婚約破棄して銅鍋だけ持ち帰った料理娘、底から盗まれた給金を取り戻し、無愛想な宿主から二本目の厨房鍵をもらいました
「浮気男一人なら、一食抜けば忘れます。ですから私の銅鍋を返してください」
私がそう言うと、ヴァレンティンは商人の娘の肩から手を離した。
遅い。
離すなら、私が食料庫の扉を蹴り開ける前だ。婚礼朝食の玉葱を取りに来た花嫁が、婚約者の口に別の女の口がくっついているところを発見したあとでは、何もかも遅い。煮崩れた芋より手遅れである。
「ユーディット、これは違う」
「玉葱ではありませんね」
「そういう意味じゃない」
「では結構です。婚約は破棄します。銅鍋はどこです」
恋の説明は長い。朝食は冷める。私の人生にはもっとましな使い道がある。
ヴァレンティンが差し出した手を避け、私は食料庫を出た。
扉に肩をぶつけた。
痛い。
椅子にも腿をぶつけた。
かなり痛い。
玉葱籠を蹴倒した。
これは私が悪い。玉葱に罪はない。拾いたい。だが今しゃがんだら、何かが鼻から出そうなので無理だ。
「待て、ユーディット!」
「復讐より鍋です」
背筋を伸ばしたまま言った。声が少々裏返ったのは、腿を強打したせいである。異論は認めない。
婚礼用の白い前掛けを外し、調理台へ叩きつける。その下から仕事用の前掛けが出てくる。花嫁が駄目でも料理人は営業中だ。実に丈夫。
母から譲られた銅鍋は、支配人室の隅に置かれていた。なぜ食料庫脇の棚から移されたのか尋ねる気はなかった。両手で抱える。少し重い気がしたが、朝から心臓が余計な仕事をしているせいだろう。
婚約者一人。婚礼朝食一回。潰れた玉葱が四個。
一食分の損です。
街道宿「石橋亭」の勝手口を飛び出したところで、私は荷車に正面から突っ込んだ。
「うわっ」
「止まれ」
止まれと言われても、もう止まっている。荷車の横腹に顔から。
荷台の袋が傾き、玉葱が街路へ景気よく飛び出した。朝から二籠目。今日は玉葱に祟られている。
手綱を握っていたテオバルトさんが私を見下ろした。石橋亭の宿主で、笑顔を帳簿へ置き忘れてきたような人だ。自分で仕入れを確かめると言って、夜明け前から市場へ出ていたらしい。
「怪我は」
「玉葱が」
「お前の怪我だ」
「心に少々。腿に多めです」
テオバルトさんの視線が、私の仕事着、抱えた銅鍋、勝手口から飛び出してきたヴァレンティンを順に移った。
「何があった」
「婚約を捨ててきました。こちらは持参品なので持ち帰ります」
「ユーディット!」
ヴァレンティンは私には怒鳴ったくせに、テオバルトさんの前まで来ると襟を直した。声まで上等の布に着替える。
「テオバルト様、ちょうどよかった。この女を止めてください。宿の銅鍋と、使用人へ支払うはずだった給金を持ち逃げするつもりです」
「私の鍋です!」
「証文はあるのか。給金箱も空だ。お前が昨夜、帳場にいたのを見た者もいる」
「婚礼朝食の献立表を置きに行ったんでしょうが!」
「盗人は皆そう言う」
ヴァレンティンは勝ちを確信した顔で私を指した。使用人に命じるときだけ出る、あの太い声だ。
「鍋を渡せ、ユーディット。今なら私の妻になる件も——」
「煮え湯を飲む予定はありません」
「鍋を」
テオバルトさんが荷車から降り、私へ手を出した。
やはり疑うのか。宿主としては当然だ。当然だが腹が立つ。空腹なので、なおさら腹が立つ。
私は銅鍋を押しつけた。
「傷をつけたら弁償してください」
「証拠として預かる」
「母の鍋です」
「分かった」
「分かっていない顔です」
「その前に食え」
テオバルトさんが荷台の隅から蓋つきの椀を出した。
この状況で食事。
私は怒りと空腹を秤にかけた。空腹の圧勝だった。
椀を受け取り、腰の味見匙を抜く。匙の背で煮汁をすくい、口へ入れ、大げさに顔をしかめた。
「薄い」
「何が足りない」
「肉、豆、塩。あと煮込み時間。お湯に具が挨拶して帰った味です」
「材料は帳簿どおり使った」
「なら、帳簿か鍋のどちらかが嘘をついています」
追いついてきた皿洗い娘のリリが、街路へ散った玉葱を拾う手を止めた。
「昨日も薄かったです」
