作り方③マグカップに沸騰した牛乳を注ぐ。
淀んだ空気に満ちた鬱屈とした世界。
廊下でひとり佇む私は、ドア越しに聞こえてくる母の怒鳴り声に怯えていた。
本当は部屋に居るように言われていたけれど、どうしても母の言葉に従うことができなかった。
それが精一杯の勇気からなのか、それとも本当の気持ちを口にしてしまった事への罪悪感からなのか私にはわからなかった。
「いつも✘✘✘達に面倒見てもらってばっかりだった私達も悪いけど、なんでこんなことになったわけ?どう考えてもおかしいでしょ」
勝手な言い分。頭が固く、自分の正義に忠実な母らしい言葉。
きっと普通の人なら、その態度に怒りを覚えるだろう。
だけどそんな母に詰問されている誰かは柔らかな声で「ほんと相変わらず雛子は固いなぁ。」と笑う。
ああ。それはいけない。間違いなく母は怒る。
そう思った時には「あんた今の状況わかってんの!?そもそもあんたのとこの娘がうちの子にいつもべたべたしてるからこんなことになってるんでしょう!?」と母はまくし立てていた。
だけど、その言い分には心底腹が立った。
だって✘✘を好きになったのに理由なんてないんだから。
気が付いたら好きになっていて、気が付いたらほかの誰かに渡したくなくって。
✘✘の傍にいられることが幸せで、私の全てになっていた。
もちろん✘✘も私のことを想ってくれているだろう。
だけど✘✘を好きになったのは私なんだ。
それなのにまるで✘✘のことを悪者のように言う母に私は強い怒りを覚えた。
そもそも母にそんなことを言う資格なんてない。
父も母も日頃から仕事で家を空けてばかりで、最後に夕食を共にしたのがいつだったか思い出すことも難しい。
そしてそんな両親の代わりに私の世話を焼いてくれたのは、いつだって✘✘とその両親だった。
そんな三人のことを悪く言う母に我慢できなくて、リビングの扉に手をかける。
「ごめんなさい。」
母の逆上した声と✘✘✘さんの飄々とした態度に割って入った悲し気な声。
なんで ∪ ∩ が謝るの?
∪ ∩ は悪くないのに――なんで?
疑問ばかりが募る中、絞りすような声で言葉がゆっくりと紡がれた。
「ひーの為だと思って、いつも世話を焼いてたから、ひーがそういう風に想うようになったと思います。だから、やっぱり私が悪いと思います。」
違う!✘✘は悪くない!
今すぐに扉を開けて、お母さんにそう言いたかった。
だけど――。
「でも、大丈夫ですよ。おばさんもひーから聞いて知ってるでしょ?私この前まで男の子とお付き合いしてたんですよ。それに、ひーだって一時の事だと思います。知ってます?ひーってばクラスの男の子達にすっごい人気なんですよ」
続く言葉に、私の手はドアノブからするりと落ちた。
なにを言っているのかわからなかった。
「そ、そうよね。取り乱してごめんなさい。」
だけど母の安堵した声が✘✘の言葉の意味を無理矢理わからせる。
――この想いは届かないって。
わかりたくない。
「 ∪ ∩ ちゃんいいの?」
✘✘✘さんの言葉に✘✘は短く「うん」とだけ答えた。
「やだ!!」
だらりとした嫌な汗。
止め処なく溢れて零れる涙が頬を伝い、布団に無数の染みを作る。
切れ切れな息は熱く、喉が焼けそうなほどだ。
なに?
今のはなに?
あれは多分りんさんの声で、母に責められていた人はきっとりんさんのお母さんだろう。
それがわかればわかるほど、どうしようもない嫌悪感が溢れて止まらない。
なんであんな風に言うの?
まるで、私とりんさんが一緒に居ちゃいけないみたいに。
なんでそんな風に答えるの?
まるでそういう関係なんてありえないとでも言うように。
なんで私はなにもしないの?
りんさんのことが好きなんでしょう?
大好きなんでしょう?
だったら、なんでドアを開けないの?
なんで文句の一つも言わないの?
疑問ばかりがドロリとした膿の様に溜まる。
溜まって、溜まって、腐り落ちて。
私の想いも、彼女の想いも、りんさんには受け入れてもらえないということだけがわかる。
それでいいじゃない。
私はりんさんにとって、理想の幼馴染になるって決めたんだから。
それでいいじゃない。
辺りに漂う腐臭を誤魔化すよう、そう自分に言い聞かせる。
だけど、私の心は納得しない。
その証拠に、滴る雨は降り止まない。
口の端から漏れ出た嗚咽は、まるで彼女が叫んでいるようにすら思える。
『ピーンポーン』
不意に遠くからインターホンのチャイムが聞こえてきた。
暗鬱な気分は晴れていないというのに、一体誰だろうか?
私は涙を無理矢理に拭い、ベッドから起き上がって仕方なしに玄関へと向かう。
定期的に鳴るチャイム。
それを遮るように「ちょっと待ってください。」と掠れた声で言いながら階段を下り、玄関で中途半端に靴を履いてドアを開く。
するとそこには「おはよう」と口にするりんさんの顔があった。
ああ、どうしよう。落ち着いて話せる自信なんてないのに。
だけどりんさんはすぐに「ちょっとどうしたの?なにかあった?」と心配そうな顔で聞いてくる。
私はどうにか笑顔を作って口を開いた。
「おはよう、ございます。い、いえなんでも。ない――」
言い切るより先に声が溢れた。
泣き崩れる私をりんさんは戸惑いながらも優しく抱きとめてくれる。
今の私にはそれがとても残酷に思えた。
受け入れるつもりもないのに、なんでこんな風に優しくできるのだろうか?
「もう、泣かないの。怖い夢でも見たの?」
そう言って、私の頭を撫でてくれる。
りんさんの優しさが私を満たしてくれる。
無意味なのに、無駄なのに、それなのに嬉くて。
りんさんの鼓動が微かに伝わって心が落ち着いていく。
そんな私に気が付いたのか、りんさんは私の涙を優しく拭って
「落ち着いた?」と訊いてくれる。
ああ。なんてずるい人なんだろう。
その言葉に頷くと「よかった」とニコリと笑う。
それはまるで朝陽みたいにきらめいていて、私は息を飲んだ。
「なにぼーっとしてんの?学校行く準備するよ」
見惚れる私にそう言うと、りんさんは家の中へと私の背を押し入れる。
靴を脱げばまた背を押され、されるままに冷えた廊下を歩き、軋む階段を静かに上る。
そして部屋に入ると、すぐに姿見鏡の前に座らされた。
りんさんは棚から霧吹きと櫛、それと一本のリボンを取り出して来て私の後ろに膝をついて座り、慣れた手つきで私の髪を梳かし始める。
鏡に映る私の目は真っ赤っかで、まるでうさぎみたい。
夢とは違い、鏡越しにはっきりと見える優しい顔。
鏡越しに目が合うと、りんさんは微笑みを浮かべて口を開く。
「それで、なにがあったの?」
私は目を伏せて数瞬思考を巡らせる。
聞かれたことを正直に話すべきなのだろうか?
きっと、彼女に問えば答えをくれる。
だけどそれは、私が望んでいるものなのだろうか?
すぐにそんな疑問が浮かび、怖気づいてしまう。
「こ、怖い夢をみたんです。その、お母さんと多分りんさんのお母さんが言い合いしてる夢。」
だから私は嘘は吐かず、けれど本当の事も言えずにそう答えた。
すると不思議なことに、りんさんは嬉しそうな顔で「そっか。」とだけ言って、私の髪に櫛を通す。
なにがりんさんにそういう顔をさせたのだろうか?
