004
微睡みの中にいた。
とても、懐かしい。
ああ、いつだっただろう。
こうして曖昧な時間を渡り、
すべてを忘れ、私が私になったのは。
突然、頬を叩かれた。
「おい! しっかりしろ。このくらいじゃ死なないよな? そりゃ困る」
乱暴な声がくぐもって聞こえる。フィルターをかけたかのような、どこか遠い世界の声だ。
頭がはっきりしてくる。痛みは消えていた。
瑠璃が目を開くと辺りには明かり一つなく、何も見えない暗闇が広がっていた。
「誰?」
人の気配を感じ、声を出してみる。返事はない。その代わり、蝋燭のように淡い光が近付いてきた。
目が慣れ、自分が誰かと向き合っていることに気が付いた。訳の分からない暗闇の中、おぼろげにしか見えない顔。
たがすぐに気が付いた。息が止まりそうになる。
闇よりもなお深い、漆黒の長髪。色白の細い顔。吸い込まれそうな緑の瞳。
――――見慣れた、自分自身の顔。
一瞬、鏡を見ているのだと思った。
瞬きをして――――相手が自分と同じように動かないことを確認して――――まじまじと顔を見る。
「だ……誰……ですか?」
沈黙、それから混乱。
苦しくなって息を吐く。ものすごく長い間、その瞳を見つめていた気がした。不意に相手の口が動く。
「……お前、それしか喋れないのか?」
クリアな声。自分の心臓の音が、耳元で聴こえる。
ああ、人だ、と瑠璃はぼんやり思った。
「幽霊でも見たような顔しちゃって。驚いたか」
「う……うん。いや、あなたは……人間?」
「どう見ても人間だろう。魚に見えるとしたら心外だ」
「いや……」
世の中には、自分にそっくりな人間が三人いるそうだ。もっとも、その人に会うと、見た本人は死んでしまうらしいのだが……。瑠璃の思考は止めようもなく転がっていった。
「どっ……」
「どっ?」
「ドッペルゲンガーですか?」
「……アホか。ホントに。まあでもそうか。誘拐しておいて名乗らないのも変か」
一瞬、頭の中が疑問符で溢れる。
「え? 誘拐? 誰をですか?」
「あんたを、私たちが。そんなつもりじゃなかったけど結果的にね」
そう言いその人間は肩を竦めた。顔が笑っている。まったく、笑い事ではないというのに。
どこか誇らしげに首を傾げる相手を、瑠璃はぼうっと見つめていた。
――――もしかして、まだ夢の中にいるのかも。
いや違う……瑠璃は頭を振った。叩かれた頬に痛みは残っている。ひんやりとした床の感覚も、少し鼻につくこの空気の臭いも、僅かに感じる小刻みな揺れも、鮮明だ。
小刻みな揺れ?
そこで初めて、瑠璃はトラックのようなものの荷台にいて、どこかに移動しているということに気が付いた。
「ま、待って下さい! どこに行くつもりですか?」
「お前の知らない所だよ」
笑い声。人をおちょくるような言い草への苛立ちと不安から、大人しく黙っていられなくなってきた。
「ふざけないで下さい! あなた誰ですか? どうして私がここにいるんですか?」
「まずは自分から名乗るのが礼儀だろ?」
「名前も知らない人間を誘拐したんですか!?」
「あらら? 随分元気になったな」
瑠璃は息を吐き、相手の顔をまじまじと見た。口が達者なこの顔。びっくりする程自分に似ている。
でも……と思う。
よく見れば見るほど、拭えない違和感を感じさせる。パーツの一つ一つは同じでも全体の印象が全く違うのだ。
自分よりも洗練された鋭い瞳に、中性的で整った顔。中央区では見かけない、隙のない空気感。
「慌てなくても、説明はしてやるよ。まずは何から聞きたい?」
不敵な笑みを浮かべ淡い光を手にした誘拐犯に、戸惑いながら問う。
「あなたは一体……?」
「それは名前を聞いているのか? それとも役割的なものか? 私が“何”かを聞いているのか?」
「ぜ、全部ですよ」
「一つの質問につき答えは一つだ。それがマナーって――――」
「おいリウ!」
突然、声と共に、棒状の何かが相手の頭目がけて飛んできた。訳が分からず目を丸くする瑠璃をよそに誘拐犯は立ち上がると、運転席があると思われる方向にそれを投げ返した。
さっきと同じ、鈍い音が響く。
「痛ってぇ! 何すんだよ」
自分と同じか少し歳上の、男の声が聞こえた。
「黙れ。喧嘩売ってきたのはそっちだろ」
「売ってねぇよ。オレはただ、からかってないでさっさと説明くらいしてやれ、って言いたかっただけだ」
そうだそうだ! と、我に返った瑠璃は心の中で口を尖らせた。誘拐犯は鼻で笑いながら言葉を返す。
