3.フライパンの上を転がるあの子
あの子のこと、噛りたい。きっと、チョコレートより角砂糖より甘くておいしい。うわあ、もうだめだ負けそうだ。本能とか理性とかってやつに。そんなのまだまだ無縁なお年頃だとおもってたのに!
次の日も変わらず、奈良くんは何食わぬ顔でわたしの前に現れた。ポケットの中を探って、溶けかけているチョコレートをくれる。わたしのぎこちなさは倍になっていたのに、奈良くんの笑顔はいつも通りだったのがなんだか不公平だと思った。
おかげでわたしの頭の中は、奈良くんだらけ。もやもや、どきどき。居心地の悪いなにかを振り払いたくて授業にひたすら集中することに決めた。それなのに。調理実習で、うっかりドジをして指を切ってしまった。予め用意していた絆創膏を貼ったら、授業が終わる頃には真っ赤になって染みていた。
新しい絆創膏をもらうため、保健室までの廊下を歩いていたわたしの前方から現れたジャージ姿の男の子が、わたしの顔を確認するなり「おっ」と短い声をあげた。
「噂の妖精ちゃんやん」
「(妖精ちゃん?)」
「…ん?指、どうした?怪我しとる」
「え?」
「真っ赤っか」
「あ、これ?ちょっと調理実習でドジしちゃっただけなので…」
「ほう」
にやり、と何か企んでいるようにも見える笑顔を崩さないまま、男の子は灰色の髪をなびかせて「妖精ちゃんは保健室行って、ゆーーっくり手当てしてもらっといでや」と、手を振りながら階段を降りていった。変な人。でも、どこかで見たことがあるような気がする。
だあれもいない保健室、気持ち良く揺れているカーテンから見えた満開の桜がすまし顔でウインクしている。赤い指先に、痛みに負けた涙がぽつんと一滴落ちていった。赤色で思い出すあの元気いっぱいの彼の顔が、ふいに浮かんで消えなくなって困ってしまう。でもあの人はこんな尖った色じゃなくて、もっとやわらかい色。あったかいの。
「見つけた…!」
大きな声で、名前を呼ばれた。甘いにおいが鼻をくすぐる。わたしが振り向く暇もないくらい早い勢いで、両肩をがっと掴まれた。奈良くんの手は、汗でじんわりとぬれていた。いつもの笑顔はどこにもない、焦り顔でわたしの顔をキョロキョロと慌ただしく見つめてくる。
「座ってて大丈夫なのか!?」
「え?う、うん」
「いやだめだろ!怪我人はベッドで横になってろよ!」
「え…で、でも…」
「でもじゃねえ!階段ですっ転んで壁に激突した奴が、大丈夫なわけねえだろうが!」
「かいだん…?」
「だから!!……あれ?」
ぱちりとお互い目を合わせて固まる。奈良くんが、今度はゆっくりとわたしを下から上まで観察しはじめた。両肩からのろのろと離れていった奈良くんの手。その顔は未だ、歪んだままだった。
「えーと…あれ…落ちたんだよな?階段から」
「ううん?ちがうよ」
「じゃ、じゃあ、壁には…」
「ぶ、ぶつかってないよ?」
「……まじで?」
「う、うん」
奈良くんの肩がふにゃりと力をなくしていくのがわかった。そして、ながいながーいため息をついたあと両手で顔を覆いながら、フラフラと身体をよろめかせてからその場にうずくまってしまった。よかった、と泣きそうな彼の声が耳に届いて、心臓がこそばゆくなる。
「…くそ、矢野の野郎…騙しやがって…」
「奈良くん?」
「……なんでもない」
「あ、あのね?指、包丁でちょこっと切っちゃっただけだから…」
「そっか」
「う、うん」
うつむいたままの赤い髪の上にふわりと乗ったのは、桜の花びら。…肩を上下させるくらい走ってきてくれたのだろうか。なんのために?わたしのために?
「奈良くん」
「ん」
「ありがとう」
「…おう」
指先から伝染するように、あなた色になる頬っぺたは緩むばかりだ。舞い込んだピンクの花びらは、いつもより無口な彼をやさしく包み込んでいる。
「奈良くんは、いつも気が付いたらわたしの傍にいてくれるよね」
わたしの何気ない呟きに、ピンクを乗せたままの赤色がゆっくりと顔をあげる。あ。あの時とおんなじ顔してる。夕焼けの空の下で見た、真剣なきみの眼がつよくつよくわたしを見上げた。
「まだ、気づかねえの?」
真っ赤に染まった指先に、遠慮がちに触れられた奈良くんの指先。困ったように無邪気に笑うから、そこから動けなくなる。
「でも、こういうのってちゃんと言わなきゃ伝わんねえよな」
わたしたちの目の前で、桜の花びらがふわふわと微笑むように落ちていった。
「好きなんだ、ずっと」