プロジェクト・ヴァイス・ヴァ―サ『その少女は聖剣にあらず、その少年は勇者にあらず』
耳障りなサイレンの音が館内に響き渡る。
照明が落ちて暗くなった通路の中、無機質な白いタイルの床に、赤く回る非常灯の明りが反射してチカチカと瞬く。
「――どこに行った!?」
「まだこの辺りに居るはずだ! 探し出せ!」
「抵抗する場合は殺害以外のあらゆる攻撃を許可する! 必ず捕まえろ!」
隣の通路を複数の足音と影が通り過ぎていく。
その影の形は人型のものだけではなく、4足歩行のものや、翼や角を生やしたもの、果ては生き物の形から逸脱した幾何学的な形状のものも含まれていた。
足音が去り、近くに誰もいなくなったことを確認して、少女はゆっくりと息を吐いた。
立ち上がり、背を預けていた扉から離れようとして、少しよろめく。
緊張と興奮から来る震えがまだ収まらない。
ゆっくりと体勢を整え、体が自分の言うことを聞くことを確かめると、手探りで部屋の壁に触れる。
壁面を撫でるように探り、見つけた。指先が触れたスイッチを押すと、真っ暗だった部屋に光が灯る。
そこは思いの外広い部屋だった。学校の教室一つ分くらいはあるだろうか。
部屋の中央には、教壇くらいの大きさの黒い直方体が安置されている。
のっぺりとした質感の表面は、あらゆる光を吸収し、見ているだけで自分まで吸い込まれてしまいそうだ。
モノリスとでも言うべき何かの足元からは幾本もの白いケーブルが伸びており、四方の壁に取り付けられた様々な計器類に繋がっている。
「もしかして、これって……」
少女はその黒い物体に心当たりがあった。近づいて上面に手をかざすと、内部が振動するような音と共にホログラムのウィンドウが映し出される。ウィンドウを操作し、自分でも扱えることを確認。
「やっぱり! これなら……」
喜びが滲んだ声で少女はウィンドウの操作を進める。心なしかタイピングをする手つきも軽やかだ。
しかし、その作業が完了を迎えようとした丁度その時だった。
すさまじい音と衝撃と共に、部屋の扉が勢いよく打ち破られる。
「キャッ!?」
吹き飛ばされた扉が少女の身体を掠め、奥の壁に激突する。天井の照明が落ち、暗闇を取り戻した室内を、壊れた計器類から飛び散る火花と、中央でぼんやりと光るウィンドウが薄く照らす。
少女が振り返ると、微かな光が照らし出す先、扉の向こうには巨大な白い毛皮を持った何かがいた。
部屋の扉からでは全貌が見えないくらい巨大な体。扉を吹き飛ばしたその前足は丸太より太く、グルグルと低い唸り声をあげて中を伺う様子は獰猛な獣に違い無かった。
それは探る様に部屋の中に前足を突っ込み、自分が中に入れないことに気付くと今度は扉に向かって体当たりを始めた。
衝撃と共に部屋の壁がミシミシと音を立てる。幸い一発では壁は崩れなかったが、このまま続けられたらあとどれだけ持つか分からない。
「おい、あのクマが何か見つけたぞ!」
「こっちだ! 急げ!」
通路の向こうからこちらに向かって走ってくる足音も聞こえる。
あと30秒もしないうちに、彼らはこの部屋に侵入し、少女のことを捕えようとするだろう。
もはや迷っている暇はない。
少女は待機状態のウィンドウに飛びつき、操作を再開する。
残っている工程はほんの少し。5秒もあれば完了できる。
「ッ!」
だが、巨獣の体当たりが部屋を揺らす。手元がブレて組み上げたプログラムの一部が消えてしまう。
天井からはパラパラとコンクリートの粉が落ち、壁にわずかなヒビが入った。
「もう少しなのに……!」
血が滲むほど唇を強く噛み、パニックになりそうな心を抑えつける。
ドスン、ドスンと鈍い音が衝撃と共に何度も少女を震わせる。
そのたびに壁のヒビは大きくなっていき、少女の焦りもまた激しくなっていく。
繰り返すこと数度、先に限界を迎えたのは部屋の壁だった。
凄まじい音と共に、扉の周りの壁が砕け散る。
崩れ落ちるコンクリートの向こうに佇むのは、巨大なシロクマのような生物だった。真っ白な毛皮に全身を包まれ、その眼球すら白く濁り、獲物である少女を見据えている。
待ち望んだエサを目前にして、巨獣は迷うことなく少女に飛びかかった。
広いとはいえ教室程度の広さの室内に逃げ場は無い。まさしく絶体絶命の状況。
だが、最後まで機械の操作を諦めなかった少女の鋼の如き忍耐もまた、時を同じくして報われていた。
細かい設定は省略したが、この窮地を脱するために最低限の働きはしてくれるはずだ。
あとは目の前のボタンを押すだけ。
猛獣の牙を眼前にして、少女はほんの一瞬だけ行動を躊躇った。
これから自分が選ぼうとしている道は、これまで共に歩んできた同胞たちを裏切る道だ。これを押したら、もう後戻りはできない。
だが、答えはもう決まっている。自分と、自分の中にあるもう一つの魂が、それを望んでいる。
息を深く吸い、吐き出す。
そして、漆黒の装置の起動ボタンを押し込んだ。
その瞬間、装置から目も眩むようなまばゆい光が溢れ、部屋中を真っ白に染め上げた。
「急げ、なんだ今のは!」
「突入――あれ……?」
ほんの数秒遅れて、追手たちが部屋に雪崩れ込む。
しかし、元の暗闇を取り出した部屋の中には少女の姿も、怪物の姿も無い。
広い部屋の中央で、追手たちのライトに照らされたモノリスが、全ての光を飲み込むようにただ静かに鎮座していた。
――――――――――――――――――――――――――――――
太陽が西に傾き始めた放課後の時間。授業が終わった学生達で賑わう雑踏の中、いつもと変わらぬ帰り道をユキトは一人で歩いていた。
商業ビルの立ち並ぶ駅前の交差点で信号待ちをしていると、屋上に設置された巨大モニターから流れるニュースが耳に入ってくる。
「――次のニュースです。地球アクロージア連合軍『フロントライン』は、旧オーストラリアコロニー奪還作戦を中止、投入戦力の即時撤退を決定しました。3日前から開始された本作戦での、本日までの死者・行方不明者はおよそ12,000人にのぼるとみられ、これまで実施されてきた奪還作戦の中でも最大の被害を招く結果となりました。先月に入って科学兵器と魔法兵器のそれぞれに耐性を持つ新型のNOXが出現して以降、優勢だった各地の戦線は再び拮抗状態に陥り、死傷者は増加傾向に転じています。早急な対処法の発見に向けて、全世界で研究が急がれており――」
ユキトは一瞬ピクリと反応するが、すぐにそれを聞き流して、青になった横断歩道を渡り始めた。
「今日の夕飯はどうしようかな……、あ、昨日のカルルグオオエビが残ってたっけ。エビチリでも作るかな」