その答えを求めて「なんで嬉しそうなんですか?」と棘なく聞くと、りんさんは「ひーが私のお母さんのこと思い出してくれたからに決まってるじゃない」と当たり前のように笑った。
小さな勘違い。
けれど私はそれを正そうとしなかった。
だって、こんなに嬉しそうな顔は初めて見るから。
それを壊したくないから。
「でもお母さん達が言い合いかぁ。」
りんさんは目を細めて何かを思い出す。
しばしの沈黙の後、重い口を開く。
「一度だけ、酷い喧嘩したことあったよ。と言っても、いつも通りおばさんが怒って、お母さんはのほほんとした顔してたけど。」
開くまでは難しい顔をしていたのに、話し始めたりんさんの顔は楽し気だった。
しばらく髪の梳かれる音だけが流れる。
私は覚悟を決めて「あ、あの。その喧嘩の理由ってなんだったんですか?」と聞いた。
聞いてから、後悔ばかりがぼた雪の様にずっしりと心に積もる。
けれど、それを溶かすほどの笑顔で「ひーが私のことを好きだって言ってくれたこと。」と言った。
正直、私は驚かされた。
あの夢はりんさんにとっても不快なものだと思っていたのに、彼女はとても楽しそうに、嬉しそうに話すのだ。
「おばさんはなんていうか。色んな意味であんたのこと心配してたから。だから、ひーにわたしの事が好きになったー。なんて聞かされて大騒ぎ。その日のうちにひ―の家で家族会議っていうか、なんていうか両家族会議?みたいなのがあったの。そこで大喧嘩。」
そこまで言って、鏡越しに私の顔をしばし見つめる。
そこにはさっきまでの楽し気な顔はなく、少し恐いくらい真剣な顔があった。
「私は―――。私はひーが大切だったから。あの時に決めたの。」
そう言って、りんさんは私の頭を抱きしめた。
「だから、ごめんね。ひー。」
その言葉は私に伝えるというよりも、私を通して彼女に謝っているようだった。
なにか言わなければ。
そう思っても、言葉は見当たらない。
夢の中でりんさんが口にした言葉の意味を理解してしまったから。
むしろなにも言えない。
責めることも、慰めることも、励ますことも。
何もできない。
ああ、こんな気分でなければ、頭の後ろに感じる慎ましやかでいながらも確かな柔らかさと温かさのあるそれを堪能することも出来ただろうに。
それを少し残念に思いながら、りんさんが落ち着くのを待つ。
「ごめん。」
顔を上げたりんさんの目の端に、微かに涙の跡を見つけてしまった。
それがなんだかズルをしてしまった様に思えて、どこか後ろめたい。
だけど、そんな私を誘惑するようにりんさんはリボンを口に咥えた。
淡い唇に咥えられた長いリボンは彼女の胸元を撫ぜ、そのままスカートから覗く太ももにまで垂れ下がる。
何気ないことのはずなのに、とても妄りがわしく思えて胸がドキドキする。
りんさんの手が私の髪に通る。
首筋に彼女の吐息がかかって、変な声が零れそうになる。
一瞬、淫らな妄想が湧いたけれど、もちろんそんなことは起こらない。
慣れた手付きで髪を咥えていたリボンで器用に纏めた。
「よし、出来上がり。」
そうニコリと笑うりんさんの顔には、もう涙の跡は見当たらなかった。
ガタンゴトンという不規則なリズムに揺られながら、冬の気だるげな朝陽を車窓から眺める。
電車内は人で溢れていて、私とりんさんは出入口の前で押し潰されるように立っていた。
あの後、りんさんに急かされて高校の制服に着替え、言われるままに今日の授業で使うという教材を鞄に詰めて家を出た。
そして駅のホームで朝食を摂り、お昼のお弁当を手渡された。
なんでも彩音さんの手作りなんだとか。
先日ご馳走になった料理もとても美味しかったので、今から楽しみでお腹の虫が鳴きそうだ。
それにしても、これが満員電車というものなのか。正直、ダダ甘い香水やタバコなどの臭いで気分が悪くなりそうだ。
初めての経験に少し顔をしかめる。
いや、本当はもう何度も経験したことなのだろう。けれど、私はそれを未だに思い出せていない。
「香里~、香里~。降り口は左側です。御降りの方はお忘れ物のないようにご注意ください」
不意にアナウンスが聞こえると、りんさんが「ひー、ここで降りるから」と息苦しそうに口にする。
「あ、はい。」
返事をすると同時に電車はブレーキをかけはじめ、ゆっくりと減速する。
そして駅のホームに入り、ドアが開いた。
私達はまるで吐き出されるかのようにホームに押し出され、そのまま改札口まで流されていく。
それぞれに定期券を通した私たちは、駅員さんの「おはようございます、いってらっしゃい」という言葉を背に聞きながら駅をあとにする。
駅からしばらく歩くと、無駄に長い坂道を上ることになった。
これを毎日歩くのは苦行以外のなにものでもないだろう。
しかし、私の足は思いのほか軽々と坂道を進んでいく。
日頃の慣れ――身体が覚えているというものだろうか?
そんなことを思いながら、りんさんの横顔を盗み見る。
するとそこには、うんざりという文字が書いていそうな程に不機嫌な顔があった。
「りんさん、大丈夫ですか?」
私がそう聞くと、りんさんは慌てて笑顔を作り「大丈夫だから」と口にする。
結局、私は意外と苦痛を感じることなく坂道を登り切り、学校へと辿り着いた。
下駄箱まで行くと、りんさんが「ひーの靴箱そこだから」と指差して教えてくれた。
それに「ありがとうございます」と返して靴を履き替えていると、周囲から指を差されたり、ひそひそとなにか言われていることに気が付いた。
なんだろうか?
