エピソード9
宿屋の窓から、夜明け前の街が見えた。
まだ暗いが、東の空がわずかに白み始めている。
カイルは窓辺に立ち、リュートを抱えていた。
弦に指を這わせるが、音は出さない。
エリアーナ。
彼女の顔が、頭から離れなかった。
初めて会った時の怯えた目。
庭で手を繋いだ時の驚いた表情。
そして、別れ際の小さな笑顔。
「……この国はおかしい」
カイルは低く呟いた。
人が人を避け、声を殺し、笑顔を忘れている。
それが、この国の「日常」だった。
故郷の祝祭諸島では考えられない。
毎日、誰かが歌っている。
笑っている。
怒鳴り合うこともあれば、泣くこともある。
それが生きるということだった。
「でも…ここは違う」
カイルは窓の外を見る。
通りを一人の男が歩いている。俯いて、誰とも目を合わせずに。
まるで幽霊のように。
「……これじゃあ、死んでるのと同じだ」
カイルは拳を握りしめた。
エリアーナも、同じだった。
塔に閉じ込められ、誰とも話さず、ただ本を読んで過ごしている。
魔法の才能があるのに使えない。
人と繋がる力があるのに繋がれない。
「エリアーナ」
カイルはリュートを構えた。
小さく、一音だけ鳴らす。
その音が静かな部屋に響いた。
「……俺に、できることは何だ?」
母が言っていた。
「お前の歌には人の心を動かす力がある。だから、大切に使いなさい」
カイルは目を閉じた。
人の心を動かす。
それが俺の役目?
「……やってみるか」
カイルは目を開けた。
「この国を目覚めさせる」
窓の外で、鳥が一羽、空を横切った。
その姿を見送りながら、カイルは小さく笑った。
「明日広場に行こう。そこで…歌おう」
リュートを抱え直す。
弦が月明かりを受けて輝きを放った。
同じ月が――
塔の最上階を静かに照らしていた。
エリアーナは窓辺に立ち、夜がほどけていくのを見つめている。
やがて、夜明けはゆっくりと近づき、東の空がわずかに赤みを帯び始めていた。
彼女の手の平には、一枚の花びらがあった。
庭で咲いた薔薇の花びら。
カイルと手を繋いだ時、咲いた花。
「……わたしの魔法が動いた」
エリアーナは花びらを見つめた。
生まれてから一度も、こんなことはなかった。
魔法の訓練を何度も受けた。けれど、何も起きなかった。
「わたしは、欠陥品だ」
そう言われ続けてきた。
でも、違った。
カイルと一緒にいた時、確かに何かが流れた。
温かくて、優しくて、まるで誰かの歌声のような魔法。
「……これが、共鳴」
エリアーナは胸に手を当てた。
まだ、その温もりが残っている気がした。
窓の外を見る。
街は静かだった。
いつものように、誰も声を出さない。
でも…もし…。
もし、この街の人たちが、カイルのように笑えたら?
もし、わたしのように誰かと手を繋げたら?
「……変われるかな」
エリアーナは呟いた。
「この国は変われるかな」
答えは返ってこない。
ただ、風が吹いて、花びらが手の平から舞い上がった。
それは窓の外へ飛び出し、夜明けの空へ消えていった。
エリアーナは、その姿を見送った。
そして、小さく決意した。
「もう一度魔法を…」
カイル。
あの人と一緒なら、わたしは変われる気がする。
東の空が少しずつ明るくなっていく。
新しい朝が始まろうとしていた。