重苦しいニュースキャスターの声を振り払うように、献立の構想を口に出す。
すれ違う人の幾人かが怪訝そうな視線を向けるが気にしない。
そのままスタスタと歩き続けて街の中心部から遠ざかり、やがて人気のない住宅街に入り込んだ。
「それにしても、ここら辺は本当に変わらないよなあ」
20年前、この世界と異なる異世界との交流が始まってから、人々の生活は大きく変わった。地球でも少しずつ異世界人が増え、獣の耳や尻尾を備えた獣人や長い耳を持つエルフなどもまれに街中で見かけるくらいにはなった。とりわけ食文化においては180度ひっくり返ったと言っても過言ではない。
だがこの住宅街の風景だけは、ユキトが生まれる前からずっと変わらないらしい。
家族そろってこの道を通った思い出が、目を閉じれば今もありありと浮かんでくる。
こんな感傷に浸るのはもうこれで何度目になるかも分からない。だが、ユキトにとってはその追憶の時間が何よりも大切だった。
いつもの道をいつものように静かな心持ちで歩く。
だが、そんな白昼の夢心地は突然耳元に響いた声で強制的に現実に引き戻された。
「雨宮君、聞こえてる?」
「聞こえてますよ、林さん。何かありましたか?」
右耳に装着したイヤーカフス型の端末から聞こえてきたのは落ち着きのある女性の声だ。
この人から連絡があったということは……。
面倒事を予感して、ユキトは心の中で嘆息する。
「仕事よ雨宮君。エリアC8で通報があったわ。今近くで空いてるのは君だけだから現場に向かって頂戴」
「え、俺だけですか? マルさんや南沢さんは?」
「昨日のレクちゃんと聞いてなかったでしょ。今日は丸山さんは非番。南沢さんは東京湾の哨戒任務に駆り出されてるわ」
「あ~、そういえばそうでしたね」
「分かったら急いで頂戴」
「雨宮了解。これよりエリアC8に向かいます」
ユキトは首肯して、左腕を掲げる。そこにはありふれたデザインのスマートウォッチが巻き付けられていた。
「――アルテマポータル、起動」
ユキトの発声に反応して、掲げられた端末が起動し、光を放つ。
指向性を持って照射された光は、眼前の空間に拡散するように投影され、やがて何もなかったはずの空間に、2メートル四方の光のゲートが出現する。
それは何の模様や装飾もなく、全体が白く発光しているためにその奥に何があるのか全く見通せない。
ユキトはしかし、躊躇うことなくその光の中に足を踏み入れる。
全身がその光の中に入ると、光が強まり、ユキトを包み込んだ。
まばゆい光に目がくらむので瞼を閉じる。
この空間には何もない。足場となる床さえも存在せず、上下左右の区別もない。この感覚だけは何度体験しても慣れることはないだろう。
次の瞬間、瞼の外に感じていた眩しさが嘘のように消え失せ、地に足がつく感覚が戻る。転移が完了した合図だ。
今から20年前、別次元への移動を可能にし、異世界への扉を開いたアルテマシステム。その機能を応用したアルテマポータルは、次元の狭間を介して入口と出口の位相をずらし、疑似的な瞬間移動を可能にした。
目を開けると、ユキトは先ほどまでいた住宅街の通りの真ん中ではなく、白い部屋の中に立っていた。
学校の教室程の大きさの部屋だ。振り返るとユキトが入ってきた白い光の空間が小さく縮むように消えていくところだった。後ろには2mほどの高さの真っ黒な直方体の板が鎮座している。このモノリスはアルテマポータルの出口座標の目印となる装置で、日本コロニーの都市域ではおよそ5キロメートル間隔で整備されている。
「エリアC8のポータルへの転移を確認。バイタルに異常なし。位置情報をマップに送ったから現地に向かって」
「了解」
部屋の奥にあった扉を開けて部屋を出ると、強い風が顔に吹き付けてきて、ユキトは思わず目をすがめる。
そこはビルか何かの屋上のようだった。10階建てくらいの高さで、周りにはほかに高い建物は見当たらない。
遠くの方につい先刻までユキトが歩いていた住宅街のエリアが小さく見える。
制服のポケットから今度は携帯のような端末を取り出し、先ほど使った腕の端末にかざす。
「――アルテマウェポン、起動」
「――生体コードを確認中。ID25732、クラスB、雨宮雪人。――確認完了しました。アルテマウェポンの起動を承認。換装を開始します」
端末から電子音声が流れるのと同時、ユキトの全身が淡い光に包まれた。
すぐ光は消え、その時には既にユキトの姿は高校の制服からスカイブルーを基調とした隊服へと変化していた。背中には『フロントライン』の文字と扉の意匠のロゴが入っている。
ただ見た目が変化しただけでは当然ない。
イヤーカフス型の端末から展開されたARホロウィンドウが、眼下に広がる住宅街の中から目標の地点を強調表示する。
距離はおよそ300メートル。
「目標地点を視認。これより向かいます」
告げて、ユキトはビルの屋上から飛び降りる。直後、即座に側面の壁を蹴りつけて、一直線に目標地点に向かって弾丸のように飛び出した。
ものの5秒で300メートルの距離を飛び越し、着弾するがごとく住宅街の路面に着地する。衝撃で砕けたアスファルトが飛び散り土煙が舞う。
明らかに人体の限界を超えた挙動を取っているにも関わらず、ユキトは何事も無かったかのように、平然と立って砂ぼこりを払う。
これがアルテマウェポンの性能だ。装着者の身体機能を数倍以上に引き上げる。聞くところでは異世界の魔法技術なども使われているらしいが、詳しい仕組みはユキトもよく知らない。
「周辺の避難と交通規制は完了済みよ。通報によると飼い犬のシベリアンハスキーが鳥型のNOXに襲われたらしいわ。もし取り込まれているとしたらそこそこのサイズになってるはず」
林の言葉にユキトは少しばかり顔を顰める。
「それ、結構でかい奴じゃないですか。可愛いワンちゃんが良かったんですけど……っと、お出ましですよ」
着地地点の目の前に建つ一軒家、その門からソレはゆっくりと姿を現した。
純白の毛並み、純白の爪、純白の牙。全身の全てが無機質な白に覆われた異様な獣。その姿形はシベリアンハスキーそのものだが、本来の白黒の斑な体色は失われ、それどころか鼻先や口回りすらも白一色だ。そして何より、大きすぎる。
もともと大型犬の部類ではあるが、今目の前にいるソレは、体高1メートルを優に超える。牛や馬くらいのサイズはあるだろうか。
「NOX……」
20年前の異世界の発見がもたらした最悪の災厄。