そう思って口を開こうとすると「さっきからあんたらなんなの!?」というりんさんの怒鳴り声が響いた。
突然の事に、私や周りでひそひそ話をしていた人達は驚いて『ビクッ』と一瞬震えてしまう。
「あ、いや。桜坂さんが、その。」
一人の女生徒が伏目がちにそう口にしていると、その態度が気に食わなかったのか「ひーがなに!?」とりんさんはその女生徒に詰め寄っていく。
私は慌ててりんさんを止めるために「りんさん落ち着いてください」と言いながら女生徒に詰め寄って行くその肩を手で制止する。
「なんでも、ひーちゃんが生徒会副会長様とのお付き合いにOKしたとかで学校中その噂で持ち切りなんだよ」
不意に聞こえた声に、その場に居た全員の視線が向いた。
そこに居たのは、見るからに軽薄そうな男子生徒――坂本君だった。
「はあ?なによそれ。」
すぐにりんさんの口から心底呆れた様な声が零れた。
「いや、なによもなにも。そのまんま。僕のひーちゃんが生徒会副会長の告白を手紙でOKしたらしいんだよ。信じらんないだろう?」
そうぼやく坂本君に「あんたの顔と成績も信じらんないけどね。」と迷わずに返すりんさん。
そんな二人のやり取りに「あ、あの。私もう行ってもいいかな?」と女生徒が所在なさげに聞いてくると、りんさんは溜息混じりに「ああ、うん。怒鳴ってごめん」と謝罪するが、そこには呆れの色しかなく、謝罪の体を成していなかった。
だけど、その女生徒はすぐにでもこの場から逃げ去りたかったのか、周りに居た生徒達が蜘蛛の子を散らすように逃げるのに紛れて、共に去っていった。
りんさんはそれを見送ることなく「ああ、馬鹿馬鹿しい。ひ―行こう」と吐き出して、私の手を引く。
私はそんなりんさんに「はい」と返事をして下駄箱をあとにする。
けれど、どこへ行っても他人のめ、目、眼。
それらはすべて好奇の色をしていた。
それを階段でも廊下でも終始向けられていれば、記憶のない私でも少し不快に思う。
私が声を上げずに済んでいるのは、きっと目の前に怒りを堪えるりんさんの背中があるからだろう。
職員室の前に着くと、りんさんは私の手を離した。
そして振り返って私の胸のリボンを直したり髪の毛や制服の皺を確認する。
それが終わると「よし!」とにっこりと笑い、職員室のドアを開いた。
「おはようございます。山田?じゃなかった。田中先生はいらっしゃいますか?」
入ってすぐにりんさんが挨拶と共にそう声を上げると「だぁれが田中だぁ?誰が。お前いくら覚えてないからって適当に言ってないか?」と窓際に座っていた大柄な男が呆れたようにぼやく。
するとりんさんは「あ、中村先生だ。」とまるで今思い出したとでも言うように口にした。
それを聞いた中村先生は溜息を溢し、こっちに来て手に持っていた名簿でりんさんの頭を軽く小突く。
「しりとりかよ。あと所古な。い・こ・ま・せ・ん・せ・い。いい加減覚えろ。」
所古先生のお叱りの言葉を耳にしたりんさんは「すいません。努力します」とジト目で言葉を返した。
思い出せていない私でもわかる。これは覚える気ありませんという言葉だ。
所古先生はもう一度溜息を吐き「桜坂の件は病院の先生や親御さんから聞いてる。お前は先に教室行ってろ。」とりんさんに告げる。
りんさんは私に「それじゃあまたあとでね。」と言って「失礼しました」という言葉を残して職員室から出ていった。
一人残された私はどうしていいかわからず、ついりんさんの背を追おうとして「桜坂、お前はこっちな。」とりんさんと同じように頭を軽く小突かれる。
所古先生の後ろをついて行くと先程まで所古先生が座っていた席へと辿り着いた。
所古先生は壁際に立てかけてあったパイプ椅子を私に差し出すと「まあ座れ」と言って自分の椅子に腰かける。
私は少し心細く思いながらも「は、はい」と返事をしてパイプ椅子を広げて座る。
しばし所古先生が私の顔を注視する。
なんというか。難しそうな顔というか、不思議をそうな顔の先生になんと声をかけるべきか悩んでしまう。
「なに女生徒を見つめてるんですか?所古先生。警察呼びますか?呼びましょう。」
不意に向かいの席から言葉が投げられた。
声の方に目を向けると、先日お世話になった保健の先生が携帯電話を片手に座っていた。
「水瀬先生。そういう冗談はやめてください。勘違いされたらどうするんですか?あと僕は慎ましい子の方が好みです。」
所古先生の言葉を聞いた保健の先生――水瀬先生はジトりとした目で「変態。」と短く毒を吐いた。
「違います違います!胸の大きさじゃなくって性格の話です!こんなゴールデンレトリバーみたいな生徒と一緒になったらそれだけで大変です!」
慌てたようにそう口にした所古先生が「ん?」と声を漏らし、私の顔を凝視する。
「うわぁ。自分の生徒を犬扱いって。教師として最低ですねぇ」
そう水瀬先生が冷やかすが、所古先生の耳には届いていなかった。
その事に水瀬先生が不満そうな顔をしていると、所古先生の重たい口がゆっくりと動いた。
「おまえ、本当に桜坂か?」
その言葉の意味を私は理解できなかった。
「す、すまん!変なことを言ったな。」
困惑する私に気が付いた所古先生は踏み違えた言葉のアクセルに気が付いたように言葉のブレーキをかけた。
「い、いえ。気にしないでください。」
苦笑いでそう返すと所古先生がすまなさそうな顔で「あまりにも大人しいし。いつも無駄に元気で黒咲の傍について周ってるイメージしかなかったもんでついな。ていうか、居残り補講の時とか俺のこと睨んでくるし。黒咲いないと猛犬だし。黒咲は俺の名前覚えないし。おかげで生徒間でのあだ名がそれっぽい先生とかになってるし。」とつらつらと言葉を漏らす。
その内容にとても申し訳なくなり「ご、ごめんなさい」と所古先生に謝ると「いいのいいの。所古先生ってばロリコンだから。むしろご褒美よ。」と横からまた冷やかしが入る。
「だから誤解を生むようなこと言わないでください!」
そう涙を流す所古先生を見て、ついクスリと笑ってしまった。
***
職員室のドアを閉めて、私は教室へと向かおうと足を一歩踏み出す。
その後ろで先生の「桜坂、お前はこっちな。」という声が微かにして、ひーがついて来ようとしていたことを知り、少し胸が高鳴った。
渡り廊下を通り、教室棟に入るとまた周囲の好奇の目に晒される。
まったく。馬鹿馬鹿しい。
ひーがほとんど面識のない男と付き合うなんてありえない。
それは私がそうあって欲しいと思っているからとかではなく、男という存在が過去にどんな害意を示してきたかを知っているからこそだ。
小学校の頃は小さな嫌がらせだった。
男の子が何故好きな子に嫌がらせをするのか理解できなかったけど、そんな男の子達からひーを守ることは私の役目だった。
だけど中学に入る頃には、気が付けばひ―以外も守るようになっていた。
それはひーの前で良い恰好をしていたかったというのが大部分だった。
そして気が付けばある種の王子様である。
もちろん私にその気はなかった。
私はひーを守りたかった。
ほかの誰でもないひーだけを守っていたかった。
だけど、出来ていなかった。
知らないうちに広がった噂がひ―を蝕んでいたことに気付くことが出来なかった。
私が気付いた時、ひーは泣いていた。
あの時、ひ―を守ってくれたのはかすだった。
そういえば、かすがひーのことを好きだと言い始めたのは、それからしばらくしてだったな。
そう思ったところで教室の前に辿り着いた。
私は変に思い返してしまった嫌な記憶を心の引き出しに無理矢理に押し込め、ざわついた教室に入る。
「おはよう」
普段であれば、その言葉にチラホラとはいえ挨拶が返ってくるが、挨拶を返すものはいなかった。
もちろん、ひーがいないからというのもあるのかもしれないが、挨拶の代わりに返ってきたものが答えなのだろう。
それは今日嫌と言うほど浴びせられ続ける好奇の目だ。
ああ。どいつもこいつも。
そう心の中で毒吐きながら自分の席に着く。
すると、ぱらぱらと女生徒達が近寄ってきた。
私が視線を向けると「黒咲さん、ちょっと聞きたいんだけどさ」と一人の女生徒が笑顔で話しかけてきた。
確か、女生徒の中で割と幅を利かせている人だ。確か名前はそう――
「中野さんだっけ?」
私が彼女の名前を口にすると、彼女は私の机に『ドンッ』と手をつき「静原ね!」と自分の名前を言う。
ああ。そんな名前だったか。
「で、何の用?」
私がそう聞くと中野さん?――静原さんは、私の態度が気に入らないという顔をしながらも、それを飲み込み「桜坂さんのことなんだけどさ。副会長と付き合うってホント?」と口にした。
ああ。またこれか。
心の中で心底呆れならがらも「どこでそんなデマ聞いたか知らないけど。そんなわけないでしょ」と言葉を返すと静原さんは心底嬉しそうな顔をした。
なにがそんなに嬉しいのかわからず、訝しんで「なに?」と聞くと静原さんは「でもさ、告白見てた子がいるんだよね」と言った。
もちろんわけがわからず「はあ?」と言葉を漏らすが「二人とも見てたんでしょ?」と静原さんが他の女生徒二人に声をかけると、彼女らはそれぞれに肯定の言葉を口にする。
なにデタラメ言ってんの?と思ったが、その二人には微かに見覚えがあった。
ああ、そうだ。先日ひ―が倒れた時に運んでくれた二人だ。
名前は――なんだったか?
