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幼馴染に捧ぐホットショコラ  作者: 飲み物ココア
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作り方①板チョコを刻んでボールの中に入れる。

※このお話は、幼馴染に捧ぐレモネードの続編になります。そちらを先にご拝読お願いします。

 その日も、ひーは男の子達にいじめられてた。

「やーいチチデカ女ー!」

「俺の母ちゃんよりでけえぜー!」

「お前の母ちゃんがないだけだろ」

 ひーを取り囲んでいる三人組の男の子達は、そんな事を言って笑っていた。

 ひーはこの三人のことが嫌いだった。

 小太りの岡田くん。よく鼻水を垂らしている金子くん。そしてへらへら笑ってばかりいる小川くん。

「ちがうもん。ひーはひーだもん。チチデカ女じゃないもん。」

 そうひーが泣きそうになりながら言い返すと、岡田君は「だったらそのでかい塊はなんなんだよ?」と聞いてきて、それに合わせるように金子くんが「そうだよ。だったらそれなんだよ?」と言ってくる。

「こ、これは。」

 ひーはその言葉になにも言い返せなくて、目を伏せてしまう。

 だって、恥ずかしくて言えるわけない。大体、ひーは別に好きで大きくなったわけじゃないのに、なんでこんな風にいじめられないといけないの?

「なんだよ。言えないのかよ?だったら教えてやるよ」

 ひーが黙っていると、小川くんがそう言ってひーの胸に手を伸ばしてきた。

 ひーは恐くて、声より先に涙が溢れた。

「ちょっと!私のひーになにやってんのよ!?」

 廊下に聞きなれた女の子の怒声が響いた。

 ひーを取り囲んでいた三人は焦った顔をして「やべっ」と声を漏らし、我先にと逃げ出す。

 だけど、その怒りの声を上げた女の子は「待ちなさい!」と口にするが早いかすぐさま追いかけて、一番足の遅い岡田くんの服を引っ張ってその場に転ばせる。

 そして逃げる残りの二人を追いかけるのを止めて、上靴を脱いで大きく振りかぶり、それを投げた。

 すごい勢いで飛んでいった上靴は、金子くんの頭に命中。

 金子くんは頭を押さえながらよろけて、その後ろから来ていた小川くんとぶつかり、そのまま二人は尻餅をついた。

 見事、三人を捕まえた女の子は、彼らを無理矢理一箇所に集めてその場に正座をさせると、目を吊り上げて「あんた達。この前もひーにちょっかい出すなって言わなかったっけ?」とさらに怒り始めた。

 三人は半泣きになりながら、しばらく女の子に怒鳴りつけられて、最後にはひーに「わるかった。」とか「もうしません。」とかそんな謝罪の言葉を漏らす。

 だけど、明日になればまたいじめられるんだろうな。

 そんな事を思いながらも「うん、いいよ。」とひーは彼らを許す。

 だって、そうしないと。

 この夢は終わらないから―――




 寒い。

 目が覚めて最初に感じたことは、まだ寝ぼけている私を襲う容赦ない冬の朝特有の寒さだった。

 私は毛布に包まったまま重い身体を起こし、時計に目を向ける。

 時計の秒針がちょうど十二を指して、時刻が五時半になったところ。

 今日はどんな風にりんを起こそうかなぁ?

 やっぱり、いつも通り目覚ましを止めて、ぎりぎりの時間に優しく起こそうかな?でもでも、布団に潜り込んでそのままお昼くらいまでゆっくりするのもありだなぁ。

 あ、でもりん怒るしなぁ。怒ったりんも嫌いじゃないけど、やっぱり笑ってるりんが好きだし。

 そんなことを考えながら毛布から出て、クシで髪を梳いて寝癖を直していく。

 りんのことを想いながら髪を梳くのは私の日課だ。

 まだ物心ついて間もない頃に、りんが最初に褒めてくれた髪。

 私の最初の宝物。

 綺麗に梳き終えた私は部屋を出て洗面所で顔を洗う。

 鏡に映るのは、元気一杯のひーちゃんスマイルで今すぐりんに逢いたくてうずうずしている私。

 それを確認した私は洗面所を後にして、玄関から靴を取って急いで部屋へと戻る。

 机の上にいらない紙をおいて、その上にとってきた靴を置くと、出しっぱなしになっている日記帳が目に入った。

 いつもなら、書いた後はきちんと片付けてるのに珍しく忘れていたみたいだ。

 私は日記帳を引き出しに片付けて、テキパキとパジャマから制服へと着替えていく。

 最後に姿見鏡でリボンの位置を調整して「よし!」と声を上げ、鞄と靴を手に取ってベランダのカーテンを開けた。

「わー!」

 私は目の前に広がった世界に思わず声をあげた。

 朝から寒いとは思っていたけど、まさか雪が積もっているとは夢にも思わなかった。

 私はベランダの窓を開けて外に飛び出――そうとして、慌てて窓を閉めた。

「いくらなんでも寒過ぎだよ!?」

 思わずそう叫び、かけてあるマフラーを取って首に巻き、再び窓を開ける。

 やっぱり寒いよぉ。冬なんてなかったらいいのになぁ。

 そう思いながらも、私は靴を履いて窓を閉めると、迷うことなく柵を乗り越えて屋根伝いにりんの部屋のベランダへと向かう。

 でもいつもと違って、積もった雪が私を屋根からずるずると引き摺り降ろそうとしてくる。だけど、私は気にせず一歩一歩りんの部屋へと足を進めて行く。

 しかし、雪でズルリと足を滑らせてバランスを崩してしまい、右足が宙へと浮き、そのまますっ転んでしまいそうになる。

 きっと今日の夕刊か明日の朝刊の端に『女子高生、屋根の雪で足を滑らせ転落死!』などという記事が載ることだろう。

 ご近所や学校では一躍時の人だ。

 だけどそうなった場合、私はもうりんの笑顔を見ることは出来ないだろう。りんの傍に居られないのなら、そんな脚光はいらない。もちろん、りんの傍に居る為にここで屋根から滑り落ちて頭を打ち、三途の川を渡らなければならないのなら、私は喜んで滑り落ちるだろう。

 でも、そうじゃない。もしここで滑り落ちたら、私のりんへの思いは終わりなのだ。

 だから私は「ゆ、雪くらいで。ひーのりんへの愛は止められないー!」と叫び、身体をねじって無理矢理屋根にしがみ付く。

 きっと、りんの部屋に着く頃には制服はびしょ濡れになっているだろうが私は気にしない。

 これは愛。そう愛故なのだ!

 私がりんを愛して止まないからこそなのだ!

 芋虫の様に這って屋根を伝って行き、どうにかりんの部屋のベランダへと辿り着いた。

 もちろん、制服は予想通りびしょ濡れ。歯はガチガチなってるし、身体も震えている。このままだと間違いなく風邪を引いてしまうだろう。

 私は靴を脱いでこっそりと部屋の中へと入り、ヒーターの電源を入れて濡れた制服とマフラーを脱いでハンガーに干す。

 ベットへと歩み寄ると、そこに眠る私の天使――黒咲 凛が目に入る。

 赤毛交じりの短めな髪。

 綺麗な鼻に可愛い耳。

 そして淡い唇とそこから漏れるしっとりとした寝息。

 正直に言えば、今すぐにその無防備な唇を奪って、彼女の甘い露を啜りたい。

 綺麗な鎖骨を指で撫ぜ、そのまま小振りな果実へと手を滑らせて優しく転がしたい。

 彼女の花びらを愛でて、彼女の甘い声を味わいたい。

 だけど、これはりんにしたいことの内のほんの僅か。本当は両手の指の数じゃ全然足りないくらいしたいことがある。

 でも、もしそんなことをしたら、今の関係はきっと崩れてしまう。

 だから、私は沸きあがる劣情を堪えてベットに潜り込み「りん、だーいすき。」と口にしながらりんを抱きしめる。

 とっても柔らかで、温かい。

 久しぶりにあの夢を見た所為だろうか?こうしていると、とても落ち着く。

 気がつけば傍に居た女の子は、私の王子様だった。

 保育園の時に一生を共にする事を誓ってくれて、小学校の頃にはいじめっ子から守ってくれた幼馴染。

 もちろん、りんはそのことをとっくの昔に忘れてしまっている。

 だけど、私は忘れない。

 中学生の時もずっと傍に居てくれた。

 そして、そんなりんのことが好きだと気がついたのは、中学一年の秋だった。

 なんとこの可愛らしい王子様に彼氏が出来たのだ。

 だけど、それを知った私が泣いて。

 りんはその彼氏と別れた。

 本人曰く「名前を間違えすぎて愛想を尽かされちゃった」って言ってた。だけどそれは嘘。

 だってその彼氏は卒業式の日にもう一度りんに告白をしていたから。

 彼には悪い事をしたかもしれないけど、私はあの時に初めて自分の気持ちに気付けた。

 りんが好き。誰にも取られたくないって。

 だからそれ以来、私はりんに猛アピールするようになった。

 みんなに、りんは私のものだ!と分かるように色々頑張った。

 みんなの目がりんに行かないようにする為に、私は明るくなった。

 自分で言うのもなんだけど、もともと容姿は人一倍恵まれていた。

 だから、私がみんなの人気者になるのにそう時間はかからなかった。

 りんの友人達とも仲良くなって、二年生の終わりには修学旅行で京都に行った。

 正直、私はりんと二人きりがよかったけど、残念ながら班行動。

 三年生には受験勉強。私は勉強が嫌いだった。

 だって、りんの傍に居るのに必要なかったから。

 だけどりんの行く学校の合格点には私の成績は指先すら届いておらず、先生は『無理だからお前はこっちを受けろ。』と当時の私が楽々で入学できる学校のパンフレットを渡してきた。