ヴァレンティンが振り向く。
「余計な口を挟むな。持ち場へ戻れ」
リリの肩が縮んだ。ヴァレンティンは満足げに鼻を鳴らし、テオバルトさんへ向き直ると声を薄くする。
「最近の使用人は不満ばかりでして。給金も、受け取ったのに受け取っていないと——」
「三回です」
リリは玉葱を抱えたまま言った。
「働いたのは九十日。給金をもらえなかったのは三回。夕食を抜いたのは十一回です」
私の空腹が、急に行儀よく座った。
三回。十一食。
婚約者の裏切りなど、一食で十分だ。こちらは三食でも足りません。
「帳簿を見せろ」
テオバルトさんが言うと、ヴァレンティンの声から肉が落ちた。
「も、もちろんです。ですが、まずは盗人を——」
「帳簿が先だ」
テオバルトさんは私の銅鍋を荷台へ載せた。
「ユーディット。厨房の小炉を一週間使え」
「雇うんですか、容疑者を」
「調べる」
「監視ですね」
「そう思っていろ」
何と腹立たしい。しかも腹立たしい顔で正論を言う。
私は残った煮汁を飲み干した。薄くても食事は食事だ。食べ物へ八つ当たりをするほど落ちぶれてはいない。
「玉葱十二個、拾ってください。潰れた二個は賄いにします」
「もう数えたのか」
「損失を数えない宿は潰れます」
テオバルトさんは返事をしなかった。ただ、自分の腰に一本だけ下がった厨房鍵を鳴らした。
* * *
石橋亭の厨房には、鍵が一本しかなかった。
持っているのはテオバルトさん。つまり私は、料理をするたび宿主を捜し、扉を開けてもらう必要がある。監視としては実に正しい。料理人としては非常に鬱陶しい。
「なぜ豆を先に水へ入れる」
「柔らかくするためです」
「何分」
「豆によります」
「これは」
「昨年物なので半刻余分」
「塩はいくら要る」
「今日の人数なら小匙八杯。汗をかく荷運び人が多いなら九杯」
「次はどうする」
「質問を鍋へ放り込み、蓋をして黙らせます」
テオバルトさんは黙った。
本当に黙るとは思わなかった。少しだけ罪悪感が出たので、匙の背へ豆を一粒載せて渡した。
「味見してください」
彼は食べた。
「顔が怖いです」
「元からだ」
翌朝、私の作った豆の煮込みの椀が空で返ってきた。縁にパンで拭った跡まである。
同情で買って、捨てることはしなかったらしい。それはよい。食べ物に罪はない。
「肉はいくら要る」
「昨日より客が六人多いので、二塊」
「三塊では」
「一塊は高い。茸で嵩を増やします」
「勤務は何刻までだ」
「それも取り調べですか」
「答えろ」
「夕食の片づけまで」
二つ目の空の椀が返ってきた。今度は煮汁一滴ない。何を証明したいのか。私が毒を入れないことか、料理を残さず食べる慈悲深い宿主であることか。
慈悲は給金にならない。私は借りとして帳面の隅へ書いた。椀二杯。材料費と小炉代。いつか返す。
三日目、仕入れの荷車がいつもより一刻早く着いた。青菜が萎れる前に下処理できる時刻だ。
「偶然ですか」
「市場が混む」
「昨日までも混んでいました」
「次はどうする」
質問で逃げた。取調べの腕だけは一流である。
私は鶏の煮込みを作った。焦げる直前に玉葱を上げ、肉の脂で茸を炒め、最後に塩を入れる。
返ってきた三つ目の椀には、小さな紙が入っていた。
『玉葱を上げるのは何色のときだ』
監視報告を椀へ入れるな。
私は紙の裏に『狐色。あなたの前髪より少し明るく』と書き、匙を添えて返した。
「ユーディットさん」
リリが裏口から顔を出した。
「支配人が、あなたの鍋を捜しています」
「鍋ならテオバルトさんが預かっています」
「その前です。三日前は支配人室。前の日は食料庫。その前は、帳場の裏にありました。重いから触るなって、ヴァレンティンさんが」
私は手を止めた。
「私の鍋を?」
「はい。底を上にしていました」
母の銅鍋は、台所で二十年働いた。底の傷も、取っ手の緩みも、火に当てたときの歌い方も知っている。
私は厨房を飛び出し、テオバルトさんを捜した。
もちろん扉は施錠されていた。
「鍵!」
「まず叩け」
「今それを言います!?」
