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幼馴染に捧ぐホットショコラ  作者: 飲み物ココア
2/4

作り方②鍋に牛乳と砂糖を入れて、沸騰するまで。

 空から白い花びらがひらひらと舞い落ちる、真っ白で綺麗な世界。

 だけど木々の葉が風で揺れる音も、鳥達のさえずりも聞こえない静かな世界。

 それなのに全然寂しくなくて、どこか温かな世界。

 私はそんな世界にひとりでぽつんと佇んでいた。

 吐息を零すと白い煙が口から漏れる。

 きっと寒いのだろう。

 けれど私の身体はとても温かで、寒さなど全く感じない。

 なんだか不思議な気分。

 そう思いながら、空から舞い落ちる花びらを手に取ってみる。

 でもその花びらは手に触れるとすぐに溶けて消えてしまった。

 それがなんだか悲しく思えてしまう。

「ひーちゃん一緒にゆきだるま作ろう!」

 不意に後ろから声をかけられた私は慌てて振り返る。

 だけど、そこには不格好なゆきだるまが一人寂しく立っているだけで誰も居なかった。

 気のせいだったのかな?

 そう思うと「えい!」とまた後ろから声が聞こえて、私は急いでまた振り返った。

 すると目の前には白い塊があって、避ける間もなく私の顔面に激突した。

 視界を塞ぐ冷たい白。

 すぐにそれを払い除けて声の主を捜す。

 だけどやっぱり誰も居ない。

 右を向いても、左を向いても誰も居ない。

「だれ?だれかいるんでしょ?」

 不安になりながらもそう声を上げる。

 すると突然、後ろから抱きしめられて「うん。いるよ。ずっと、ずーっと。一緒にいるよ。」と言われた。

「わたしがずーっと守ったげる。だから、泣かないで。ぜったいひとりぼっちになんかさせないから。泣かないで。ひーちゃん。」

 そう言われた。

 私は知っている。

 この声を――

 この約束を――

 この愛しい人を――

 私は知っている。

 だけど、この声をいつ聞いたのかも、この約束をいつしたのかも、この愛しい人が誰なのかも思い出せない。

「だれなの?」

 私は知りたかった。

 彼女が誰なのか、どうしても知りたかった。

 どうしても知って、思い出したかった。

 だけど彼女はその問いに答えることなく「ひーちゃん。」と愛おしそうに私の名前を呼んで「朝だよ。」と優しく告げた。




 目がパチリと開いた。

 部屋の中は真っ暗で、窓の外からは新聞配達のバイクの音が聞こえてくる。

 私は起き上がるために身体を動かし――声にならない悲鳴を上げた。

 身体の至る所から悲鳴が上がってくる。

 昨日はぜんぜん気にならなかったけど、打ち付けた場所はとっても多いみたい。

 人間の身体って本当に不思議だなぁ。

 事故当日は別に何ともないのに、翌日になったら身体のあちこちが痛くなったり。

 サッカーの試合中に足の骨にひびが入っても試合終了まで気が付かなかったり。

 でも私の場合はそもそも階段から転げ落ちた記憶なんてないから変な気分。

 痛みを我慢してベットから起き上がると、今度は毛布を出た私の身体を容赦ない寒さが襲ってきた。 

 もうやだ。毛布の中に戻りたい。

 そう思いながらもその気持ちをぐっと堪え、自分の肩を抱きながら電気を点け、急いでエアコンの電源をONにする。

 しばらくすると温かな風が吹き始め、私の身体を包んでくれる。

 そういえば、今何時だろ?

 そう思って時計を見れば、丁度五時になったところだった。

 朝、早い時間に起きれるかどうか心配だったけど、これなら日記のようにりんさんの寝顔を堪能してから起こしてあげることが出来そう。

 だけど「キスかぁ。」普通、朝の挨拶でするものなのかな?

 ううん、意外と普通のことなのかも。

 海外ではキスやハグは挨拶だって言うし。

 それが私の周りで大流行していて、かなり日常化されていたりすることはありえないことじゃない。

 大体、私が書いた日記だ。

 親しい人の言う事より、更に信頼のおける話だ。

「ダメ。顔が熱いよぉ。」

 恥ずかしい。

 いくら理屈を並べ立てても、キスはキス。

 しかも日記の内容を信じるなら、女性とはいえ恋人。

 そんな大切な人とのキス。

 ちゃんとできるかな?

 そんな不安な気持ちを抱えながらも私は顔を洗いに部屋を出る。

 廊下はとても寒かった。

 さっきまでの自分の部屋と同じくらい。ううん、それよりもっと寒かった。

 私は自分の肩を抱きながら、急いで階段を降りて洗面所へと駆け込む。

 蛇口をひねると冷たい水が出始め、しばらく待っていると湯気を立てるお湯に変わる。

 私はその温かいお湯で顔を洗って、恥ずかしさや不安などを洗い流し、タオルでゴシゴシと拭いて鏡に映る顔を見る。

 そこに映るのは、まだ見慣れぬ少し大人びた自分の顔。

 まだまだ色んなことが思い出せてない。

 はやく色んなことを思い出して、今の自分の顔をちゃんと自分の顔だと自信を持って思えるようになりたいな。

 それにりんさんのこともちゃんと。

 私はそう思ったところで溜息を一つこぼし、お湯を止めて洗面所を後にした。




 部屋に戻った私は、パジャマを着替えるためにクローゼットを開けてしどろもどろとしていた。

 理由は見覚えのない服がたくさん掛けられていて、私の覚えている服が一着もない所為だ。

 このパジャマだって記憶にないし、昨日着ていた制服のこともまだ思い出せていない。

 私の記憶の中にある衣服はお母さん曰く「それ、中学生になったばかりの頃に着ていたものよ」で止まっているらしく、日記と同じくらいにしか思い出せていない。

 だから昨日の夜は、自分の下着を見つけるのもお母さんに手伝って貰う破目になってしまった。

 まったく。記憶喪失って面倒だなぁ。

 どうせなら、都合よく忘れたいことだけを忘れられたらいいのになぁ。

 そんなことを考えながら、りんさんに会う為の服を一生懸命選ぶ。

 恋人に会うのだからきちんとお洒落しなきゃ。

 いくら記憶がないとはいえ、恋人に変な恰好で会うなんて考えられない。

 仮に変な格好で会ってしまったら、間違いなく記憶を取り戻した私が今の私を暗殺しに未来からやって来てしまうだろう。

 きっとデロリアンに乗ってくる。しかもロボットで水銀みたいになれるに違いない。

 いや、もちろん現実にはそんなことは起こりえないとしても、それくらいの後悔をしてしまうことになる。

 しかし、高校生になった私はこういう服を好んで着てるんだなぁ。

 そう思いながら、しげしげとクローゼットの中の服を見てしまう。

 可愛らしいコートやセーター、チュニックワンピなど良い趣味をしたものばかり。

 私はその中から、可愛らしいコートとそれに合いそうな服を選んで着替えていく。

 そして姿見鏡の前に立って可笑しなところがないかを確認する。

 自分で言うのもなんだけど、鏡の中の私は誰が見ても可愛いと思えるほどの美少女だった。

 これならきっとりんさんも喜んでくれる。

 そう思うと、私の心は少し浮足立ってしまう。

 だけどそんな気持ちは、時計を確認して一瞬で消え失せてしまった。

「わ!?もう五十分も経ってる!急がなきゃ!」

 私は急いで部屋を出て階段を降りると、そのまま玄関で靴を履いてドアを開けて「行ってきます。」と小さな声で言う。

 理由はまだお母さんたちが起きていないからだ。

 昔からお母さんたちは朝に弱く、朝ごはんを家で食べた記憶がほとんどない。

 もちろん、まだ思い出せていないだけかもしれない。

 でもお母さんたちの事はもうほとんど思い出せているし、多分それはない。

 私はドアをそっと閉じて鍵を閉める。そして右隣にある家のドアの前に立つ。

 昨日りんさんが入って行った家。

 つまり、りんさんの家。

 ご両親はどんな人なんだろう?

 少なくとも悪い人じゃないことだけは間違いない。

 だってあんなに強くて、優しい人のご両親だもん。

 多分、優しい人だと思う。

 私はインターホンを押して、どきどきしながら相手が出るのを待つ。

 しばらくするとインターホンから「プツッ」という音が鳴って「はい、どちら様でしょうか?」と女性の声が聞こえてきた。

 きっとりんさん――恋人のお母さんだ。

 私が緊張しながら「お、おはようございます。桜坂です。」と言うと、恋人のお母さんはすぐに「あら、ひーちゃん?今開けるからちょっと待ってね。」と優しく返してくれる。

 そしてすぐにドアが開き、若い女性が出てきた。

 とても、高校生の娘がいるようには見えない。

「おはよう。りんちゃんならまだ寝てるから、上がって。」

 そう女性――恋人のお母さんから笑顔で挨拶された私は「あ、はい。」と間の抜けた返事をしてしまい、恥ずかしさで少し頬が熱くなる。

 そんな私を見て、恋人のお母さんは楽しそうにクスリと笑って私を家の中へと招き入れた。

 玄関に入ると、すぐに少し長い廊下と階段が目に入る。

 何故か楽しそうな恋人のお母さんに「こっちよ」と言われて、連れられるまま二階へと上がり『りん』と書かれた可愛らしいプレートの掛かったドアの前まで来る。

 恋人のお母さんはそのドアを静かに開き、人差し指を口に当てて「どうぞごゆっくり」と小さな声で私に言った。

「あ、ありがとうございます」と小さな声で返して彼女の部屋へと入ると、すぐにドアは閉じられてしまい、ベットで眠る彼女と二人きりになってしまう。

 ドキドキと五月蠅いくらいに鳴り響く鼓動。

 それにつられて乱れてしまう呼吸。

 高まる緊張を無理矢理に押し潰し、彼女の眠るベットに腰かける。

 そして一人の天使を見つけて息を呑んだ。

 ほんのりと色づいている頬。

 薄紅色の唇から零れる小さな吐息と艶やかな声。

 その無防備な寝顔はとても扇情的で、私の心を掻き乱す。

 気が付いた時には、私の手は彼女の髪を弄んでいた。

 指に絡むたびに愛おしくて。

 指がすり抜けるたびに切なくて。

 この気持ちはなんだろうか?

 好き?

 恋してる?

 愛してる?

 どれも違う。

 だって、私はまだ彼女のことを何一つ思い出せていないんだから。

 そんなことを思う筈がない。

 なのに、彼女が欲しいと思ってしまう。

 彼女の淡い唇を求めてしまう。

 日記に書かれているからだとか、記憶を取り戻す為とか、そんなの関係なしに彼女を求めてしまう。

 髪を弄ぶ指は流れるままに彼女の頬を撫で、人差し指が白く綺麗な顎にそえられる。

 親指でその柔らかな花びらを二度三度と愛でると、彼女は少し寝苦しそうに淫靡な声を漏らして私の耳を魅了する。

 私はまるで花の蜜に釣られた蜜蜂のように、その花びらへと顔を近づけていく。

 その距離が縮まれば縮まるほど、胸の高鳴りはどんどん大きくなって、同時に息も切れ切れになってしまう。

 もう我慢なんてできなかった。

 私は目の前にある彼女の唇を奪おうと更に顔を近づけた。

 しかし、彼女の鼻に私の鼻が当たって失敗に終わる。

 いけない。焦り過ぎた。

 そう思った私は少し顔を離して一度深呼吸する。

 そして目を瞑って今度こそ彼女の唇を奪っ――

「RIRIRIRIRIRIRIRIRIN!」

 突然の大合唱に驚いて目を開くと、私以上に驚いた顔をしたりんさんと目が合った。

 すぐに恥ずかしさが込み上げてきて、顔が熱くなり頭はパンクする。

 何を話せばいいんだろ?今の状況をどう説明しよう?いや、そもそもりんさんにとってはこれが日常なわけだし、説明なんていらないんじゃ?

 私がパンクして穴だらけの頭でそんなことを考えていると、りんさんは深い溜息を吐き「なにしてんの。あんた。」と呆れた顔で聞いてきた。

「え、えっと、あの。りんさんは朝一人で起きれないって日記に書いてあって、それでそれで、朝起こしてあげるのが恋人の役目でお目覚めのキスを――」

 私がそれに正直に思いつく限りの経緯を説明していると、突然「ゴンッ」とげんこつが飛んできた。

 私は苦痛の声を漏らしながらベット脇に崩れ落ちる。

「大体わかった。わかりたくないけどわかった。あと、それはあんたに対してというより、記憶のあるあんたに対してだから、一応謝っとく。ごめん。」

 そうりんさんが口にした言葉の意味がわからず、私は?マークを頭の上に浮かべる。

 やっぱり、あの日記の内容には事実とは異なる内容が混ざっていたのだろうか?

 それとも、りんさんとしては日記の内容は望ましくないものなのだろうか?

 いや、もしかしたら手順を間違えただけなのかもしれない。

 叩かれてクリアになった頭で色んなことを考えていると、突然首根っこを掴まれた。

 振り向くとギラリとした目で何故かイライラしているりんさんが居た。

「あんたはいつまでいる気なわけ?着替えらんないからさっさと出てけ!」

 そう言われて、そのまま部屋の外へと放り出され、ドアは音を立てて閉ざされてしまう。

 一体、なにがいけなかったんだろ?