 もちろん、迷わず破り捨てた。だって、りんの居ない学校に行く意味なんてないから。

 それから私はりんに勉強を毎日教えてもらった。

 時々私が泣き言を言うと、りんは『しょうがないなぁ。』と呆れて笑っていたけど、とっても嬉しそうな顔だった。

 夏休みもほとんど勉強漬けだった。

 でもそのお陰か二学期の中間テストの結果では、学年で上から50番以内に入っていた。

 りんが受ける学校の最低ラインの学力を軽く通り過ぎていた。

 そのあとも私はサボることなく勉強を続け、無事にりんと同じ高校へ進学できた。

 そして、高校生になって最初のゴールデンウィーク――あの悲痛な日々を過ごした。

 今でも夢か何かだとしか思えない。

 本当にあった事だなんて信じられない。

 だけど、本当にあった事なのだと、この家の寂しさが告げていた。

 あの日から、りんは私の王子様からお姫様になった。

 私が守らなくちゃいけない。

 私がりんを守らなくちゃいけない。

 ずっと、傍に居て。守っていく。そう、誓ったのだ。昔、りんが私に誓ってくれたように。

 それからは色々と大忙しだった。

 彩お姉ちゃんがこっちで暮らす為の準備だとか。それまでの間のりんの生活の事とか。そして何より、学校生活での事。

 一時期は、フラッシュバックによるパニック障害を避ける為に、通学路を変更したりもしていた。

 そして色んな事が落ち着いた頃、みんなで思い出の遊園地に行った。

 そこで、りんは私のことを「愛してる」と言ってくれた。

 多分それは恋人としてじゃない。だって、りんがそういう言葉を恥ずかしがらずに言えるわけないもん。

 でも、それがわかっていても、私は嬉しかった。

 そして夏休みに入って、私は久しぶりに頭を抱えた。

 理由は簡単。大量の宿題だ。

 なんとか赤点は免れて楽しい夏休みのはずだったのに、休みの前に出された宿題の山で台無しだ。

 二人で宿題ばかりやる日々。

 だけど去年の事を思い出したりして、なんだか割と楽しかった。

 そして宿題が片付いて数日、ぼんやり二人で過ごす日々。

 そんな折に、友人達が遊びに来て、毎年神社で催されている夏祭りに誘ってくれたのだ。

 でも、りんは喪中だから夏祭りには行かない筈だった。だけど彩お姉ちゃんがりんの背中を押してくれて、例年通り二人で楽しめた。

 夏休みが終わって二学期。

 体育祭ではりんと二人で二人三脚に出た。

 もちろん結果はりんと私のラブラブパワーで大勝

利!と言いたいところだけど、現実は最下位。

 りんは球技は得意だけど、他は昔からてんでダメなのである。

 だけど私は二人でゴールできた時、とても嬉しかった。

 それから、秋の文化祭ではお化け屋敷をやった。

 もちろんクラスで一番嫌がっていたのはりんだったけど、幽霊姿のりんはすごく可愛かった。それに脅かす側なのに驚いてしまって泣きじゃくった姿は本当に可愛くて、ついその場で抱きしめてしまった。

 しかし、その姿を他の人に見られてしまったのは計算外だった。

 りんの魅力にみんなが気付いてしまったら大変だ。

 でも、色々あった今年ももう終わろうとしている。

 終業式が終わればすぐにクリスマスでお正月。

『RIRIRIRIRIRIRIRIRIN!』

 突然けたたましい音が鳴り響いて、私はビクリッとする。

 そしてりんの瞼はゆっくりと開き、私と目が合う。

「ひー。なにやってんの?」

 そう聞かれた私は「え、えっと。」と言い淀みながらも「ひ、ひーちゃんの目覚ましターイム!」と笑顔で答える。

「そういうことじゃなくてさ。なんで私はあんたに抱きしめられてんのよ?」

 だけどりんは私の朝のお約束をガン無視して、もう一度聞いてくる。

「なんでって。りんあったかいしー。」

 私はそう答えて、こっそり私の腕から抜け出そうとするりんをさらに強く抱きしめる。

 するとりんはむすっとした顔をして「ひー、離してくれないと学校に遅刻するんだけど?」と私をたしなめる。

 でも私からすれば、この至福の時間を捨て去って学校に行くなんて考えられない。というか勿体ない。

 もっと二人だけの時間を味わっていたい。

 だから私は「えへへー」と笑いながらりんの話を無視する。

 りんは諦めたように「はぁ」と溜息を吐き「わかったから。せめてその五月蝿い目覚まし止めて。」と私の願いを聞き届けてくれる。

 私は心の中で『やったー!』と言いながら「うん!」と笑顔で答えて、布団から這い出て目覚ましのアラームを止める。

 そして布団に戻り、りんの柔肌を堪能しようとするが、そこは既にもぬけの殻だった。

「だ、騙されたー!?」

 私が涙目になりながらそう声を上げると、りんは「うっさい。ていうかなんであんた裸なの!?ちゃんと服着なさい!」と言って枕を投げつけてくる。

 私は「わ!?」と声を上げ、慌てて枕を避けて「うぅ。だってぇ。」とぼやきながら、先程ハンガーに掛けた制服を見遣る。

 りんは私の視線の先を辿って「なんでびしょ濡れなのよ?」と溜息混じりに聞く。

 それに私が「えっと、さっき屋根から転げ落ち――」とさっき起きた事を口にしようとすると、りんは勢いよく私の肩を掴み「どこも怪我してない!?」と聞きながら、私の身体のあちこちを確認する。

 そして確認を終えたりんは、私の頭を胸に抱き寄せて「もう、あんたは。心配かけないでよ。」と泣き声交じりに口にした。

 さっきまでの呆れから一転して弱々しいりん。

 私はなにも言い訳出来ずに「ごめんなさい」と素直に謝る。

 しばしの間、彼女はなにも言わずに私をただ抱きしめた。

 つよく、つよく、抱きしめた。

 もう二度と手放さないように、ただただ抱きしめた。

 そんな彼女に私はただ一言「どこにも行かないよ。」とだけ口にした。

 それに彼女は「うん。」とか細い声で頷いた。


 そのあと、私の制服は乾燥機にかけられる事となった。




 凍った風。

 宙を舞う花。

 白で埋もれた町並み。

 いつもと違う雰囲気の通学路を、いつものようにりんの腕に抱きついたまま歩く。

「もうちょっと離れなさいよ」

 りんは顔を真っ赤にしてそうぼやくけど、言葉とは裏腹に私に身体を寄せる。

 りんもきっと寒いのだろう。

 私も寒いのは苦手だけど『こういうことが毎日あるなら寒いのも悪くないなぁ。』と思ってしまう。

「えへへぇ」と笑いながら、私はりんの温もりを貪る。

 そんな私にりんは「もう。」と呆れた風に言うけど、その目はとても優しいもので。

 私はいつものように甘える。

 不意に「にゃーご」と声をかけられて足を止める。

 声の方に目を向ければ、塀の上にいつものように気だるげな猫さんが座り込んでいた。

 彼は昔から――私達が物心ついた頃からこの辺りに住んでいる老猫だ。

 よく見知った顔には必ずこうして声をかけてくれる。

 そういえば、なんて名前なんだろ?

 ふと疑問が浮かんだ。

 彼とは長い付き合いだが、彼の名前をこの町の人が呼ぶ姿を一度も見た事がない。

 私は昔から物覚えがよく、一度聞いたことは忘れない。

 だから私は彼の名前を聞いた事がないのは『彼に名前がないからだ。』と結論付けた。

「おはよー猫さん。今日は一段と寒いねぇ。」

 私がそう挨拶を返すと、猫さんは「うにゃぅ」と不機嫌そうな声で『寒くて仕方ない。』と答える。

「あはは。風邪には気を付けてね?それじゃあ、ひーはりんと学校に行って来ます!」

 寒そうな猫さんを心配しながらに別れを告げると、猫さんは「にゃう。」と嬉しそうに笑う。

 まるで『ありがとう。気を付けて行くんだぞ?』と言われた気がした。

 そして「終わった?」とりんに聞かれて、私は「うん!」と答えて、二人でまた歩き始める。

 小道を抜けて大通りに出れば、緑ヶ丘駅が目に入る。

 あの事故の傷痕は綺麗さっぱりなくなり、あの日の事が嘘であったかのように人々が忙しなく行きかう。

 今でこそりんも平気な顔をしているけど、最初の頃はフラッシュバックを起こしたりして大変だった。

 それが理由で一時期は、隣町にある名鳥駅を利用していた。

 信号が変わり、横断歩道を渡って駅へと入る。

 改札に定期券を通してすぐ目に入った電光掲示板には、1時間以上の遅れや一部路線の停止等が表示されていて「うわ。」とりんがあからさまに嫌そうな声を上げる。

 それに私が「見事に遅れてるねぇ」とりんの言いたそうな事を代わりに言うと「仕方ないし、なんか飲みながら待ってよっか」と諦めた風に返しながら、自販機の方を指差す。

「うん!ひー甘くて美味しいのがいいなぁ!」

 そう笑顔で答えると、りんは「わかったから、あんまりはしゃがないの。」と言って、私の頭を軽く小突く。

 だけど私は「はーい。」と答えながらも、悪びれもせずりんの腕に抱きついたまま笑う。

 りんは『しょうがないなぁ』という顔をしながらも、私を抱きつかせたまま、自販機へと足を進める。

 自販機の前で私達は足を止め、それぞれにお金を入れて思い思いの飲み物を買う。

 私はあまーいホットショコラ。

 りんは甘酸っぱいホットレモネード。

 二人でベンチに腰掛け、プルタブを開けて一口啜った。

 熱くてトロリとした濃厚なチョコレートの味わいが口いっぱいに広がり、つい吐息を零してしまう。

 そんな私を見て微笑むりん。

 私はりんにそっと寄り掛かり、未だ来ぬ電車を待った。




 結局、学校には四十分ほど遅刻した。

 私達は校門前で生活指導の先生に理由を話してから校門をくぐり、中庭を抜けて昇降口へと入る。

 私は一度りんの腕から離れて、自分の下駄箱から上靴を取ろうと手を伸ばす。

 だけどその手は、上靴へ届く前に止まってしまった。

 理由は一通の四角い封筒が入っていたからだ。

 私はりんに気づかれないように握りつぶし、それをポケットに入れて、上靴に履き替える。

 そして、りんの傍へと駆け寄り、その腕に抱きつく。

 一瞬、りんは不思議そうな顔をしたけど、私がいつも通りの笑顔をすると、呆れたように「もう。どうしたの?」と優しく微笑んだ。

 私が「ううん。なんでもなーい」とそれに答えると、りんは「変なひー。」と口にした。

 昇降口を後にする際に、握りつぶしたそれをこっそりゴミ箱に捨てる。

 書いてある内容は大体察しがつく。おそらくラブレターだろう。

 その手の手紙に対しての返答は決まっている。

 迷惑。お断り。そして邪魔。

 私は、りんとの時間を邪魔するものが嫌いだ。

 たとえそれが好意であっても、私にとってはノーセンキューで迷惑極まりない。まあ、りんにラブレターが来るよりは数倍マシだけど。

 教室の前について、私はいつものようにりんから離れる。

 正直、名残惜しい。

 別に、くっついていたって何も困ることないのに、なんで離れなくちゃいけないんだろ?