その生命体は元は次元の狭間に潜む、細菌やバクテリアのような微小な存在だった。だが、彼らは人類がこじ開けた次元の扉を介して、二つの世界を発見する。地球とアクロージア。多種多様な生命に満ち溢れた、天国のような世界を。
彼らは驚異的な環境適応力と、取り込んだ物体の形質を獲得するという能力で、瞬く間に二つの世界を侵食し始める。
Neural-Organic-Xenophage(神経性有機異界生命体)。
縮めて「NOX」と呼称される彼らは種の繁栄のために侵攻を開始し、今この瞬間も世界中で人類との戦いが続いている、人類史上最悪の外敵だ。
シベリアンハスキーを取り込み、その全てを簒奪したNOXが、ユキトの姿を捉えたと同時、低い唸り声を上げてユキトに飛びかかってくる。
迫りくる鉤爪と牙。しかしユキトは動じない。
「――簡易ポータル起動」
手首の端末が即座に直径50センチメートル程のゲートを開く。
右手をゲートの中に突っ込むと、『向こう側』であらかじめ用意していたものに指が触れる。
次の瞬間、引き抜かれた手の中には黒い刀身の刀が握られていた。
引き抜くと同時、握った刀を振り払い、振り下ろされる鉤爪を弾き返す。
金属がぶつかる高い音が響き、火花が散る。
致命の一撃を防がれたNOXは驚いた様子で体を引いた。
その隙をユキトは見逃さない。
「出会いざまに襲い掛かるとは躾がなってない、なっ!」
地面を割る強烈な踏み込みから一歩で距離を詰め、刀を振り下ろす。
虚を突かれた白狗は防ぐ間もなくその一太刀を受け、左右真っ二つに両断された。
ドサリと音を立てて崩れ落ちる二つの塊。純白の巨獣は噴き出す体液すらもミルクのように白く濁っていた。そして生命活動を停止した肉塊は、その証左に見る見るうちにドロドロと液体状になって崩れ去っていった。
「NOXの活動停止を確認。討伐完了」
ユキトは落ち着いた声音で報告し、刀身についた体液を振り払った。
息一つ上がっていない。
「お疲れ様。これくらいならもう一人でも余裕ね。そろそろランクAの昇格試験を受けても良いんじゃないかしら」
「そんな。俺なんてまだまだですよ」
「私、結構本気で言ってるのよ。君の実力で野良のNOXを狩るだけっていうのはもったいないわ」
通話越しの声は少し不満そうだ。同僚から、それも先輩である林から褒められるというのは悪い気はしない。だが、ユキトは苦笑いをして首を横に振った。
「ありがとうございます。でも、すみません。前線は色々と……、その、トラウマがあるので」
「……そうだったわね。ごめんなさい。無理に勧めるつもりは無いから」
「いえ、分かってますよ。それじゃあ俺は帰投しますね」
何も気にしていない、という軽い素振りでユキトは話を打ち切った。
「了解。家に帰るならC7のポータルが近いから使うと良いわ」
「ありがとうございます。それじゃあお言葉に甘えて――アルテマポータル起動」
手首のデバイスが作動し、目の前にポータルが出現する。
傾き始めた西日がゲートを照らし、本来白いはずのポータルがオレンジに輝く。
イレギュラーな仕事はあったがたいして時間も取られなかった。すべては日常の範囲内。朝起きて学校に通い、放課後はたまに現れる野良のNOXを駆除し、家に帰ったら食事をして寝る。その繰り返し。
いたって普通の生活。自分はこの生活で満ち足りている。
――本当に、それでいいのか?
いいに決まっている。心の奥底から囁く小さな声をユキトは一考もせず切り捨てた。
今の生活を守ることがユキトの最優先事項だ。だって、それこそが両親が命を賭してユキトに与えてくれたものなのだから。
さあ帰ろう。
ユキトがポータルに足を踏み入れようとしたその時だった。
「ちょっと待って。ポータルの接続がおかしい。出口が設定したC7から別のモノリスに変わってる」
「別? 接続先とか間違えちゃいました?」
「いや、そんなはずは……。この識別コードって……嘘、オーストラリアコロニー!?」
いつも冷静沈着な林が珍しく驚きの声を上げる。
その言葉を聞いて、ユキトは眉をひそめた。
オーストラリアコロニーと言えば、ついさっきも街頭のニュースで流れていた。2年前にNOXの侵攻に敗れ、大陸の7割を放棄した暗黒の大陸。今もなお激しい戦闘が続くNOXと人類の戦いの最前線だ。
「これは……、向こうからポータルを開いて、使用中のポータルに割り込んでる?」
「林さん、どうしました? 一度ポータルを閉じた方が良いですかね?」
「そうね、そうした方が……、いや、これはまさか……!」
林の声音が困惑から焦りに変わった。
「雨宮君! 今すぐポータルから離れて! 何か来る!」
通話の向こうから緊迫した警告が飛ぶ。ユキトが咄嗟に後ろに飛んで距離を取ったその瞬間、ポータルが強く発光し、何かが勢いよく飛び出してきた。
「きゃあぁぁぁぁあああ!」
甲高い悲鳴と共に宙を舞うそれを、アルテマウェポンで強化された動体視力が正確に捉える。
それはユキトと同世代くらいの見た目をした少女だった。
どういうわけかポータルから斜め上に射出され、5メートルほど上空に打ち上げられた少女は、空中できりもみしながら落下を始める。どう見てもまともな着地がとれる様子ではない。
「なっ!? マジかよ!」
ユキトは慌てて少女に向かって跳躍、地面にぶつかるすんでのところで、少女の身体を受け止めることに成功した。
危ないところだった。あとほんの少しでもユキトの反応が遅れていれば少女は無事では済まなかっただろう。
一つ息をつき、腕の中の少女の様子を伺う。
少女は固く目を瞑り、身を縮めてプルプルと震えていた。
「もう大丈夫ですよ。安心してください」
ユキトが声を掛けると、ようやく自分が落下していないことに気付いた少女は恐る恐るといった様子でゆっくりと目を開けた。
薄い灰色の瞳がユキトの顔を捉える。アルビノという奴だろうか。肌の色も白く透き通っており全体的に色素が薄い印象を受ける。
「あのっ、その……、ありがとうございます」
見つめられたのが恥ずかしいようで、少女はユキトから目を逸らしながら礼を述べた。
「一人で立てますか? 痛いところがあれば教えてください」
ずっと抱きかかえているのも不自然なので、ゆっくりと少女を地面に下ろす。
ユキトの腕から解放された少女は立ち上がって体の具合を確認しつつ、心なしかユキトから少し距離を取った。
それは美しい少女だった。
地球ではあまり見かけない薄桃色の髪がサラサラと風に舞い、傾き始めた陽光を受けてキラキラと輝く。身長は百六十センチほどで年齢はユキトと同じくらいだろうか。手足はすらりと細く、肌は白く透き通っているが、少しばかりのあどけなさが残る横顔に不健康そうな印象はない。