 私はそれを考えながら、りんさんが出てくるのを待つことしか出来なかった。


***


 ひーを部屋から追い出した私は、ドアにもたれ掛って溜息を漏らした。

 目が覚めた時、目の前にあったひーの顔がいつも通り過ぎて、一瞬だけ期待してしまった。

 いつも通りの日常を。ひーの無邪気な笑顔を。わたしの幸せを。

 だけど、そう都合良くいくわけがない。

 それは私が一番よく知っていること。

 いつだって現実は理不尽で、都合の悪いことばかりが起こる。

「なんでわたしばっかり。」

 つい弱音が漏れてしまった。

 弱い自分は嫌い。

 だけど、わたしは強くなんてなれない。

 わたしはわたしにしかなれない。

 もう一度だけ溜息を吐き、考えるのを止める。

 いくら私が考えたり悩んだりしても、この問題は解決しない。

 私に出来るのは、ひーが不安にならないよういつも通りでいてあげることだけ。

 いつものようにパジャマから制服に着替えて姿見鏡の前に立つ。

「酷い顔。」

 そこに映る私の表情は、不安に押し潰されそうなものだった。

「にゃーご」

 後ろから『元気だせよ』と言われた私は「あんたに言われなくてもわかってる。」と返し、鏡に向かって無理矢理でも、ぎこちなくてもどうにか笑顔を作る。

 そして後ろを振り返り、いつの間にかベットにちょこんと座っている猫を抱きかかえてベランダへと出た。

 猫を地面に降ろすと「にゃー」と私に別れを告げ、そのままどこかへ去って行った。

「変な猫。」

 そう口にした私は部屋に戻って鞄とマフラーを手に取り、もう一度だけ姿見鏡を確認する。

 そこに映った私の顔は、作り笑いなんかじゃない自然なものだった。

 私は小さく笑って「本当に変な猫。」と呟き、どこか晴れやかな気持ちでドアを開く。

 部屋の外には「う~ん」と唸りながらあーでもないこうでもないと悩んでいるひーの姿があった。

 そっか。そうだよね。

 わたしだけじゃない。

 ひーだって、ひとりで色々考えて悩んでるんだよね。

 わたしが頑張らなきゃ。

 いつだってそうしてきたように、わたしがひーの面倒見てあげなきゃ。

 私は緩んだ頬をこっそりと直し、私が部屋から出て来たことに気が付かついていないひーの頭をいつものように軽くこつんと叩く。

 突然のことに驚いたのか、ひーは口をぱくぱくしながら何か言おうとしている。

 だけど残念ながら私は学校なわけで、そんなひーに付き合ってあげるわけにはいかない。

「ほら、いつまでそうしてる気?はやくリビング行くよ。ご飯食べ損ねるでしょ。」

 そう告げて、私は階段を降りていく。

 ひーは私の言葉に「は、はい」と返事をして、追いかけるように降りてくる。

 言いたいことや聞きたいこと、それから相談したいことは学校から帰ってきてから聞いてあげよう。

 明日は日曜だし、散歩に連れ出すのもいいかもしれない。

 そんなことを考えながらリビングへと入る。

 そしてソファでくつろいでいる彩お姉ちゃんにジトリとした目を向ける。

 恐らく、ひーを私の部屋に招き入れたのは他でもない彩お姉ちゃんだ。

 普段のひーであれば、あの手この手で私の部屋に侵入してくるけど、今のひーは無害そのもの。普通にインターホンを押して玄関から家へ入ったに決まっている。

 しかし、相手はあの彩お姉ちゃんだった。

 私の視線に気付いた彩お姉ちゃんは「あら、りんちゃんおはよう。今ごはん用意するからちょっと待ってね。」と笑顔で私の無言の抗議を華麗にスルー。

 私は呆れて――いや、もはやある意味感心して溜息を吐いて「おはよう彩お姉ちゃん。」と返す。

 すると後ろから「ええ!?」という驚きの声が上がる。

「どうかした?」

 私がそう聞くと、ひーは「あ、その。りんさんのお母さんだと思ってたから、少しびっくりして。」と口にした。

 恥ずかしそうに指で頬を掻きながら。

 なんでもないとでも言う風に。

 そう口にした。

 目の前が真っ暗になるような暗鬱とした気分がわたしの心を覆った。

 記憶がないんだから、そう勘違いすることは別におかしくはない。

 覚えてないんだから仕方ない。

 知らないんだから仕方ない。

 ひーは何も悪くない。

 だけどそれが頭でわかっていても、わたしの心はわかってくれない。

 ひーがわたしの大好きなお母さんとお父さんのことを忘れてしまったことにわたしの心は咽び泣き、なんで?どうして?という思いを溢れさせる。

 仕方ない。その一言で終わらせたいのに終わらせられない。  

 そんな私に気づいたのか、ひーがとても不安そうな顔をする。

 私は慌てて「彩お姉ちゃんがお母さんだったら、私は何歳児よ。」と笑って誤魔化す。

 まるで心の悲鳴を小さな引き出しに押し込めるように。

 そうすると、不安そうだったひーの顔に少しの安堵が戻り、ひーは恥ずかしそうな笑顔で「そうだよね、りんさんのお姉さん若いもんね。」と口にした。

 その言葉には確かな間違いが存在した。

 けれど今の私にはその間違いを正す余裕などなく「うん」と笑顔で答えるのがやっとだった。


 それから程なくして朝食となり、さっきの話題は何処へやら。

 今では彩お姉ちゃんとひーが私の思い出話で笑い合っていた。

 しかも、ひー本人が大いに関係しているにも関わらず、まるで年頃の息子に出来た彼女に聞かせるかのような感じでだ。

 正直、恥ずかしい以前にそれをひーと彩お姉ちゃんの間でされているということに身悶えしそうなほどだ。

 つまり何が言いたいかというと「泣きたい」ということだ。

「あら、りんちゃんどうかしたの?」

 素知らぬ顔で聞いてくる彩お姉ちゃんの顔には罪悪感のざの字も見当たらず、その良い性格――底知れぬ意地の悪さと姉の特権とも言えようななにかを感じた。

 対してひーはと言えば、何故私が泣きたいと言ったのか理解出来ないらしく、酷く頭を悩ませている。

 ある意味でいつも通りのひーのように思えた。

 もちろん。そんなのは気のせい。

 私はそんな二人に溜息を漏らして、逃げるように時計に目を向ける。

 時刻は七時半。今すぐ家を出なければ遅刻をしてしまう時間だ。

「やばっ!私もう学校行くね!」

 私は団欒の席を立ち、鞄を手に取る。

 そんな私について行こうか、それともまだここで話していようかと迷うように私と彩お姉ちゃんを見比べるひー。

 私は「あんたは学校休みなんだから、ゆっくりしてていーの。」と言って立ち上がりかけているひーの肩に手を添えて座らせ直す。

 そして「それじゃあいってきます。」と笑顔で告げ、「いってらっしゃい」の言葉をもらって廊下に出る。

 玄関で靴を履き替えていても重くならない肩。

 いつもならうんざりすることなのに、それがないことが何故か寂しい。

 時間がないのに、重くなるのを待つかのようにゆっくりと立ち上がる。

 だけど、やっぱり重くならなくて。

 その寂しさを誤魔化すようにドアを押し開ける。

 薄暗い世界を照らす眩しい朝日が眼に映る。

 いつも通りの白に埋もれていない景色が広がる。

 良い天気だ。快晴とは言えないけれど、良い天気だ。

 正にお出掛け日和。

 なのに、私の心は土砂降りで。

 正直、家の中に引きこもりたい気分だ。

「仕方ないことなのに。ダメだな。私。」

 そう呟いて『寂しい』も言えずに家を後にした。


***


 りんさんが学校に行ってからもりんさんのお姉さん――彩音さんの思い出話は続き、私はその話に驚かされていた。

 私が生まれてすぐの頃から二人一緒にいたことや、中学一年くらいまで私ではなくりんさんの方が私にべったりだったこと。

 私が知っているはずなのに、知らない思い出。

 それはとても輝いていて、自分の思い出なのに羨ましく思えてしまう。

 不意に彩音さんがそれまで楽しそうに話していた思い出話を止める。

 そして、私の目を見て「大丈夫。ひーちゃんならすぐに思い出せるわ。」と優しく微笑んでくれた。

 ほろりと、何かが瞳から零れ落ちる。

 何故か溢れるそれに、私は戸惑ってしまう。

「うんうん。大丈夫大丈夫。心配しなくても、きっと思い出せるから」

 彩音さんは私の頭を撫でながら、そう言ってくれる。

 ああ、そうか。本当は不安で仕方なかったんだ。

 家族も、家も、名前も思い出せたのに、大事なことーーりんさんのことを思い出せていないことが、本当は不安だったんだ。

 それが原因で、りんさんとの関係を知らぬ間に壊してしまうことが恐かったんだ。

 さっきだって気付かないうちにりんさんを傷つけてしまっていた。

 りんさんはすぐに誤魔化すように笑ってくれたけど、一瞬だけ溢れた彼女の悲鳴は確かに私の耳に届いていた。

 だから彩音さんの私を気遣う言葉に少し救われた。

 そして改めてりんさんのことを思い出そうと心に決める。

 彩音さんはそんな私の顔を見て「やっぱり、ひーちゃんはひーちゃんね」と笑顔で言ってくれた。



 彩音さんから励まされてしばらくした頃、リビングの電話が鳴った。

 彩音さんの対応を見るに、相手は私のお母さんの様だった。

 電話を終えた彩音さんは「ひーちゃんのお母さんがはやく帰って来なさい。だって。」と何だか玩具を取り上げられた子供のように退屈そうに口にしてから「とっても心配してるみたいだったから、はやく帰って、元気な顔を見せてあげて」と打って変わって優しげに言ってくれる。

 私はそんな彩音さんに「はい。」と元気に返してから、少し恥ずかしくなりながらも「あの、ありがとうございました。」と励ましてくれたことにお礼を言った。

 彩音さんは「いいえ、どういたしまして。」と笑顔で返してくれた。

 私はそのまま彩音さんに見送られてりんさんの家を後にし、自分の家へと戻った。

 戻った私を待っていたのは、昨日の今日で何を考えているのかと心配そうに怒るお母さんと、そんなお母さんをなだめるお父さんだった。



 お母さんからの長い長い小一時間ほどのお説教を終えた私は、自分の部屋で昨日読み耽っていた日記を読み返していた。

 今朝のりんさんの反応からして、私とりんさんは恋人同士ではないのだろう。

 日記の中で語られている砂糖菓子顔負けのだだ甘な恋物語は、きっと記憶のある私に都合よく捻じ曲げられている。

 けれど、全部が全部嘘というわけでもないと思う。

 少なくとも、昨日のりんさんの仕草――あーんして食べさせてくれたり、私のことを自分のこと以上に心配してくれたりするのは、日常の一部。

 何も知らない人間が見れば、間違いなくそういう関係なのだと誤解してしまうだろう。

 日記を読めば読むほどに、私という人間がりんさんにどれだけ想いを募らせているかがよくわかる。

 私はほんとうにりんさんのことが大好きなんだろうな。

 だけど、それはりんさんへの押し付けなんじゃないかな?

 りんさんの反応からして、私はあくまでも大切な幼馴染み。

 けれど、りんさんはそんな幼馴染みからの想いを無下に出来ず、保留にするしかない。

 それをいい事に、想いを募らせ続け甘える私。

 それは、りんさんの良心と私への想いに胡座をかいた行為ではないのだろうか?

 そう思うと、少し記憶のある私のことが嫌いになってしまう。

 あんな優しい人に迷惑ばかりかけるのはどうかと思う。

 一体、私はなにをどうしたいのだろう?

 りんさんの為にも、一日でも早くりんさんのことを思い出したい。

 だけどそうすると、この日記にあるような日常に近い関係に戻ってしまう。

 本当にそれでいいのだろうか?

 記憶のある私なら、きっとただ思い出すことだけを望むだろう。

 だってそうすれば、彼女はまたこの砂糖菓子のような日々を送れるのだから。

 でも私はりんさんの重荷になるのは嫌だ。

 私と記憶のある桜坂 姫は違う。

 だからこそ、彼女の願う幼馴染みでありたい。

 日記のような甘えた私じゃなく、彼女の望む大切な幼馴染みになりたい。

 私はそう答えを出して、パタリと日記を閉じる。

 とはいえ、一体どうすれば彼女の望む幼馴染みになれるのだろうか?

 そう思い悩んでいると、不意にお腹からクゥ~。と一匹の虫が鳴いた。

 ふと時計に目をやれば、針はいつの間にかお昼の十二時を過ぎていて、もうちょっとで一時を指そうかというところだった。

「うわ。いつの間にかお昼過ぎちゃってる。なにか作らないと。」

 そう口にして椅子から立ち上がり、部屋を後にする。

 階段を降りてリビングに入った私は迷わずに冷蔵庫の前――ではなく、その隣の棚の前に立つ。

 私が今思い出している限りの記憶では、ここにインスタント食品がしまってあるはずだ。

 そして記憶通り、ガラス越しに見えるインスタント食品の数々。

 ラーメン一つでも『うまかっちゃんね』のとんこつや高菜に『出前二丁目』の醤油、それから『サッポロナンバー1』の味噌や塩と様々な種類が揃っている。

 もちろん、焼きそばやカレーにシチューもあるし、それに缶詰もいーっぱい!

「どれにしようかなぁ?」

 溢れ出そうな涎を我慢しつつガラス越しにそれらを眺めていると、それを邪魔するかのように「ピンポーン」というインターホンの音が聞こえてきた。

 この時間に来るのは、どうせ新聞か宗教の勧誘かなにかだ。

 つまり私が取る行動はもちろん無視。超無視。ガン無視。無視・オブ・ザ・無視。スーパースペシャル無視だ。

 しかし、インターホンの音は鳴り止むことはなく、ただひたすらに私の楽しい楽しい至福の時間を台無しにし続ける。

 最終的に堪忍袋の緒が切れた私はインターホンの受話器を引っ掴み「勧誘お断りです!」と怒鳴りつけてそのまま通話を切る。

 しかし、懲りもせずに鳴り続けるインターホン。

 私はどうにか無視しようと耳を手で塞ぎ「聞こえませーん。はやく帰ってー。」と聞こえるはずもない声をインターホンの向こうの相手に言いながら再度インスタント食品を眺める。

 だけど、インターホンは鳴り止むどころか次第に連打され始め、私の怒りは有頂天!

