001. 予報が外れた日
遠藤瑠璃の母・怜華は、現代の大人としては少し変わったタイプの人間だった。
「あ……おはよう」
「おはよう瑠璃。そろそろ起こしに行こうと思ってたのよ」
いつものようにリビングへ下りた瑠璃は、ティーポットを片手に朝食を用意する母に目を丸くした。
「……今日はちゃんと起きられたんだ」
「うーん、何のことかしら?」
とぼけた返事に微笑み、瑠璃はふわりと欠伸をした。
「雨、止んだ?」
「ええ。外見た? すごく爽やかな秋晴れなんだから」
昨晩、瑠璃の住む町では大雨が降った。台風のような突風を伴い、すべてを洗い流すような激しい雨だった。
一夜明け、促されるまま外を見た瑠璃の目の前には、抜けるような青空が広がっている。
「きれい……」
「塩化銅水溶液の色よね」
「……え?」
「塩化銅水溶液。きれいな青色なのよ」
薬学者である怜華は、時折こうして文系学生の瑠璃にはさっぱり分からないような話をする。
「へえ……そうなんだ」
窓越しに空を見つめる。台風一過に似た雲ひとつない空の眩しさに、思わず目を細める。同時に小さく、耳鳴りのような音を聞いた。
――――こんな青色を、私は――――
「瑠璃、何ぼーっとしてるの? 顔洗って、髪型直さなくて良いの? 学校でしょう?」
怜華が微笑む。瑠璃はぼんやりと頭を押さえた。ここのところ続いた寝不足のせいか、頭が重い。
「何でもない」と答えた瑠璃は、寝ぼけ眼のまま、跳ね回る髪を押さえ込み洗面所の扉を開いた。
『おはようございます!』
AIのハナが、人工音声でやけに元気よく挨拶をしてきた。
彼女はここ遠藤家の管理を担うAI、つまり人工知能である。普通AIに名前は付けないし、ハードもないただのプログラムに性別などもちろんない。ただ怜華がそう呼んでいるのだ。
『本日はどうなさいますか?』
「んん……寝癖を直して……顔を洗うわ」
『承知致しました』
体がふわりと温かい霧に覆われる。差し出した手のひらに洗顔が載せられ、淡い香りが鼻をくすぐった。二分ほどで顔を洗い流す。
「ありがとう。乾かして」
『承知致しました』
熱過ぎず、冷た過ぎない風が全身に当たる。覚醒効果を高める香りが混ざっているのか、瑠璃は次第に頭がすっきりと晴れていくのを感じた。
「ありがとう。もういいわ」
『本日のお着替えは』
「大丈夫。いつも通りだから」
『失礼致しました』
瑠璃はてきぱきと制服を身に付けると、リビングの母の元へと戻った。
花の香りがポットから漂ってくる。瑠璃は大きく息を吸い込んだ。
「はい。どうぞ」
「ローズヒップ?」
「正解。さすが私の子ね!」
嬉しそうに笑顔を咲かせる怜華を見つめ、瑠璃は改めて変わった母だと微笑んだ。
――――時は2338年。
瑠璃たちの住む街では、十数年前から急速に機械化が進み、家事のほとんどをマシンが担うようになっていた。当然、今や自分の手で紅茶を淹れる人間はそう多くない。主婦に訊ねれば九十九パーセントがマシンを選ぶに違いなかった。
そんな時代にあって怜華は、手作業を好む数少ない人間の一人だった。毎朝決まった時間にお湯を沸かし、日替わりのブレンドティーを淹れる。
「なーに、ニコニコしちゃって?変な味でもする?」
「ううん、全然」
それは怜華の習慣であり趣味でもあったのだが、そんな彼女に育てられた瑠璃自身も、隙のない完璧な紅茶よりも淹れるたびに味が変わる、人間らしい紅茶の方が好きだった。
「そうだ、今日の天気は?」
「はいはい。ちょっと待って」
怜華が笑う。ポケットからイコンを取り出し、銀色のパネルに軽く触れた。すぐに成人認証システムが作動し、顔と虹紋が照合される。
イコンとは、成人と認められる十八歳の誕生日に支給されることになっている、薄いタブレット端末の名前だ。登録された本人以外は使えないので、身分証明としても使われている。成人してからはイコンが、六歳以上の未成年は学生証がなければ、この街の公共施設に入ることはできない。
『9月30日、本日の予報は晴れ、最高気温27℃、最低気温23℃です。日差しが強く、残暑の厳しい一日になります。降水確率は0%で――』
「傘は持って行かなくて大丈夫ね」
イコンの人工音声を途中で切り、怜華は飲みかけのコップを置いた。
「え?予報聞かなくていいの?」
「空を見れば、だいたい分かるわ。それより……今日は講習会が長引きそうだから、少し遅くなるわ」
「了解」
ビシッと敬礼のポーズをして、瑠璃は用意されたトーストに手をつけた。
「今日は何の講習?」
「抗生物質や消毒薬などの抗微生物薬に対する耐性細菌の出現について……って、瑠璃に言ってわかるかしら?」
「……今日の降水確率くらいは」
「ふふ。塩化銅水溶液の色は覚えた?」
「空の色でしょ?」
「正解。今日の授業は?」
「近代史……じゃないかな」
怜華はその世界では名の通った研究者で、今日のように講習に呼ばれることも少なくない。最近では講習と研究、どっちが本業か分からないほどだ。
瑠璃は文系の学生だが、講習会を手伝った経験から、母の携わる分野に関する多少の知識はある。しかし扱ったのはせいぜい学生レベルのものばかりで、それ以上のこと、つまり専門家レベルの知識には全く歯が立たないい。
あなたはそれでいいのよ、とよく母は笑っていた。
親子揃って研究職なんて、苦労するだけよ、と。
「じゃあ、そろそろ行かなきゃ」
身だしなみを整え、玄関を通り抜ける。
「じゃあ、行ってくる!」
「あっ、ちょっと待って瑠璃!」
怜華がエプロンを外しつつ駆け寄ってくる。エプロンなんて前時代的なものを使っているのも、この地区では彼女くらいなものだろう。
「なに?もう出なきゃ」
「ううん。寝癖、直ってるかなって」
悪戯っぽく笑う母に微笑んで靴を履く。
「直ってるよ。さっき鏡見たもん」
「そっか。あはは。そうよね」
「じゃあ、今日は早いから」
「うん。さようなら、瑠璃」
「行ってきます!」
そう微笑んだ瑠璃は肩越しに手を振り、外へと駆出した。