 そんな事を思っていると、不意に頭を撫でられる。

「そんな顔しないの。ほら、教室に入ろう?」

 そう言って微笑みかけるりん。

 私は本当に駄々っ子だ。

 私は本当に甘えん坊だ。

 ずっとりんの傍に居たい。ずっとりんに甘えていたい。ずっとずっと、私だけのりんでいて欲しい。

 私はその思いを伝えれぬまま「うん」と笑顔で答える。

 りんを困らせたくないから。

 教室に入って先生に理由を話すと、自分の席に座るように言われた。

 そんな私達に無駄にキリリとした顔でウィンクを飛ばしてくる男子生徒――まさひこ君が居たけど、私達はそれを無視して席に座る。

 教室内の生徒数は大体半分くらいだろうか?雪の所為で遅れているのは私達だけじゃないようだ。

 私は必要な教科書とノートを机の上に出して、授業を受ける――ことなく眠りにつく。

 どうせ退屈な授業だし。

 あとでりんに教えてもらった方が楽しいしわかりやすいもん。

 先生の声を遠くに聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちて行った。




 ゆさゆさと身体が揺さぶられているのを感じて、私は目を覚ました。

 のそりと上体を起こしながら眠気眼をこすり、欠伸を一つ。

「おはよう。もう昼休みよ?」

 呆れた声に目を向ければ、いつもの『しょうがないなぁ』と言いたそうな顔のりんがいる。

 私は「おはよぉ」と挨拶を返し「もうおなかぺこぺこだよぉ」と言いながらお弁当を取り出す。

「あんた寝てただけでしょ。」

 りんからそう言われた私は「えへへ。」と笑って誤魔化し「あれ?さくちゃんとかすちゃんは?」といつもなら既にいる筈の二人について聞く。

「まだ昼休みになったばっかりだし、もうちょっとしたら来るんじゃない?」

 それにりんはそう答えて、机をくっつけたりしてお昼ごはんの準備をする。

 そして一通りの準備が終わった私達は、あれこれと他愛無い話しをしながら二人が来るのを待つ。

 そんな中、りんが「ところでさ、今年のクリスマスどうする?」と聞いてきた。

 すぐに思い浮かんだのは、名鳥駅の近くにある大きな公園――噴水公園のイルミネーション。

 特定の時間になると、噴水がイルミネーションに合わさってとてもロマンチックで、昔からクリスマスのデートスポットとして有名だ。

 私はわざと少しだけ間をおいて上目遣いで「あ、あのね。ひーは二人でイルミネーション観に行きたいなぁ。」とぼそりと口にする。

 少し、顔が熱い。だけどそれは仕方ないこと。好きな人にイルミネーションを二人きりで観に行きたいと言うのは、いくら私でも少し恥ずかしい。

 私の言葉の意図を察したのか、りんは顔を赤らめて私と目を合わせずに「あー。どこのイルミネーション?」と場所を聞いてくる。

 それに「ほら、噴水公園のイルミネーション」と答えると、りんは気恥ずかしそうに頬を掻きながら「イブ?それとも当日?」と日取りを確認する。

 私が「もちろんイブ」と答えると、りんは「わかった。予定空けとく。」とだけ口にした。

 嬉しさの所為か、少し頭がボーっとする。

 りんは相変わらず恥ずかしそうにしていて、正直抱きしめたいくらいに可愛くて――

「あの、そろそろいいですか?」

 不意に声をかけられて振り返ると、にこやかに笑うさくちゃんとなんだか呆れ顔のかすちゃんが立っていた。

「ちょ!?いつから!?」

 慌てながら声を上げるりんに「クリスマスの予定を二人で相談してる辺りからですねぇ」とさくちゃんは楽しそうに返す。

 それを聞いたりんが何かを諦めたようにがっくりとうなだれ「泣きたい」とだけ口にして、私とさくちゃんはそれを見てクスクスと笑う。

 かすちゃんはそんな私達を横目に椅子に座り「あんまりふざけてると昼休みなくなっちまうぞ?」と溜息交じりに言う。

 それにさくちゃんは「それもそうですね」と返して、椅子に座ってお弁当を広げはじめる。

 こうして、やっといつものお昼休みが始まった。

 今日のお弁当は、彩お姉ちゃん特性の可愛いひよこ弁当だった。もちろん、味もとっても美味しくて、箸がついつい進んでしまう。

 そんな私とは対照的に、あまり箸が進んでないりん。

 りんのお弁当はかわいい猫さんの俵おむすび弁当で、これまたとっても美味しそう。

 りんは、私がじーっとりんのお弁当を見ている事に気がついたらしく「もう、しょうがないなぁ」と笑いながら箸で俵おむすびを一つ掴むと「はい」という言葉と共に私の口の前に持ってきてくれる。

 それに私は迷わずかぶりつき、口をもごもごさせる。

 想像通りの絶妙な塩加減と、美味しい白米と海苔の味。

 流石は彩お姉ちゃんである。

 そんな私を見て、りん達が笑う。

 いつも通りの楽しい昼食。

 だけどそれは、ガラッと乱暴な音をたてて開いたドアによって中断させられた。

 入ってきたのは一人の女子生徒。

 眼鏡とそばかすが印象的な人。

 確か、隣のクラスの人だったと思うけど、あまりに面識が薄過ぎて名前すらも知らない。

 教室に居る全員が突然来た無作法な来訪者に目を向ける。

 だが彼女はそれを気にも留めずに教室内を見回し、私達のところで目を止める。

 そしてそのまま、つかつかと私達の方へと歩み寄ってきた。

 私の前に立つ彼女は、肩を震わせながらギラリとした目で私を睨みつけていた。

 りんはそんな彼女と私の間に割って入って「なにか用?」と彼女に聞く。

「退いてくれる?私はそこの桜坂さんに用があるの。外野は引っ込んでて。」

 彼女にそう返されたりんは「理由も聞かずに、はいわかりました。なんて言うと思う?」と冷静なままに返す。

 すると彼女はポケットから一通のくしゃくしゃな封筒を取り出した。

 ああ、なるほど。そういうことか。

 その封筒には見覚えがあった。それはそうだ。私が今朝ゴミ箱に捨てたものなのだから。

 それを見て頭に?を浮かべるりんに「ありがとう。でも大丈夫だよ。」とだけ伝えるとりんは私の顔を見て、目で『本当に?』と聞いてくる。

 私がそれに『うん。』と笑顔で返すとりんは横に退いて、私は彼女と向かい合わせになる。

 ふと、かすちゃんとさくちゃんの事が気になってそちらに目を向ければ、今にも飛び掛ろうとするかすちゃんを、さくちゃんが笑顔で黙らせていて、ちょっと頬が綻んでしまう。

「なんで?なんで読まずに捨てたの?彼いつも貴女の事ばっかり話してて、貴女の事を思って書いた手紙なのに、なんで?酷過ぎない?」

 そんな私を他所に、彼女は私を責めるようにそう聞いてきた。

 それを聞いたさくちゃんは大体の事情を察したのか、私に呆れた視線を飛ばしてくる。

 私はその視線を感じながらも「なんでひーが読まなきゃいけないの?」と彼女に聞き返した。

 すると彼女は「なんでって。貴女それでも人間!?なんで人が一生懸命書いたものを読まないの!?」とヒステリックな声を上げる。

 まったく話になっていなかった。

 私には読む理由もなければ、読む義務もない。それどころか、読まない権利すらある。

 なのに彼女はそれを理解せず、私に読む事を強制する為にわざわざ来てヒステリックを起こし、私とりんの時間を邪魔している。

 とてもじゃないけど許せない。

 今だってわーわー喚き散らしてみんなの迷惑だ。

 私が我慢できずに口を開こうとすると「ひー、手紙を読むくらいはいいんじゃないの?」と不意に隣から窘められる。

 なんで?ひーはりんが好きなのに。なんで他の人からのラブレターなんて読まなきゃいけないの?なんでりんはそんなこと言うの?