確か木下さん?いや、北島さん?と森田さん?だか田森さん?だかそんな感じだったと思う。
「えっと、どういうこと?」
訝しみながらも、出来るだけ不快感を潜めてそう聞くと、二人は少し言い難そうに口を開いた。
「実はさ、あの日私達が部活棟のベンチでお昼食べてたら、たまたま桜坂さんと副会長が二人で屋上に上がってくの見ちゃったの。」
そう北島さん?が言葉を区切ると田森さん?が「なんかいい雰囲気だったから、ついあとをつけたらさ。ひーちゃんが副会長に手紙渡してて。それからすぐにひーちゃんがこっちに来て、慌てて隠れたら階段から足滑らせて転げ落ちちゃって。」と事の経緯を話す。
静原さんは得意気な顔で「というわけ。」と口にして、そのあともつらつらと言葉を並べ立てる。
日頃からひ―の傍で目立ってて目障りだったとか。これからはひーが彼氏とお昼とか食べるだろうからひとりぼっちで可哀想だとか。ここで土下座して謝れば私たちのグループに入れてあげるだとか。
私が少し二人の言っている内容を整理している間に、よくもまあここまで憶測が浮かぶものだ。
ある意味関心しつつも、私は静原さんのことを無視して北島さん?と田森さん?に話しかける。
「つまり二人ともひーが手紙を渡してるところを見ただけで、告白していたかは確認してないんだよね?」
それを聞いた二人は一瞬だけ顔を見合わせる。
その仕草に違和感を覚えたが「何言ってんの?人気のない屋上で二人っきり。しかも手紙の手渡しよ?どう考えても告白に決まってんじゃない。」という静原さんの言葉にかき消される。
正直、相手にするのも馬鹿らしくなってきた。
「あほらしい。」
ついそう口にしてしまった。
目の前にあった静原さんの顔は真っ赤に染まり、怒りを我慢出来ずにその手は振り上げられた。
ああ。これは殴られるかはたかれるかするな。
どこか他人事のように思考していると、静原さんを後ろから北島さん?が羽交い絞めにして止めに入った。
「静原さん落ち着いて!あと黒咲ちゃんも謝って!今のはまずいって。」
そう声を上げる北島さん?以外は止める気はないらしく、成り行きを傍観している。
私は心の中で溜息を吐く。
別に手を上げられることに嫌悪はなかった。
それで彼女の気が晴れて、今後つきまとわれないならそれでいいとも思った。いや、もちろんそれで済むはずがないので、止めに入ってくれた北島?さんには感謝すべきなのだろう。
けれど、今の私は非常に機嫌が悪い。
それはそうだ。朝から蛞蝓が這う様な視線を浴びせられ続ければ、誰だって機嫌の一つくらい悪くする。
もしこの状況で笑顔でいられるとしたら、余程の鈍感か人類皆兄弟だとかラブ・アンド・ピースを本気で信じてる間抜けくらいなものだろう。
しかし、こうなってしまっては彼女の顔を立てるという意味でも、静原さんには謝るべきだろう。
「ごめん。今のは私が悪かった。」
そう私が謝っても、静原さんは怒りの矛先を収められずにいたが「ほ、ほら。黒咲ちゃんも謝ってるし、ね?ここは私に免じて押さえて。」と北島さん?に頼まれ「わかった。」と静原さんは顔をしかめながらもその言葉に応じた。
「黒咲ちゃんごめんね」
北島さん?のこっそりとした言葉に「ありがと」と小さく返すと、彼女は嬉しそうに微笑み、静原さんの背を押して自分たちの席へと戻っていった。
その際、田森さん?を含む数人からなんで止めたのかと咎められていたが暴力はよくないよと笑顔で返していた。
そんな北島さん?のことを誰がそう呼んだかはわからないが、九千浦と呼ばれていた。
ああ、本当に他人の名前を覚えるのは苦手だ。
そう思いながら鞄から教科書などを引き出しに片づけていると、机に影が落ちる。
視線を向けずに「なに?」と不快感丸出しの言葉を投げると「災難だったね。俺は君を守るため白馬の王子のように飛び出したかったけれど、九千浦ちゃんの勇気には負けたよ。完敗さ。」とよくわからない事を口から垂れ流すアホ。
「あっそ。」と私が一蹴すると坂本は私の肩に手を回し「まったく。君のそういう冷たいところも嫌いじゃないよ」と更にわけのわからないことをぺらぺらと口にする。
いつもならさくちゃんやかすが引っぺがしてくれるが、今この場にあの二人はいない。
その事を残念に思いながらも、クラスが違うから仕方ないと諦めた私は坂本の腹に思いっ切り肘鉄を見舞う事にした。
無防備だったこともあり綺麗に鳩尾に入ったらしく、坂本はその場でゴロゴロとのたうち回る。
そんな坂本を眺めていると、突き刺す様な視線が飛んでくる。
目を向けると、さっきの静岡?さんや九千浦さん達のグループとは違う女子グループがこちらを睨んでいた。
恐らく坂本に好意を寄せている人達だろう。
そろそろ一年近い付き合いなのだから、坂本が頭の足りない軽い男だということを理解しても良い頃だろうに。
まったく、恋は盲目とはよく言ったものだ。
そう思って溜息を一つ吐くと、まるで狙いすましたかのように教室のドアが開き「お前ら席につけー」と先生の声が教室全体に響き渡る。
すると、各々自由に話していた生徒達がその言葉に従って自分の席に座る。
教壇に視線を向けると先生の隣で気恥ずかしそうなひ―の姿を見つけた。
本当は知り合いでも、記憶のない今のひーからすれば見ず知らずの人達から衆目を浴びていることになる。
少し上がってないだろうか?