「はっ。後ろ向いてんじゃねえよ。お前は運転に集中してろ。また事故起こすぞ」
そうして瑠璃に向き直ると、彼女は再び独特の笑みを浮かべた。
口の端を吊り上げるような微笑。
相手が浮かべる余裕の笑みに、気圧される。
「ま、今回は初対面だから全部に答えてやる。特別サービスだ」
一つ。そう言いながら相手は指を一本立てた。
「名前。私はリウ」
リウと名乗った人間は言葉を切り、明かりごとゆっくりと顔を近付けてきた。
硬質の光を放ち、憂いを帯びた深緑の瞳が露になる。
「よろしく、瑠璃」
目を見開く瑠璃を前に、リウは目にかかる黒髪を払いのけ、笑顔で手を差し出してきた。
先程までの、口の端を吊り上げるような笑みではない。優美な、艶やかともいえる華やかな笑み。仕草も物言いも洗練された人間のものだった。
……さっきまで目の前にいた粗野な誘拐犯とは、まるで別人だ。
「あ……あ、はい、よろしく……お願いします」
差し出された手を、ゆっくりと握る。
瑠璃の手が触れた瞬間、リウはさっと手を引き、瑠璃の眉間を突いた。
「痛っ」
「何がよろしくだ。もっと先に考えることあるだろ。どうして名前を知ってるんだ、とかさ」
「あなたが先に言ってきたんじゃないですか!」
むきになって言い返した瑠璃を、リウは鼻で笑った。
「本気で分かってないんだな。警戒を解くためなら何だって言う」
そして少し顔をしかめると、軽口でも揶揄でもない口調で静かに続けた。
「いいか? これから先あんたに握手なんか求める奴が現れたら、そいつには何か下心があるかただの変態か、もしくはその両方だ。簡単には信頼するな」
「はあ……」
今の時点で一番信用できない相手に言われても、という言葉を飲み込み曖昧に頷く。
「それからその、瑠璃って本名。やたら色んな人に触れ回るんじゃないぞ」
「あ、はい」
本当に分かったのか、と疑わしそうな目を向けると、リウは「二つ」と指をもう一本立てた。
「役割。今はさしずめ、あんたの護衛兼護送役だ。前のバケツは――――」
「バケツじゃない! バッツだ!!」
男が大声を張り上げる。どうやら、声は筒抜けのようだ。
「聞き流せ。どうせどっちでも通じる。あいつは運転手」
「よろしくな、瑠璃!」
トラックが大きく跳ねる。その拍子に遠くまで飛んでいった明かりを、リウがぶつぶつ文句を言いながら拾い上げる。そしてそのまま、荷台の端に光を向けた。
「ひっ……」
一瞬、本気で幽霊を見たと思った。
そこに浮かび上がったのは、やはり瑠璃と同じか歳上くらいの人間。どちらかといえば寡黙そうな、落ち着いた表情の青年だった。
「こっちの無口なのはオフ」
オフと呼ばれた青年は軽く手を上げ、手元のモニターから目を離さずに会釈した。
「今は忙しいみたいだな。オフはあんたの足取りが掴めないよう、捜査を混乱させている。まあとりあえず、今ここにいるのはこの三人だ」
「あ……うん」
「で、あんたは?」
「遠藤瑠璃です。中央区の高等学生です」
よろしく、と言いかけ口を閉じる。
何を呑気に自己紹介なんかしているんだ。まして相手は自分を誘拐した人間だ。素性も目的も分からないのに、よろしくどころではない。
「さて、では問題の質問。私たちは“何”か」
心の声に答えるように、リウは指を三本立て瑠璃の目の前に座った。
「瑠璃。私を見て何を思った?」
「何って……ドッペルゲンガーですか?」
思ったままに答えると、バッツの笑い声が聞こえてきた。
「傑作! リウ、このお嬢さん、思ったよりネジが飛んでるぜ! 大丈夫か?」
「慣れてる。普段からお前みたいな、脳が半壊しているような奴と行動してるからな」
悪態をつくバッツを無視し、リウは続ける。
「自分と瓜二つ……そっくりだと思っただろ?」
「あ、はい。どうして……」
「それは、私がお前という個体の、フォルトレス・インディヴィジュアルだからだ」
フォル……え?
聞き慣れない言葉に、反復しようとした舌が固まる。リウは手近な紙を引き寄せ、すらすらとその言葉を書き綴った。
「Faultless Individual。
欠陥のない個体。完璧な個体、という意味だ」
「それは……どういう……?」
飲み込めずに聞き返すと、リウは片頬を吊り上げ、どこか皮肉めいた笑みを浮かべた。
そうして次にリウが口にした内容に、瑠璃は言葉を失った。
「俗っぽい単純な言い方をすれば――――私はお前のクローンなんだよ」