 心に声が溢れた。

 他の人からの言葉ならなんとも思わない。

 だけど、他でもないりんからの言葉は、酷くひーの心を抉った。

「なんでそんなこと言うの?」

 そう私が聞くと、りんは「いや、ほら。やっぱり、そういう気持ちは大切にしなきゃ。」と笑顔で返す。

 ああ、いやだ。

 そんなこと言わないでよ。もっと焼きもち妬いてよ。いつもみたいに、傍にいてって言ってよ。

 一粒、また一粒と悲しみが頬を伝って落ちていく。

 言葉に出来ずに、声も上げれずに、ただただ零れて落ちていく。

 そんな私を見たりんは「ちょっと、どうしたのよ!?」と驚いて声を上げる。

 りんがなんで泣いているのかもわかってくれないことが、どうしようもなく腹立たしい。

 りんに対して、こんな風に思う自分が嫌で仕方ない。

 遠くで、未だにヒステリックな声が上がっている。

 でも、そんなのどうでもいい。

 ああ。そうか手紙だ。この手紙を出した人が悪いんだ。

 そう思った私は、未だに小煩く喚く女の手から、その手紙を奪い取る。

 突然の事に女は驚いたけど、私が破ることなく封を切ると、何処か満足したような顔をした。

 そんな女を気にも留めずに「読めばいいんでしょ?」とりんに聞き返すとりんはなんだか困惑した顔で「えっと。うん。」とだけ口にする。

 手紙を取り出し、目を文字に走らせる。

 内容は単純明快なもので、吐き気すら覚えた。

 前半に私を好きになった理由をつらつらと並べ立て、最後には話したい事があるので、放課後に校舎裏で待ってます。という在り来たりな内容。

 こんなくだらない内容の手紙で、私の楽しい時間を邪魔するなんて許せない。

 私は手紙を封筒に戻し「ちょっと行ってくる。」とだけ告げて席を立ち、教室をあとにする。

 手紙の差出人の名前には覚えがあった。

 確かあれは生徒会の副会長の名前だ。

 そういえば、さっきの女も生徒会役員だったような気がする。

 まあ、そんなのはどうでもいい。

 私がやることは決まってる。

 この手紙を書いた事を、そして私に送りつけたことを後悔させてやる。



 ***



 ひーが出て行った後、眼鏡の女の子は私達に昼食の邪魔をした事を詫びて去って行った。

 ひーのあの態度からして、多分一悶着起こすことだろう。

 流石に様子を見に行くべきかな?と思ったけど、やっぱり告白の場に割って入るのはどうかとも思えて、あとを追いかける事が出来ない。

 不意に「はあ。」と二つ揃った顔から呆れた溜息を吐かれて「なに?」と聞く。

「りんさんって、ほんと馬鹿ですよね。」とさくちゃんからジト目で言われ、かすからは「馬鹿っていうか、超馬鹿。」と重ねて言われる。

「なんでそこまで言われなくちゃなんないの?それに、私は別になにもしてないし。」

 私がそう言い返すとさくちゃんはもう一度溜息を吐き「りんさん、いい加減にひーさんの気持ちに答えてあげたらどうですか?」と口にする。

 その言葉に私はつい「ひーの気持ち。」と復唱するように呟いてしまう。

「わかんねーわけじゃないだろ?」

 かすにそう言われて、私はなにも言い返せなくなってしまう。

 ひーの気持ち。

 わかってる。ひーがずっとわたしを想ってくれてることも。ひーが私を誰より大切にしてくれてることも。

 でも、その想いを受け入れていいわけがない。

 だってわたしもひーも女の子で、結婚なんて出来るわけもない。

 それに、そういうのが世間一般に受け入れられるわけもない。

 だからいつも気づかない振りをして、ちゃんと幼馴染として振舞ってきた。

 もし応えてしまったら、それすら出来なくなってしまう。

 今まで通りでいられなくなる。

 わたしは、ひーの傍にさえ居られればそれでいいんだ。

 だからこのままで――。

 二人は私の顔を見て、また溜息を漏らした。

 私は自分の席に座り直し、黙々とお弁当を食べることにする。

 二人もそれ以上はなにも言わず、ただただ時間だけが流れていき、食べ終わった頃にはお昼休みも終わろうかという時間だった。

 ひーの弁当箱を見遣れば、まだ半分ほど残っている。

「気になるんですか?」

 そうさくちゃんに聞かれて「べつに。」とぶっきらぼうに返す。

「意外と意気投合しちゃって、付き合うことになってたりして」

 そう言われて、どうしようもない焦燥が湧いてきてしまう。

 ひーが誰かと付き合う?

 そんなことあるわけない。

 そう思いながらも、一抹の不安がどうしても拭えない。

 そもそも、なんでこんなに遅いのだろう?もしかしてやっぱりなにかあったのだろうか?それともさくちゃんの言う通り本当に――

「黒咲ちゃん」

 不意に名前を呼ばれて顔を向ければ、クラスメイト二人――誰だったか。確か、木村さん?木島さん?と山盛さん?盛岡さん?あんまり覚えてないけどそんな名前の二人が立っていた。

「顔色悪いけど、大丈夫?」

 そう木島さん?から聞かれて私は「大丈夫。なんでもないから気にしないで。」とだけ返す。

「そっか。」と木島さん?は頷き、なにか言いた気にそのまま佇む。

 なんだろうか?

 そう思って「どうかした?」と聞くと、木島さん?は重い口を開け「あー。いや、その」と言葉を探す。

 そんな木島さん?に「はあー。」と盛岡?さんがわざとらしい溜息を吐いて「さっきひーちゃんが部活棟の階段とこで倒れてたから、私達で保健室まで運んどいた。」と言った。

「え?」

 背中を虫が這い回るような感覚。

 どうしようもない不安と恐怖がわたしを包むのがわかる。

「とりあえず、保健室行ってきな。先生にはあたしから言っとくから。」

 そう木島さん?は言ってくれたけど、わたしはなにも言葉を返せない。

 手が震え、足が竦む。

 はやくひーのとこに行かなきゃ。

 そう思うのに、恐くて立ち上がれない。

「りん、ほらしっかりしろ。」

 かすはそう言って私の腕を掴み、無理矢理立たせる。

「私達も付き添いますから。」

 そうさくちゃんが言ってくれるけど、身体の震えがぜんぜん止まらない。

 かすとさくちゃんに支えられて教室を出る。

 足が鉛のように重い。

 お腹の辺りが煮えくり返るように熱くて気持ちが悪い。

 廊下を二人に支えられたままに歩く。

 きっと今のわたしは、一人で立っていることもままならない。

 階段を下り、また廊下を歩き、ようやく保健室まで辿り着く。

「ほら、着いたぞ。マジで大丈夫か?」

 そうかすが心配してくれるけど、わたしはなにも言葉を返せない。

 かすがそんなわたしを気にかけながらドアを開けると「あら、どうしたの?」と保健の先生が心配そうに声をかけてくる。

 わたしがなにも言葉を返せないのを見かねて、さくちゃんが代わりに「こちらに一年三組の桜坂 姫さんが倒れて運ばれたと聞いて、心配で来たんですけど。」と用件を話してくれる。

「あー。桜坂さんね。そっちのベットで寝てるわ。ちょっと頭を打って気を失ってるだけだから、あんまり心配しなくても大丈夫よ」

 保健の先生がベットを指差しながらにそう言ってくれるけど、わたしを包む恐怖が薄れることはない。

 わたしは二人に支えられたまま、ひーの眠るベットの傍まで行き、備え付けの椅子に座らされる。

 ひーの頭にはアイスノンが巻かれていた。

 打ったところを冷やしているのだろう。

「見舞いは構わないけど、授業はサボっちゃダメよ?」

 そう保健の先生に咎められ「それじゃあアタシら行くな。」とかすが言って、二人は保健室を出て行く。

 その折に、二人は先生と二、三言葉を交わす。

 わたしはその三人から目を外し、ひーに向き直る。

 なにがあったんだろう?

 階段から転げ落ちたのだろうか?

 でも、運動神経の良いひーが理由もなく転げ落ちるなんて考えられない。

「ひー。」

 わたしはひーの名前を呼んで、その頭を撫でる。

 そうしていないと、恐怖に押し潰されそうだった。

 もう目を覚まさないんじゃ?そんなありえないようなことがありえそうで恐かった。

 だから私は、ただただひーの頭を撫でた。



 ***



 真っ白な花びらが舞う夜空。

 ライトアップされた噴水。

 煌びやかなイルミネーション。

 遠くに聞こえる街の喧騒とクリスマスソング。

 私は一人ベンチに腰掛けて――を待つ。

 そろそろかな?もしかして、準備に手間取ってるのかな?

 そんなことを思いながら、私はクスリと笑う。

 ――と一緒に居る時間も幸せだけど、こうして待っている時間も私にとっては幸せ。

 はやく来ないかな?

 そう思っていると「ごめん。待った?」と――の声がして、私は声の方へと笑顔を向け「ううん、ぜんぜん。」と返す。

 私は――の腕に抱きつき「えへへ」と無邪気に笑う。

 ――と居られるだけで、私は幸せ。




 気持ち良い。

 頭を撫でられる感触。

 優しくて、柔らかで、温かい手。

 うっすらとまぶたを開くと、その手は動きを止めた。

「ひー?」

 涙に濡れたか細い声。

 声の方に顔を向けると、ぼろぼろと涙を流す赤毛交じりの短めの髪に髪留めをした女の子がいた。

「ひー、あんたもう。心配ばっかりかけて!」

 彼女は突然声を上げて、私を抱きしめる。

 私はなにが起こったのかわからずに、目をぱちくりさせるしかなかった。

 見知らぬ女の子に突然抱きしめられているのだ。

 この状況を理解出来る人は、そう居ないと思う。

「あ、あの」

 どうにか声を出すと「うっさい馬鹿。一日に何回心配かければ気が済むのよ。」と何故か怒られて、なにも言えなくなってしまう。

 鼻孔をくすぐるふんわりとした良い匂い。

 どうしよう。

 なんだか変な気分になってしまいそうだ。

 もちろん、私にそんな趣味はないけど、流石にこれはちょっと。

 それに、初対面にしてはやけに親しげというか、なんというか。

「あら。桜坂さん起きたの?黒咲さん心配してたのよ」

 そんなことを思っていると、不意に新しい声が聞こえて彼女は私から慌てて離れる。

 さっきまで困っていたはずなのに、何故か名残惜しくて、切ない。

 そんな私の思いはそっちのけで、新しい声の主――眼鏡と白衣の似合う癖っ毛な髪をした女性は「で、一体なにがあったの?階段から転げ落ちたの?それとも誰かから押されて?」と聞いてくる。

「えっと、なんの話ですか?」

 私がそう聞き返すと白衣の女性は「覚えてないの?貴女、西校舎の屋上付近の階段で頭を打って倒れてたのよ?」と驚いたようにそう口にした。

 言われて頭に手を当てれば、ひんやりとしたアイスノンが巻かれていることに気がつく。

 その下を弄れば、確かにこぶが出来ていて、頭を打ったことをこれ以上なく主張していた。

「そうだったんですか。」

 私がそう口にすると「ひー、あんたねぇ。」と髪留めをした女の子が呆れたように笑う。

 さっきから彼女が言っているひーっていうのは、私のことだろうか?