そんな心配がふと浮かんだけれど、私と目が合うとひーは安堵の表情を見せた。
「それじゃあホームルームを始めたいところなんだが――」
先生が歯切れ悪そうに言葉を紡いでいく。
「知ってる奴もいると思うが、先日桜坂が階段から足を踏み外して軽い怪我をしている。運よく骨折などはなかったが、頭を強く打ち付けたらしい。それで後遺症として軽い記憶喪失になっているそうだ。」
そこまで先生が口にすると、教室内が一気にざわめきはじめる。
ある者は興味。ある者は困惑。ある者は憂慮。
「お前ら静かにしろー。まだ話は終わってないぞ。」
そう先生が釘を打つとざわめきは治まった。
けれど、誰もが口を開かずに言葉を漏らしていた。
きっと、ホームルームのあとひーは質問攻めに遭うことだろう。
私が守らなくちゃ。
小さく心でそう思った。
「記憶喪失と言っても、私生活にはなんら問題ないそうで今日から授業にも出られるそうだ。とはいえ、わからないことも多くあるだろうから、みんな色々と教えてやるように。」
先生はそこまで言うとひーに視線で何か言うように促す。
それに気が付いたひーは目を白黒させながらもなんとか口を開き「色々とご迷惑をお掛けすると思いますがよろしくお願いします」と言って頭を下げた。
「それじゃあ自分の席につけー」と先生は言って出席を取ろうとするが、ひーはどうすればいいかわからずその場で固まる。
それはそうだ。今のひーに自分の席がわかるわけがない。
「ひー。あんたの席は私の後ろ。」
私が声を上げると先生はハッとした顔をしてすぐにひーに謝った。
ひーはそんな先生に両手をぶんぶんと振って気にしないでくださいと一生懸命にフォローをする。
先生は「本当にすまんな」と言って今度こそ出席を取り始めた。
ひーは私の傍まで来ると小さな笑みと一緒に「ありがとうございます」とお礼の言葉を渡す。
私が「どういたしまして」と返すと、ひーは自分の席に座った。
もちろんすぐに周りの席の子達から質問責めに遭うひー。
私のこと覚えてないの?だとか、もしかして名前とかも?だとか、じゃあ彼――
その言葉を遮る様に『ガンッ』と私の机が音を立てた。
否、我慢できずに私は自分の机を蹴っていた。
そして、ひーに質問していた彼、彼女等を睨みつける。
突然の事に驚いた彼等は私に睨まれて気まずそうな顔をする。
「おいどうした?」
そんな私達を見かねた先生が出席を取るのを中断して声をかけてきた。
「いえ、なんでもありません。」
そう言葉を返すと、先生は暫し私達を見回し、何かを考えるように頭を搔きむしる。
そして溜息混じりに口を開いた。
「黒咲。確かに桜坂には助けはいる。今みたいに、考えなしに質問ばかりする奴らも少なくないからな。だからと言って物に当たっていいわけじゃない。」
先生は私に言い聞かすように「いいな?」と言って言葉をしめる。
しぶしぶながらに「はい」と返事をすると「じゃあ出席の続きを取るぞー」と先生は言って生徒達の名前を読み上げていく。
そんな中、小さな声が「ありがとうございます」とお礼の言葉を述べた。
私は少し照れ臭くなりながら「別に」と言葉を返したが、すぐに自己嫌悪する。
お礼を言われることじゃない。
最初こそ私はひ―の為に声を上げようと思っていた。
だけどあれは、私がその声を、その言葉を、その話を聞きたくないが為にやったことだった。
ひーからの気持ちに気付かないふりをしておきながら、他人がひーの傍にいるという噂話ですら我慢できなかった。
なんて我儘なのだろう。
今朝ひーに相談された夢の話を思い返す。
あれは確かに過去にあったことだった。
私はあの日、ひーへの気持ちを諦めると決めた。
なのに、未だに諦められていない。
「おばさんにはこんなこと口が裂けても言えないな。」
こっそりと言葉を溢して、視線を窓の外に投げた。
そこに広がる空はどこまでも晴れやかで、とても憎たらしく思えた。
***
チョークが黒板を叩きなぞる音が教室内に響く。
時間を追うごとに、目に見えて苛立っていく背中。
その原因は間違いなく、授業中に回ってくるこの手紙の山と休憩中に質問の山を持ってくるクラスメイト達だろう。
そしてその手紙や質問に私が答えていることが、更に彼女を苛立たせてしまっているのだろう。
けれど彼等も悪気はないのだ。
だって、記憶喪失になった人間など然う然うお目にかかれない。
私が彼等であれば、きっと同じように質問しただろうし、手紙も書いただろう。
だから私は彼等の質問を無視することはできない。
私は手紙の返事を書き、隣の席に座る女生徒に渡す。
それは流れるままに差出人の机まで辿り着く。
そしてすぐに別の手紙が回ってきて、私はそれを読み、また返事を書く。
質問の内容は様々だった。
自分の事もわからないの?だとか、俺の事覚えてる?だとか、記憶喪失ってどんな気分?だとか。
「ほんと、些細な事ばっかり。」
ぽつりと漏れ出た言葉は、誰の耳に入るでもなく虚空に呑まれて消える。
書き終えた手紙を渡せば、また新しい手紙が渡される。
どうせまた些細な質問だろう。
そう思いながら手紙を開く。
しかしそこには私が思いもしなかった内容が書かれていた。
『付き合い始めたばっかりの彼氏のことも忘れちゃったの?だったら可哀想。』
私――いや、桜坂 姫に恋人がいた?
すぐにそんなわけがないと頭を振る。
しかし、朝から学校中がその噂に溢れていたことには気づいていた。
だけど信じられなかった。
だから私は聞こえないふりをしていた。
けれど、こうして突きつけられてしまったらその事を考えるしかない。
一つ深呼吸をして頭の中を整理する。
桜坂 姫がりんさんに夢中だったことは日記を読んだ時点で理解している。だからこそ、この噂は嘘だと思う。
だけど、それは日記から読み取ることのできる桜坂 姫だ。
つまり、日記の内容だけが彼女のすべてではないということ。
それに日記の内容には、膨大な量の虚構が混じっている。
日記の内容は信じない方がいいだろう。
客観的に考えてみよう。
桜坂 姫に恋人は本当にいないのだろうか?
過去に一度もいなかったのだろうか?
私が思い出せている範囲には確かにいなかった。
けれど、いないのは不自然だ。
この容姿で異性の恋人がいないというのはどう考えてもおかしい。
いくらりんさんの事が好きだったとしても、受け入れられないと桜坂 姫は知っていた。
であれば、どうにか諦めようとするのが普通だ。
少なくとも私ならそうする。
そもそも、この年頃の同性での恋愛は一過性――つまりは思春期の興味からくるものだと言われることも少なくはない。
しかし、それならあの日記は一体どうなる?
まさか恥知らずにも、押して押して押しまくって押し倒す勢いで既成事実を作るなどということはないだろう。
ここに来て私は桜坂 姫のことがわからなくなった。
デタラメな日記。
親しい幼馴染。
私が思い出している記憶との差異。
そして、突然現れた付き合い始めたばかりの彼氏。
もうどれが本当のことでどれが嘘なのかわからずに溜息が零れた。
恐らくこれ以上考えても答えはでない。
私は桜坂 姫のことについて考えるのをやめ、とりあえず手紙の返事を書くことにする。
『覚えてないです。』
そう短く書いた時点で授業終了のチャイムが鳴り響いた。
先生が日直に終了の号令を頼むと「起立、礼。」と号令がかかり、全員がそれに合わせて立ち上がり「ありがとうございました」と礼をする。
先生が教室を出るのが早いか、拘束を解かれた生徒たちが私の周りに群がってきた。
周りにいる人達が色々なことを提案してくる。
お昼ご飯を一緒に食べようだとか、学校内の案内だとか、放課後どこかに遊びに行こうだとか。
しかし私が答える間もなく、彼らは子供がおもちゃを取り合うように言い争いが始まる。
そんな彼らをどうすればいいかわからないでいると「はいはい邪魔ですからどいてくださいねー」と聞き覚えのある声が耳に入った。
声の方に目を向けると、私に群がっていた人達を押しのけてこっちに来るさくさんとかすさんの姿があった。
他の人達も気付いたらしく、二人に道を開ける。
それはまるで葦の海の奇跡の様にも思えたが、害意を持って追いかけるものは誰一人居なかった。
その代わり、裸足で逃げ出さんばかりの勢いで退散する人がチラホラと居た。だが、一体何が彼らをそうさせたのか理解できず、私は小首を傾げた。
けれどそんな些細な疑問は、目の前に立ったかすさんの「あれ。準備できてないじゃん」という憂慮を孕んだ言葉ですぐに霧散した。
何の準備だろうか?
そう思い、言葉にしようとすると「べつに。どっかの誰かさんがお喋りに夢中だったから遠慮しただけ。」とりんさんの刺々しい言葉に遮られた。
その言葉が誰に向けられたものなのかは火を見るよりも明らかで、私は開きかけた口を閉ざす。
さくさんはそんな私とりんさんを見かねたのか、わざとらしい溜息を吐くと地団駄を踏む子供に言い聞かせるかのように「なに拗ねてるんですか。まったく。いいから机くっつけてください。お昼休み終わりますよ?」と口にする。
りんさんは「拗ねてないし。」と言い返しながらも、さくさんの言葉に従って私の机に自分の机を引っ付けて椅子に座る。
そんなりんさんにかすさんがにんまりとした笑顔で「こっどもー」と安い挑発を投げる。
すぐに「は?」と怒りに満ちた声が溢されたが、その反応が楽しいのか――いや、その反応が嬉しいのだ。
嬉々として「こどもこどもー。」とかすさんは挑発を続ける。
いい加減に我慢の限界だったらしく、りんさんは立ち上がって口を開く。
けれどなにも言葉にはせず、かすさんを睨みつける。
しかし、すぐにバツの悪い顔をして目を逸らすと、結局なにも口に出さずに座り直してしまう。
かすさんはそんなりんさんを見て、少し寂しそうな顔をする。
だけどその顔は「馬鹿やってないで早く座ってください。」というさくさんの急かす言葉がかき消され、かすさんが席に着くと、それぞれのお弁当が机に広がり始めた。
私もみんなに合わせてお弁当を広げると、みんなで「「いただきます」」と言ってお昼ごはんになった。
けれど、先日の様な楽し気な会話はない。
さっきの棘の言葉が抜けない私は何も言えずに、ただ可愛らしいお弁当をもぞもぞと食べる。
そしてりんさんはりんさんで何も言わない。だけど相当に苛ついているらしく、ただただお弁当とにらめっこしている。
そんな私達に当てられてか、かすさんは気まずそうにおにぎりを食べながらひそひそとさくさんに耳当てをする。
なにを話しているのだろうか?