 私は乱暴に受話器を引っ掴み「だから今私は忙しいの!邪魔しないで!」と怒鳴りつけ、受話器を叩きつけるかのように置き、通話を切る。

 すると流石に諦めたのか、それまで鳴り続けていたインターホンは止まり、私はやっと平静を取り戻した。

 これでゆっくりごはんを選べる。

 そう思ったのも束の間、今度は「プルルルルルル!」と電話が鳴り始めた。

「ああ。もう!」と毒づきながらも電話の受話器を取る。

 もちろん「はいもしもし!」と不機嫌な声を隠すことは出来なかった。

 しかし電話の向こうからは私の態度を咎める声はなかった。

 でもその代わり、昨日と今朝とよく聞き親しんだ声に「へぇー。忙しいんだ。あ、そう。で、なにが忙しいの?」と言われ、サァーッと血の気が引いた。

 『やばい』『不味い』『どうしよう』の三拍子が揃った私は言い訳すら思い浮かばず、焦りはフルスロットル。

「ち、違うの!ぜ、全然忙しくないの!え、えーっと、あれ!あれだよあれ!」

 どうにか誤魔化そうと口を開くも、なにを言うでもなく兎に角言葉を口から溢れ出させる始末。

 そんな私に聞き親しんだ声ーーりんさんは受話器の向こうから呆れに満ち満ちた深い深い溜息を漏らし「はいはい。わかったから。さっさとドア開ける。」と言う。

 私は「は、はい!」と返事をして電話を切り、大慌てで玄関へと行ってドアを開ける。

 しかしドアの向こうにはりんさんの姿はなかった。

 その代わり、まるで双子のようにそっくりな女の子二人と見るからに軽そうな男の子が居た。

 そんな彼らに私が呆気取られていると、双子?の女の子の落ち着いた感じのする方が「あ、出てきましたね。」と口にし、その女の子と瓜二つのようでありながらも隠しきれないハツラツとした元気一杯な女の子が「ひーちゃんお見舞い来たよー!」と続く。

 口にしている内容からして、どうやらこの人達は私の友達なのだろう。

 確か、日記にもこの三人組らしき人達の事が書かれていた。

 落ち着いた感じの女の子が妹のさくさんで、元気いっぱいな女の子がかすさん。

 それと。なにを考えているかよくわからない男の子がまさひこくん。

 日記通りの人柄に、少し安心する。

 日記の内容を見る限り、少しーーお世辞にも少しとは言い難いのだけど、私には妄想癖があるようだった。

 なので、もしかしたらあの登場する友達は全て、記憶のある私の妄想かもしれないとすら頭の片隅で思っていたからだ。

 そして日記の内容通りなら、そろそろーー

 そう私が思っていると「おぉ!リアルレズビアンの片わ」と予想通りまさひこくんだけ、なにかわけのわからない事を口にし始め、左右に立っていたさくさんとかすさんから渾身の顔面へのストレートと鳩尾へのフックによる見事なツープラトンで一瞬にしてノックダウンされた。

 私はあまりにも見事過ぎるツープラトンに感動し、フルスロットルだった焦りも悶え苦しむまさひこくんへの心配も忘れ、小さな拍手を送ってしまう。

「あんたら。なにやってんのよ。」

 不意に、隣の家の玄関からりんさんの呆れた声が聞こえ、私は忘れていた焦りを思い出す。

 しかし、誰一人そんな私を気にも留めることなく、会話は勝手に続いていく。

 その様はまるで漫画のようだった。

 さくさんが悪戯な笑みを隠した涼やかな顔で「なにって。もちろん記憶のないひーさんを言い包めて手篭めにしようとしてたに決まってるじゃないですか。」と出鱈目を口にし「へ?そうだったのか!?」とその言葉に驚きつつも「でも今ならチャンス。だけどやっぱり卑怯だよな、そういうの。」とチラチラと私の様子を伺いながら悩むかすさん。

 そんな二人にりんさんが「あ、あんたらはなに考えてんのよ!?」と声を荒げるも、さくさんは「もちろん、白昼堂々人前では言えない恥ずかしいことですよ。」と臆面もなく返す。

 流石に我慢の限界だったのか、りんさんは顔を真っ赤にして「ひーに変なことしてただで済むと思ってんの!?」と手に持っていた鞄を振るう。

 しかし、さくさんはひらりとその鞄を躱し「もう。軽い冗談ですよ?」と楽しそうに笑いながら口にする。

 そんな彼女の態度に我慢出来ないりんさんは「冗談でも言っていいことといけないことがあるでしょ!?」とそう口にするが早いか、もう一度鞄を振るう。

 けれど、やはりこれもあっさり躱されてしまう。

 さくさんは楽しそうにクスクスと笑いながら「りんさんったら機嫌悪いですねー?もしかして、あの日なんですか?」と口にした。

 その言葉でりんさんは羞恥で耳まで真っ赤になってしまう。

「んなわけないでしょ!」

 そう声を上げながら鞄を一心不乱に振るいまくるりんさんを見て、私は可愛いと思ってしまった。

 そんなりんさんを見かねたかすさんが、後ろから羽交い絞めにして止めに入り、落ち着くように諭すも、目の前には挑発を続けるさくさん。

 もちろんりんさんが落ち着くことはなく、さくさんに食ってかかろうとする。

 じゃれ合う彼女らは日記の通りとても楽しそう。

 そう思っていると、不意に手を握りしめられた。

 驚いて視線を向けると、白馬の王子様よろしく跪いているまさひこくん。

「ああ、麗しのひーちゃん。大事な大事な君が記憶をなくしたと聞いて、僕はいても立ってもいられなくて、商店街の目の前に大きなデパートが出来るくらい迷惑と知りながらもお見舞いにきてしまったよ。」

 そう口にしながら、バサリとどこからか取り出したバラの花束を私に差し出した。

「あ、ありがとう。」

 あまりに突然なことに少し気圧されながらも、なんとかお礼の言葉を口にする。

「なに、気にしないでくれ。愛する恋人のためなら、僕はなんだってするよ。そう、君の為なら激辛ジャンボラーメン三十分以内完食だってやってみせる!」

 恋人?どういうことだろうか?日記の内容では友人のおまけのように語られていたはずだ。

 いやしかし、容姿は申し分ない――むしろ普通にカッコイイ。

 それに、先程の悪ふざけとは違って、今のまじめな対応には好感が持てる。

 そう思っていると、いつの間にかじゃれるのを止めていた三人がまさひこくんの後ろに並んで立っていた。

 ニコニコと笑っている恐怖の大魔王三人衆を見て、私は苦笑いしながら冷汗を流す。

 そんな三人に気づいていないまさひこくんは未だに私の心配を口にしながら、手をさすったりしている。

 最初に動いたのはかすさんだった。

 彼の頭をひっつかみ、ただただ力を込めていく。俗に言うアイアンクロウというやつだ。

「おいテメェ。どさくさに紛れてなにやってんだ?」

 そう笑顔のままかすさんが問うも、彼は頭を両手で押さえながら「NO!NOoo!ギブ!ギブゥゥゥ!」と苦悶の声をもらすしかなく、答えられそうにはなかった。

「ひー、大丈夫?変なことされてない?」

 りんさんは彼と私の間に割って入り心配してくれる。

「あ、はい。大丈夫です。」

 私がそう答えるとりんさんはほっと胸を撫で下ろす。

 りんさんの後ろではまさひこくんへのお仕置き――もはや処刑が続いており、さくさんはにこやかな顔で「なに本当に出鱈目吹き込もうとしてるんですか坂本君?」と言いながらこれでもかというくらいに蹴りを入れていた。

 そんな彼らを見て、なんだ。さっきのは嘘だったんだ。と先ほどのことに納得すると、思い出したかのようにお腹の虫が可愛らしい声を上げる。

 流石に恥ずかしくなった私は慌ててお腹を押さえるも、時すでに遅し。

 かすさんとさくさんから仕方なさそうな笑みがこぼされ、まさひこくんからは助かったと言わんばかりの表情と女神を慈しむかのような視線が向けられる。

 そしてりんさんからは、そんな三人とは違って呆れに満ち満ちた顔と深い深い溜息が洩らされた。

「そうよね。あんたが忙しいって言ったら大体食べ物よね。知ってた知ってた。で、なに?今日はなんのインスタント食べようかなぁ?とか考えながら指でも咥えてたとこ?それとも世界がひっくり返るよりも低い確立かもしれないけど、なにか作ろうと奮闘してたとこ?」

 どうやら記憶がある私は今の私同様、食いしん坊でインスタント大好き人間――料理が出来ない人なようだ。

 私が羞恥に頬を染めながらも「ぜ、前者です」と答えると、りんさんはもう一度溜息を洩らし「まったく。なんか作ったげるから待ってて。」と口にして勝手に私の家へと入っていく。

 もちろん、お邪魔しますの言葉を忘れずに言って。

「こんなところでぼーっとしてても仕方ありませんし、上らせてもらってもいいですか?」

 さくさんにそう聞かれた私は慌てて「どうぞ、上ってください。」と三人を家に招き入れる。

 彼らがそれぞれにお邪魔しますと口にするのを背に聞きながら、リビングの方へと消えていくりんさんの姿を追う。

 私がリビングにたどり着いた時には、既にりんさんはキッチンに立っており、インスタント食品の入っている戸棚ーー至福の楽園ではなく、冷蔵庫の中身を確認していた。

「記憶喪失の娘を置いて仕事行くとかどうなのよ?いや、まあ仕事も大事だろうけど。昔から仕事仕事ってひーのことほったらかしで。あー!もう!」

 そう怒りながらも必要と判断した材料を取り出していくりんさん。

 私はそんな彼女を宥めようと「あの」と口を開くと、間髪入れずにくしゃくしゃに丸められた紙が私に向かって飛んでくる。

 それを慌ててキャッチすると、りんさんはその紙ボールを指差しながら「おばさんに冷蔵庫に食材入れとくよう言っといて!」と不満そうに言った。

 それに「は、はい」と気おされながらに応えると、彼女は料理を作り始める。

 私はりんさんの指さしの意図を求め、丸められた紙を広げた。

 するとそこには、お母さんからのメッセージが書かれていた。

『日記やアルバムを読むのに夢中になっているようなので、お父さんとお母さんは仕事に行ってきます。お昼は戸棚の中にインスタント食品が入っていますので、いつものように好きなものを食べてください。もしりんちゃんが来たら、何か作ってもらってください。母より』

 それを読み終えた私は、日頃の食生活のあり方を思い出してみる。

 少なくとも、お母さんがキッチンに立っている姿はほとんどなく、代わりに誰かが今みたいに立っていた気がする。

 その人はーー誰?

 思い出せる背姿はバラバラで、どうにもまとまらない。

 それなのに、全て同じ人のような気がしてならない。

 誰?誰なの?

 そう思えば思うほど、少しずつ頭が痛くなっていく。

 だけど、私はそれを気にも留めず、その人のことを思い出す。

 あとちょっと。あとちょっとで思い出せる気がする。

 そして、記憶の中のその人がこちらを振り向こうとすると同時に『ブツッ。』とテレビの画面が消えるように目の前が真っ暗になった。

 身体がふわりとして、崩れ落ちるのがわかる。

 だけど手足に力は入らず、瞼すら開かない。

 何かが倒れる音がして、遠くで声が聞こえた。





 夕陽でオレンジ色に染まる図書室。

 窓の外から聞こえてくる吹奏楽部の演奏と部活生達の声。

 それを遠くに聴きながら、本の頁をめくる。

 あの人を待ちながら。

 あの人って誰だろう?

 大切な誰かだったと思う。

 何故か思い出せないことに少しもやりとしたけれど、私はまた頁をめくる。

 何はともあれ、私はこの時間が一番好き。

 司書の先生も帰ってしまったここは私の楽園。

 大切な人を待ちながら、大好きな本を読み耽る。

 不意に遠くから足音が聞こえてきて、私は視線を本から時計へと投げる。

 時計はまだ六時になったばかりで、あの人の部活が終わるまでまだかなり時間がある。

 けれど、その足音は『ドタバタ』とどんどん大きくなっていき、図書室のドアがガラッ! と乱暴に開かれる。

 入ってきたのは、茶染めの髪が印象的な女の子だった。

 彼女は慌てた様子で私に詰め寄って「ごめん、ちょっと匿って!」と言うなり、私の座る机の下へと無理矢理に入っていく。

 私が「え!?ちょっと。」と咎めようとすると、廊下から「カス姉!どこ行ったんですか!?今日という今日は許しませんよ!」という怒声が響き渡り、彼女は私に両手を合わせて再度お願いしてくる。

 流石にちょっと可哀想にも思えたので、私は渋々ながらも本へと視線を戻し、廊下の追手が入ってくるのを待ち構える。

 図書室の扉がスライドする音が聞こえ、私は本からその追手へと視線を移した。

 しかし、そこには先ほど匿ってくれと頼んできた女の子が立っていて、私は何が起きているのか理解できなかった。

 新手の手品か、はたまたドッキリか?

 いや、もしかしたらドッペルゲンガーという可能性もあるかもしれない。

 入ってきたドッペルゲンガーは私に近付き「あの、すいません。こちらに私によく似た人が来ませんでしたか?」と先程と打って変わったとても礼儀正しい言葉遣いで私に訊ねる。

 私は平静を装って「いえ。来てませんけど。」と答える。

 するとドッペルゲンガーは「そうですか、ありがとうございます。」とにこやかに言ってーー眼つきが変わった。

 ドッペルゲンガーはギラリとしたその眼で辺りを見渡しながら「カス姉!居るのはわかってるんですよ?大人しく出てくれば、一発で楽にしてあげます。だから出てきてください。」と声を上げる。

 足に微かな震えが伝わる。

 どうやら匿っている女の子は酷く怯えているらしい。

 暫しの沈黙が流れ、ドッペルゲンガーはにこやかな顔に戻り「すいません。やっぱり居ないみたいですね。それでは失礼します。」と言って図書室から出て行った。

 ドッペルゲンガーが出て行ってしばらくすると、匿っていた女の子は倒れるように出て来て「だあ~。助かったぁ。」と口にした。

 先程のドッペルゲンガーについて何と聞けばよいかと私が頭を悩ませていると、彼女はそんな私に気付いたらしく「同じ顔してたから驚いたろ?アレあたしの妹なんだよー。」と笑いながら口にした。

 おっかなかったろ?という言葉も付け加えて。

 リボンの色からして彼女は同学年ーーつまり、私と同じ一年生。

 そしてドッペルゲンガーはそんな彼女の妹らしい。

「双子?」

 ようやく行き着いた答えを口にすると、彼女はにししと無邪気な笑みを浮かべ「あたし、奥山 霞夜!んで、さっきのこわーい妹が咲夜。」と自己紹介して「あんたは?」と私にも自己紹介を促す。

「桜坂 姫です。」

 私が名前を口にすると、彼女は驚いた顔で「はぁー。お姫様みたいだと思ったけど、名は体を表すってこーいうこと言うんだなあ。」と言葉を溢した。

 私は「そうかな?」と照れながらに返して、読んでいた本を閉じる。

 すると、本の表紙にポツリと雨水が降ってくる。

 天井を見上げると、そこからは雨が降ってきていた。

 ああ、そっか。

 これは夢なんだ。

 だって、室内で雨が降るなんてことはあり得ないもの。

 もしあり得るとしたら、上の階の洗濯機が壊れて水漏れしているとかそんなところだろう。

 そしてこの夢は、私と彼女ーー奥山 霞夜さんとその妹ーー咲夜さんとの出会いだ。

 何故、忘れていたのだろう?