 そう疑問に思ったままに私は「あの。そのひーって、私の事ですか?」と髪留めの女の子に聞く。

 すると女の子の表情が凍った。

「な、なに変な事聞いてんのよ。あんた以外にいるわけないでしょ?」

 無理矢理搾り出したような震えた声。

 私はそんな彼女になんと返していいかわからず、とりあえず「そうなんですか」と相槌を打つ。

 その対応が間違いだったのか、彼女は私の肩を掴んで「冗談でしょ?」と縋る様に言葉を漏らす。

「えっと。その。」

 私はなんと答えればいいかわからず、そう言い淀んでしまう。

 彼女の唇は震え、その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうで。

 だけど、何故か彼女に泣いて欲しくなくて。

 私は彼女の頬を手で撫でる。

 しばしの沈黙が流れて、彼女の震える唇から言葉が紡がれた。

「私の事、わかる?」

 うん。そう一つ頷けばいい。

 そうすれば、彼女の涙を見なくて済む。

 だけど、そんな嘘はすぐにバレてしまう。

 だから私は「ごめんなさい。」としか言えなかった。

 彼女の声が溢れて、私が眠る布団を溢れた声の数だけ濡らしていく。

 私はなにも言えず、ただ彼女の頭を撫でてあげることしか出来なかった。




 しばらくして彼女は泣き止むと「ごめん。ちょっと頭冷やしてくる。」とまだ涙の残る声で言って、部屋を出て行く。

 私はそんな彼女になにも言えぬまま、ただその背を見送る。

 そんな私に白衣の女性が「桜坂さん、とりあえず病院に連れて行くから準備して」と声をかけてきた。

「あの、その桜坂っていうのも私の事ですか?」

 私が戸惑いながらにそう聞くと、白衣の女性は「ええ、そうよ。貴女の名前。桜坂 姫さん。」と私の名前を教えてくれる。

 だけど、自分の名前であるような気がしない。

 そもそも、私は誰だろう?

 どこで生まれて、どこで育ったのだろう?

 どういう物が好きで、どういう物が嫌いなのだろう?

 どんな容姿をしていて、どんな性格なのだろう?

 歳は?癖は?趣味は?特技は?恋人は?将来の夢は?

 大体、ここはどこ?今日は何年の何月何日?

 いくら考えても、なに一つわからない。

 なんだか、やったこともないシミュレーションゲームを途中からやらされているような気分。

 私が物思いに耽っていると、白衣の女性が「もしもーし」と急かすように声をかけてくる。

 私は慌てて「あ、すいません。病院に行くんでしたね。」と返して、ベットから起き上がった。

 目線は思いのほか高くまで上がり、上手くバランスが取れなくてちょっとふらつく。

 まるで竹馬にでも乗っているかのようだ。

「ちょっと大丈夫?もう少し横になってた方がいい?」

 白衣の女性はそんな私を見かねて心配そうに口にする。

 だけど私が「いえ、大丈夫です。」と言葉を返すと彼女は「そう?じゃあ、ついて来て。」と言って部屋を出て行く。

 私は彼女に言われた通り、そのあとを追って部屋を出る。

 静かな廊下。

 壁に並ぶたくさんのドア。

 どこかの施設だろうか?

 そんな事を思いながら、壁に手をついてバランスを取りつつ彼女のあとをついて行っていると、先程の女の子が反対側から歩いてくる。

 私に気がついた女の子は、浮かない顔をしながらも私に微笑みかけてくれた。

 そして近くまで来るとお互いに足を止める。

「あ、黒咲さん。もう気分はいいの?」

 そう彼女が女の子――黒咲さんに声をかけると、黒咲さんは「はい、大丈夫です。ちょっと驚いただけですから」と強がって答える。

「そう。それならよかった。」と彼女はホッとしたように返すと、思い出したように「あ、黒咲さんは桜坂さんと同じクラスよね?」と黒咲さんに聞く。

 それに黒咲さんが「はい、そうですけど。」と答えると、彼女は「よかったー」と笑って「教室から桜坂さんの鞄を取ってきてもらいたいんだけど、いいかな?」と私の鞄を持ってきてくれるようにお願いする。

 黒咲さんは「わかりました。」とその頼みを聞き入れると、私の顔をチラリと見て彼女に「あの、病院ですか?」と不安そうに聞く。

「ええ。病院で検査してもらおうと思ってるの。」

 彼女はそう答えて、付け加えるように「私じゃあどうしようもないしね」と笑う。

 黒咲さんはそれに曖昧な笑みを返すけど、その顔にこびりついた様な不安は落ちることはない。

 そんな黒咲さんに彼女は「貴女も付き添う?その様子じゃあ授業受ける余裕もなさそうだし」と聞く。

 黒咲さんは迷わずに「はい。」と答えるけど、その声は弱々しくて、今にも潰れてしまいそうだ。

「じゃあ、桜坂さんと自分の鞄取ってきて、校門のとこで待ってて。私は職員室で親御さんと病院に連絡入れたら、車でそっちに行くから。」

 彼女は黒咲さんにそう告げてまた歩き始める。

 私は黒咲さんになんと声をかけていいかわからず、なにも言えぬまま彼女について行く。

 だけど、すれ違いざまに黒咲さんから袖を掴まれてしまい、私は足を止める。

 黒咲さんはなにも言わずに私を見つめる。

 悲しみに濡れ、不安に揺れる瞳。

 私はそんな黒咲さんに何か言ってあげたくて「えっと」と言い淀みながらも言葉を探す。

 だけど、なにも見つけられないまま沈黙だけが続く。

 でもその沈黙は長くは続かなかった。

 理由は「おーい、はやくしろー。」と彼女が私を急かしたからだ。

「あ、すいません。今行きます」

 慌てて私がそう返すと、黒咲さんは「あ、ごめん。その、またあとでね」と口にして袖から手を離す。

 私は黒咲さんに「うん、またあとで」とだけ返して、彼女の元へと急いだ。


 その後、彼女に連れられてしばらく廊下を歩き続けると、職員室と書かれたプレートの前で彼女は足を止めた。

「ちょっとここで待ってて」

 そう私に告げると、彼女は部屋の中へと入って行った。

 私はふらつく身体を壁に預けて、溜息を一つ吐く。

 歩くたびに頭が揺れて気持ち悪かった。

 はじめたばかりの竹馬のようにバランスの取りにくい脚。

 長くて重い腕に、邪魔な髪の毛。

 あと無駄に重い胸。

 どうにも動きにくい。

 まるで自分の身体じゃないみたい。

 そう思っていると、視界の端に人影が見えて私は慌てて佇まいを直す。

 だけどそれは意味のないことだった。

 何故なら、その人影は鏡に映る自分の虚像だったからだ。

 憂鬱な表情。

 長くて綺麗な黒髪。

 澄んだ瞳に高い鼻。

 淡い唇に柔らかそうな頬。

 長くて白い肢体に整ったプロポーション。

 誰が見ても、鏡に映る彼女の事を美人だと思うだろう。

 私は自分の容姿を見て、ほんの今まで不便で仕方ないと思っていた身体を少しだけ好きになれた。

 そして鏡に映る虚像の表情も、いつの間にか憂鬱なものから小さな微笑みへと姿を変えていた。




 車の窓ガラス越しに見る空は青々としていた。

 見知らぬ街を埋め尽くす白は澄んだ水へと溶けていく。

 私のことなど気にも留めずに白から透明な雫に溶けていく。

 あの後、戻ってきた白衣の女性と車に乗り、校門で黒咲さんを拾うと車は病院へと向かって走り始めた。

 もちろん、今の道が病院に続いているかなんて知らないけれど、きっと病院に着くのだろう。

 黒咲さんが車に乗った時、私の荷物らしい鞄を手渡された。

 鞄には見覚えもなく、中身の書籍やノートの類も初めて見るものだった。

 けれど小さな手帳には、鏡に映っていた私の顔と同じ顔の写真と一緒に私の名前らしい桜坂 姫という文字が記載されていた。

 その手帳は私立香里高等学校という学校の生徒手帳らしい。

 つまり、私は学生ということだ。

 そしてその手帳に書かれていた生年月日が正しければ、私は今16歳ということらしい。

 ちなみに、血液型はA型らしい。

 自分のことなのに、らしいばかりでなんだか可笑しく思える。

 きっといつもなら、なんの迷いもなく自分の事だと断言できるようなことだろうに。

「ねえ、ひー。」

 そんなことを思っていると、隣に座る黒咲さんから声をかけられた。

 私が「なんですか?」と聞くと、黒咲さんは「本当に私のこと、覚えてない?」と寂しそうな顔をして確認する。

 私は彼女の望む答えを理解していた。

 だけど、それを口にすることが出来なくて「ごめんなさい」と謝るしかなかった。

 記憶がなくても、彼女を見ていれば私との関係くらい想像がつく。

 多分、とても親しい友人。誰よりも信頼できて、なによりも大切な友人。

 そんな友人に忘れられてしまうというのは、とても辛いことの筈だ。

 少なくとも、私が彼女だったら堪えられない。

 だから、彼女には私を責める権利がある。

 なんで忘れてしまったのかと問い詰める権利がある。

 でも黒咲さんはそんな私を責めることなく「ううん。私の方こそごめん。色々わかんなくて不安なのはひーなのに、こんな顔ばっかりして気を遣わせちゃってる。ダメだね、私。」と気丈に笑ってみせる。