上下ともに白を基調とした制服のような服装だが、これもまた地球ではあまり見かけないデザインだ。機能性が重視されており、制服というよりユキトが身につけている隊服に近いかもしれない。
しかし、白い肌に淡い瞳、そして白い服。こうも白く揃っているとまるで――
だが、その思考が結実するより先に、通信機から再び焦った声が飛ぶ。
「雨宮君、今すぐ離れなさい!」
「分かってますって。人型じゃないかちゃんと警戒して――」
「そうじゃない! ポータル! まだ来るわよ!」
咄嗟にポータルの方を振り返るとまさに今、ひと際強い輝きを放つ瞬間だった。
本来2メートル四方のサイズであるはずのポータルが、バリバリと嫌な音を立てて引き裂かれる。何か、強大な何かがポータルを通ってこちらに現れようとしているのだと、ユキトは直感した。
「嘘っ、まさか私と一緒に……!?」
隣の少女が何か言っているが、耳に入らない。それほどまでに、ユキトの意識はポータルにくぎ付けだった。
無理やりに拡張された出口から、悠然とした足取りでそれは現れる。
「危険よ! 離れて!」
遠くから聞こえる通信の声にも、固まった身体は動かない。
それは、先ほどユキトが倒した白狗と同じ、純白の毛皮を纏った化け物。
姿形は熊のそれによく似ているものの、ホッキョクグマというにはあまりに全身が白過ぎる。そしてその大きさもまた、シベリアンハスキーが巨大化していたのと同じく、否、それ以上に素体となった生物よりはるかに大きい。ワゴン車ほどもある見上げるような巨躯は、明らかに地球上の自然に存在する生物ではあり得ない。
だが、姿や大きさは大した問題ではない。NOXが素体の力を強化して巨大化するのはよくあることだ。ただ、それ以上の何かをユキトの直感が感じ取り、目の前の存在が常軌を逸した何かであると告げていた。
「グルルルルラアァァ!!」
白の巨獣が空に向かって大気を震わすような咆哮を上げる。
その時、NOXにくぎ付けだったユキトの意識はようやくその異変に気付いた。
空が暗い。
つい先程までは西日が一帯を橙に染め上げていたはずなのに、今やその光は見る影もない。空には黒い暗雲が立ち込め、ひんやりとした風が首筋を撫ぜる。
「グラァ!」
NOXが鋭く吠えると同時、その声に呼応するかのように雷鳴が鳴り、そして、白い稲妻がNOX自身に落ちた。
「なっ!?」
ユキトは思わず声を上げる。自然現象でNOXが倒されたからではない。
むしろその逆、NOXが全くの無傷だったからだ。
本来であれば全身の皮膚が焼け、ショックによる心肺停止は免れないような超高圧の自然の怒り。
だが、研いだ爪で自らの喉を掻き切る者はいない。
閃光の中から現れたNOXは一切のダメージを受けた様子は無く、それどころか受けた雷を全身に纏っていた。
帯電した電気がプラズマ化して白い火花を散らす。大気に触れて爆ぜた電気がバリバリと耳障りな音を立てる。
NOXがポータルをこじ開けて出てきた時の音は、この音だったのだと気付く。
「そんな……、まさかアクロージア産!?」
もう今日は幾度目かになる林の驚きの声を通話越しに聞く。
次元の狭間を超えた先にあるもう一つの世界。アクロージアと呼ばれるその世界には物理法則を超越した奇跡を呼ぶ、魔法の概念が存在する。そこに住まう生物の中でも魔法を扱える種は魔物と呼ばれ、現地の人類から畏怖される。
そしてそんな魔物を取り込んだNOXもまた、魔法を行使する超生物へと進化を果たすのだという。
話には聞いていたが、実際に対峙するのは初めてだ。
「君は今すぐここから逃げるんだ」
ユキトは少女の前に一歩踏み出し、手の中の黒刀を強く握りしめる。
NOXはその様子を見て、ユキトを標的と見定めたのか巨大な体躯を縮めて力を溜める。
来る!
そう思った時には既に鋭い鉤爪が眼前に迫っていた。
「早ッ!?」
咄嗟に黒刀を割り込ませ、かろうじて攻撃を受け流す。
切り返そうとするも、NOXは素早く飛び退り、剣閃は虚しく空を切った。
息つく暇もなく再びNOXが飛びかかり、何とか捌くがこれも反撃には至らない。
NOXはその手を緩めることなく、ヒット&アウェイの連撃を浴びせかける。
身に纏った電気を使って肉体を操作しているのだろうか。瞬間移動と見紛う高速移動から繰り出される攻撃は受け流すので精一杯だ。
しかも、その一撃一撃は重く鋭い。まともに受けていないにもかかわらず、腕に伝わる衝撃は犬型NOXの攻撃よりも遥かに強い。
「ぐっ!」
「雨宮君、君一人じゃ勝てない! 今すぐ逃げなさい!」
しかしユキトは応じない。
「ダメだ! それじゃ街が危ない!」
「本部に救援要請したからあと数分もすれば応援がやってくるわ!」
「1分でもこいつを放置したらどこで暴れるか分からない! この避難区域内で俺がこいつを抑える!」
絶え間ない攻撃を弾きながら、通信に叫び返す。
「無茶よ! 死にたいの!? 良いから逃げなさい!」
怒気の籠った林の声に、ユキトはそれでも後に退かない。
腕が痺れて重い。動きが段々と鈍っていく。あとどれだけ耐えられるか分からない。
それでも、自分の弱さのせいで誰かがNOXに殺されるのは許せなかった。
「おおおおおおお!」
雄叫びと共に刀を振るう。勢いを失いかけていた剣筋を気合で取り戻し、鋭い爪と牙を弾き返す。
その気迫に圧されたのかは分からないが、ふとNOXの猛攻が止んだ。
「グルルラァ!!」
距離を取ったNOXは襲い掛かる前の時のように、空に向かって吠えた。
充電切れでまた雷を呼ぼうとしているのだろうか。
それなら今が反撃のチャンスだ。
ユキトはNOXに向かって猛然と足を踏み出す。
極限状態の戦闘の中でわずかに見えた希望。
だが、そこに意識を奪われたユキトは、一つの可能性を失念してしまう。
相手のNOXは異世界の生物を取り込み雷の魔法を操る。
そして、魔法とは本来、遠距離を攻撃するのが得意なものだ。
パリ、と空気が裂ける音が聞こえた。
強烈な死の予感が脊髄を貫く。ミスった、と気付いた時にはもう遅い。
NOXに向けて飛び出そうとしたユキトはもう止まれない。
「あぶないっ!」
その時だった。
いつの間にか隣に現れた少女が、短く叫んでユキトの身体を突き飛ばした。
次の瞬間、天から落ちる白い稲妻が、一瞬前まで自分がいた場所――今は少女が飛び込んできた場所――を打ち抜いた。
なんで逃げなかった!? どうして庇った!?
