6.ウエハース進化論
ああっ、畜生、かわいいな!!!ぼくは今日も、きみのかわいさに地団駄するのだ。
今朝焼けた、バナナのパウンドケーキを丁寧に何当分かに切って、ラッピングしてカバンの中に詰め込んだ。お菓子作りのための早起きなんて、苦にもならないのだ。
「バナナ、好きかなあ」
真っ先に思い浮かんだのは、はにかんだ矢野くんのかおだった。ブワワッと頬が熱くなっていくのが分かって、ひとりで玄関先で戸惑いを見せるわたし。違うんだよ、矢野くんのために焼いたパウンドケーキじゃないんだよ。と自分で自分に言い聞かせながら歩くいつもの通学路。
そんな時だった。横断歩道の向こう側、あくびをしながらぴょんぴょんと跳ねるように軽々と歩く、矢野くんが見えた。彼のお気に入りのさくら色カーディガンは、今日は腰に巻かれてヒラヒラと揺れている。
「や…」
「矢野っち〜〜!おはよう〜!」
青になった横断歩道を早足で急ぎながら、ひょろ長い背中に声をかけようか迷っている内に、後ろからわたしを追い越していった女の子が元気な声を出して矢野くんの名前を呼んだ。…矢野っち?
「あー?…痛って!」
「おはよっ、矢野っち。いっしょに学校行こ?」
「なにすんねんお前…いきなり体当たりしてくんなや!つーか、矢野っち言うのやめろや」
「あ、矢野っち。後ろ髪跳ねてるよー、かわい〜〜」
「うっわ、触んなや!くっつくな、暑い!」
間抜けに開いていた口をパクンと閉じた。鬱陶しそうにかおを歪めた矢野くんと、きゃらきゃら笑いながら矢野くんの腕に両手を絡めて歩く恐ろしく美人な女の子を、わたしはただ突っ立って見つめていた。まるで、お似合いのカップルのようだ。矢野くんの長身に負けず劣らずなすらりとした長い足をスキップさせている謎の美女に、わたしや通行人たちは釘付け。同じ制服を着ているはずなのに、あの薔薇のような甘い色気に勝てる勝算がみつからない。ん?勝つ?何に?
上出来なパウンドケーキの仕上がりで、膨らんでいた気持ちがみるみる内にしおれていった。
*
学校のマドンナが、矢野くんに目をつけた。そんな噂で、朝からクラス中が騒めきたっている。わたしは自分の席に座り、ぷらぷらと足を揺らして、教室のドアの前に立つ話題の中心人物を眺めた。マドンナ、とは登校中に目撃したあの美人さんだ。なるほど、納得。見れば見るほど、並ぶふたりがとても絵になっている。
「ふふ、面白くなさそうだな遠藤」
「わっ!部長いたの?」
いつの間にか、わたしの前の席には部長が、ニマニマしながら椅子の上で胡坐をかいていた。こら、お下品だよ。面倒くさがりな部長が、わざわざ他クラスのわたしのもとへくるなんて珍しい。
「菓子の甘いにおいに誘われて、やってきた。今日はなんだ?」
「バナナのパウンドケーキだよ。はい、どうぞ」
「む…遠藤。“部長”には敬語使え、敬語を」
「だって、今部活中じゃないからいいでしょ?」
「えー…部長の威厳がへるじゃないかあ…」
「部長には特別に多めに作っておいたからね。あとでおやつにして食べてね」
「遠藤、だいすきだ!」
「現金だなあ」
パッと頬を綻ばせて、豪快にパウンドケーキを食べる部長は、ご機嫌だ。…部長も黙っていれば美人なのになあ。もう一度、ドアの方を見る。マドンナちゃんが耳元で、矢野くんに何かを言っている。学校一の美女は、声すらも可愛かった。
「あんな子、同じ学年にいたんだねえ…知らなかったなあ」