そう思い、言葉にしようとすると、今度は「ガラッ」という扉の音とその後に続いた教室内のざわつきにかき消された。
かすさんやさくさんだけでなく、りんさんの目すらもそちらを向き、私も釣られる様に入って来た人を見る。
背丈は170位だろうか?少し細身だけれど、痩せているわけでもない。恐らく体質的に肉のつき難い人なのだろう。少し羨ましい。
ほっそりとした顔に少し垂れた目は優し気に見える。それはそこそこに女性から好かれるものだ。とはいえ、坂本君の様な所謂イケメンではないのでミーハーな層は居ないだろう。
あとは性格や家柄が良ければ、誰もが羨む優良物件だ。
そんなことを思っていると「噂をすれば影が差す。ですか。」とさくさんの口から零れた。
その言葉の意図はよくわからないけれど、恐らく面識があるのだろう。
現に彼はこちらを見て笑顔で近寄ってくる。
けれど、りんさんの顔にはその友好的な笑みとは相反する嫌悪がへばりついていた。
一体どんな因縁があるのだろうか?
それを聞くよりも先に彼は私の前に立つ。
噂をしていたかすさんでもさくさんでもなく、私の前に立つ。
まあ嫌悪感丸出しのりんさんの前に立つことよりは理解できるが、何故私の前に立つのだろうか?
知り合いだろうか?
けれど、いくら記憶を漁ってもこんな顔は出てこない――つまりまだ思い出していない人だ。
知人にどちら様?などと言われたらきっと傷つくだろう。けれどなんと声をかけようか?
しかし、私が言葉を作るより早く彼の口が動いた。
「よかった。桜坂さんが怪我をしたって聞いて心配してたんだ。」
周囲から「やっぱり」だとか「まさか桜坂さんがねー」だとか「男に興味あったんだ」だとか言葉がボロボロと溢れて雑音になる。
私は申し訳なく思いながらもおずおずと「あの、ごめんなさい。どちら様ですか?」と聞く。
すると一転して悲し気な顔で「その冗談は酷いなぁ。一応付き合ってるのに。」と言って頬を掻く。
ああ、そうか。
彼が噂になっている私の『彼氏?』なる人物なのか。
事実の所在は兎も角として、とりあえずちゃんと今の私の状態を説明しなきゃ。
そう思って口を開こうとすれば、りんさんが彼と私の間に立った。
今日は本当になにも言わせてもらえない日だな。
私は心の中でそうぼやきつつ、成り行きを見守ることにする。
「どこの誰だか知りませんけど。見え透いたホラ話を校内で触れ回るのやめてくれませんか?」
りんさんの口から出た言葉はあまりにも刺々しいものだった。
私に向けたあの言葉が棘だとすれば、彼に向けている言葉は差し詰め槍といったところだろうか。
しかし彼はその槍を気にも留めず、優し気な笑みで「君は?」と言葉を返す。
「ひーの幼馴染ですけど」
彼はりんさんの答えを聞いて暫し考えると、私の方を見て「桜坂さん。もらった返事なんだけど、彼女になら見せてもいいかな?」と聞いて一枚の手紙を取り出す。
頭が真っ白になった。
桜坂 姫が書いたラブレター?
そんな物がりんさん宛以外で存在し得るのだろうか?
しかし、中身を見れば真実は明らかになる。
文体は本人をよく知っていれば真似ることは難しくないが、筆跡は真似ようと思って真似られるものではない。
そして、私と長い付き合いであるりんさんが見間違うことなど万に一つもないだろう。
私が彼の問いに頷くと、周囲の雑音が一層大きくなる。
誰もが嬉々としてその中身に期待する中、かすさんとさくさんは白けた顔で行く末を見守る。
りんさんが乱暴にその手から手紙をひったくる。
その姿の端に、一瞬ではあるが教室から出ていく坂本君が見えた。
彼は気にならないのだろうか?
そう疑問に思ったけれど、桜坂 姫を知る人にとってはわかりきった出来レースなのだろう。
「え?なにこれ。」
しかし、手紙を開いたりんさんの口から零れた言葉は困惑だった。
なにが書かれていたのだろうか?
否、反応から内容は想像がつく。
けれど、桜坂 姫がりんさん以外とそういう関係になることが信じられなかった。
「りんさん、なにが書いてあるんですか?」
そう声をかけると、一瞬ビクッと肩を震わせて私を見つめ、震える手で手紙を差し出す。
その表情は悲しげで、寂しげで、不安そうで、怯えているように見えた。
私は手紙を受け取り、内容を見て――絶句した。
そこには私――桜坂 姫の字で、彼からの告白を受け入れることが書かれていた。
噂は本当だったのだ。
周囲の雑音が更に五月蝿くなる。
「おめでとう」だとか「これで彼が目移りしなくなる」だとか「桜坂さんのこと狙ってたのになぁ」だとか。
そんな中に「でも、桜坂さんその告白の事も忘れちゃってるんでしょう?」という言葉が雑じる。
それは池に投じた石の様に波紋を作った。
「じゃあ、副会長振られちゃうの?」
「そうじゃないの?だって、覚えてない相手とは付き合えないっしょ。」
「じゃあ俺にもチャンスが!」
「ないから。」
誰が発したかもわからない言葉が生んだ波紋は、困惑しきった私とりんさんには助け舟だった。
彼はその言葉を聞き「どういうことだい?」とその波紋に尋ねる。
すると一人の女生徒が「え。桜坂さんが記憶喪失になったの知らないんですか?」と言葉を返した。
非常に驚いた顔で「本当なの?」と聞く彼に、私は目を逸らして頷く。
それは大事な告白を忘れてしまった罪悪感もあったが、なにより桜坂 姫がりんさん以外を選んだことへの嫌悪感が強かった。
あんなにも強い思いを諦められる彼女が許せない。
だけど、ある意味では納得も出来る。
相手に受け入れてもらえない。
それがわかっていて思い続けるなんて無意味だ。
だから彼女の選択は正しい。
理想の幼馴染であろうと思うのであれば、なに一つ間違いはない。
「うーん。参った。もう映画のチケットも予約しちゃったし」
彼が頭を掻きながら苦悩の声を上げる。
彼の好意を無下にするのはとても心苦しく思う。
けれど、記憶にない相手とお付き合いをしてもいいのだろうか?
いくら頭を悩ませても答えは出ず、りんさんに「どうしたらいいと思いますか?」と聞くことにする。
りんさんであれば判断を間違うことはないだろうという安易な思いから出た言葉だった。
それがわかってか、りんさんは「自分で決めなさいよ。あんたのことなんだから」と突き放すように言ってそっぽを向いてしまう。
意外な返答に驚いたけれど、確かにりんさんの言う通りだと納得し、もう一度考える。
どうすることが一番いいのだろうか?
いや、私はどうありたいのだろうか?