 こんな印象深い出会いをしたというのに。

 そう思った私に霞夜さんは「理由はわかんないけどさ。思い出したんならいいんじゃね?」と笑って口にし「はやく起きなよ。きっと心配してるしさ」と少し寂しそうに言った。

 私はそんな彼女に「うん」と頷いた。




 ポタリ、ポタリと静かに温かな雨粒が私の頬を叩く。

 微睡みの中、重い瞼を持ち上げる。

 そこには、目をぎゅっとつぶって声も出さずに涙を流すりんさんの顔があった。

 ぼんやりとした意識の中、私の掌が彼女の頬を撫で「りん。泣かないで。」と小さな声が溢れた。

 突然のことにりんさんは驚いたらしく、目を見開いて私を凝っと見つめる。

 ほんの数秒程の沈黙が流れ、私の頭がやっと回り始める。

 何故泣いているのだろう?

 なにか悲しいことがあったのだろうか?

 りんさんへの心配ばかりが募る中、彼女の口が動き「ひー?」と掠れた声が縋る様に私の名前を呼んだ。

「何があったんですか?」

 しかし私がそう聞くと、りんさんは慌てて涙を拭い「こっち見るなバカ!」と声を荒げ、私の目を塞ぐ様に平手で引っ叩いた。

 私は理不尽な痛みに涙目になりながらも「な、何するんですか。」と抗議の声を投げる。

 けれど彼女は私の目を塞いだまま「うっさい!」と怒った声を上げるだけで、叩いた理由はおろか、泣いていた理由すら話してはくれない。

 私は心の中で深い深い溜息を吐き、私の目を覆う指の隙間から、彼女の顔を盗み見る。

 そこにあった表情は怒りに満ちたそれではなく、酷く寂しげで、弱々しくて、私の胸はチクリと痛んだ。

 そんな私の想いを置き去りにして、彼女は私の顔から手を退ける。

 広がった視界には、無理矢理に作られた笑顔があって「ほら、さっさと起きる。ごはん食べるでしょ。」と彼女は口にする。

 私は言葉を探すけれど、かけるべき言葉もかけたい言葉も上手く見つからなくて、仕方なく彼女に頷き身体を起こす。

 りんさんは再びキッチンに立ち、遅くなった昼食を作り始める。

 すぐにいい匂いがし始めて私の鼻孔をくすぐった。

 しばらくして、りんさんがテーブルに料理を並べていく。

 スクランブルエッグとこんがり焼かれたベーコン。それとあり合わせで作ったスープにバターが塗られたトースト。

 美味しそうなごはんを前にした私が指を咥えて今にも溢れ出そうな涎を我慢していると「まったく、あんたって子は。ほら、早く食べなさいよ。」とりんさんから笑われてしまった。

 私は頬を染めながらも「は、はい。」と口にして席に着き「いただきます」と言ってすっかり遅くなってしまった昼食を食べる。

 ケチャップと砂糖で甘めに味付けされたスクランブルエッグと塩コショウで味付けられたベーコンは私好みの味で箸が止まらない。

 バタートーストの焼き加減も絶妙で、振りかけられている砂糖の甘みが私のほっぺを落とさる。

 その両者に負けない薄味のあり合わせ野菜スープは恐らく私では再現できないだろう。まあ、ほかの二つも私には再現できないだろうけど。

 気がつけば、そんな私をニコニコと楽しそうな表情で見ているりんさんが居て、恥ずかしくなってつい顔を背けてしまう。

「どうかした?」

 彼女にそう聞かれた私は一瞬、白状して素直に食いしん坊な所を見られるのが恥ずかしいと口にしようと思ったけど、私達以外誰もいないことに気がつき「その、ほかの三人は?」と上手く話題を逸らす。

「あー。あの三人なら帰ったから。気にしないで。」

 そう口にする彼女の表情は何処か悲しげで、私はなんと声をかけていいかわからなくて口を噤んでしまう。

 そんな私に気付いたのか、彼女は慌てて笑顔を作り「まだ本調子じゃないのにごめん。あいつら騒がしくてビックリしたでしょ?」と口にした。

「はい、少しびっくりしました。」

 それを聞いた彼女は決まりの悪い顔で「だよね。ほんとごめん。」と謝る。

 私が慌てて「あ、謝らないでください!」と口にすると、彼女は一瞬目を丸くして、すぐに声を上げて笑う。

 私はなにがおかしいのかわからず「え?え?なにがおかしいんですか?」と彼女に聞いた。

 けれど彼女は「ううん、なんでもない。」と笑って「いいから早く食べる。この後、病院行かなきゃなんないんだから。」と口にした。

「病院?なんでですか?」

 そうりんさんに聞くと、呆れた顔で「もしかして、覚えてないの?」と聞き返されてしまう。

 私が正直に「はい。」と頷くと、りんさんは深い深い溜息を吐き「あんたがさっき倒れたからに決まってるでしょ!?」と声を上げる。

「ああ、なるほど。」

 だからさっき、りんさんがあんなに泣いていて、私は膝枕されていたわけだ。

 やっと先ほどの疑問が解決した私はすごくスッキリしたが、つい漏らしてしまった言葉が癇に障ったのか、不機嫌そうな顔のりんさんに「わかったらさっさと食べなさいよ」と急かされてしまった。

 その後の食事は、うまく味わえなかった。




 リノリウム貼りの床に、消毒液の残り香。

 オレンジの夕日が差し込む病院のロビーはガラリとしていて、ほとんど人がいない。

 りんさんの後を追って受付に行くと『本日の診察は終了しました。』というプレートが置かれていた。

 小脇に書かれている診察受付時間を見るに、どうやら土曜日は四時が受付終了時刻らしい。

 そして時計に目をやれば、既に四時を過ぎてしまっていた。

「仕方ない。帰ろっか。」

 りんさんが私に向き直ってそう口にすると、受付の奥でガタッと物音がして、すぐに可愛らしい子栗鼠のような女性がひょこっと顔を出す。

「あら、りんちゃんにひーちゃん。久しぶりー。」

「あ、菫さん。お久しぶりです」

 りんさんが子栗鼠の人ーー菫さんに向き直って挨拶を返すと、菫さんは受付のカウンターに両方の手で頬杖をついて「なにか困りごと?」と尋ねてくる。

「ひーの診察の付き添いで来たんですけど、もう診察時間終わっちゃってて」

 そう苦笑しながらりんさんは正直に話す。

 それを聞いた菫さんは「あ、そっか。今日土曜日だもんね。」と眉をひそめる。

 しばし菫さんは「うーん」と考える仕草をして「どの先生に用があったの?」と聞いてきた。

「葉先生にーー」

 りんさんがその名前を言うが早いか、菫さんは受付に備え付けられた電話の受話器を取る。

 仕事中の彼女に私達は何も言えず口を噤んでいると、電話の相手が出たらしく菫さんが口を開く。

「もしもし、葉先生ですか?そろそろ患者さん30分くらい待たせてるんですけど、いつになったら準備出来るんですか?え?知らない?」

 言葉が進むに連れ、りんさんの表情が慌てているような、困っているようなものになって行くが、彼女はそれを気にすることなく言葉を続ける。

「もう、しっかりしてくださいよ。これからそっちに行ってもらいますから。え?これから帰って娘と出掛ける?馬鹿なこと言ってないで仕事してください。」

 そして彼女は言うだけ言って受話器を置き、にこやかな笑顔で「二人とも、葉先生の診察室わかるよね?そっちの方に行ってくれたらいいから。」と口にした。

 りんさんは「ありがとうございます。あとすみません。」と口にして、そんな二人をただ見ていた私に「あんたもお礼言いなさい!」と言って、頭を半ば無理矢理に下げさせた。




「はあ。君達か。で、今日はなに?何の用?杏くんといい、菫くんといい。僕の扱いが酷いのは今に始まったことじゃないけど、君達が絡むと普段より酷くなるんだよ」

 扉を開けて診察室に入ると、疲れ果てた様な顔の葉先生に、開口一番でぼやかれてしまった。

 りんさんはバツの悪い顔で「すいません。ちょっとひーが倒れちゃって」と口にすると、葉先生は真面目な顔になり「とりあえず座って下さい」と言って昨日のソファではなく、診察用の丸椅子に腰掛けるようにすすめる。

 私達がそれぞれに座ったことを確認した葉先生は「なんで倒れたんだい?詳しく聞かせてくれるかな?」と私に聞いてきた。

「よく覚えてないんですけど、確か、りんさんがキッチンに立っているのを見て、誰か小さい子と小学生くらいの子と中学生ぐらいの子?が立ってる姿が重なったようなよくわからないイメージが湧いてきて、頭が痛くなって。気がついたらりんさんに膝枕されてました」

 私は思い出せる限りのことを口にしたけど、正直、要領を得ない説明だと思った。

 しかし、葉先生は「なるほど」と口にして「失った記憶を取り戻そうとする時に、ままある事ではあります。ですが、今後は無理に思い出そうとするのは控えて下さい。」と私に注意した。

 りんさんが「よかった。」と安堵の吐息を零すのを横目に、葉先生は「折角なので、思い出したことや困っていることなども伺っておきましょうか。」と聞いてくる。

 私は正直に思い出したことやその記憶との違いを並べた。

 両親のこと。

 家の間取りや思い出の品。

 あるべきはずの服と記憶にない服。

 少し妄想癖の入った日記とそこにある本当と嘘。

 大好きなインスタント食品に、キッチンに立つ誰か。

 そして、思い出した霞夜さんと咲夜さんとの出会い。

 そこまで話し終えると、葉先生はありがとう。と笑って「黒咲くん。今の話を聞いて、なにか思い当たることはないかい?とりあえず、一つずつ。そうだな、彼女ーー桜坂くんが倒れた原因であるキッチンのイメージについて」と今度はりんさんに今の話について尋ねる。

 りんさんは何処か不満そうな目で私を見ながらも「ひーのお父さんとお母さんが忙しいのは昔からなので、たまにお母さんから夕ご飯を持たされてひーの家のキッチンに立っていたので、たぶんそのイメージの人物は私のことだと思います。」と口にした。

 嬉しいはずの話。

 それなのに、私の心はなんの感動も示さない。

 何故だろう?

 そんな疑問の募る私を置いて、葉先生は「じゃあ、記憶にある服について聞かせてもらえるかい?どの服でもいいから君が印象深く覚えているものについて。」とりんさんに再度尋ねる。

「ワンピースはたしか、小学生の終わりくらいから中学の始めぐらいまでひーが着てたものです。ひーのお気に入りだったのでよく覚えてます。ほかのものも同じ頃に着ていたものだと思います。」

 葉先生は「なるほど。」と頷き「じゃあ日記の内容については?」と聞くと、りんさんは深い深い溜息を吐いた。

「半ば願望が入り乱れているので、日記と呼べるかどうか怪しいですね。でも、私のことを除いて読めば、割と本当のことを書いてはいます。」

 呆れ果て、疲れてげっそりしているりんさんに、申し訳なさばかりが募る。

「それじゃあ最後に、桜坂くんが思い出した奥山姉妹との出会いについ」

 不意に葉先生の言葉が詰まった。

 しかし、それを気にせずに私の隣からはりんさんの声が発せられた。

「ひーがかすとさくちゃんの二人と初めて会ったのは、確か中学一年の夏頃でした。どんな出会い方をしたかはよく知りません。」

 葉先生はりんさんの言葉に「そ、そうかい」と何故かたじろぐ様に口にしながらも「聞いた限りだと、抜け落ちてる箇所はあれど中学生の頃までの記憶を取り戻しつつあるみたいですね。一過性のものにしては少し快復が遅れているようですが、心配はあまりないでしょう。明日か明後日くらいには全快されていると思いますが、もし快復していなくても学校には行ってください。もしかしたら、そこで記憶が戻るかもしれませんので。あと、次回の診察は月曜日になります。学校が終わってから来て下さい。ああ、そうだ。全快されていてもちゃんと来てくださいね」と締めくくった。

 私とりんさんはそれぞれにお礼を言って、診察室を後にした。




 すっかりと暗くなってしまった帰り道。

 病院を出てからのりんさんは口を一度も開かず、スタスタと私の前を歩く。

 なにか気に触ることをしてしまったのだろうか?

 そう考えるもなにも浮かばず、私はなにも言えないまま彼女の背中を追う。

 病院を出て、かれこれ二十分は歩いただろうか?

 本来なら電車を使った方が早いのに、最寄りの駅は随分前に通り過ぎてしまった。

 なにを考えているのだろうか?