「ん?マドンナのことか?進学クラスらしいからな。滅多に会う機会もそんなにないだろう」
「美しいね…」
「そうか?ただの、クソビッチだろう。あの類いの女なんて」
「ビッチ?」
ペロリと唇を舐めた部長は、ごちそうさまと言って立ち上がった。マドンナちゃんが、一瞬こちらを見た、ような気がした。去りぎわも、なんて綺麗なんだろう。矢野くんはマドンナちゃんと話している間、ずっと機嫌が悪そうだった。
「お、薔薇男が戻ってきたな」
フラリと教室の中へとはいってきた矢野くんは、あちらこちらから投げ掛けられる冷やかしの声には、一度も立ち止まらずに真っ直ぐにわたしの席へと歩いてきた。いつもの癖で、身構えてしまうわたし。
「……まめちゃん」
「……は、はい」
「おはようゴザイマス」
「え?お、おはよう?」
おうむ返しするように、挨拶をすれば、矢野くんがへにゃへにゃとその場に崩れ落ちた。わたしの机に顎を乗っけて、くたくたのかおでへへっと笑っている。
「あ〜、やっぱりまめちゃんが一番落ち着く…」
「モテる男は苦労するな、薔薇男」
「ブチョーさん、分かってくれる?もー…疲れたわ俺…しんどい」
相当お疲れモードの矢野くんは、ぐてんと肩を落としてため息をついた。あ、本当だ。後ろ髪、少し跳ねちゃってる。いつものワックスで整えられていないぺったんこの髪の毛から、ぴょこんと立っている寝癖は、アンテナみたい。マドンナちゃんのことばを真似するつもりはないけれど、隙だらけのようで、隙がない彼が見せた珍しい一面。これはもう、かわいいなあって思っちゃうよ。
触ってみたい気持ちをウズウズと押さえていると、矢野くんがのそりとうなだれていた頭をあげて、鼻をくんと動かした。
「なんか、甘いにおいがする」
「遠藤特製のバナナパウンドケーキのにおいじゃないか」
「え、なにそれ。食いたい。まめちゃん、頂戴」
両手をわたしの前に差し出してくる矢野くんに、笑うしかなかった。渡すなりに、青のリボンをほどいて、すぐにパウンドケーキを頬張る姿も、なんだかかわいく見えてくる。矢野くんは、いつも素直で羨ましいなあ。それにひきかえ、わたしときたら。
「矢野くん、無理して食べなくてもいいんだよ?」
「なんで?うまいよ。それに今日のやつ、あんまり甘くないから食べやすいし、大丈夫」
「そ、そっか。良かった」
「ん?」
実は、甘さ控えめに作ったんだよ。矢野くんが食べやすいように。
なんて、そんな事簡単に言えるはずもなくって。上擦った、震えることばしかでてこなかった。
「特別、なの。今日だけ、特別」
「薔薇男、良かったな。特別待遇らしいぞ、お前だけ」
「へ?トクベツ?なにが?」
「道理で、今日のケーキは甘さが足りないと思ったんだ。はーん、なるほどなあ、薔薇男のためだったのか」
「部長、やめて!それ以上言わないで、恥ずかしいから!」
お喋りな部長の口を覆うも、事態が変わるわけもなかった。ぐいっと肩を掴まれて、部長から引き剥がされたかと思えば、机越しから矢野くんに、抱きつかれた。ほらやっぱり、このパターンだ!
「まめちゃん、好きです!だいっすきや!」
「うぎゃああうえおあああっ」
「ある意味、甘さ倍増だな」と、部長のどこか呆れたような苦笑が聞こえてきて、わたしは勢いよく矢野くんから離れようと試みるのだった。でも、耳元でそっと囁かれた「ありがとう」の微笑みのせいで、身動きすらとれなくなった。……この、卑怯者。
じんわりと溶けはじめたのは、頑丈だったはずの心臓か。それとも。