廊下の向こうから来たテオバルトさんが鍵を開ける。私は彼の脇を抜け、保管棚の銅鍋へ飛びついた。
持ち上げる。
重い。
昨日までは、傷つけられないことばかり考えていた。今日は違う。重心が低すぎる。底を爪で弾くと、母の鍋では聞いたことのない、詰まった音がした。
「いつからだ」
「分かりません。婚礼料理に使うから、ヴァレンティンが磨いておくと」
「下がれ」
「私の鍋です」
「危険かもしれない」
「だから私がやります」
私は鍋を小炉へ掛け、熱で継ぎ目が浮くのを待った。鍋掴みで伏せ、一番重い味見匙の柄を握る。底の縁に、磨き粉で隠した新しい継ぎ目があった。
ヴァレンティンが厨房へ入ってきた。
「何をしている!」
使用人相手の声だ。大きい。太い。私が逆らわないと思っていたころの声。
「返せ、ユーディット。その鍋は宿の——」
匙の柄を振り上げた。
「母さん、ごめん。底だけ貸して——えいっ!」
がん、と手首まで痺れた。
一度。
二度。
三度目で、薄い板が内側へ割れた。
名を書いた紙包みが、床へばらばらと落ちた。
リリ。
厨房番。
馬丁。
洗濯係。
私の名まであった。受け取っていない給金が、きっちり人数分。母の鍋の底から、空腹にされた日数が飛び出してきた。
よし。
裏切り男の隠し事を、母の鍋が煮出してくれた。何という火力。胸のつかえが一息で吹き飛ぶ。鍋は凹んだが、ヴァレンティンの顔はもっと見事に凹んでいる。
「違う! これはユーディットが隠したんだ!」
ヴァレンティンが包みを拾おうとして踏み、滑った。
腰の鍵束が床へ落ちる。
彼は反射的に手で覆った。
「その鍵」
リリが指した。
「銅鍋が置かれていた保管庫の鍵は、どれですか」
「お前には関係ない!」
「ある」
テオバルトさんの一言で、ヴァレンティンの手が止まった。
私は包みを拾おうとして、割れた銅板へ指を触れた。熱い。指先がじゅっと鳴る。
「馬鹿」
テオバルトさんが私の手首を掴んだ。
「鍋が!」
「鍋は逃げない」
水桶へ手を突っ込まれる。冷たさに肩が跳ねた。彼は割れた鍋にも散った給金にも目をやらず、私の指を水の中で開かせた。
「痛むか」
「鍋のほうが重傷です」
「お前の手を聞いている」
「……少し」
背後でヴァレンティンが後ずさった。
「テオバルト様、話を。私は宿のために不足分を一時——」
テオバルトさんは私の手を水へ入れたまま振り返った。
「他人の空腹を利益に数えるな」
それだけだった。
決め台詞を奪われた。しかも私より低い声で。宿主とは横暴な職業である。
* * *
給金包みは、その日のうちに本人たちへ返された。
テオバルトさんは帳簿と中身を照合し、不足分をヴァレンティン自身の預け金から補わせた。私が鍋を壊した弁償分で埋めると言う前に、全額だ。
リリは自分の名が書かれた包みを両手で握った。
「これで弟にパンを買えます」
礼より先にそれが出た。
正しい。礼は腹を膨らませない。パンは膨らませる。
厨房番は受領欄へ印を押し、馬丁は硬貨を三度数え、洗濯係は黙って包みを胸元へ入れた。誰の金が誰へ戻ったか、一件ずつ帳簿へ残る。私の肩代わりは一枚もない。
最後にヴァレンティンの署名だった。
「給金の返還を認め、支配人職を辞する」
テオバルトさんが紙を置く。
「私は罠にはめられたんです。ユーディットが、私を恨んで——」
「署名を」
「婚約の行き違いまで仕事へ持ち込む女ですよ」
「署名を」
ヴァレンティンは私を見た。助けを求める顔ではない。まだ私なら言うことを聞くと信じている顔だった。
「ユーディット。お前からも説明しろ。私たちは結婚するはずだった」
「三日前までです」
「一度の過ちで——」
「一食分の損でした。もう消化しました」
ヴァレンティンの指が震え、紙へ署名した。
テオバルトさんは鍵束を受け取り、支配人章を外させ、勝手口を開けた。ヴァレンティンは商人の娘の名を口にし、それから私を責め、最後にはリリを睨んだ。誰一人、引き留めなかった。
扉が閉まる寸前、テオバルトさんがぼそりと言った。
「あいつの舌は、煮ても食えない」
私は危うく吹き出すところだった。
その顔で、それを言うのか。反則である。
