エピソード8
塔の最上階。
夜風が窓を叩く音だけが、規則的に続いていた。
部屋の中央に、ひとつの水盤がある。銀の縁に刻まれた紋様が淡く光り、水面の上には、城の庭の映像が静かに浮かんでいた。
そこには―満開の薔薇。
光は消えていたが、花そのものは残っている。
宰相ロウェンは無言のまま、その光景を見つめていた。
顔は感情を欠いていて、まるで人形のようだ。
ただ、その瞳の奥で、青い光が一定のリズムで瞬いていた。
リズムが速まっていく。
彼は右手を掲げ、水面の上に複雑な図形を描く。
音もなく、その軌跡が空気に浮かび上がる。
円、線、符。
それらがひとつに組み合わさり、まるで呼吸するように脈打った。
「―対象、識別。コードネーム:E-01」
ロウェンの声に抑揚はない。
淡々とまるで機械が数値を読み上げるように。
「魔力反応、覚醒レベル0.52……前回比+0.15。共鳴波形―外部由来。異質」
部屋の奥、厚いカーテンの向こうから声が響く。
「外部由来とは?」
低く重い声。
この国の王の声。
ロウェンは顔を上げないまま、淡々と答える。
「王都外から流入した共鳴体の可能性。形状、人型。魔力値―未測定です」
「旅人…か」
「その可能性が高いです。ただし、単なる人間であれば、反応は起きないはず」
静かな空間の中で風の音だけが、窓を震わせている。
王は静かに口を開いた。
「観察を続けろ。ただし、介入はするな。まだその時ではない」
「承知」
ロウェンは水面に視線を戻す。
一枚の花びらが風に舞っていた。
月の光に透けて、まるで誰かの名前を呼ぶように。
その光景を見た瞬間、ロウェンの目の奥に宿る青がかすかに揺らいだが、次の瞬間にはもうすでに元の冷たい光に戻っていた。
「観測データを封印。記録―完了」
手を下ろすと同時に、水盤の光が消え、部屋には再び闇が満ちた。
だが―その闇の奥、ほんの一瞬。
青い残光がまるで脈を打つように点滅した。
そして、彼の唇が微かに動いた。
「……あれが幸福か」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、闇に吸い込まれていった。