 正直、理解ができない。

 私が知ったりんさんとは、なんだか違う。

 私の知らないりんさんーー

 不意に目の前の背中が止まる。

 私は慌てて足を止める。だけどそれは一歩遅くて、彼女を軽く抱きしめるようにして押し止まった。

 驚いたように振り返ったりんさんの顔は「ごめんなさい!」という私の慌てた言葉と共に冷めたものに変わる。

 なんだろう。

 なんだか、とてもイヤだ。

 そう思った私は口を開こうとする。

 言葉なんて決まってなくて、なにを言うかもわからない。

 だけどそれでも、今のこれはイヤだ。

「今日、家に泊まっていかない?」

 しかし私の口が開くよりも先に、りんさんの口からとんでもない言葉が飛び出た。

 正直、驚いて声も出ない。

 けれどすぐに驚きは消え、平静を取り戻す。

 理由は今も変わらぬりんさんの冷めた表情だ。

 でも、なんだか。

 その表情はどこか難し気にも、悩まし気にも見える。

 何か言いたい。

 けれど、何も言えない。

 私はモヤついた思いのまま、とりあえずりんさんの言葉に「えっと、お邪魔します」とだけ答えた。

 りんさんは私に背を向けると「家に着いたら、着替え取って来なさいよ?」といつもの口調で言って「待ってるから」とどこか寂し気に口にした。

 彼女が一瞬、消えてしまいそうな気がして、私は「りんさん?」とつい名前を口にした。

 しかし、振り返って「ん?どうかした?」と聞く彼女は、いつもの強い人で。

 私はなにを聞いたらいいかわからなくて。

「いえ、なんでもないです。」

 そう言葉を零した。

 りんさんは「変なひー」と笑い、また歩き始めた。




 家に帰り着いた私は、両親からどこに行っていたのかとすごく心配された。

 だけど、りんさんに付き添われて病院に行っていたことを説明すると、両親は私の体のことを心配するものの、とても安心したようだった。

 きっとそれだけ、りんさんへの信頼が厚いのだろう。

 だけどそんな二人にりんさんの家にお世話になることを話すと、お母さんは渋い顔で「迷惑にならないの?」と言った。

 その表情には、私が迷惑をかけてしまうこと以外のなにかを嫌がっているように思えた。

 だけどお父さんはそんなお母さんを宥めながら「思い出せてなくても、ひめはりんちゃんのことが好きなんだなぁ。うん、行っておいで。」と笑顔で言ってくれた。

 だけど、お母さんはそんなお父さんに機嫌を損ねたのか、むくれ顔で「貴方はいつもそう。せっかく普通の――」と何かを言いかける。

 でもそんなお母さんの言葉を途切れさせるように「前も言っただろう?ひめの人生だ。この子の自由にさせてあげようじゃないか。な?」とお父さんは言った。

 それでもお母さんは納得ができないのか「もういい。」と怒りながら書斎へと逃げてしまう。

 お父さんは仕方なさそうな顔で笑いながら「ほら、りんちゃんが待ってるんだろう?いっておいで。」と言ってくれた。

 私は「うん。」と頷いて、自分の部屋に戻った。

 クローゼットから必要な着替え――出来るだけお洒落なものを選んでいると、下の階から軽い言い合いが聞こえてくる。

 内容はよくは聞き取れないけど、少し険悪だった。

 私はあんな二人を見たことがない。

 少なくとも思い出している限りでは、二人はいつも仲良しで、昔『なんでお父さんとお母さんは仲良しなの?』と母に聞いた時、母は笑顔で『ずっと傍に居たいし、居てあげたいからよ』と答えていたはずだ。

 子供ながらに、そんな母の様になりたいと思ったこともしっかりと思い出せている。

 つまり、まだ思い出せていない時期――中学一年の夏頃から高校一年の今日までになにかがあったのだ。

 あの二人がこんな風に言い合いをするだけのなにかが。

 一体、なにがあったのだろう?

 それを考えても、結局答えが出ることはなかった。

 準備を済ませた私は「いってきます」と小さく口にして家を後にした。



 りんさんの家にお邪魔すると、ご両親は不在らしく、今朝と同じように三人で晩御飯を食べた。

 話題はもっぱらりんさんの事で、りんさんは終始恥ずかしそうな顔だった。

 そして食事を終えたりんさんは、そんな空間から逃げるようにお風呂へと行ってしまった。

 彩音さんから「ひーちゃんも一緒に入ってきたら?」と促された私は「あ、はい。それじゃあ私もお風呂いただいてきます」と返して、着替えを入れたバックを片手にリビングを後にする。

 冬特有の冷気に包まれた廊下を急ぎ足で歩き、脱衣所の扉を開ける。

 するとそこにはひとりの天使がいた。

 赤毛混じりの黒髪から生える細い頸。

 慎ましやかな胸にしなやかな四肢。

 天使の瞳がこちらを見――すぐにその白い頬には朱が差した。

 脱衣所の扉を開けたまま、彼女に見惚れていた私に気が付いた彼女は、慌ててその身体を隠しながら「な、なにやってんのよ!?」と声を上げる。

 しかし、身体を隠すその仕草は実に扇情的で、むしろこちらが恥ずかしくなってしまう。

 正直、すぐに顔を背けて彼女に謝りたいところだが、女性同士でそれはおかしい。

 私は少し熱くなる頬を指で掻きながら「彩音さんにりんさんと一緒にお風呂入って来なさいって言われたんですけど」と口にすると、りんさんはしばし私の顔を見て、深い溜息混じりに「ああ、そう。」と口にして「さっさと脱いで入って来なさい。そんなとこ居たら風邪引く。」と言い残すと、浴室へと入って行ってしまった。

 それに「はい」と返事をするも、その声は彼女の浴びる湯の音に掻き消されてしまう。

 服を脱いで浴室に入ると、りんさんは既に身体を洗い終えたらしく、湯船に深々と浸かっていた。

 二度ほど頭から湯を浴び、シャンプーを泡立ててわしゃわしゃと髪を洗い始めると「こら!」と怒声が飛んだ。

 なにが悪かったのか理解出来ない私は「え?」と間の抜けた声を漏らす。

 りんさんはそんな私を見兼ねて、湯船から出て来て私の手を払いのけると、勝手に私の髪洗い始める。

「あんた。もしかして昨日もこんな洗い方したの?」

 りんさんの呆れたようなその言葉で、彼女が何故怒ったのか、やっと理解した。

 多分、髪の洗い方が悪かったのだろう。だけど、そんなことで一々怒るものだろうか?

 そう考えながらも、私は彼女の言葉に「はい。」と正直に答える。

 するとりんさんは、私の頭を軽く叩いて「もう。あんたの髪、折角綺麗なんだから。そんな洗い方しちゃダメでしょが。」と優しく諭す。

 私の雑な洗い方とは違って、りんさんはとても優しく私の頭を揉みながら、手で髪を梳くように洗っていく。

 その気持ち良さに、しばらくされるがままになっていると「流すよ?」と言われて、頭からお湯がゆったりと流される。

 綺麗に洗い流してくれたりんさんに「ありがとうございます」とお礼を言うと「いや、まだ終わってないから。」と返され、そのまままたされるがままにトリートメントを済まされてしまった。

 結局、髪を洗うだけで軽く十分以上かかった。

 この手入れをほぼ毎日?

 こんなのを毎日だなんてとても面倒な気がしてしまう。

 りんさんに洗ってもらうのは気持ちよかったけど。

 そう思っていると「はい、おしまい。」とりんさんは言って、湯船に戻っていってしまう。

 私は再度りんさんに「ありがとうございます」とお礼を言って、身体を洗い、彼女の浸かる湯船に混ざる。

 二人で入るにはちょっと狭い湯船。

 天井の水滴を見つめながら溢す吐息。

 触れる肩に感じる彼女の体温と高鳴る鼓動。

 恥ずかしさの所為か、それとも熱い湯の所為か。なにも言えないまま、時間だけが湯に溶けるように過ぎていく。

「ねえ、ひー。」

 不意に名前を呼ばれた私は驚いて「ひゃい!」と変な声を上げてしまう。

 りんさんは数瞬目を丸くするも、すぐに「なに変な声出してんのよ」と言って笑う。

 恥ずかしさから逃げるように顔を背け「ごめんなさい」と口にすると、りんさんは「なに謝ってんのよ」とまた笑う。

 そして一頻り笑い終えた彼女は「まあいいけど」と言って私の肩に体を預けてきた。

 その瞬間、私の思考回路がショートしたことは言うまでもないだろう。きっと頭からは白煙が上がっている。

 何故りんさんがこんなことをしているのか理解ができない。

 もしかしたらこれは昨日のあーんと同じで、私と彼女にとっては日常茶飯事のスキンシップなのかもしれない。

 しかし日記にはここまでの内容は書かれていなかった。書かれていてもキスや一緒に寝たりだとかそんな感じ。

 ううん、キスとか一緒に寝たりだとかの方がもっと高レベルなんじゃ?

 いやでも、日記の内容だとりんさんからせがんで来るように書かれていたけど、実際にはその逆で私がせがんでいて、りんさんからこんな風にしてくることなんてありえないわけで。えーと!

「り、りんさん?」

 やっとの思いで私が彼女の名前を呼ぶと、彼女はどこか寂しげな声で「ゆっくりでいいから。」とだけ口にした。

 私はその言葉に「はい」と答えることしか出来なかった。


 お風呂を上がった後、髪をまともに乾かさないことや櫛の使い方などで散々怒られることは予想してなかった。



***



 昨日、りんりんの奥さん――お姫が階段で突き落とされたことは、あたしにとってとても気分の良い出来事だった。

 本当は今でもりんりんが輝いているはずだった。

 笑顔が素敵で、面倒見が良くて、誰からも慕われていて。

 なにより格好良くて。

 それなのにあの女は、寄せ集めの羽根で繕った衣装でみんなの目を騙して、りんりんを見えなくした。

 りんりんを我が物顔で独占しているだけじゃ飽き足らず、その光すらも奪ったお姫をあたしはずっと許せなかった。

 だから、アレは天罰だと思った。

 紛い物の薄汚い魅力で釣れた男を振って、その男を好きな女に突き落とされる。

 こんな愉快な構図は他にない。

 それに、そのおかげで久しぶりにりんりんと会話が出来たのも、とても嬉しかった。

 りんりんの両親が亡くなったと聞いた時、彼女との関係が随分と疎遠になってしまっていた所為で話しかけ難くて、一番辛かった時に手を差し伸べられなかった。

 それが今でも心苦しい。

 いや、それもこれから取り戻せばいいんだ。

 あたしはりんりんの親友なんだから。

 意を決した私は、りんりんの教室へと足を向ける。

 急がないと部活が始まってしまうし、なによりりんりんが帰ってしまう。

 教室の前に着くと、嫌な顔を二つほど見てしまい「げ。」とつい声を漏らしてしまった。

「曽根丹さん、人の顔を見てそれは失礼だと思いますよ」

 ニコリと笑うその女とその隣に居る同じ顔の女は、中学の頃から迷惑という言葉を冠し続けている奥山姉妹だった。

 いつ頃からかお姫の側に虫のように集まるようになっていたが、今でも変わっていないかと思うとウンザリしてしまう。

「そんな反応されるだけの心当たりあるだろ?迷惑姉妹」

 そうあたしが言い返すと、迷惑姉妹の妹ーー奥山 咲夜は「迷惑はカス姉のことですよ?まとめられるのは心外です」と笑顔のまましれっと言いやがる。

 もちろん、姉の方が妹に抗議の声を上げているが、そんなのとは関係なく、コイツも十分迷惑極まりない。

「なにが心外ですぅ。だよ。この腹黒。」

 そう口にすると、ピシッと何かにひびが入る様な音が聞こえた。

 迷惑腹黒女は笑ってはいるものの、誰が見ても頭にきているとわかるほど顔が歪んでいて、なかなかに笑えるものだった。

 もうその顔芸で芸人でも目指せばいいと思いながらも、こいつらに構っている暇がないことを思い出し「あ。あたし急いでるんだったや。」と口にして迷惑姉妹の前を通り過ぎ、りんりんの教室へと顔を入れる。

 既にホームルームは終わっており、生徒達は帰宅の準備をしたり、お喋りをしたりと各々自由にしていた。

 そんな中から帰る準備をしているりんりんの姿を見つけたあたしは「りんりーん」と声をかけながら、彼女の側へと近寄る。

 顔を上げたりんりんはあたしの顔を見るなり溜息を一つ吐いて「りんりんって呼ぶなって何回言えばいいわけ?まつ坊」とあたしのあだ名を呼んでくれる。

 嬉しくて、顔がにやけてしまいそうだ。

「いいじゃんいいじゃん。あたしとりんりんの仲なんだし」

 そう笑いながら言うと、りんりんは「どんな仲よ」と口にしながらも、笑ってくれた。

 だけど、見るからに元気がない。

 教室をもう一度見回してみるけど、どこにもお姫の姿はない。

 その事実が、とても嬉しい。

 だって、あの女がいると、りんりんの全てを一人占めされてしまう。

 それがどれだけあたしの心を掻き乱すことか。

 だけど、りんりんに元気がないのは、間違いなくお姫がいないからだ。

 その事実があたしを苛立たせる。

「そういえば奥さんは?」

 苛立ちを隠しながらそう聞くと、りんりんの表情がちょっと暗くなる。

 ああ、その表情すらイヤだ。

「まだ、ちょっと。」

 骨にヒビでも入っていたのだろうか?

 それとも、何処かに麻痺とかなにか後遺症とか。

 どちらにしても、しばらくあの女にりんりんを取られることはない。

 少なくとも、学校にいる間だけは。

 あたしは、今にも溢れ出そうな喜びを押し殺して「なにがあったの?」と心配そうに聞く。

「たいしたことじゃないよ。すぐに元気になるから。」

 だけどりんりんは強がった顔でそう口にする。

 だからあたしは「あたしだって、お姫の友達だよ?心配なんだ。」と心にもないことを口にした。

 するとりんりんは、弱々しい顔になる。

 そして、周りに聞こえないほど小さな声で「ひー、わたしのこと。わかんないんだ。」と言葉が溢れた。

 意識がないのか。

 それとも、なんらかの障害を負ったのか。

 ああ、詳しく知りたい。

 上手くすれば、またりんりんと一緒に居られる。

「詳しく教えて。なにがあったの?」

 そう聞くと、りんりんはまた小さな声で「記憶喪失なんだって。」と言った。




 りんりんと別れたあたしは、部活に行くよりも先に、二年の教室へと向かった。

 あの言葉を聞いて、すぐに思いついた事を実行するために。

 お姫を突き落とした生徒会の女――遠野原 明美が生徒会副会長の小田桐 翔平にお熱なのは、一部では有名な話だった。

 少なくとも、あたしの所属する女子ソフト部で度々話が出るくらいには有名な話だ。

 そして、お姫を突き落とす前に、遠野原は確かにこう言っていた。

『なんで彼からの告白を断ったの!?』と。

 普通は次は自分の番だと喜ぶべきシーンで、小田桐が振られた事に怒るというのは、少し理解出来ない。

 けれど、おかげで良い事を思いついた。

 上手くいけば、間違いなくりんりんはまた昔みたいに輝く。

 そう。またりんりんと一緒に――



***



 大きな鏡――

 そこに映る、小さな私。

 私の長い髪を誰かが櫛で優しく梳いてくれる。

 だけど、鏡には私だけしか映っていない。

「ひーちゃんの髪ふわふわー」

 楽し気な声が聞こえる。

 きっと、私の髪を梳いてくれている誰かの声だろう。

 けれど、やっぱり鏡には私以外、誰も映っていない。

 しばらくすると、小さな私は少しだけ大きくなる。

 小学生くらいだろうか?

