
お父さんもお母さんもまだ仕事中で今日も帰りは遅くなる。
薄暗い玄関がそう言っている。
家に誰もいない事には慣れている。
いや、慣れてなんかない。
きっと、本当は隣にりんさんが居たりして、お喋りでもしながら明かりを灯し、靴を脱いだその足で自室に続く階段を登っていくのだろう。
彼女はきっとそれを手にしていた。
羨ましい。恨めしい。それと同時にそんな彼女になりたくないと思う。
私は玄関の明かりも点けずに靴を脱ぎ、薄暗い階段を登る。
部屋に入り、電灯と暖房を点けてから部屋着に着替える。
窓の外――向かいの部屋に明かりはついていなかった。
りんさん、まだ帰ってないのかな?
ふと、愛しいあの人のことが心配になる。
もちろん、私が心配する必要なんかない。だってあの人は強いから。
私はあの人の重荷にはなり得ても、支えには成り得ない。
「私が男だったらよかったのに。」
ぽつりと零れた不毛な考え。
けれど私が男だったとしても、きっと今と同じであの人の重荷にしかなれない。
鬱屈とした気分に思わず溜息が出る。
いっそのこと、本当に喧嘩でもして、関係の修復が出来ない程になってしまった方が諦めもつく気がしてしまう。
とはいえ、あの人と私じゃあ喧嘩なんて成立しないだろう。
きっと私や彼女が駄々をこねて、あの人はそれを叱るだけ。
もしかしたら、今のこれだって私が駄々をこねているだけなのかもしれない。
それでも私は止めるわけにはいかない。
あの人の理想の幼馴染に――隣に立つに相応しい私になる為にも、止めるわけにはいかない。
私は桜坂 姫なんかになりたくない。
そう思ったところで、その考えを頭の隅に片づけて、さっき会った女性のことを考える。
あの女性は結局誰だったのだろうか?
ひどく懐かしくて、心が痛いくらいに大切な人。
きっと忘れてはいけない女性。
りんさんと同じくらい、きっと大切な人。
私はその答えを探すように、渡されたメモ紙を読み直す。
内容はどう見てもサンドイッチのレシピだった。
たまご、ツナ、BLT、カツにキャロットの計五種類のレシピが書かれている。
しかし、懇意にしている間柄で私がインスタント大好き人間――料理ができないことを知らない人がいるだろうか?
少なくとも、私が包丁を持ってキッチンに立とうものなら、きっとりんさんが全力で止めに入るだろう。
その様子が手に取るように思い浮かべれて、つい頬を綻ばせてしまう。
不意に「くぅ~」という音が私のお腹から鳴った。
食べ物のことを考えていた所為か、お腹の虫が文句を言ってきたらしい。
私はメモを引き出しにしまい、晩御飯を求めて部屋を後にする。
完全に日が沈んだこともあってか、薄暗かった階段は真っ暗になっていた。
流石に階段を降りたところで、廊下や玄関の電気を点ける。
リビングに入ると、暗闇の中で赤いランプがチカチカと点滅しているのが目に入った。
私は電気を点け、その点滅している赤いランプ――電話の留守電ボタンを押す。
「新しいメッセージが、一件、です。最初の新しいメッセージ、十二月、二十二日、ピィーッ――もしもし、ひめ?母さんだけど。今日も帰り遅くなるから、夜ご飯はコンビニとかお弁当で済ませるか、りんちゃんの家にお世話になって。お金はいつものところに入ってるから。それじゃあまたね。――以上です。このメッセージを消去しますか?消去す――」
聞き終えた私は、迷うことなく1を押してメッセージを消去して留守番電話の再生を終わらせた。
外は寒いので、わざわざ買いに行くのは嫌だ。
りんさんの家にお世話になるのは、りんさんに甘えてしまうので却下。
消去法の結果、私はインスタント食品が入っている棚――パラダイスへと行く。
「うまかっちゃんねもいいけど、出前二丁目も捨てがたい。でもでも、新発売のうまかっちゃんねの細カタ新濃厚とんこつ味も食べてみたい。」
涎を我慢しつつガラス越しに今日の晩御飯を選んでいると、いつかの様にインターホンが鳴った。