驚愕と混乱で頭がいっぱいになりながらも、ふらりとよろめく少女に駆け寄ろうとする。
しかし、
「私なら大丈夫だから!」
ユキトは自身の目を疑う。
少女は倒れず踏みとどまり、そしてあろうことか後ろ手にユキトを制止していた。
アルテマウェポンに強化されたユキトですら死の危険を感じる超高電圧の落雷。その直撃を受けても意識を保っている。
身につけていた白い服は所々焼け焦げて煤けているが、顔や手など、肌が露出している部分にも目立った外傷はない。
「君は一体……ッ、危ないっ!」
己が雷を防いだ闖入者に対し、NOXはすぐさま牙をむく
ユキトが助けに入る暇もなく、瞬間移動と見紛う速度で彼我の距離を埋め、電光を纏った腕が振り下ろされる。
対する少女は退かなかった。
「駄目だ! 逃げろ!」
ユキトの警告も虚しく、次の瞬間には耳障りな鈍く重い音が響き、一拍遅れて衝撃波が辺り一帯を襲う。
「ぐっ……!」
ユキトは吹き飛ばされないようにその場に踏みとどまるので精一杯だった。
攻撃の余波だけでこの威力。ではそれを直に受けた少女の末路など、想像するまでも無い。
本来であればそのはずだ。
だが、ユキトの眼前の少女は五体満足でそこに立っていた。
頭の上で両腕をクロスするようにして、正面からその攻撃を受け止めている。
ありえない。ユキトは刀で受け流すのがやっとだったのに、真正面からあのNOXと押し合いをするなど。それも生身で。
ギリギリと押し合う接地点から火花が散る。
これだっておかしい。これはまるで金属と金属がぶつかり合っているような。
最初にポータルから飛び出してきた少女を受け止めた時は、間違いなく柔らかい人の肌の感触があった。
しかし、鋭く硬いNOXの爪を押し止める少女の両腕は切り裂かれるどころか食い込んでいる様子すらない。
間違いなく彼女は人間ではない何かだ。雷や巨大なNOXの攻撃を生身で耐える異常な耐久力。そして何より全体的に色素の薄い身体的特徴。これらが導く解はやはり――
「くうっ……!」
少女が苦悶の表情を浮かべ、小さくうめく。
異常な硬さと膂力を発揮する彼女をしても、2トンはあるだろうNOXの腕力に対しては、流石に体を支えるのがやっとの様子だ。巨大なクマの手で上から抑えつけられ、足元の地面が罅割れて、体が沈み始めている。
「もういい! 離れろ!」
今は少女の正体を推測している余裕などない。
ユキトは逡巡を打ち捨て、今にも少女を押しつぶさんとするNOXの腕に切りかかる。
アルテマウェポンの力を借りて常人の数倍以上に膨れ上がった膂力を、特殊合金製の黒刀に余すことなく乗せ、隙だらけのNOXに打ち込む。
しかしその刃は通らない。それどころか、NOXが全身に纏う電流が、黒刀を通してユキトを襲う。
「ぐああっ!」
「私なら大丈夫だから……! このサンダーベアは私が連れてきた……、からッ、私が何とかする! だから、あなたは逃げてっ……!」
「何言ってるんだ! そんなことできるわけないだろう!」
電流に弾かれ地面を転がるユキトに向けて、逃げろと告げる少女。
だがその細い身体は今にも崩れ落ちそうで、限界が近いのは明らかだった。
「私のことは良いから!」
それなのに、少女は頑として譲らない。
そして少年もまたそれは同じだった。
「良くない! NOXから人を守るのが俺の役目だ! 俺には君を守る責務がある!」
「私はヒトじゃない!!」
少女が叫ぶ。
「私はあなたの言うNOXなのっ! 取り込んだモノのおかげで電気も効かないしっ、切り刻まれたりもしないのっ! だから放っておいてよ!」
息も絶え絶えに少女が叫ぶ。
それはユキトの予感していた通りの解答で、信じたくもない悪夢のような真実だった。
NOXは人類の敵で、最悪の災厄。犬を取り込めば犬の姿を、熊を取り込めば熊の姿を、そして、人を取り込めば人の姿を模倣する。
目の前の少女、否、年端もいかない少女の姿をした目の前のNOXはつまり――
だけど、
「そんなことは関係ない!」
既にユキトの心は決まっていた。
彼女にどんな事情があるのかは分からない。だが、彼女がNOXで真に人間の敵であるのならば、どうして彼女は逃げなかった。どうして自身の身を挺してユキトを庇った。そして今、どうしてそんなに泣きそうに声を震わせてまで、一人で立ち向かおうとするのか。
「君は俺を助けてくれた。なら、俺も君を助ける!」
必死に重圧に耐える少女の背は小さく頼りない。だが、ユキトにはこれまでに見た誰よりも、その背が大きく強く映った。
これを無視して踵を返すことなど、あってはならない。
「簡易ポータル展開!」
黒刀ではサンダーベアとやらに刃が立たないばかりか、反撃の電撃を食らうことになる。
別の武器が必要だ。
しかし、
「どうして簡易ポータルが開かない!?」
本来であれば即座に展開されるはずの光のゲートが生成されない。端末の不具合か? 戦闘中に破損してしまったのか?