悩む必要なんてない。
私はりんさんにとって理想の幼馴染でありたい。
だから私は――
「あの、お名前を教えていただいてもいいですか?」
そう私が聞くと彼は「大神 羊祐。もう忘れないでもらえると嬉しいな」とはにかんだ笑顔を見せる。
きっと、世の女性はこういう顔に胸を高鳴らせるのだろうな。
私はそんなことを考えながら「あの、ごめんなさい。全然覚えてません。だけど、それでも良ければ改めてよろしくお願いします。」と応えた。
すると、周りから冷やかしの声や祝福の言葉がクラッカーのように飛び出してきた。
流石に驚いて目を丸くしていると、彼――大神君は「改めてよろしくね」と受け入れてくれた。
しかし、何故かそれらすべてが全くと言っていいほどに嬉しくない。
それを悟られぬように微笑みで返すと、りんさんが顔を背けながらに「ちょっとジュース買ってくる」と言って席を立ち、そのまま教室から出て行ってしまう。
その背を追いかけようかと思うよりも先にかすさんが「あ、りん!」と声を上げ席を立つ。
「ひーちゃん。いくら覚えてないからって最低だよ!」
かすさんはその言葉だけを残してりんさんを追いかけて行った。
ぽつりと残されて、初めて寂しいと感じた。
みんなが何が起きたのか理解出来ずにいると「まあ、今のはひーさんが悪いですね」と諭すようなさくさんの言葉が教室内に通った。
やっぱり私はまた何かを間違えたのだ。
そしてりんさん――あの強い人を傷つけてしまった。
罪悪感だけがお腹の中でとぐろを巻く。
大神君が励ますように「気にすることないよ」と笑顔で吐くと、周りの人達もそれに続くように励ましの言葉を吐く。
だけどそんな彼を嘲るように「あんまり調子に乗らないでくださいね。下衆野郎」とさくさんが笑顔で言い放つ。
流石の彼も頭に来たのか、初めて怒りを顔に浮かべる。
けれど、さくさんが私以外のお弁当を片付け終えて教室から出て行くまでの間、何一つ言い返すことはなかった。
さくさんが居なくなって、やっとみんなが口を開く。
けれど並べ立てられたのは陰ばかり。
誰もがさくさんとかすさん、そしてりんさんの事を悪く言う。
そんな彼らに怒りと嫌悪を抱いたが、私はそれを形にすることが出来ず、彼らの言葉に頷くことしか出来なかった。
***
頬を冷たい雫が伝う。
雨でも降って来たのかと空を見上げる。
しかし、頭上には憎たらしいほどに晴れた冬の空があった。
「りん」
後ろから聞き親しんだ友人の声が聞こえて、悟られぬように涙を拭い笑顔を作って振り返る。
「もしかしてあんたもジュース?」
自販機を指さしながらにそう聞くと、彼女はもう一度私の名前を呼ぶ。
我慢の限界だったとはいえ、あんな出て行き方をすればバレるのは当然か。
そう諦め、作り笑いをやめて少し目を逸らしながらに「もしかして、泣いてるとでも思ったの?そんなわけ、ないじゃない。」と自嘲気味に笑う。
彼女はまた私の名前を呼ぶ。
まるで、私の代わりに心を痛めるように。
「ほんとに大変なのは私じゃない。大変なのはひーなんだから。私がしっかりしてないと。私がちゃんと支えてあげなきゃ。私が――」
自分に言い聞かせるようにやるべきことを言葉にしていくと、彼女は私を抱きしめて、声を出さずに涙を流した。
「なんであんたが泣いてんのよ?」
そう私が聞くと「お前が泣かないからだろ?辛いなら辛いって言えよ。苦しいなら苦しいってちゃんと言えよ。」と彼女は恨めしそうな声で 叫んだ。
「なんで私が泣かなきゃいけないわけ?別に辛くなんかないし、苦しくだってない。」
強がりを言っても、声は震えていた。自分の心すら騙せないことが苛立たしい。
「そうだよ。お前は強いよ。あの子のヒーローだよ!どんなことがあったって、お前はあの子の前でならいつだって強いよ。だけど、傷付いたり、泣いちゃいけないわけじゃないだろ?」
だけど彼女は大仰な言葉で私を肯定した。それは私には余りあるもので、そしてその言葉に続く切言は、彼女の優しさそのものだった。
「もしお前が泣いて誰かが馬鹿にしたなら、あたしがそんな奴ぶっ飛ばしてやる!それで言ってやる。黒咲 りんは、どんなことがあったって桜坂 姫のヒーローなんだって。あたしの憧れなんだって言ってやる!」
ああ、わたしは本当に良い友に恵まれた。
喉の奥から声が溢れた。
頬を伝う雫は熱く、目に映る世界は溢れる涙で覆われた。
そんなわたしを彼女――親友はそれ以上なにも言わず、ただ抱きしめて一緒に泣いてくれた。
今だけは涙を流そう。
ひーの前でわたしで在る為に。
***
微かに聞こえる喋り声。
未だに届く手紙。
教師からばれないように船を漕ぐ生徒。
教師はそれらに気付いていながらも、彼ら――否、私達の将来などどうでもいいとでも言うように授業を進めていく。
正直、授業の内容は全然頭に入ってこない。
記憶喪失の所為で、その前後の授業内容を知らないからだとかそういう理由じゃない。
純粋に授業に集中出来ないのだ。
りんさんが教室に戻ってきたのは授業が始まるギリギリだった。
それでも先生が来る前に、一言二言話す時間はあった。
でもりんさんはいつも通りの笑顔で、他のクラスの友達と話し込んでしまったとしか言わなかった。
それは記憶がない私にもわかる嘘。
けれど本当のことを聞きたくても、彼女はそれを許してくれなかった。
お昼休みの前までとは違って、授業に集中している彼女の背中を見つめる。
手を伸ばせばすぐに届く。
なのに、今はその背中がとても遠く感じられた。
それでも縋るように手を伸ばした。
だけど、その手が彼女に届くよりも前に授業終了のチャイムが鳴り響く。
日直の号令と共に、私の手から逃げるように遠退く背中。
まるで彼女に拒絶されたようだった。
私は届くことのない手を下ろし、みんなに合わせるように席を立って礼をする。
顔を上げれば、すぐに私の周りには人だかりが出来ていた。
りんさんと話せないことに不満を感じながらも、彼等の言葉に笑顔を振りまく。
ホームルーム終わったら一緒に帰ろうだとか、どっか寄り道しようだとか、ミスドーナツの無料クーポンあるから食べに行こうだとか。
一番最後のはとても魅力的でついお腹がなってしまい、みんなが声を出して笑った。
だけど、その中にりんさんは居なかった。
所古先生が教室に入って来て「お前ら席につけ―。ホームルームはじめるぞー。」と言うと、すぐにみんなは自分の席へと戻っていく。
私はまた目の前の背中を見つめる。
どうしようもない寂しさ。
気が付けば、目の前の景色がぼやけていく。
私は手を伸ばす。
ひとりにしないでと縋るように――
ずっといっしょにいてほしいと願うように――
指先がりんさんのブレザーに指が触れる。
すぐにりんさんは気が付いて私の方を見、優しい顔で「なんて顔してんの?」と言って私の涙を拭う。
「だって。」
自分でもわかるほどに情けない声。
でも、言葉は続かなかった。
何が悪いのかもわからない。
何が間違っていたのかもわからない。
ただただ、りんさんを傷つけたことを許してほしくて。
ただただ、りんさんに嘘を吐かせてしまったことを謝りたかった。
だから、ただ一言。
「ごめんなさい」
りんさんはきょとんとした顔をした。
でもすぐに優しい顔に戻って「なんで謝ってんの?」と頭を撫でてくれる。
理由はわからない。
ただ、そうしなきゃ私は私を許せない。
いや、そうしても私は私を許さない。
きっと彼女も私を許さないだろう。