 強い人だと思った。

 とてもじゃないが、私には真似出来ない。

 きっと私が彼女なら、私のことを責めていた。

 なんで自分のことを忘れてしまったのかと問い詰め、泣きに伏し、最終的には潰れてしまっただろう。

 いや、もしかしたら、彼女のように強くあったかもしれない。

 記憶のある私であれば、強くあれたかもしれない。

 けれど、今の私では強くあれた気がしない。

「黒咲さんって強いですね。」

 気がつけば、そう口にしていた。

 その言葉に彼女は目を丸くして、数秒ほど固まる。

 そして彼女は突然笑いを吹き零し、そのまま声を上げて笑う。

 なにがなんだかわからず、今度は私が目を丸くしてしまった。

 彼女はひとしきり笑い終えると「ごめんごめん。」と口にして「いや、ひーに黒咲さんなんて呼ばれたことなかったから可笑しくて」と理由を話す。

 多分、名字で呼び合ったことがないほど幼い頃からの付き合いだったのだろう。

 それこそ幼稚園か小学校低学年くらいからの長い長い付き合い。

 いわゆる幼馴染という特別な存在。

 だから彼女は、こんなにも親しげだったのだ。

 ただの友人でなく、親友でもない。

 友というには親しすぎる人。

「あんたに黒咲さんなんて呼ばれたら、こしょぐったくて仕方ないわ。いつも通り、りんって呼んでよ。」

 そして彼女――りんさんは笑顔で続けるようにそう口にした。

 それに私は「はい、わかりました。」と笑顔で応えた。

 りんさんのことを思い出したいな。

 私はそう心から思った。




 病院について、私はすぐに検査を受けることになった。

 レントゲン検査にCT検査。あとMRI検査も受けた。

 それから問診を受けて「打ち身とコブ。あとちょっと頭の骨がズレていることを除けば、身体的な異常は見受けられませんね。」と言われて、そのまま整体外科の方に行って骨を元に戻してもらった。

 そして最終的に、隣の病棟の一室へと案内されることとなった。

 ただ、その一室に通されたのは私とりんさんだけで、それまで付き添っていた白衣の女性――保健の先生は廊下で待つことになった。

 静かな部屋。

 病院らしく小奇麗な部屋だけれど、私とりんさんが座るテーブルから少し離れた仕事机だけは違った。

 飲みかけのまま放置されたコーヒーと乱雑に置かれた書類の山。

 そこだけまるで別世界だ。

 そんなことを思っていると、部屋のドアがガラッとスライドして一人の看護婦さんが入ってくる。

 看護婦さんの手には一つのお盆。

 その上には湯気を立てるマグカップが二つとお菓子が山のように盛られた皿が一つ。

 看護婦さんは「二人ともココアでよかった?」と親しげな笑顔で聞きながら、マグカップとお菓子をテーブルに置いていく。

 それに私が『はい』と言葉を返すより早く「なに考えてるんですか?」とりんさんがジトリとした目で看護婦さんに聞く。

「もー、りんちゃん達が久しぶりに遊びに来てくれたから、お姉さんがサービスしてあげてるんじゃない。」

 しかし、看護婦さんはそんなりんさんの態度に目くじら一つ立てずにそう言葉を返す。

 だけどりんさんはジトリとした目を変えることなく「まず遊びに来てるわけじゃないんですけど。」と返してから「それと、杏さんがなんの理由もなしにこういうことしてくれるような気がしないんですけど」と続けて口にした。

 これには流石に看護婦さん――杏さんも白衣の天使さながらの笑顔を引きつらせて「あははー。りんちゃん可愛くなーい。」と返すことしか出来なかった。

「杏さんに可愛くないと思われて困ることないと思うんですけど。」

 だけどりんさんがそう返すと、杏さんは「ふふんっ」と笑い、片目を瞑って見下ろすようにりんさんを見据えると「あら、そんなこと言っていいのかなぁ?」とにこやかに言う。

 その態度はどこか自信に満ちていて、大人の余裕というか、勝利の確信というか、そういった類のものを感じさせる。

 それにりんさんは怯むことなく「言ったらどうだっていうんですか?」と返すけど、ニヤリと笑う杏さんから「えー?べっつにー。ただ、もしりんちゃんが次に入院する時においしいおいしい病院食のフルコースが待ってるだけだしー。たいした事じゃないのよ?」と言われて顔をしかめることになった。

 勝敗は決したらしく、りんさんは諦めたように溜息を吐くと「いただきます」とだけ口にしてマグカップを傾ける。

 私も釣られるように「いただきます」と言ってココアを飲む。

 独特的な苦味と砂糖とミルクの甘みがとろりと口内に広がって、私は吐息を溢した。

 だけどりんさんは「にがっ!?」と声を上げて杏さんを睨みつける。

 私にはりんさんのそんな態度が不思議に思えた。

 もしかしたら、りんさんはココアが苦手なのだろうか?

 こんなに美味しいのになぁ。

 そう思っていると杏さんが「あー。砂糖入れ忘れちゃったん。ゴメンネー。」と笑いながらりんさんに砂糖を手渡す。

 私はその白々しい言い方でやっと杏さんがりんさんに意地悪をしている事に気がついた。

 りんさんは引きつった笑顔を浮かべて「どうも」とそれを受け取る。

「いえいえ、どういたしまして。」

 杏さんはりんさんの神経を逆撫でするように返し、二人の間にバチバチと火花が散る。

 それをどう仲裁したものかと考えあぐねて私は乾いた笑いを漏らす。

 だけど、その睨み合いは長くは続かず、杏さんは「お菓子、好きなだけ食べていいからね?」と私に言って部屋から出て行く。

「またあとでね~」という言葉を残して。

 りんさんは杏さんの出て行ったドアに向かってまるで子供の様にべーっとしてから、受け取った砂糖をココアに溶かしていく。

 また、二人きりになってしまった。

 正直なにを話せばいいのかわからなくて、言葉が出ない。

 もちろん聞きたいことは山のようにある。

 だけど下手に口にすれば、それだけで彼女を傷つけることになる。

 それはなんだか嫌だ。

「ねえ、食べないの?」

 不意にそう聞かれて、私は驚いて「ひゃい!?」と変な声を漏らしてしまう。

 りんさんはそんな私に「まったく。なに驚いてんのよ?」と呆れた風に言いながらクッキーを一つ手に取ると、そのまま私の口の前にまで持ってきて「ほら」と微笑む。

 私はそのクッキーと彼女を交互に見ながら、一体どういう意図なのかを考える。

 今までの会話から彼女と私がとても親しいのはわかった。

 だけど、いくら親しくてもこのアクションはなにか色々が間違っている気がする。

 それともこういうことを常日頃から平然とするような関係だったのだろうか?

 だとすると、それは社会的な面で色々問題なのではないだろうか?

「あ、ごめん。いつもの癖でついやっちゃった。」

 私があれこれと考えていると、りんさんは私が戸惑っていることに気づいたらしく、そう言って私の前に差し出していたクッキーを自分で食べてしまう。

 けれどその反応は私の戸惑いを治めることはなく、むしろ拍車をかける。

 いつもの癖?もしかしてアレなのだろうか?

 よくありがちな『昔からの付き合いで隣にいるのが当たり前。だけどある時、彼女のことを好きな男が現れて、自分が彼女のことを好きだったことを知り、焦って告白とかしちゃって付き合っちゃったりして、よく今さっきみたいにあーんとかしたり他にもあんなことやそんなことをする関係』とか。

 いやいや、流石にないよねぇ。

 大体、その方程式が当てはまるのは男女の幼馴染だし。

 いや。それならなんで、癖になるほど『あーん』が日常に取り入れられているのだろうか?

 どう考えてもなにかがおかしい。

 そう思った私は、真実を確認すべく「あ、あの。私とりんさんってどういう関係なんでしょうか?」と彼女に問う。

 すると彼女は「もう、やめてよ。あんたにりんさんって呼ばれるとなんか落ち着かない。りんでいいから。で、どういう関係か。だっけ。」と口にして、少し寂しそうな顔をする。

 しばしの沈黙を挟んで、彼女は手の中のマグカップを玩びながら口を開く。

「家が隣でさ。部屋はベランダ越し。両親が学生の頃の同級生で。赤ちゃんの頃から一緒に育って。なにをするにも二人一緒で。それは大きくなってからも変わらなくて。傍にいるのが当たり前で。一緒にいないとお互い不安で。」

 彼女はぽつりぽつりと言葉にして、最後に「なによりも大切な、大切な幼馴染。」と言って、照れくさそうな笑顔を見せる。

 大切な人を想う素敵な笑顔。

 だけど私はその笑顔を見て、とても恥ずかしくなった。

 理由は二つ。

 一つは、彼女が口にした関係が私の考えていた低俗なそれとは程遠いものだったから。

 もう一つは、少し桜坂 姫という女の子のことを羨ましく思ってしまったから。

 だって、彼女にこんなにも想われているんだもん。

 ただの幼馴染としてじゃない。

 なによりも大切な。特別な人として。

 私が彼女の言葉に羞恥と感動を覚えていると、彼女は何も言わない私に不思議そうな目を向ける。

 私は慌ててなにか言おうと思ったけど、上手く言葉を返せなくて、近くにあったクッキーをパクリと食べて「美味しいですね。」と言って誤魔化すことにした。

 そんな私を見てクスリと笑う彼女はそれに気付いたみたいだったけど「そだね。」と頷いて私のことを見逃してくれる。

 なんだか色々を見透かされてるみたい。

 そう思って私も彼女と同じように笑う。

 特別な関係か。


 それからしばらく二人でお菓子をつまみながら話していると、眼鏡がよく似合う白衣の男性が部屋に入ってきた。

「葉先生お久しぶりです。」

 そう挨拶するりんさんに釣られて、私も軽く会釈をする。

「久しぶりだね、黒咲君。最近調子はどうだい?」

 さっきの杏さんといいこの葉先生なるお医者さんといい、りんさんはこの病院に長いことお世話になっていたのだろうか?