「林さん! 簡易ポータルの動作がおかしい! 確認してくれ!」
だが、ユキトの要請に対し、帰ってきた言葉は冷たかった。
「簡易ポータルの接続は私が切断しました。雨宮君、今すぐそこから離脱しなさい。これは命令です」
「どうしてだ林さん!? このままじゃ――」
「アクロージア産だけならまだしも人型まで出てきて、しかも両者が対立している。イレギュラーが多すぎます。これ以上の戦闘続行は認められません」
「でも!」
「君を庇ったとはいえ、あれもNOX。敵性生物であることに変わりはありません。それに、じきに救援も来ます。抑え込みももう不要です」
その声に先刻のような焦りの色は無く、淡々と告げる。
「もう一度言います。今すぐそこから離脱しなさい。これは命令です。違反には厳罰が課せられます」
「っ……」
ユキトは思わず唇を噛みしめる。
きっと林の判断は正しいのだろう。通話越しの声には一切の迷いは無く、そして彼女はこの上なく優秀だ。
客観的に見て、自分が間違ったことを言っているという自覚はある。NOXは人類の敵。それが人型であるならなおさら。
でも、それでも。
「おおおおおお!」
「ちょっ、雨宮君!?」
引き止める林の通信をシャットアウトし、ユキトは雄叫びを上げて走り出す。
黒刀を投げ捨て、隊服の上着を脱ぎ去ると、右腕に巻き付ける。
何でできているのかはよく知らないが、この素材が電気を通さないことは、ここまでの戦闘で気付いていた。
踏み込みの勢いそのままに、渾身の一撃をクマ型のNOX――サンダーベアの横っ腹に叩きこむ。
今度は体表の電気に弾かれること無く、その打撃は固い肉の塊を確かに打ち据えた。
「グオオオォォ」
綺麗に入った一撃には、さしもの巨獣もノーダメージとはいかず、苦悶の唸りをあげてよろめき、何歩か後ろに下がる。
「かっ……、はあっ……!」
重圧から解放された少女は膝を地につき、荒く息を吐く。
「大丈夫か!?」
「あ、ありがとう……。でも、私は……」
「今はそんなことは良い。それより備えるんだ。また来るぞ」
「グルルラァ!」
ユキトの動きを警戒したサンダーベアは後退して距離を取ると、再三、空に吠える。
すると今度は毛皮の周りに纏った電気がうごめき、中空に鋭い槍のような形を成した。その数は10、20……、30はあるだろうか。
「グルァ!」
短い号令と共に電撃の槍がユキト達に襲い掛かる。
ユキトは何とか身をひるがえしてそれを躱し、少女もまた、腕で急所を庇って受け止める。
しかしこの攻撃にはキリが無かった。雷槍が切れたと思ったらまたすぐに補充され、放たれる。近づく隙も無い。
「クソっ、これじゃまたじり貧だ……」
このままでは負ける。これでは隊律違反を犯してまで立ち向かった意味が無い。
焦りを募らせるユキトに、少女が声を掛ける。
「ねえっ、一つだけ……、たった一つだけ、あれを倒す方法があるんだけど」
「なんだよそれ! そんなものがあるなら最初から――」
しかしユキトは、文句を言おうとした口をつぐむ。それは彼女の表情が本当に思い詰めた様子だったからだ。
「私と、この先一生運命を共にする覚悟はある?」
「……分かった」
「そうでしょ。これから一生、敵であるNOXと共になんてできる訳――え?」
「それで、俺はどうしたらいい?」
「へ? いや、え!? 良いの!?」
平然と問うユキトに少女は驚きの声を上げる。
「だから良いって言ってるだろ」
「でも、一生ずっと」
「ここを乗り切れなきゃどのみちおしまいだろ?」
「でも私はNOXで、あなた達の敵で」
「君は俺を助けてくれた。それが敵のすることか?」
「でもそれが嘘だったら? あなたを陥れようとする罠だったら?」
「そうなのか?」
「違うの! 違うけど……、でも……」
「なら良いよ。俺は君を信じる、よっ」
言って、ユキトは飛び来る雷撃を右腕で弾く。
互いに雷の猛攻を捌きながらの会話。相手の表情は分からない。
けれど、少年は少女の言葉を信じて疑わなかった。
「逆に聞くけどさ、君は俺なんかで良いの? さっき会ったばかりの、それも人間で」
その言葉に少女は小さく頷く。
それまで縮こまる様にして雷撃を凌いでいた少女は、防御姿勢を解くとゆっくりと立ち上がり、そしてこちらに振り返った。
「人間であるあなたが、NOXである私を信じて運命を託してくれる。それだけで……、それだけで十分だよ」
少女は笑っていた。そして泣いていた。その透き通るような白い頬は微かに赤らみ、肌よりも透き通った水滴が軌跡を刻む。
その背に雷の雨を浴びながら、それを全く意に介さず、自然な足取りでユキトの前に歩み寄る。
少女の身が盾となり、ユキトもまた雷の槍から守られる。歪な形で生まれた束の間の安全地帯は、妙に静かだった。
目の前に立った少女がユキトに問う。
「私の名前はソフィー。あなたは?」
「俺はユキト。アマミヤユキトだ」
「ユキト。実は……、もう一つお願いがあるの」
「いいさ。運命共同体になろうって言うんだ。もう一つや二つどうってことないよ」
「ありがとう。それじゃあ――」
頷くユキトに少女は笑顔を浮かべ、囁くように願いを告げた。
「――わかったよ。そんなことで良いのなら」
ユキトの答えに満足した少女――ソフィーは胸の前で小さく手を組むと、何事かを唱え始めた。
「我が名はソフィー。永久の安寧を願い黄昏の刹那に祈る者。果て無き悔恨を抱き限りある魂を憂う者」
祝詞と共に、ソフィーの身体から白い光が滲むように浮かび、薄暗くなった辺りを照らし出す。
「彼の者は其を知らず。三度の邂逅と三度の離別を経て、繰り返すこと四度。幾度の生も其を別つこと能わず、幾度の死も其を繋ぐこと能わず」
光は輝きを増し、ソフィーの全身を眩く染め上げていく。
「されど我はこの身を捧ぐ。血肉を黒鉄に、魂を薪に、今再び彼の者に己が全てを託し授けん!」
詠唱の終わり際、一際光が強まり、ユキトは思わず目をすがめる。
そして間も無く光は徐々に弱まり、消えていく。
「これは……!?」
そこにあったものを見て、ユキトは思わず息を飲んだ。
ユキトが視線を戻した先、薄れゆく光の中から少女は忽然と姿を消していた。
そしてその代わりに少女が立っていた場所にあったのは、地面に突き立った一振りの大剣だった。
白く輝く両刃の大剣。装飾や複雑な意匠は無く、しかし洗練された無駄のないデザインだ。
「これを使えってこと、なのか?」
ユキトは剣の柄に手を掛ける。
『アマミヤユキトよ。』
「うわっ!」
剣に触れた瞬間、どういうわけかユキトの脳内にソフィーの声が直接響いた。
声はユキトに問う。
『――我は問う。汝は聖剣の勇者なりや?』
「あ、ああ、いいぜ。俺が勇者になってやる!」
ユキトは答え、両の手で剣を握り、地面から引き抜いた。
大剣は思いの外すんなりと路面から離れ、手の中に納まる。
見た目よりもかなり軽く片手でも扱えそうだ。そして何より手に馴染む。