ヴァレンティンが去ると、石橋亭には仕事だけが残った。
私は凹んだ銅鍋を布で包み、着替え二枚と味見匙を鞄へ入れた。疑いは晴れた。給金も戻った。なら、ここへ居続ける理由はない。
婚礼前の料理娘が婚約者を追い出したという話は、昼前には通りを一周していた。明日には尾鰭がつき、私は鍋で男を殴り倒した女になっているだろう。惜しい。殴ったのは鍋の底だ。
「どこへ行く」
開いた部屋の扉を、テオバルトさんが二度叩いた。
入る前に叩く人だっただろうか。
「町を出ます。厨房のある宿を探します」
「ここにある」
「評判の悪い料理人を雇えば、宿主の美談になりますね」
「美談は腹の足しにならない」
「同情なら、もっと要りません」
「同情ではない」
「では借りです。小炉代、材料費、椀三杯。鍋の補修代も」
「雇用条件を話したい」
「救済条件でしょう」
テオバルトさんの眉間のしわが深くなった。怒ったらしい。私も怒っているので引き分けだ。
「今夜まで待て」
「なぜです」
「食わせるものがある」
料理人を引き留めるのに料理を使うとは、いい度胸だ。
私は鞄を置いた。
「まずかったら出ます」
「分かった」
「空腹でも容赦しませんよ」
「それも分かっている」
* * *
夕方、厨房の扉を二度叩く音がした。
中にいるのは私で、鍵を持っているのはテオバルトさんだ。妙な話である。
「入る」
「どうぞ」
テオバルトさんが大鍋を運び込んだ。
煮込みらしい。玉葱は一部が黒い。肉の切り方は不揃い。豆は二種類混じっている。見た目だけなら、旅人が靴底を煮たと言われても納得できる。
「作ったんですか」
「ああ」
「私に恨みが?」
「味を見ろ」
匙を渡された。
私はいつものように背ですくった。舌へ載せる。
玉葱の甘み。肉の脂。茸。豆。塩は少ない。
「最初の日の煮汁ですね」
「違う」
「薄さは似ています。ただし肉が一塊増えた」
もう一口。
「茸で嵩を増やした。豆は昨年物を先に入れて、柔らかくなってから新豆を足した」
さらに一口。
「塩を最後にしたから、肉が固くない。焦げた玉葱は途中で上げた。半分は間に合わなかったようですが」
「色が分からなかった」
「あなたの前髪より少し明るく、と書きました」
「鏡を見ながら炒めろと?」
「そこまで面倒は見られません」
私は匙を置いた。
笑うところのはずなのに、うまく口角が上がらなかった。
この鍋の中に、私が三日間答えた質問が全部入っている。
「空の椀は」
「俺が食べた」
「毎日?」
「ああ」
「同情で買った料理を、捨てずに?」
「違う」
テオバルトさんは帳簿を一冊、作業台へ置いた。
一日目。豆の戻し時間。必要な薪。小匙八杯の塩。
二日目。客数ごとの肉と茸の量。片づけまでにかかった時間。
三日目。市場を出る時刻。青菜の到着。料理人と皿洗いが食事を取った時刻。
どの頁にも、返した椀の数が記されていた。
「売れ残りを買った記録では」
「出す料理を知らずに、値段を決められない」
「だから全部食べた?」
「量も知る必要があった」
「質問は取り調べでは」
「材料費と勤務時間を聞いた」
厨房の隅を見る。薪束は調理台の近くへ移されていた。三日前まで昼食抜きだったリリには、交代の休憩が書き込まれている。仕入れの時刻は、私の下ごしらえに合わせて一刻早くなった。
今朝、テオバルトさんは扉を叩いた。
私が使っている厨房へ、持ち主なのに。
「無断で変えた」
テオバルトさんが言った。
「よいと思ったことを、本人へ聞かずに」
腰から厨房鍵を外す。
「悪かった」
謝罪より先に、もう変わったものが並んでいた。空の椀。早い荷車。休憩の印。扉を叩く拳。
「今後は一件ずつ聞く。仕入れを何時にするか。誰を何刻休ませるか。何を献立に出すか。いくら要るか。次はどうするか」
「また質問だらけですね」
「ああ」
テオバルトさんが掌を開いた。
鍵があった。
今まで使っていたものと同じ形。同じ重さ。同じ厨房を開ける、二本目。
「これは」
「お前の鍵だ。受け取るかどうかも、お前が決めろ」
指が動かなかった。