「はい、おかげさまで良好です。」

 りんさんが笑顔でそう答えると、葉先生は「それはよかった。」と安心したように言って、私達の対面の椅子に腰かける。

 そして彼は私の顔を二、三秒程まじまじと見つめ、ニコリとした人当たりの良い笑顔で「さて、はじめまして。以前、黒咲君の診察とカウンセリングを担当していた白夷 葉です。君が記憶を取り戻すまでの間、いろいろお手伝いすることになりました。よろしくね。」と勝手に私の疑問に答えて自己紹介をする。

 なんで私が考えていることがわかったのだろうか?

 まるで頭の中を覗かれたようで驚きを隠せない。 

 だけど私は深呼吸を一つして自分を落ち着かせ「はい、よろしくお願いします」と恭しく言葉を返す。

 そんな私を見て葉先生は楽しそうな笑顔で「とりあえず、いくつか質問するね。わかる範囲で答えてくれたらいいから」と言って、私がそれに「はい」と頷くと質問を始めた。

「まず、名前と年齢。それから生年月日と性別と血液型は?」

「えっと、桜坂 姫です。年齢は16歳。生年月日は平成五年の八月十二日です。血液型はA型。」

 私が質問に答えると、葉先生は「それはいつどこで知ったのかな?」と聞いてきた。

「さっきここに来る途中に渡された鞄の中に入っていた生徒手帳を見て知りました。」

 正直に答えると、葉先生は「なるほど。」と口にしてメモを取る。

「体調はどうだい?出来れば詳しく聞いておきたい。」

「えっと、目が覚めてからずっとバランスが上手く取れなくて。その所為で乗り物酔いみたいな感覚があります。なので、体調はあまり良いとは言えません。あと頭のコブと打ち身になってるところがじんじんして痛いです。」

 葉先生は私が口にした言葉をメモに取りながら聞いて「多分、記憶を失ったことによる弊害の一つだね。外科から回ってきたカルテには身体に異常はないと書かれているし、安心していいよ。あと打ち身に関しては外科の先生から言われた通りに湿布を貼って静養すること。」と私の不安を払拭するように言うと「それじゃあ、さっきのお菓子のことだけど。美味しかったかい?」と次の質問に移る。

「とっても美味しかったです。なんだかお腹が空いてたみたいで全部食べちゃいました。」

 私は全部食べきってしまったことに対して羞恥を覚えながらも、正直に答える。

「食欲があることは良いことだね。それじゃあ、次はちょっとしたテストを受けてもらうね。」と言って席を立ち、少し離れた仕事机から厚紙の束を持って戻ってくる。

 そしてその内の一枚を私に見せ「じゃあ、これはなに?」と聞いてきた。

 そこには可愛らしい子犬の写真が貼り付けられていて「子犬です。」と私が答えを言うと、次の厚紙を見せ「じゃあこれは?」と聞いてくる。

 写真は猫。それに答えれば、葉先生はまた次の紙を見せる。

 写真は飛行機。その次の写真はジェットコースター。その次の写真はサッカーボール。

 私がそれらに答える度、葉先生は新しい写真を見せていく。

 しばらく答えていると、写真から一転して数式になった。

 とはいえ、問題の内容は小学生で習うような簡単なもので、私はすらすら答えていった。

 そして数式にしばらく答えていると、今度は文字の羅列が並んだものになった。

 内容は一般常識レベルの歴史問題。

 ケネディ大統領暗殺事件が起こったのは何年?とか、モナリザの作者は?とか、金閣寺を建てた人は?とかそんな感じ。

 だけど私はどうやらあまり勉強が得意ではなかったらしく、モナリザの作者以外は全問不正解だった。

 そうして厚紙問題は終了し、葉先生が厚紙をテーブルの上に置いて「お疲れ様。記憶を失った原因や症状から見て、一過性の記憶喪失でしょう。頭を強く打った時のショックで一時的に色んなことを思い出せなくなってるみたいだけど、しばらくすれば少しずつ思い出して行くと思うよ。」と診察の結果を口にすると、隣から安堵の溜息が聞こえた。

 きっと、不安だったのだろう。

 私の想像がつかないほどに。

 何も言わずに彼女の手を握る。

 驚いたような表情で私の顔を凝視するりんさん。

 私はニコリと笑顔を見せて、葉先生に向き直り「具体的にはどうしてれば思い出せるんですか?」と聞く。

 それに葉先生が答えようと口を開くと、言葉を遮るようにノックの音がして一人の看護婦さんが入ってきた。

 入ってきた看護婦さんは私とりんさんに優しげな微笑みを向けてから、葉先生に「先生。桜坂さんのお母さんがいらっしゃいました。」と伝える。

 桜坂――つまり、私の母親。

 今の今までりんさんのことばかりに気を取られていて、すっかりその存在を忘れていた。

 一体、どんな人なのだろうか?

 少しの不安と少しの興味。

「ああ。丁度良かった。ほんの今診察が終わったところだから、入ってもらって。いろいろ話さなくちゃいけないこともあるからね。」

 葉先生がそう言うと看護婦さんは「はい、わかりました。」と口にして、ドアの外にいる人に「どうぞ。」と言って招き入れる。

 入ってきたのは、肩にかかる黒髪と右目の涙ぼくろが印象的な女性で、その表情には明らかな不安が浮かんでいた。

 しかし、残念ながらやはり見覚えがない。

 確かに目元や口元は似ているし、母親だという話も本当だと思う。

 でも、やっぱり私には見覚えがなかった。

 けれど彼女は私の顔を見て頬を綻ばせる。

 そして私に歩み寄ると、そのまま優しく抱きしめた。

 ここへ来る前に大体の話は聞いているはずなのに、なんで安心したように笑えるのだろうか?なんでこんなに優しく抱きしめてくれるのだろうか?

 私には彼女の仕草と行動がとても不思議に思えた。

 でも彼女が漏らした「よかった。」という言葉で、なんとなく納得できてしまった。

 この人は私の母親なのだと。

 ああ、そうだ。この女性は私のお母さんだ。

 生真面目で、実直で、いつだって自分の信じるがままにある女性。

 少し抜けているお父さんとはお似合いな女性。

 なにもないパズルの額面に、一つのピースが落とされ、それに合わせるようにいくつかのピースが埋まっていく。

 だけど、それはとても曖昧で、不確かで、朧げなもので。

 埋まっていくピース――記憶は中途半端。

 両親の顔、声、性格。

 両親と過ごした日々。

 両親と一緒に出かけた思い出。

 そして、そこにいつもいる誰か。

 でも、その誰かが思い出せなくて。

 その誰かを思い出そうとして、頭にザァーっとテレビの砂嵐のようなノイズが走り、酷い頭痛に襲われる。

 痛みに思わず声が漏れ、顔が歪む。

 まるで脳味噌がドロドロに溶けたみたいに熱くて、目の前がチカチカと光――

 トンッと不意に肩を叩かれ、私は考えるのを止める。

 すると砂嵐は止み、頭痛はすぅーっと消えていく。

 ドロドロに溶けた脳味噌は冷えて固まり、目の前のチカチカとした光も消える。

 叩かれた肩の方に顔を向けると、葉先生が立っていて「大丈夫かい?なにか思い出したのかな?」と心配そうに聞かれる。

 それに私が頷くと「無理に思い出そうとしちゃダメだよ。焦らず、ゆっくり。思い出せることだけ思い出して行けばいいから。」と言ってくれた。

「とりあえず、お母さんも座ってください。記憶を思い出すにあたっての注意もありますので。」

 そう言われて、今の今まで私を抱きしめていたお母さんが手をほどき「はい。」と頷いて、空いている椅子に腰かける。

「まず、先程のように何かを思い出している時は、無理に思い出させようとしないでください。無理に思い出させようとすると、脳に負荷がかかって、失神する場合などがありますので。桜坂さ――姫さんも無理に思い出そうとしないように。」

 葉先生の話は、さっき私が無理に思い出そうとした事への注意からはじまり、なにを思い出したのか、どんな感じがしているかなどを聞かれた。

 それから、思い出す為の具体的な方法を教えてもらったり、学校を二、三日休んで色んなことを整理するなど、今の私に必要なことを話してくれた。

 そして一通り話し終えた葉先生から「それじゃあ、今日はもうこれで結構です。次は学校に行く前日にもう一度来てください。経過を確認しますので。」と言われて、そのまま家へと帰ることになった。


 保健の先生はお母さんに私達の事を任せると、そのまま学校へと戻っていった。

 なので、帰りはお母さんの車にりんさんと一緒に乗ることになった。

 車に乗った私は、りんさんといろんなことを話したかった。

 そうすれば、思い出せないことを思い出せるような気がしたから。

 だけどりんさんは疲れてしまったのか、私に寄りかかったまま何も話さない。

 私は仕方なく、窓の外を眺める。

 窓から見える街の景色は病院に行く時とは少し違った。

 知っているところもあれば、どこかもわからない見知らぬ場所もあった。

 知っている場所は、忘れていたことすらも忘れていた。

 というより、知っていることが当たり前で、忘れるはずもなくて。

 じゃあなんで忘れてしまったのか?そう考えると、とても不思議で。

 ちょっと変な気分。

 これから私は、色んなことを思い出していく。

 その中にはきっと私が忘れちゃいけないことも含まれてる。

 でも、もしそれが思い出せなかったら?

 そんな不安が頭の隅を過ぎる。

 私は思い出していないから、まったく知らない。

 だから、知らないということで大切な誰かを傷つけてしまうんじゃ?