 それにしても酷い有様だ。

 何故か髪はグチャグチャになっているし、瞳には大粒の涙が溜まってしまっている。

 だけど、グチャグチャになってしまっている髪は、やっぱり優しく梳いてもらえた。

「またあいつらでしょ!?今度とっちめてやるから、泣かないの!」

 私の代わりに怒ってくれる声。

 しばらくすると髪は綺麗になり、鏡に映る顔は笑っていた。

「 @X♯ζ 大好き」

 そして、小さな私はそう口にした。

 すると声は、私に聞き取れないほど小さな声でもごもごと何かを言う。

「なんて言ったの?」

 そう私が聞くと、声は何も答えない。

 その代わり鏡に光が反射して、小学生くらいの私は今より少し小さな私に変わる。

 だけど、私の髪を梳く誰かは、やはり鏡に映らない。

 けれど、鏡に映っている私には見えているのだろう。

 見えていないのは“私”だけ。

「 @X♯ζ 知ってる?この髪ね。ひーの宝物なの。」

 鏡に映る私は幸せそうな顔で、私には見えない誰かに自慢する。

「だって――」




 薄暗い部屋の中、私は目を覚ました。

 本当なら、夢の中でなにを言いかけたのかを考えなきゃいけない。

 だけど、りんさんの顔が目の前にあって、私からそれを考えるだけの余裕を簡単に奪ってしまった。

 五月蝿いくらいに鳴り響く鼓動。

 それに混じって聴こえる彼女の寝息。

 少しずつ私の頭を溶かしていく音。

 目の前にある彼女のくちびるに、つい喉をごくりと鳴らしてしまう。

 指が伸び、彼女のくちびるを軽くなぞる。

 昨日、私が奪おうとしたくちびる。

 今も欲しくて欲しくて堪らないくちびる。

 なんで、こんなにも求めてしまうのだろう。

 私はまだ、りんさんのことをなに一つ思い出せていないのに。

 その事実が私の頭を熔かす熱に冷水をかける。

 私は逃げるようにベッドから起き上がり、ベランダから外へ出る。

 凍った空気が私を包み、肩を震わせた。

 私はたくさんのことを思い出さなきゃいけない。

 でも、思い出せるのだろうか?

 日記にある通りなら――いや、日記のように想っている相手のことをなに一つ思い出せていないのに。

 ううん。思い出さなきゃ。

 昨日だって、彩音さんに励ましてもらったばっかりなんだから。

「おはよう。」

 眠そうな声に振り返ると、目を擦りながらこちらを見ているりんさんが居た。

 どうやら起こしてしまったらしい。

「おはようございます。あ、寒いですよね。ごめんなさい。」

 私はそう口にして部屋の中へと戻り、ベランダの窓を閉める。

 一瞬、窓を開けっ放しにしていたことを怒られるかとも思ったが、りんさんは櫛を片手に持って「こっち来なさい」と手で軽くベッドを叩く。

 私は戸惑いながらもりんさんの隣に座る。

 すると、りんさんは何も言わずに私の髪を梳きはじめた。

 くしゃりとした寝癖の残る髪に櫛が通る。

 彼女の匂いに包まれて髪を弄られながら、窓の外に映った朝焼けに目を細めた。

 夢の中に居た誰かのように優しい人。

 この人のことを思い出したい。

 この人の望む私でありたい。

 そして、私としてこの人のことを好きでありたい。

 そんなことを思いながら、朝のひとときは過ぎていった。


***


 朝食を済ませた後、私はひーと二人でアルバムを観るつもりだった。

 そう、ふたりで。二人っきりで。

 ベッドに腰掛け、肩を寄せ合い、アルバムの中に挟まれた幼い私達の写真を見つめ、二人で想いを馳せる筈だった。

 なのに――

「さくー、ポテチとってー。」

 絨毯の上には、だらしなく寝っ転がって足をパタパタさせながら漫画を読むかすが居て、ソファにはそれを見て「かす姉、だらしないですよ。」とジト目で言いながらも、ポテトチップスの袋を渡すさくちゃんが居た。

「なんで。なんで居るのよ!?」

 そんな二人に我慢出来ずに声を上げてしまう。

 しかし、返ってきたのは「急に大きな声を出さないでください。近所迷惑ですよ?」という爽やかスマイル全開のさくちゃんの言葉だった。

「ご、ごめん。」

 私は少しの罪悪感からか、それとも彼女の『私が全て正しいです』オーラの所為か、つい謝ってしまう。

 しかし数瞬思考を巡らせて、すぐにおかしい事に気がつく。

 朝食後とはいえ、まだ時計の針は9時すら指していない。

 そもそもかすさく姉妹とおまけの3人組が家に来たのは朝食の途中で、しかも当たり前のように一緒に朝食を食べていた。

「いや、おかしいでしょ。だらしないとか以前に、友人の家でおかしいでしょ!?」

 そうツッコミを入れたけど、二人はこちらを見るも私が何に怒っているのかまるで理解出来ていないらしく、瓜二つの顔がほぼ同時に傾げられる。

 深い、深い、それは深い溜め息を吐くと、ひーが「だ、大丈夫ですか?」と心配そうな顔で聞いてくれる。

 ああ、あんただけだわ。

 そう心の中でほろりと涙を溢しつつも「いや、うん。いつものことだから」と苦笑した。

 不意に腰に誰かの手が添えられ、ぐいっと抱き寄せられて顎に手が添えられる。

 視線の先にあるのは、綺麗に染められた金髪と整った顔立ちだった。

 恐らく、誰が見ても美男子だと声を上げるだろう。

 いや。事実、私の通う学校には、彼に対して想いを寄せる女子は星の数ほどいる。

 きっと普通なら「そう邪険にしないでくれ。霞夜とさくちゃんは、りんちゃんとひーちゃんのことが心配で来たんだ。君達の元気な姿を見てほっとしたんだよ。もちろん僕もりんちゃんのことが心配で逢いに来たんだよ。」と言われれば目がハートマークになるだろう。

 しかし、私の場合は「放せ変態。」の一言しか漏れない。

「連れないなぁ。りんちゃんと僕のな――」

 そう坂本が言いかけて、やっとさくちゃんからのストップがかかった。

 彼女はいつもの様に坂本の顔面にその拳をめり込ませ、そのまま振り抜く。

 私はその見事な顔面ストレートに思わず拍手が出る筈だった。

 だけど、彼女が拳を振り抜くと同時に私が視界の端に捉えられたのは彼女の茶染めの髪ではなく長い綺麗な黒髪で、私の思考は停止してしまった。

 いや、私だけではない。

 だらしなく寝っ転がっていたかすも、それを野放しにしていたさくちゃんも目を点にしていた。

 一秒、二秒と沈黙だけが流れる中、坂本を一発KO試合終了に追い込んだ彼女に恐る恐る「ひ、ひー?」と声をかける。

 すると、まるでスイッチでも入れたかのように「ふぇおわい!?」と声を上げて、彼女は握り締められたままの右手とピクリとも動かない坂本だったものを何度も何度も交互に見る。

 そしてやっと状況を理解したのか、ひーは倒れたままの坂本を無理矢理に起こし「し、死なないでください!」と肩をガクガクと揺らしながらに叫ぶ。

 そんなひーを見かねたのか、さくちゃんはひーの肩にそっと手を置き「ひーさん、大丈夫ですよ。坂本君は殺しても死なないゴキ――じゃなかった。人ですから。」と笑顔で口にする。

 流石にその酷さには坂本に対して哀れみを覚える――ことはもちろんない。それよりも私はひーらしからぬその暴力が気になっていた。

 そもそも、今まで私の前でひーが暴力を振るったことがあっただろうか?

 むしろ、男の子達にいじめられて、私が庇っていたほどだ。

「ほ、ほんとに大丈夫なんですか?」

 しかし、そうさくちゃんに涙目で聞く彼女は口調こそ違えど、その仕草や表情はいつものひーそのもので、僅かながらも私を安心させてくれる。

「はい。だから、安心してください」

 さくちゃんがひーを安心させようとしていると、そろりそろりと坂本の手が起き上がり、ひーの胸へと伸びていく。

 私は慌てて声を上げようとするが、それよりも早くかすの手が坂本の手首を握りしめた。

「おうテメェ。元気そうじゃねぇか。」

 そう笑いながら手に力を込めていくかすに、坂本は「あ、あはは。ど、同士よ。その手を放してはくれまいか。あともうちょっとで我々の悲願とも言える黄金に手があだだだだ!ギブ!ギブゥ!潰れる!マジ潰れるから!」とわけのわからないことを口走り、見事にお仕置きをくらう。

 それを見たひーは目を丸くしながらも、やっと坂本から手を放す。

 そしてさくちゃんはそんなひーに「ほら、言った通りでしょう?」と言って『私が全て正しいです』オーラを発する。

 それに「はい」と易々騙されてしまうひーが心配になり、私は「ひー、確かに坂本はそうそう死なないけど、さくちゃんの言うことなんでも信じちゃだめだからね?この子時々ものっすごいデタラメあんたに吹き込むんだから!」と釘を刺す。

 ひーは「そうなんですか!?」と更に目をまん丸にして驚き、さくちゃんの顔をまじまじと見つめる。

 しかし、さくちゃんは全く動揺する様子を見せずに「もう、りんさんったら冗談が好きなんですから。私はいつもひーさんに必要なことしか教えてないですよ?」と涼しい顔で口にする。

「幼馴染の非常識な朝の起こし方を、常識としてひーに教え込んだのはどこの誰だっけ?」

 私は今にも振り切れそうな怒りメーターをどうにか正常値に抑え込みながら、努めて冷静に棘の隠せない言葉を吐く。

 だが、さくちゃんは「りんさん」と歓喜に目を輝かせ「いえ、いいんです。本心では大喜びなのはよぉく知ってますから。だけど、世間体やほかその他いろいろを気にするあまり、そういう態度を取らねばならない心中もお察しいたします。ですので、不肖奥山咲夜。これからもひーさんにはきっちりとした教育を施していきますね」とわけのわからないことを口走り始め、私のなんとか抑えていた怒りメーターは簡単に吹っ切ってしまい「なんでそうなんのよ!?どう考えてもおかしいでしょ!?」と声を上げてしまう。

「ま、まあまありんさん落ち着いて。」

 そんな私をひーが間に入って宥める。

 いつものひーであれば、きっと今の状況をさくちゃん好みのものにしたのだろう。

 そういう意味では記憶のないことがありがたいような気がしてしまう。

 もちろん今すぐにでもわたしのことを思い出してほしい。

 だけど、これ以上さくちゃんのおもちゃにされるのはごめんだ。

 私はもう一度深い溜息を吐き「で。なんで揃いも揃ってうちに来たわけ?」と盛大に遠回りになってしまった疑問をさくちゃんに投げる。

「もちろんりんさんとひーさんを心配してですよ?」

 しかし、さくちゃんは当たり前でしょう?という顔でそう言って「坂本君の言う通りなのが癪ですけど」とぼそりと付け加える。

 だけど私は素直に『ありがとう』とは言えず、つい「だからって朝から押しかけて来なくても」と小声でぼやいてしまう。

「まあ、そう言うなって。二人きりの時間を邪魔したのは悪いと思うけど、結構心配してんだからさ。」

 坂本の手首を捻り上げているかすにどこか寂しげな顔でそう言われて、私は少しバツが悪くなってしまう。

 そんな顔しないでよ。

 わたしは大丈夫なんだから。

 わたしは大丈夫じゃないとだめなんだから。

「心配し過ぎだっての。」

 だからわたしはそう口にする。

 強くあるために――強くなんてなれないのに。

「だけど、みんなありがと。」

 これ以上心配されない為にそう口にして、今にも折れそうな心を隠す。

 一瞬、さくちゃんが何か言いたげな顔をする。だけど、かすの「そっか。ならいいや。」という気遣う様な笑顔にさくちゃんは口を噤んでくれる。

 わたしはそんな二人に心の中で『ありがとう』と言う。

 もちろん聞こえてはいない。

 当たり前だ。口にしていないのだから。聞こえるわけがない。

 だけど二人は、まるでわたしの心の声が伝わったかのように仕方なさそうな微笑みを浮かべてくれた。


***


 寒空の下、静かに佇む校門。

 一昨日に潜った大きな門とは違って、それには見覚えがある。

「学校――」

 ぽつりと言葉が漏れた。

 そう。私にとって学校と聞かれるとここ――市立香里第二中学校だ。

「驚いた?」

 かすさんに『にかっ』とした笑顔でそう聞かれた私は素直に頷く。

 けれどりんさんは「驚いたのはこっちだっての。急に学校行こうとか言いだしたかと思えば、二中まで引っ張ってくるし。しかもなんでかひーは二中のこと覚えてるし。」とどこか苛立ったような声で不満と不服の言葉を漏らす。

 そんなりんさんにさくさんが「まあまあ」と言ってから、りんさん以外に聞こえないよう耳打ちすると、突然りんさんが手に持っていたトートバックをさくさんの顔目掛けて打ち振る。

 しかしそれは昨日と同じようにひらりと躱され、さくさんに「りんさんったら照れちゃって。可愛い。」と嘲るように言われ、りんさんは「この!この!この!避けるなぁッ!」とムキになってトートバックを振り回す。

 けれど、さくさんは右に左に上下後ろとひらひらと避けてしまう。それはトンボのように的確で、しかしその姿は蝶のように美しい。

 だけど、いくらなんでも危ない。もし当たってしまったら、大きくはなくとも小さな怪我の一つくらいはしてしまうだろう。

「と、止めなくて大丈夫なんですか?」

 心配になった私がかすさんにそう聞くと、彼女は呆れたような笑いを溢し「まあ、いつもなら止めるんだけどなぁ」と何か含んだような言葉を口にする。

 だけど私にはまったく理解できず、声をあげて二人の間に割って入ろうとした。だけどその時「あれ。なんか懐かしい声が聞こえるなぁと思ったら。」と温和な声が二人のちょっと危なげなじゃれ合いを止めた。

 声の方に顔を向けると、校門の向こうに一人の女性が佇んでいた。

 肩まで伸びた栗色の髪と小洒落たカチューシャ。少し垂れた目に口元の艶ぼくろ。

 その顔はもう思い出しているものだった。

 吉田 翡翠先生――いや、正確には先生ではなく、この二中で図書室の司書をしている人だ。

「先生――」

 私の口から自然と声が溢れる。

 しかしそれはかすさんの「先生久しぶりー!」という元気な声にかき消されて、先生に届くことはなかった。

 それに続くようにさくさんが「お久しぶりです先生。」と恭しく挨拶をし、更に流れるように坂本君が先生の手を握り「お久しぶりです先生。貴女に逢えぬ夜に何度――ぐあ!痛いだいだい!やめ!やめろ!やめて!マジで折れるから!」と囁き終わるより早く二人から制裁を受ける。

 そんな彼らに先生が「もう。私は先生じゃないって何度言ったらわかるの?」と苦笑しながらに言うと、みんながどっと笑いを溢し、私もつられて笑う。

 だけどその中にりんさんが入っていないことに気付き、りんさんの方へと顔を向ける。

 その姿を見たとき、私は動けなくなってしまった。

 彼女の曇った貌にどんな反応をすればいいかわからず、声すらも出せなかった。

 けれどそれはすぐに消え、りんさんはどこか呆れたような仕方なさそうな笑顔を浮かべていて、さっきの貌はどこにも見当たらない。

 私の気のせい――そう信じて疑わないほどに一瞬だけ見せた貌。

 ふと、りんさんと目が合う。

 見てはいけないものを見てしまった。そんな気がしてしまう。

 何か言わなければ――そう思っても言葉が出ない。

 何気ない一言がりんさんを壊してしまいそうで怖い。

 笑顔ならどうだろうか?