恋だの何だのは、一食分に直せば片づくと思っていた。給金は三食、材料費は七杯、薪は二束。数えれば誰の損か分かる。返せる。切り離せる。
なのに、この鍵だけは何食分にもならない。
「善意は鍵を一本にしたまま渡すものではない」
ようやくそれだけ言った。
「ああ。だから二本にした」
「私が献立を決めても?」
「相談して決める」
「仕入れに文句を言います」
「聞く」
「焦がした玉葱を客へ出そうとしたら、鍋ごと追い出します」
「それは困る」
「宿を辞めますか」
「玉葱を捨てる」
私は鍵を取った。
金属の冷たさが、火傷した指へ当たる。テオバルトさんはそこを見たが、手を出さなかった。
「共同で厨房を使う条件を話します」
「雇用ではなく?」
「判断を半分よこせ」
「給金も半分ですか」
「適正額を聞く」
「高く言いますよ」
「根拠も聞く」
「本当に質問ばかり!」
「嫌か」
そこで黙るのは卑怯だ。
私は前掛けの紐へ鍵を結んだ。
「……嫌なら、受け取りません」
テオバルトさんが空の椀を一つ、私の前へ置いた。
「次はどうする」
「まず、この煮込みを救います」
* * *
翌朝、銅鍋が戻ってきた。
割った二重底は外され、本来の底には新しい銅板が当てられている。補修跡は隠されず、火を囲むように丸く残っていた。
「傷が」
「消すと薄くなるそうだ」
「誰に頼んだんです」
「鍋職人」
「いくら」
「共同経費」
先手を打たれた。腹立たしい。少しだけ、うれしい。いや、帳簿に載るなら当然だ。うれしくなどない。たぶん。
厨房へ運ぶと、使用人たちが中央の作業台を黙って空けた。
まな板が二枚。包丁が二本。味見用の椀も二つ。
リリが新しい厨房当番表を壁へ貼る。自分の休憩時刻を指で確かめ、私へ頷いた。
「今日は昼を食べます」
「当然です。パンだけで済ませたら豆を足しますよ」
「弟の分も買えました」
「それは帳簿の外です。好きなだけ」
補修跡のある銅鍋を、テオバルトさんと二人で中央の火へ掛けた。
「重いな」
「母の鍋ですから」
「違う。中身だ」
朝の煮込みには、豆、茸、肉、潰れた玉葱を入れた。潰れたからと捨てない。ただし腐ったものは入れない。そこは大切だ。非常に。
「損失を数えるのは、惜しいからか」
テオバルトさんが薪を足しながら聞いた。
「誰か一人に押しつけないためです。消えた薪が二束なら、運んだ人の二往復です。薄い煮汁が七杯なら、七人の腹がごまかされた。給金を抜いた人間には、空腹を数える係が必要でしょう」
「薄情だからではないんだな」
「誰がそんなことを」
「俺は疑っていると思われていた」
「質問の顔が怖いんです」
「元からだ」
鍋が煮立った。
私は匙の背で味を見て、顔をしかめた。
「塩、小匙一杯」
テオバルトさんが加える。
「半分と言っただろう」
「今日は荷運び人が多いです」
「なら一杯だ」
もう一度味を見る。今度は頷いた。
テオバルトさんが椀を二つ並べた。私は鍋から最初の一皿をよそい、半分を彼の椀へ移す。彼も自分の分から肉を一切れ、私のほうへ戻した。
「これは私の肉です」
「共同だ」
「便利な言葉を覚えましたね」
「次はどうする」
「食べます」
同じ鍋から、同時に匙を入れた。
玉葱の一部は黒かった。テオバルトさんが昨夜焦がした分だ。苦みがある。売り物なら作り直す。
私は黒い一片を半分に割り、片方を自分の椀へ、片方を彼の椀へ落とした。
「損失か」
「これは損失に数えません」
言った途端、前掛けの鍵がやけに大きな音を立てた。
しまった。
今のは帳簿へ載せてはいけない種類の発言だ。撤回。撤回したい。だがテオバルトさんがこちらを見ている。無愛想なくせに、こういうときだけ目がよい。
「ユーディット」
「仕入れを見てきます!」
私は厨房を飛び出した。
廊下を曲がるたび、二本目の鍵が腰で鳴る。うるさい。まるで私が何かを選んだと、宿中へ触れ回っているようではないか。
勝手口まで逃げたところで、焦げ臭さが追ってきた。
玉葱!
私は踵を返した。
「テオバルト、火を弱めて!」
厨房へ駆け戻ると、彼が鍋の前で待っていた。
二人分の匙を持って。