至福のひと時を邪魔されたことに不満を覚えたけれど、先日のことを思い出し、心の中でパラダイスに別れを告げて渋々玄関へと向かう。
その間も数拍毎に鳴るインターホンに「はーい、今でまーす。」と声を返し、玄関のドアを開け――
いつかと同じ様に世界がぐにゃりと歪んだ。
「返してッ!」
彼女――桜坂 姫の声が響いた。
突然のことに目を丸くしてしまう。
目の前には確かに桜坂 姫がいる。
余りにも異常なのことなのに、それが普通のことのように思える。
「りんは私の、ひーのなの!ひーのりんを盗らないでよ!」
まるでりんさんを物扱いするかの様な発言に腹が立った。
だから私は口を開く。
「いや、黒咲は別に桜坂のじゃないだろ?」
声変わりしたばかりの青年の様な声が、戸惑いながらに言う。
すると桜坂 姫は「それでもッ!それでもひーのなの!ひーだけのりんなの!」と叫び、終いには泣き始めてしまう。
全く話にならない。
いや、そもそも桜坂 姫に対話をする気はないのだろう。
「ごめん、江崎君。今日は一人で帰って。」
誰か――いや、これはりんさんだ。りんさんは見兼ねた様にそう言って、桜坂 姫を大事そうに、とても大切そうに抱きしめ、頭を撫でる。
「そっか、あと俺は江崎じゃなくて、遠藤だから。遠藤 友則。いい加減覚えろよな。」
不満そうな声で了承し、それから苦笑交じりにりんさんの間違いを正した。
そして私――いや、彼は立ち去り、私とりんさん、そして桜坂 姫だけがその場に残る。
そう、これは記憶。
「なんで泣いてるの?もう、しょうがないなぁ。」
これは想い出。
「いつだって傍にいるから。」
だから、きっと彼女は目を覚ます。
白く白く、世界が満たされていく。
まるでそれは、綿菓子のように彼女に甘く。
だけどそれは、雪のように私には冷たかった。
気が付けば、目の前には手刀があった。
今すぐに後ろに倒れれば、きっと回避できるだろう。
けれど、後ろに倒れるとそれはそれで痛いんじゃないだろうか?
もちろん、そんなことを考えている内に回避する時間はなくなった。
眉間に衝撃を受けた私は「あいたっ!」と苦痛の声を上げる。
すると「起きた?」と愛しい人の声が聞こえた。
目の前にはりんさん――いいや、りんが立っていた。
まだ少しぼーっとする頭で「あ、うん。」と間抜けな返事をする。
「ドア開けたかと思ったら、そのまま固まるし。ほんとビックリした。」
そう言って、私を探るような目で見つめる。
暫しの沈黙。それ堪えかねた私が「えっと、なに?」と聞くとりんは「ううん、なんでもない。」と少し安心した声で言って、私の後ろを覗き見る。
「おじさんとおばさんは?」
聞かれて「今日は遅くなるって言ってた。」と答えるとすぐに「晩御飯は?」と間髪入れずに聞いてきた。
「外寒いから、ラーメ――」
頬を掻きながらに口を開くと、言葉が終わる前にまた手刀が目の前に迫ってきた。
私は言葉尻に驚きを吐きながら、それを一歩下がって躱す。
「なに避けてんの?」
不満そうな声で言ってのけるりんに「そりゃ避けるよ!当たったら痛いもん!」と抗議の声を返すが、りんはその声に興味なしとでも言うかのように「晩御飯出来てるから、さっさと来る。」と言って、私に背を向けた。
そしてりんはどうにか聞き取れるほど小さな声で「待ってるから。」とだけ言って、自分の家へと戻っていく。
その背を見送りながらに、クリアになった頭で考える。
あの人は誰か。
紛れもない私の幼馴染。
ちゃんとそれが分かることがとても嬉しい。
だけど私は桜坂 姫ではなく、私は私だった。
それは私にとって喜ばしいことだったけれど、りんにとっては悲しいことなのだろう。
だって。りんは私じゃなくて、桜坂 姫を待っているから。
私は溜息と共にその考えを捨てた。
気が付けば一年近く経っててビビッてます。まだあれから半年くらいの気分なのに・・・
忙しいって怖い。
あ、はい。そうです。サブタイトル間違えてたんです。はい。
まあ、ぶっちゃけうちのお話タイトルにもサブタイトルにも大した意味はなry