 そう思って笑ってみる。だけど、頬が固まってしまって上手く笑うことができない。

 いや、そうじゃない。固まってなんかいない。

 頬はちゃんといつも通りの笑顔の形を作れている。目だってちゃんと笑えているはずだ。

 ただ、自信がない。ちゃんと笑えている自信が――

 おかしくないだろうか?

 不自然じゃないだろうか?

 ちゃんと誤魔化せただろうか?

 不安が頭の中をグルグルと走り回る中、りんさんの口が動く。

「どうかした?」

 私に笑いかけてくれるりんさん。

 ああ、やっぱりこの人は強い人だ――

「いえ、なんでもないです」

 やっと笑うことができた。

 私の言葉ひとつでこの人を壊してしまうことなんてありえない。

 それがわかって、私は自分がちゃんと笑顔を作れている自信を持てた。

 りんさんは「そう」と短く答えて「先生のこと覚えてるんだ」と口にした。

「はい。あ、と言っても昨日思い出したというか、その、なんというか」

 私がしどろもどろになりながら答えていると「よかった。」とりんさんが笑顔を見せてくれる。

 それは、まるで自分のことのように嬉しそうな笑顔だった。

「それにしても、今日は突然どうしたの?」

 不意に先生のそんな言葉が聞こえた。

 みんなの方に目を向けると、かすさんが困った顔で「え、えーっと。」と口籠っている。

 さくさんはといえば、今にも『もちろん愛しい先生に逢いに来たに決まってるじゃないですか!』と言い出しそうな坂本君の手をキリキリと締め上げ黙らせることで手一杯のようだった。

 私が理由を説明しようと口を開くと、その声をかき消すように「久しぶりに学校見たくなっちゃって。みんなで遊びに来たんです。あ、もちろん翡翠先生の顔も見に」とりんさんが先生の疑問に偽える。

 その言葉を全く疑いもせずに信じた先生は「まあ。ふふ、嬉しいわ。」と笑い「教員の方はほとんどいらっしゃらないけど何人かはいらっしゃいますよ。それとよかったらだけど図書室でお茶でも飲んでいって。クッキーもあるから」と言って、門の勝手口を開く。

 かすさんは「クッキー!?」と嬉しそうに声を上げ、先生に纏わりつき、先生と一緒に図書室がある棟の方へと歩いていく。

 そんなかすさんにさくさんは困ったように溜息を吐き「りんさん、ひーさんすみません。私達は先に図書室でお茶を頂いてますので。終わったら来てください。それではまたあとで」と言って礼をすると「かす姉待ってください」と声を上げて坂本君を引きずりながら後を追いかけていった。

 置いてけぼりを食らった私達二人は、お互いに口を噤んだまましばし佇む。

 今、りんさんは何を考えているんだろう。

 私が口を噤んだままなのは、なにを話したらいいかわからないからだけど。りんさんはなんで口を噤んでいるんだろうか?

 沈黙の中、泡の様に浮かんだ疑問。

 いま、どんなことを考えているんですか?そう聞けたらどんなに楽だろうか。

 だけど、聞くことなんて出来ない。

 覚えていなくても、思い出せなくても。


 彼女は――りんは――私の幼馴染なんだから。


 一瞬、目の前がぐにゃりと歪み、世界がまわる。

「ちょ、大丈夫!?」

 いつの間にか、りんさんが私の肩を抱きとめていた。

 今、何を考えていたか。

 そんなことよりも、目の前にある彼女の瞳が、まつげが、まゆが、耳が、鼻が、くちびるが私の鼓動を早くさせる。

「顔真っ赤じゃない!もしかして体調悪いの!?それならちゃんと言いなさいよ。別にあの馬鹿共に付き合わなくったっていいんだから」

 私を心配するりんさん。

 ああ、私はだめだ。またこんな顔をさせてしまっている。

 昨日も、一昨日も心配ばかりかけている。

 もっとしっかりしなきゃ。

「だ、大丈夫です。ちょっと立ちくらみがしただけですから。」

 赤くなってしまった顔を隠しながら、彼女の腕の中から出た私は二度ほど深呼吸をして心を落ち着かせる。

「ほんとに大丈夫なの?」

 不安そうな顔で聞いてくるりんさんに、私は笑顔で「はい、大丈夫です。」と答え「それより、せっかく学校に来たんですし中に入りましょう」と言って、彼女の手を引いて勝手口をくぐる。

 りんさんがどこか不服そうな――呆れたような、それでいて仕方なさ気で嬉しそうな声でなにかぼやいていたけど、上手く聴き取れなかった。

 正直、この人の心配そうな顔はダメだ。

 もちろん、目の前にいるだけでもドキドキするし、嬉しそうな笑顔を見るだけでもいろいろ思いを募らせてしまうけど、それ以上にその顔は私の心を揺さぶる。

 心配してくれていることを喜ぶなんて趣味が悪い。

 そう思い、私は自分のそういう部分を恥じ、その部分をりんさんから隠すように彼女の手を引いてどんどん歩いていく。

 先生達が入っていった職員棟の前を通り過ぎ、校庭の見える中庭を通り抜け、教室棟の下駄箱に辿り着く。

 そこで靴を脱ぎ、そのまま校舎に上がり込む。

 本当は来客用のスリッパを借りた方がいいかもしれないけど、非常に残念なことに教室棟には来客用のスリッパは置かれてはいない。

 私はそのまま階段を上がり、教室へと向かう。

 りんさんは私の後ろをついて歩きながら、懐かしいものを見つける度に思い出に浸っていた。

「これ覚えてる?あんたが授業中にいなくなった時に隠れてたロッカー」

「あ、懐かしいなぁこの図書だより。あんたが図書委員だった時はいつも読んでたのよ?それでオススメの本もいくつかは読んでた。まあ、秘密にしてたから知らないだろうけど」

「あ、ここのウォーターサーバー新しくしたんだぁ。体育とか部活のあとに使ってたけど、たまに水が出なかったり、変なとこから水が噴き出したりで大変だったのよね」

 懐かしそうなりんさんの笑顔はとても眩しかった。

 だけど、私にそれはなかった。

 私にとっては、まだここに入学してしばらく――そう。通い始めて二月くらいが過ぎた気分で、授業中にいなくなった記憶もなければ、図書委員になったこともない。そして、体育は正直あまり好きじゃないため、ほとんど見学でウォーターサーバーのお世話になんかなったこともなくて。

 私は思い出に浸るりんさんに気付かれないよう、曖昧な笑顔を浮かべることしか出来なかった。

 そして、教室に辿り着いてドアを開ける。

 私の居場所。

 授業中、机でノートを取りながらこっそりと文庫本を読み耽ったり。

 テストの時間に @X♯ζ の背中を見ながら、解けない問題を放置で余白に落書きをしたり。

 休み時間に @X♯ζ とお喋りをして笑って。給食の時間に @X♯ζ と好きなおかずを交換して。帰りの会が終われば二人でここを出ていく。

 でもそこには、なんの思い出もなかった。

 私が座るべき席の場所には私の知らない傷が入った机があって、 @X♯ζ が座っていた席には見知らぬ手さげ袋が置き忘れられていた。黒板の日直欄には知らない名前が書かれていて、後ろの連絡板の上に並べて貼られている習字の和紙の中には私の名前など存在すらしていない。

 ああ、ここに私の居場所はないんだ。

 背中から誰かが――ううん。りんさんが抱きしめてくれる。

 りんさんはずるい。

 私のことをなんでも知っている。

 きっと私が隠したことも、私が嘘をついたことも全部気付いている。

 今だって、私の気持ちを知っているから、こうしてくれている。

 歪む世界。頬を伝う熱。喉の奥から溢れる声。

 私の世界――居場所の一つは、私を真っ向から否定した。

「大丈夫。あんたは一人じゃないし、あんたの傍には私がいる。ずっとずっと傍にいる。あんたのこと絶対ひとりぼっちなんかにしないから。泣かないでよ。ひー。」

 約束の言葉――

 ああ。やっぱり、夢に出てくるあの子はりんさんなんだ。

 その事実が、哀しみにくれる私の心を慰めてくれた。




 しばらく泣いて、泣き疲れて。

 それからりんさんに「ありがとう」とお礼を言った。

 掠れた声は落ち着くまで戻りそうにないし、たぶん目も真っ赤になってしまっている。

「ひどい顔」

 そう言って笑うりんさんはどこか意地悪で、だけど優しくて。

 この人にいつまでも甘えていたい。

 そんな誘惑に駆られそうになった私は慌てて首を振り「そろそろみんなのところに行きましょう。きっと心配してます。」と言って彼女の腕の中から逃げ出す。

 彼女はクスリと笑い「それもそうね。」と私の提案に賛同してくれた。

 教室をあとにした私たちは来た道を戻り、教員棟へと入る。

 来客用のスリッパを履き、事務室の前を通り過ぎて購買横の階段を上り図書室の前に辿り着く。

 私は図書室の扉に手をかけ――


 ぐにゃりと世界が歪がった。


「ひーちゃん!」

 後ろから声が聞こえて振り返るとそこには、セーラー服姿のかすさんが立っていた。

 私の口はひとりでに動き出し「かすちゃん、どうしたの?」と彼女に要件を聞く。

 暫し、彼女は目を伏せて思い悩みながらも、意を決してこちらを見据え「あ、あたしじゃダメ?」と口にした。

 私はその意味が理解できたのか、ゆっくりと首を横に振った。

 だけど彼女は諦めることなく口を開く。

「あたしならひーちゃんのことをどんなことからだって守ってあげられる!あたしならひーちゃんを絶対にひとりにしない!そんな寂しそうな顔なんてさせない!」

 私はもう一度ゆっくりと首を横に振る。

 そして「ありがとう」と言って「でも、ダメ。」と答える。

「なんで?なんでだよ?だってあいつは――」

 私は悔しそうに言葉を紡ぐかすさんの口に人差し指を当てて、続く言葉を止める。

「ひーは @X♯ζ が好きなの。ほかの誰でもない @X♯ζ が好きなの。ひーの傍にいてくれて、ひーのこと守ってくれて。ひーのことを誰より大切にしてくれる @X♯ζ が好きなの。」

 私はそうかすさんに伝える。

 だけどやっぱり納得がいかないのか、彼女は「だけどあいつは」と口にする。

 でも「ありがとう」と私がもう一度言うと彼女は私に背を向けて「あたし。諦めないから。あと、ひーちゃんにそんな顔させたあいつのこと、絶対許せない。」と言葉を残して、私の前から去ってしまう。