 それが一番怖い。

「よかったね。」

 不意にりんさんの声が聞こえて、私は「え?」と間の抜けた返事をしてしまう。

「おばさんとおじさんのこと、思い出せてさ」

 その優しい言葉に私は「うん。」と素直に頷く。

「大丈夫。あんたは、物覚えと運動神経だけはいいんだから。」

 励ますようなその言葉は、まるで私の不安を理解しているようだった。

 表情も見ずに、不安な声も聞かずに、私の事を全部理解してくれているように感じた。

 だからか、私はとても安心できた。


 家に着いた頃には日も傾き始めていて、私はりんさんと別れ、お母さんと一緒に家へと入った。

 玄関に入ると、ふわりとした羽毛の筆が曖昧な記憶を撫でて、ゆっくりと鮮明なものにしていく。

 私は階段を登り、自分の部屋へと入る。

 忘れるわけがない自分の部屋。

 なのに、お母さんと会うまで全然思い出せなかった。

 家に着くまで、鮮明に思い出せなかった。

 いつも眠るベッド。

 好きな漫画や小説が並ぶ本棚。

 大好きなぬいぐるみがたくさん飾られているラック。

 いつも日記を書く机。

 そうだ、日記だ。

 日記に書いてあることを読めば、何かを思い出せるかもしれない。

 そう思った私は、いつも日記を仕舞っている引き出しを開ける。

 そこには、確かに日記があった。

 だけど、見覚えのない不細工な人形や古いりぼんの束、それから小さなアルバムや他にも色んな物が入っていた。

 アルバムを手に取って開くと、その中には私とりんさんが二人で写っている写真がたくさん貼られていた。

 学校の入学式や卒業式。海に山。どこかのパーキングエリアにどこかの公園。他にもたくさん――たくさんの思い出が貼られていた。

 だけど、そのどれもが思い出せなくて、なんだか悔しい。

 私はアルバムを机の上に置き、不細工な人形を取り出す。

 まるで小学生が初めての裁縫の授業で作った様な出鱈目な縫い方で作られた人形。

 不揃いな縫い目に飛び出た糸と下手な玉結び。

 頑張って作ったのだろうけれど、あまり上手とは言えない。

 その人形をアルバムの横に置いて、今度は古いリボンの束を取り出す。

 色あせていたり、破れていたり、短かったりとそれぞれ状態に差があるけれど、どれも今着けているリボンの色にそっくりだった。

 だけど特に思い出せることもなく、そのリボンの束を人形の横に置く。

 やっぱり、本命である日記を読もう。

 そうすれば何か思い出せるかもしれない。

 そう思った私は、日記を取り出してその表紙を捲る。

『これで六冊目の日記帳。今日からまた日記をつけていきます。』

 それを見てすぐに「あれ?」と困惑の声を漏らした。

 記憶通りなら、まだ4冊目のはずだ。

 私はすぐに直近に書いた日記の内容を思い出してみる。

 たしかあれは中学校の入学式を終えてすぐに書いたはずだ。

 どんなことを書いたっけ?

 詳細は靄がかかったみたいに思い出せない。

 まだ一週間も経ってないはずなのになんでだろう?

 そう思ったところで、病院に行く前に見た学生証のことを思い出した。

「ああ、そっか。私が思い出せてるのって、中学生になったばっかりの頃なんだ。だから二冊分多いんだなぁ。」

 私はもう高校生なのだ。

 中学校の思い出がこれっぽっちも思い出せていなくても、私は今16歳で高校生なのだ。

「さあ、気を取り直して読もうかな。」

 そう言って、改めて日記を読む。

 だけど、次の行から恥ずかしくて声に出せないような内容が綴られていた。

 読んではいけないものを読んでしまった気がした私は慌ててページを閉じる。

 顔が熱い。とてもじゃないけど、こんな恥ずかしいものを平気な顔で読める気がしない。

 だけど、読まなきゃ。思い出したいことがたくさんあるんだから。

 そう思った私は深呼吸をして「よし。」と意を決して日記を開いた。

 まず目に飛び込んで来たのは、ダダ甘なりんさんとの日常生活だった。

 朝起こしに彼女の家に向かい、彼女が起きなければならない時間までの寝顔の観察。

 そして、時間になったら優しく揺り起こし、お目覚のキス。

 恥ずかしそうに「おはよう」と口にするりんさん。

 ―――おかしい。私がりんさんから聞いた関係と日記の中の関係には、大き過ぎる程の齟齬がある。

 つまりそれは、りんさんか私の日記のどちらかが虚偽虚構の内容を語っているということを意味する。

 だけどりんさんが嘘を言っていたようには思えない。

 あんなに切実に私のことを思ってくれてる人だ。

 わざわざ必要のない嘘を吐くことなど考えられない。

 けれど、この日記の関係も否定できない。

 何故なら、りんさん曰く常日頃から『あーん』などをして私になにかを食べさせるような関係だったからだ。

 りんさんのことは疑いたくはないけれど、その手のアブノーマルな関係であったことを私は否定できそうにない。

 しかも日記の中では『あーん』だけではなく、おんぶにだっこに恋人つなぎ、果てはみんなの前でイチャイチャベタベタ。

 やっぱり、そういう関係だったのだろうか?

 葉先生は出来るだけいつも通り過ごしたり、好きだった曲を聴いたり、好きだった物を食べたり、アルバムを見たり、日記を読んだりすることを薦めていた。

 とすると、私は明日りんさんを起こしに行くべきなのだろうか?

 日記の内容を信じるなら、りんさんは私が起こさなければなかなか起きない寝坊助さんのようだし。

 それにこれも記憶を取り戻す為。

 起こす時間は七時だから、寝顔を確認して堪能する為には六時半には彼女の部屋に居なければならない。

 とりあえず、今日は早く寝よう。

 そう心の中で決めると「ひーちゃんごはんよー」と下の階から聞こえて、私はそれに「はーい!」と返事をして日記を机の上に置いた。


 その日の夕食は、私の大好きなハンバーグとミニオムライスのお弁当だった。

 それで思い出せたことは食べ物関連のことばかりで、肝心のりんさんについての記憶はさっぱりだった。


***


 夕食とお風呂を済ませた私はベットに寝転がっていた。

 本当は、今日あったことをお母さんとお父さんに報告すべきなんだけど、気が進まない。

 彩お姉ちゃんには、帰ってすぐにチョップの嵐によって無理矢理聞き出されてしまった。

 別に秘密にするつもりはなかった。

 ただそれを相談する気にもなれなかっただけ。

 なのに、何故チョップされなければならないのだろう?

 これじゃあ、隠し事もできない。

「はぁ。」なんだか、疲れた。

 不意に窓が『トントンッ。トンッ。トントンッ。』と不規則に叩かれて、私は慌ててベットから飛び起き、ベランダの窓へと駆け寄る。

 もしかしたら、ひーが私のことを思い出して会いに来てくれたかもしれない。

 そんな期待を胸にカーテンを開ける。

 だけどそこには誰も居なかった。

 既に向かいの部屋の電気は消えていて、ひーがもう寝たことを私に告げる。

「そんなに都合良くはいかないよね。」

 淡い期待は崩れて、私はその場でうな垂れた。

 すると、また不規則に『トンッ。トントンッ。』と窓が叩かれる。

「もう!なに!?」

 苛立ちを隠せずにガラッと窓を開けると、冬の夜の寒さと共に黒い影が部屋に飛び込んできて、私は「きゃっ」と声を上げてしまう。

 だけど私はすぐに恐怖を振り払い、何が入って来たのかを慌てて確認する。

 ふてぶてしい表情で私の方を見ているそいつには、よく見覚えがあった。

 私は一つ溜息を吐き、窓とカーテンを閉める。

 そしてタンスからいらないタオルを取り出して、そいつの頭に被せる。

 そいつは面倒臭そうに頭からかかったタオルを振り払い、それで寝床を準備し始めた。

「ちょっと待ってて。今なんか食べるもの持ってきてあげるから。」

 そう私が言うとそいつは「みゃーご。」と一声鳴く。

 私は暗い階段を降りてリビングへと入り、キッチンの電気をつけて、猫が食べられそうなものを探す。

 すぐにツナ缶が見つかり、私はそれを皿に移してごはんと混ぜる。

 それと猫の飲み水を用意して、私はリビングをあとにした。

 廊下に出ると、静かに咽び泣く声が聞こえた。

 あれから半年以上が経ち、私はあの日のことであまり泣かなくなった。

 正直、薄情だと少し自嘲してしまう。

 だけど、なんだか。

 いつか帰って来そうな気がして、泣く気になれないのだ。

 そんなわけないのに。

 私は静かに階段を上がり、部屋へと戻る。

 部屋に入ると、猫はすぐさま足元にすり寄ってきた。

 私が皿を猫の目の前に置くと、猫は私に一言「にゃあ」とお礼を言って一心不乱に食べ始める。

「おいしい?」

 そう声をかけても、こちらを見向きもしない。

「ひーがさ。なんか記憶喪失になっちゃったんだ。」

 言葉が漏れた。

「勉強できないくせに、記憶力だけはいいあの子がよ?変だよね?」

 視界がぼやけて。

「わたしのこと。わかんなかったんだよ?」

 頬を熱いものが伝った。

「いつもわたしにべったりで、りんー。りんー。って甘えん坊なのに。」

 声が溢れて。

「わたしのこと、黒咲さんって。りんさんって。」

 涙が溢れて。

「おばさん達のことはすぐに思い出したのに、わたしのことは全然思い出してくれなくて。」

 止まらなくて。

「このまま、わたしのこと思い出さなかったらどうしよう。」

 そんな不安に押し潰されそうで。

「どうしたらいいのよ。」

 わたしは強くなんてなれない。

 それは、あの時によくわかった。

 だからひーが傍に居てくれなきゃいけないのに。

 なのに、そのひーはわたしのことがわからなくて。

 ペロリ。

 不意に頬を撫でるざらりとした感触がして、私は慌てて涙を拭う。

「あんたに愚痴っても仕方ないよね。」

 そう言って、いつの間にかご飯を食べ終えて膝の上に乗っかっている猫を降ろし、電気を消す。

 私は毛布に包まり、瞼を閉じる。

 なんだか、夢みたいだ。

 そう。悪い夢。

 あの時もこんな感じだった。

 大事なものを奪われて。

 あって当たり前。

 居て当たり前。

 居なくなるなんて考えられなくて。

 だから、悪い夢だとしか思えなかった。

「夢なら、醒めてよ。」

 呟いた言葉が、静寂の中に響いた。

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