『契約の儀式は成ったわ。これであなたは聖剣から勇者として認められた。正確には、私が取り込んだ聖剣ミリシオンの力を引き出した剣から、だけど』
「ソフィー、だよな? この剣は君が変身したものなのか?」
剣を通して聞こえるソフィーの声に、ユキトは問いかける。
『そうだよ。5年前、NOXがアクロージアから簒奪した4本の聖剣。そのうちの一振りである聖剣ミリシオンを私は取り込んだの』
聖剣。ファンタジーでしか聞いたことが無かったが、きっとアクロージアには実在するのだろう。察するにそれは、魔法やそれに類する特殊で強大な力を内包した剣。
その力の一部を引き出すことでソフィーは雷への耐性と異様な防御力を獲得していたのだ。
『でも剣は剣。真価を発揮するのは剣士の手の中でこそ。さて、細かい説明は後だよ。今は……』
「ああ、分かってるよ」
頷き、ユキトは剣を構える。
いつの間にか雷槍の嵐は止んでいた。
雷槍だけでは防がれることに気付いたか、ソフィーの変身を警戒したか。
代わりに身に纏う雷が増していた。しっかり充電して準備万端といった風情だ。
両者は向かい合い、睨み合う。
数秒の沈黙と膠着。
サンダーベアが纏う電流がバチバチと空気を叩く音だけが閑静な住宅街に響く。
動いたのはほぼ同時だった。
アルテマウェポンに強化された脚力と、電気操作により生み出される神速が彼我の距離を刹那に消し去る。
紫電を纏った鉤爪が目にもとまらぬ速さでユキトを膾にしようと迫りくる。
一人では受け流すので精一杯だったその攻撃を、ユキトは今度は正面から迎え撃つ。
ギン、と鈍い音が響く。
初撃の決着は果たして、ユキトの剣が振り抜かれ、サンダーベアの腕が後ろに弾かれていた。
意表を突かれ仰け反るサンダーベアにすかさず追撃を加える。
サンダーベアは何とか反応し、左の鉤爪でそれを防ごうとするが、不安定な体勢では正確な防御は難しい。
ユキトの一太刀はその鉤爪を指の根本からいとも容易く切り飛ばした。
邂逅から約5分。遂にサンダーベアにまともなダメージを与えるに至る。
「グオオオォォ!」
サンダーベアは苦悶の咆哮を上げ、思わず飛び退って距離を取った。
切り裂かれた傷口から零れる白い体液が黒いアスファルトに線を刻む。
「凄いな、どうなってるんだこれ!」
剣を構えなおし、油断なくサンダーベアの動きを伺いながらも、ユキトは自分が高揚しているのが分かっていた。
『聖剣ミリシオンの特性は『変幻自在』。この世界に存在するありとあらゆる物に姿と組成を変えることが出来るの。今はインパクトの瞬間だけ、剣の組成をプラスチックからアダマンタイトに変化させたから、勢いはそのままに重さと強度が乗ってすごい力になったってこと!』
ソフィーの自慢げな感情が伝わってくる。言葉だけでなく、精神的な部分でもどこかでリンクしているのかもしれない。
「なるほどな。っていうか今これプラスチック製なのか!?」
『軽くて振りやすいでしょ』
確かにそれはそうなのだがこれではまるでおもちゃの――
『そんなこと言うならずっとアダマンタイトでも良いけど』
「うわっ、悪かった!」
ズンと剣が重くなり、思わず取り落としそうになるのを慌てて両手で支える。
どうやら口に出さなくとも考えていることまで伝わってしまうらしい。
『冗談はこれくらいにして、さっさとやっつけるよ!』
「そうだな、行くぞ!」
ユキトは真っ直ぐにサンダーベアに向かって距離を詰める。体勢を立て直したサンダーベアが右手を振るう。
依然としてその攻撃はまともに食らえば致命傷だ。
今度は受け流すように剣の腹で斬撃を弾き、巨体の懐に潜り込む。
そのまま腹を切り裂かんと剣を振り上げる。
だがサンダーベアも簡単には隙を見せない。
神速の動きで体をひねり、剣閃は薄皮一枚を掠るのみに留まる。
それどころか、いつの間にか中空に現れた光の矢がお返しと言わんばかりにユキトの背後を狙って打ち放たれる。
『ユキト!』
『大丈夫だ!』
ユキトは体を回し、振り向きざまに剣で光の矢を叩き落とした。
ソフィーはどのようにしてか剣の身体になっても周囲の状況を認識できるらしい。
今の二人に死角は無い。
神速の爪撃に雷撃を織り交ぜ戦うサンダーベアに対し、常に最大出力の斬撃を繰り出し戦う。ユキトと聖剣ソフィー。
サンダーベアが左の爪を失ってなお、両者の戦闘力は拮抗していた。
一分に満たない時間の間に無数の剣戟と放電する火花が交錯する。
『やっぱり手強いわ。聖剣の力を引き出しても決め手に欠けるなんて』
鋭い牙の噛みつきを躱して、ソフィーが歯噛みするような声を上げる。
確かにこのままでは決定打に欠ける。それにパワーで拮抗していても、体力では負けている。このやり取りを続けていてもその内ガス欠になってこの均衡は崩れてしまうだろう。
何か、状況を打破する手がもう一手――
「雨宮君! 聞こえてる!? 応答しなさい!」
その時、切断していた林との通信が再起動し、怒った様子の声が鼓膜を叩いた。
ユキトの端末の操作権を奪って強制的に接続を取り戻したのだろう。
「聞こえてますよ。隊律違反者に何か御用ですか?」
3本の雷槍をまとめて消し飛ばしながら、通信に応じる。
「良かった……。無事だったのね。状況は?」
「まだ交戦中ですよ。ソフィーのおかげで何とか対等に戦えてます」
「ソフィーって……、まさかあの人型NOX?」
「そうですよ。それがどうかしましたか」
「まさか本当に共闘するなんて……。まあ一旦それは良いわ。だけど、その口ぶりだと苦戦してるみたいね」
「それは……」
ユキトは図星をつかれ口ごもった。その反応にを見て、林は畳かけるように言葉を続ける。
「もう周辺地域の避難も完了したわ。あと少しで支援部隊も来る。もう一度言うわ。撤退しなさい」
「それはできない」
「そう。でも、力ずくで帰ってきてもらうから」
次の瞬間、ユキトの腕に取り付けた端末が光を発しだす。
電子音声がユキトに告げる。
「――緊急コードを確認、アルテマポータルを強制起動します」
「なっ、強制送還コード!?」
「これなら君の意思は関係ない。戻ってきなさい」
「まいったな……、いや、そうか! これだ!」
光に包まれながらユキトは声を上げる。
『ソフィー。この剣は変幻自在だって言ってたよな。それは複雑な構造のものにもなれるのか?』
『もちろん。ただその構造を正確に理解してないといけないから、私が知らないものは無理だよ。それか、実物が無いと』
『なるほどな。それならこれはどうだ?』
『分かった……やってみるね!』
次の瞬間、アルテマポータルの白い光がユキトの身体を完全に包み込み、次元の狭間へその身を飛ばす。
白い光に満たされた無重力、無感覚の果て無い空間で、ユキトは一人目を瞑る。
こうなってしまうとユキトにできることはもうない。
次に目を開けた時にはポータルが繋がれた向こう側に立っているはずだ。
転送先は緊急コードに指定された近場の拠点のどこかだろう。
本来であれば。