 私はそんな彼女の背を見送り、図書室へと入る。

 周囲を見回すと、図書室を利用している人どころか貸出コーナーには翡翠先生の姿すら見当たらない。

 私は溜息を一つ吐き、貸出コーナーの椅子に腰かけて鞄から読みかけの文庫本を取り出して開く。

 紡がれる言葉に目を走らせる。

 だけど、内容はちっとも頭に入ってこない。

 理由はわかっている。

 きっと、今日も @X♯ζ が迎えに来ないからだ。

 その理由は至極単純だ。

  @X♯ζ に彼氏ができたからだ。

 今 @X♯ζ はお話の中の主人公で、素敵な恋の真っ最中。

 私なんかに構っていられるわけがない。

 ううん。そもそも、今までがおかしかったんだ。

  @X♯ζ はクラスの人気者で、男女問わずラブレターだってもらってた。

 キラキラしてて、かっこよくて。

 たまに厳しいけど、いつも優しくて面倒見もよくて。

 今の今まで彼氏がいなかったことのほうがおかしい。

 だから、今の状況になる覚悟はしてた。

 してたはずだった。

 ぽとりと文庫のページを雨粒が濡らす。

 ひとつ、ふたつとそれはどんどん増えていく。  

「ガラリ」

 不意に図書室のドアが開く音がして、私は慌てて涙を拭い、何事もなかったかのように文庫を読むふりをする。

 入ってきた人はつかつかと歩いてきて、私の前で立ち止まった。

 きっと本の返却に来たのだろう。

 そう思い顔を上げると、そこには居るはずのない人がいた。

「え。なんで?」

 間抜けな声がこぼれる。

 @X♯ζ は不機嫌そうな顔で口を開き「別れてきた」と思いがけない言葉を発した。

 驚いた私は「え?どうして?」と理由を聞く。

「あんたにそんな顔させたくないからに決まってんでしょ」

 @X♯ζ はそう答えてすぐに悪戯っぽい顔をして「なーんてね。嘘に決まってんでしょ」と笑い「振られたの。」と口にした。

 しかし、私はそっちの方が理解出来ず「どうして?なんで @X♯ζ が振られるの?」と聞く。

 理解できない理由は、彼氏の男の子から告白して付き合っているからだ。

 そもそも付き合い始めてまだ一週間も経っていない。

 むしろ、私が心配で別れたと言われた方がまだ納得がいく。

「私、彼の名前何度も間違えちゃってさ。いい加減に愛想尽かされちゃった。」

 そう @X♯ζ は答えた。

 確かに @X♯ζ は昔から人の名前を覚えることが苦手だった。

 だけど、それにしてもおかしい。

  @X♯ζ のそういうところは割と有名で、名前を覚えてもらうことが親密度の指針とされているくらいだ。

 私が訝しんでいると、@X♯ζ は「なに?私のことが信じられないわけ?幼馴染なのにさ」とずるい言い方をしてくる。

 流石にそう言われてしまっては、私も疑うことが出来ず「もう。そういう言い方ずるい」とため息混じりにそう言って諦めるしかなかった。

 そんな私に @X♯ζ は「帰ろっか。きっと待ってるから。」と言って私の手を引く。




「―――――っと。ひーってば。」

 遠くから近寄ってくる救急車のようなドップラー効果で聞こえる声。

 肩が揺さぶられ、振り返るとよく見知った人の顔があった。

 私はこの人を知っている。

 知っているはずだ。

 だって、ほんの今までお喋りをしていて、名前だって呼んでて。

 でも、思い出せない。

 ううん、違う。この人はりんさんで、私の幼馴染だ。――と思う。

 いけない。頭が回らない。

「大丈夫?やっぱり無理してたんじゃ」

 心配そうなりんさんの顔。

 私を――桜坂 姫のことをなによりも大事に想ってくれている人。

 そんな彼女につい嬉しくなりそうになって、私は慌てて取り繕ったような笑顔で「だ、大丈夫です!ちょっと立ちくらみがしただけですから」と口にする。

 それでも心配そうなりんさんの顔を眺めていると、結局嬉しさで頬が緩んでしまう。

 ああ、また思い出していたんだ。

 桜坂 姫の大切な思い出を――。

 今回は何時間も気を失ったりしなかったけど、それでも数秒くらい意識が飛んでしまっていた。

 話していたあの女の子はきっとりんさんなんだろう。

 だけどりんさんの別れ話だったというのに、私は嬉しくなさそうだった。

 普通、大好きな人がフリーになったとなれば誰でも嬉しいはずだ。

 きっとその理由は私がりんさんの振られた理由に納得がいかなかったからだと思うけど、なんだかもやもやする。

「なに百面相してんの?」

 りんさんにそう言われて、私は今の今まで表情をころころと変えていたことに気付き、それらを見られてしまったことの気恥ずかしさで顔が熱くなってしまう。

「顔赤くない?やっぱり熱でもあるんじゃ――」

 そんな私の変化に気が付いたりんさんはそう言いながら手を伸ばしてくる。

 私は慌てて後ろを向き「と、とりあえず、図書室入ろう?」と言って逃げるように図書室の扉を開いた。

 広がった世界は夢――記憶で何度も見た通りだった。

 いつも私が座っていた貸出カウンター。

 古びた書棚の森に読書スペースの机と椅子。

 ただ違うのは、本の匂いに混ざる石油ストーブの匂い。

 ああ、そうだ。

 私は図書委員になったんだ。

 二学期入った時、夢の中の誰か――多分りんさんを待つ為に私は初めて自分から立候補して、図書委員になったんだ。

「あ、ひーちゃん!」

 入ってきた私達にいち早く気が付いたかすさんが声をかけてくる。

 だけど私はそんなかすさんに違和感を覚えた。

 目の前にいるかすさんは、曖昧に取り戻した記憶の中でのかすさんや日記のかすさんとは反応の仕方に大きな違いがあったからだ。

 記憶の中のかすさんは控えめに言っても私にべったりだった。

 私を見かければ、その場でハグしてくるくらいにはべったりだった。

 それなのに、私を見ても椅子から立ち上がりもしない。

 いや、今の反応は友達としては普通な反応でそれが嫌だとか気に入らないだとかそういうことじゃない。

 ただ、私の知らない友人の一面に困惑していて、それと同時にそんな一面に寂しさを覚えただけ。

 そんな私に気が付いたのか、かすさんは「ひーちゃん、どうかしたの?なんかあった?」と心配そうな顔で訪ねてくる。

 私は慌てて笑顔を作って「い、いえ。なにも。」と誤魔化し、無理矢理な逃げ方をした所為で背中に痛いほど向けられている不満気な視線から逃げるべく、みんなが囲っているテーブルの一席に腰かける。

「桜坂さんはココアだったよね?」

 翡翠先生からそう聞かれて、私が「はい」と短く応えると今度はりんさんに「黒咲さんは紅茶で大丈夫?」と尋ねる。

「あ、はい。紅茶で大丈夫です。」

 まるで何事もなかったかのような声。

 もしかしたら、あんまり気にしていないのかもしれない。

 先生が席を立ち司書室の方に入っていこうとすると、りんさんは「私も手伝います。」と言って先生の後ろについて司書室へと消えた。

 司書室から二人の楽し気な声が微かに聞こえてくる。

 どんな話しているんだろうか?

 そう思い耳を澄ませるも、内容は上手く聴き取れそうにない。

「そういえば中一の頃はひーちゃんよりりんちゃんの方が人気だったよなぁ。男女問わずさ。ひーちゃんがすっごい人気になったのっていつからだったっけ?」

 その代わりに耳に入ってきた話題は私に関することだった。

「いや、ひーちゃんは最初から人気だったっての!みんなが気が付かなかっただけで!」

 かすさんは坂本君の言葉に一生懸命に反論するけど、さくさんから「ひーさんが人気になったのは中一の終わり頃ですよ。かす姉」と言われ、口を尖らせて「でも、ひーちゃんが魅力的だったのははじめからだろー」とぼやく。

 そんな彼女の可愛らしい仕草につい笑いを溢してしまう。

 すると三人も楽し気な笑いを溢した。

 私――桜坂 姫はこんなに素敵な友人に恵まれている。

 ううん、友人だけじゃない。

 仕事が忙しくも、私を思ってくれる両親にも。

 そしてなにより、大切な幼馴染にも。

 控えめに言っても、私――桜坂 姫は幸せだ。

 そう思っていると、不意に目の前に一つのマグカップが置かれる。

「ありがとうございます」

 そう言ってマグカップを置いてくれた翡翠先生の手の先を見上げて――固まった。

 いや、正確には翡翠先生の手だと思って、見上げた先にあったりんさんのすごく、すごぉく不機嫌な笑顔を見て固まった。

 やっぱり、さっきの逃げ方はまずかった。

 いくら恥ずかしかったとはいえ、ここまでの顔をさせてしまっているのだ。今からでも謝るべき。

 そう思うものの、今の私は猫に睨まれた鼠。――ネズミ?いや、私は全然ネズミっぽくない。いやそうじゃなくて。

 なんとかしなきゃいけないのに、彼女の無言とその不機嫌な笑顔に太刀打ちするための武器も勇気もレベルも足りていなかった。

 しばしの間が流れて「どういたしまして」とりんさんは言って、私の向いの席に腰かける。

 私は『やっと一息つける。』などと甘い考えで胸をなでおろす。

 けれどもちろん、その視線が途切れることなどありはしなかった。

 向けられ続ける視線に耐え切れなくなった私は、逃げるように手元のマグカップを仰ぐ。

 本来であれば、きっと味なんて感じられなかったと思う。

 だけど「あれ?」とマグカップを置いてすぐ、疑問の声が零れた。

 理由は、ココアからほど遠いそのしっとりとした味わいと舌に絡むような甘さ。ちょっとしつこいと感じる人も多いかもしれないけれど、私が大好きな味だった。

「どうかした?」

 どこか嬉しそうなりんさんの顔。

 ああ、この人は全然怒っていなかったんだ。

 私の慌てる顔を見て、心の中で楽しんでいただけ。」

 その事実が私の不安を一蹴してくれる。

 けれどなんだか「いじわるです」

「なに二人だけの世界作ってるんですか?」

 不意にさくさんが悪戯な声でそう言いながら、りんさんの左肩にしな垂れかかる。

 りんさんは心底迷惑そうな顔で「暑苦しいから離れて。」と言ってから「あとそんなんじゃないし。」とぼそりと口にする。

「ひどーい。りんさんと私の仲じゃないですか」

 さくさんはわざとらしい口調でそう言いながらりんさんの右肩に手をまわして指を這わせる。

 ああ、なんだろう。すごく面白くない。

 ひーのなのに。ひーだけのりんなのに。

「一体どんな仲よ!?ただの友達でしょ!いい加減にしないと怒るよ?」

 友達であることすら許容したくない。

 不意にさくさんの瞳がこちらを見据え――数瞬してさくさんはニコリと笑い「こわーい」と言って離れていく。

「まったく。」

 りんさんは溜息交じりにそう口にしてこちらに視線を戻す。するとすぐにジト目になって「で。あんたはなんて顔してんの?」と呆れたように言って、徐に私の頬を両手で包むと――ぐいっと引っ張った。

「いひゃっ!いひゃいです!りんひゃん!」

 突然の痛みにそう声を上げる私に「なに不機嫌そうな顔してんの?私がホットショコラ入れてあげたんだから、嬉しそうな顔してなさいよ」と言いながら私の頬を右に左に上下にとやりたい放題するりんさん。

 私が一体何をしたというのだろうか?

 不機嫌な顔なんかした覚えもない。というか、ただぼーっとりんさんとさくさんがじゃれているのを見ていただけだ。

「わひゃひ、ふひへんなひゃおひゃんへ」

 どうにかそれを伝えようとするけど「何言ってるかわかんない。ちゃんと日本語で話しなさい。」と更なる理不尽を叩きつけられた。

「うぅ。ひんひゃんのいひわるー!」

 私がそう悲痛の叫びを上げると、周囲からは温かな笑いが溢され「ふふ、貴女達は本当に仲良しね。」と翡翠先生からは羨ましそうに言われた。

 りんさんは目を細め「幼馴染ですから」と答えて、やっと私の頬を掴んでいる手を離す。

 私はすぐにじんじんと痛む頬を押さえてりんさんを恨めし気に睨みつけるが、彼女はそんな私の抗議を笑顔で受け止める。

 ああ、なんてずるい人なんだろう。

 そんな優しい顔をされたら、怒る気なんかすぐになくなってしまう。

 気が付いた時には、私の頬は緩んでしまっていた。

 記憶をなくした所為で、わからなくなってしまった居場所。

 だけどこの人の傍には、ちゃんと私だけの居場所がある。

 それが本当に嬉しかった。




 薄暗い冬の夕暮れ。

 冷たい風に吹かれて、先ほどまでいた図書室の温もり――石油ストーブが恋しくなる。

「暗いから、気をつけて帰ってね」

 そう翡翠先生に言われて、それぞれに言葉を返す。

「また来ますね。」と「先生元気しててよ!」と――そして「ああ、翡翠先生。貴女のことをまた毎夜想いだだだだだ!」と言って坂本君がお仕置きをくらう。

 知っている。この光景を私は知っている。

 中学生になった私が何度も繰り返した日常。

「先生、今日はありがとうございました。」

 りんさんがそう口にすると、先生はなにかを思い出したような顔で言葉を返す。

「色々大変だろうけど、頑張ってね」

 その言葉は、単に学業や私生活についてのことのようには聞こえなかった。

 その言葉の意味するところが気になりはしたけど、今の私に聞く資格などない。

 私は先生に別れの言葉を告げ、私の通う学校――いや、通っていた学校を背にして、みんなと一緒に家路につく。

 あれはもう通り過ぎた場所なんだ。

 教室には私の席は用意されていないし、図書室のあの席にもきっと他の子が座っているんだろう。

 だけど、未だにその実感はない。

 明日になればまたここに来ているような気すらする。

「どうだった?」

 不意に隣を歩くりんさんからそう聞かれた。だけど私は彼女の問いの意味を理解できず「どうって?」と聞き返す。

 するとりんさんは呆れたような顔で「だから、なにか思い出せた?」と聞いてくる。

「はい。いろいろ思い出しました。」

 私が笑顔でそう口にすると、りんさんはほんの少しだけ寂しそうな微笑みを浮かべ「そっか。よかった。」と言った。

 ああ、今のたった一言で見透かされてしまうんだ。未だにりんさんのことをちゃんと思い出せていないことを――

 りんさんの事を今すぐ全部思い出したい。

 ううん、少しだけでもいい。

 そうすれば、りんさんに悲しい顔をさせなくていいのに。

 いや、私のそんな思いはりんさんに必要ない。だってりんさんは強い人だから。私が心配する必要なんてない。

「あー。それにしてもお腹空いたね。」

 その証拠に、そう口にする彼女の顔には、もう既に寂しさなどない。

 違う。きっと最初からなかった。

 そう見えたのは、私がそうあって欲しいと思っているからだ。

 なんて浅ましいんだろう。自分の醜悪さに吐き気すら覚える。

 だけどそれを悟られぬよう「そうですね。私もお腹ぺこぺこです。」と貼り付けた笑顔で答える。

「あたしも腹減ったー。」

 そうかすさんが私達の会話に混ざってくると「かす姉、帰ったらご飯の前に稽古ですよ?」とさくさんが呆れたように口にする。

 その言葉でうんざり顔になったかすさんは「稽古稽古稽古!さく。お前はそんなにあたしに稽古させたいのか!?」と言い返す。

 だけど「かす姉はいずれ道場継ぐんですから。泣き言を言わないで下さい」とたしなめられ、私に抱きついて来るや否や「ひーちゃん聞いてよ!さくがあたしをイジメるんだ!」と嘆くかすさん。

 そんな彼女に言葉を返すよりも先に、りんさんが「なにひーに抱きついてんの?」と私からかすさんを引っ剥がす。

 みんなが楽し気な笑みに包まれている世界。

 とても温かで優しい世界。

 そんな世界で私は自分を恥じた。

 りんさんの重荷になりたくないと、りんさんの望む幼馴染でありたいと思っておきながら、結局記憶のある私と大差ないどうしようもない私。

 みんなの笑い声の中「どうしたの?」と心配してくれる声がした。

 視線を向ければ、愛しい人の心配気な顔がそこにはあった。

 私はそんな貴女に――

「いいえ。なんでもないです」

 そう、嘘を吐いた。


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