私がなにも言えないでいると「おーい。イチャつくのはホームルームが終わってからにしろー。」という先生の声でりんさんの顔が火でも吹きかねない程に真っ赤に染まる。
教室中が笑いに溢れる中、仕方なさそうにりんさんは前を向き「あとで聞いたげるから」とこっそりと言葉を残した。
私は「はい。」と頷き、頬に手を触れ――気づいてしまった。
いつの間にか、にやけてしまっていたことに。
その後、ホームルームの話はまったく耳に入って来なかった。
むしろそれどころではなかった。
こんなだらしのない顔をりんさんに見られたかもしれないと思うと恥ずかしくて仕方がなかった。
なんとか緩んだ頬が直った時にはホームルームは終わり、みんなそれぞれに帰り支度を始めていた。
釣られるように帰り支度を始めると、さっきドーナツの話しをしていた女生徒――久保田さんが「さっきの話しだけどさー」と話しかけてきた。
「どうする?行くでしょ?」とニコニコと話す彼女にどう答えたらいいものかと悩んでいると、りんさんが「ごめん、今日も先約があるの」と間に入るように言う。
すると久保田さんは残念そうな顔で「えー。また黒咲さんの独占なのー?」と不満そうに口にするが、その顔は『はいはい。知ってました知ってました。』とでも言いたげなものだった。
彼女は「それじゃあお邪魔虫共は退散しますよー。」と言って、りんさんに一言耳打ちすると、仲の良い他三人を引き連れて帰って行った。
どこか嬉しそうなりんさんに「なんて言ってたんですか?」と聞くと「なんでもない。私達も帰ろう」と言って席を立つ。
私は「あ、はい!」と応えて急いで残りを鞄に詰めていく。
そんな私にりんさんは「そんなに慌てなくても」と笑う。
でもその顔は、すぐに不機嫌そうなものに変わる。
理由はクラスメイト達が騒めき出したからだろう。
そしてその騒めきは、朝からうんざりするほど何度も聞いた類いのものだった。
騒めきが指し示す方に目を向ければ、案の定大神君が教室の前に立っていた。
きっと、私に会いに来たのだろう。
いや、私に会いに来たのだ。
内心、彼の存在を疎ましく思ってしまった。
けれど私に溜息を吐く間も与えずに「なんだ、彼氏と約束済みかー。」とりんさんが残念そうな言葉を漏らした。
りんさんの方に視線を戻すと、そこには少し悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女の顔があった。
その言葉を否定しないと。
そう思い口を開こうとすると、その言葉を遮る様に「お邪魔虫は退散するから、上手くやりなさいよ。」とだけ言葉を残して、りんさんは教室から出て行ってしまう。
その背中を追うように手を伸ばした。
でもその手はりんさんの背中に届くことなく、虚しくも空を切る。
私は慌てて鞄を引っ掴み、彼女を追いかけ――『バサバサッ』という音を鳴らす。
何の音かと振り返ると、そこには私のノートや教科書などが散乱している。
手に掴んだ鞄を見れば、鞄はあんぐりと口を開けていて、中身を吐き出した理由を明確にしていた。
鞄のボタンを閉めていなかったのだ。
いや、むしろカバーを下ろしていたかすらも怪しい。
教室の外に目を向けると、そこにはもうりんさんの姿は見当たらなかった。
私は深い溜息を吐き、うなだれながらにノートや教科書を鞄にまとめて教室を出る。
「桜坂さん」
名前を呼ばれて振り返ると、大神君が立っていた。
ああ、そうだった。彼が来ていたのを忘れていた。なんと間の悪い男だろうか。
ドロリとした嫌悪感がお腹の底で沸く。
だけど、それを表に出さずに「あ、こんにちは」と笑顔で応対する。
一言二言なにかしらの会話をし「よかったら一緒に帰らない?」と誘われる。
正直、まったくと言っていいほど気分が乗らない。
しかし断る理由を見つけられず、しばらく悩んだ末に誘いを受けることにした。
夕闇に抱かれる街。
煌めき始めるイルミネーション。
家路を急ぐ人波を掻き分けて、家へと続く小道に入る。
彼とは降りる駅が違った為、途中で別れることとなった。
考える時間が欲しかった私としては、彼から解放されたことは素直に嬉しかった。
別に彼が嫌いなわけではない。
電車の中で楽し気に話す彼は年相応で、容姿も相まって可愛らしく、好感を持てた。
多分、理想の幼馴染になる為の一番の近道だ。
それなのに、何故りんさんはあんな顔をしたのだろう?
単純に、りんさんの知らないところで私が誰かとお付き合いをはじめたことに驚いたというのも少しはあるのだろう。
でも、それだけじゃない。
理由はわからないけど、その程度の事だけとは思えない。
けれど、いくら考えても答えは見つからなかった。
私は深い溜息を吐く。
「―――」
不意に誰かに呼ばれたような気がして、後ろを振り返る。
だけどそこには誰も居らず、薄暗い小道に色濃い影が蠢くだけだった。
もちろん、なにもいない。でも、どこか薄気味悪い。
急いで踵を返して家路を急ぐ。
あの電信柱を越えれば、家は目と鼻の先だ。
そう思い足を速めた。
あと少し、あと少しと心の中で自分に言い聞かせる。
足を止めたら、あの陰に呑まれてしまうような気がした。
やっとの思いで電信柱を通り過ぎ、ほっと一息吐い――
「わっ!」
突然後ろから大きな声がして、私は文字通り飛び上がった。
すぐに振り返ると、そこには驚かれたことに驚いたとでも言いたげな顔のりんさんがいた。
「もう、驚かさないでください!」
そう不満の声を上げると、りんさんから「いや、驚きすぎでしょ。」と言われ、私は膨れっ面でりんさんを睨む。
りんさんはそんな暫し私を見つめ、急に小波の様に笑い始めた。
何がそんなにおかしいのかと不満に思ったけれど、その思いは長続きすることはなく、彼女に釣られて私も笑った。
ひとしきり二人で笑いあうと、りんさんは思い出したように「ごめんごめん」と言っていつもの優しい笑顔で私の頭を撫でてくれる。
その手の温もりがどうしようもなく愛おしい。
心の奥底から声がした。
この人が好きだと。大好きだと。
私のすべてが叫んでいた。
この人を愛していると。
強く、優しく、揺るぐことのない心。
その瞳はいつだって私を見守ってくれている。
淡桜色の唇が紡ぐ言葉はいつも私を想ってくれていて。
赤毛混じりの髪の匂いは私を安心させてくれる。
抱きすくめれば折れてしまいそうな薄い肩。だけどその背中は大きくて、私を守ってくれる。
慎ましくも柔らかなその胸は、私をいつもドギマギさせる。
括れた腰から連なるそのしなやかな太腿と脹脛はまるで芸術品のように私を虜にしてしまう。
ああ、りんさんが好きだ。
彼女の髪の毛から爪先までの何もかもが愛おしくて仕方ない。
この気持ちを抱きしめて叫びたい。
私の気持ちを伝えたい。
彼女のじゃない、私の気持ちを――
私を優しく撫でてくれる手が離れる。
今にも口から溢れ出そうな声――。
だけど、それを塞ぐ様に彼女の口から言葉が落とされた。
「そういえば、初彼氏との帰り道デートはどうだったの?」
心が軋む。
痛くて痛くて、悲鳴を上げてしまいそうなほどに軋む。
いっそ折れてしまえば楽になるかもしれない。
いいや、そんなことは許されない。
彼女が許しても私が許さない。
だって、私が決めたのだから。
りんさんにとって理想の幼馴染になると――。
私は照れた様な仕草を作って、少しの色を付けて彼との帰り道でのことを話した。
それをりんさんは、自分のことの様に嬉しそうに聞いた。
※紆余曲折あって、生徒会一年副会長様のお名前が変更となりました。
後日二章側も変更いたします。