『ユキト、できたよ!』
頭に響く明るい声にユキトはニヤリと口角を上げる。
パッと目を開けたその視界に映るのは、黒いアスファルトと、純白の背中。
強烈な浮遊感と共に、その背中は見る見るうちに大きさを増していく。
ユキトが転移した先、それはフロントラインの基地などではなく、サンダーベアの直上およそ30メートル。
「なっ、どうしてそんなところに!?」
基地への転送に失敗したことに気付いた林が通信で驚愕の声を上げるが、ユキトは動じない。
重力に導かれるままに一発の弾丸となって、落ちる。
サンダーベアはユキト達が忽然と姿を消したことに怒り狂っているようで、血眼であたりをキョロキョロと見回し低い唸り声を上げている。
敵が自分の真上に居ることに気付く術などない。
『行くぞ!』
『うん!』
剣の素材をアダマンタイトに変化させ、超重量の鋭い切っ先の狙いを定める。
サンダーベアとの距離は残り10メートル。
風を切る音か、はたまた電気的な揺らぎか、何かを感じ取ったサンダーベアが上空を見上げる。ようやく自身に向かって落ち来るユキト達の姿を認め、牙をむいて顔を怒りに歪めた。
「グルルルルガァアア!!」
咄嗟に雷槍を生み出し、対空防衛の構えを取るがもう遅い。
放たれた無数の槍をアダマンタイトの剣は寄せ付けない。
その全てを弾き飛ばし、頬を掠めた電流が肌を焼くのも厭わず、ただ一直線に落ちる。
「うおおおおおおお!!」
雄たけびと共に、渾身の力で剣を突き出す。
その切っ先はサンダーベアの首筋を確実に捉えた。
轟音。そして衝撃。
莫大な質量に落下の速度を乗せた、その全てのエネルギーが地表に伝わり、粉塵と共に大地を揺らす。
程なくして、住宅街は静寂を取り戻す。
風に飛ばされ晴れていく土煙の中から立ち上がったのは、ユキトだった。
「ゲホッ、ゲホッ……。土壇場だったけど上手くいったな」
足元を見やり呟く。
ユキトの立っている場所には、半径5メートルほどのクレーターが出来上がっていた。
その中心には頭と胴が分断されたサンダーベアの身体が転がっていて、他のNOX同様、空気に触れた断面から、白い液体状になってドロドロと崩れ去っていく。
『複雑な機械だったから解析はかなりギリギリだったよ。間に合って良かった』
ソフィーからも安心の感情が伝わってくる。
ユキトの右腕からは着けていた時計型の端末、アルテマポータルの起動装置が消えている。
聖剣の力は変幻自在。あらゆる物にその姿と組成を変化できる。ならば機械の構造を再現し、それに変化すれば、その機能もまた再現できるのではないか。ユキトはそう考えた。
そして、アルテマポータルの起動装置を再現することで、自由な瞬間移動を可能にできないか、と考えたのだ。
その狙いは上手くいった。
強制転移の最中、聖剣の力でポータルの操作権を取り戻したユキトとソフィーは、基地のモノリスから座標誘導を解除し、新たにサンダーベアの上空にポータルの出口を設定したのだった。
しかし、これはあまり分の良い賭けとは言えず、上手く行ったのは幸運も多分に作用していただろう。
と、その時、林からまた通信が入った。
「NOXの反応消失を確認。君は、君たちは一体……。いや、今はそのことはもういいわ」
疲れ果てた声からは諦めの感情が滲んでいる。もう何を追求しても無駄だと悟ったのだろう。
「ひとまずはお疲れ様。色々と聞きたい事もあるから、その人型NOXと一緒に基地まで出頭して頂戴」
「あ、すみません。俺フロントライン辞めます。基地にも戻らないです」
だが、ユキトは軽い口調でそれを断わった。
「はあ、……はあ!?」
通信の向こうの声が裏返るのを気にせず、ユキトは続ける。
「ソフィーの、人型NOXの力を借りるにあたって、俺は彼女ととある契約を結びました。俺はそれを履行しないといけない。……大丈夫ですよ。人類に仇なしたりとか、そう言うんじゃないんで」
ソフィーはNOX。いかに友好的であるとはいえ、人類の敵であることに変わりはない。
フロントラインに連れ帰ったところで、まともな処遇を受けられるとは到底考えられない。それは、彼女と契約を結んだ自分も同じ。
それに――
『――私と一緒に、ユルル村に来て欲しいの』
『ユルル村?』
『アクロージア大陸の西端にある小さな村だよ。私が取り込んだものは私たちNOXがそこから奪ったものなの。私はもとあった場所にこの力を返したい。本当の意味でこれを返すことはできないけれど、私は私の力を、本来の目的のために使いたい』
『分かったよ。そんなことでいいなら』
この聖剣が元はどのような役目を持っていたのかユキトは知らない。
けれど、ソフィーはNOXの為ではなく、そしてNOXから人を守るためでもなく、ただ、己が取り込んだ聖剣のために歩むことを望んでいた。
聖剣の契約者たる自分にはその望みを手伝う責務がある。それに、ユキト自身もこの不思議な少女が一体何を為すのか見届けたいと純粋に感じていた。
だから、
『ユキト』
『ああ、潮時だな』
ユキトの立つ位置からはるか後方、ユキトがここに来るために使ったエリアC8のビルの上部に光が灯る。
あれはアルテマポータルの光。林が呼んだ応援がようやくやってきたようだ。
「アルテマポータル、起動」
ユキトが剣を掲げ唱えると、目の前に白い光のゲートが開く。
この先はソフィーの中の聖剣の記憶を辿り、異世界の最果てに繋がっているはずだ。
ゲートに足を踏み入れようとして、ユキトは一度足を止める。
振り返り、街の景色を目に焼き付ける。
サンダーベアの呼んだ暗雲はいつの間にか散り、真っ赤な夕焼けがどこまでも世界をオレンジに染めていた。
どれだけかかるか分からないけれど、いつかまた帰ってこよう。
『ごめんね、ユキト。私の目的が果たされたら、またここにもどって来れるから』
『謝る必要はないさ。俺が決めたことだ。もう行こう』
申し訳なさそうなソフィーにクスリと笑って、ユキトはポータルの中に吸い込まれて消えた。
後には静寂だけがその場に留まる。
増援部隊が現場にたどり着いた時には、激しい戦闘の跡と、NOXだったもの以外、何も残っていなかった。
この出来事は様々なイレギュラーが重なった極めて重大な事件として、フロントラインの中でも厳重な調査と検証が行われた。
しかし、どれだけ調べても二人の消息はつかめなかった。アルテマポータルの痕跡から、アクロージアに転移したことまでは判明したものの、アクロージアは通信技術の発達が遅く、未開の地も多い。主要都市以外に隠れた人間を捜索するのは困難を極める。
やがて調査は打ち切られ、じきに人々の記憶からも忘れ去られていった。
時たまに古株の女性オペレーターが思い出したようにその話をするのだが、熱心に耳を傾ける者もいなくなった。
それから3年後、アクロージアで復活した魔王が、聖剣を写す少女と勇者を騙る青年によって打ち倒されたという話が伝わるが、それはまた別の話である。




