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エピソード7

カイルはエリアーナを広場の隅に連れて行った。

人目につかない石の階段。

「ここなら少し落ち着けるな」

エリアーナがそっと座る。

石がひんやりと冷たい。

だが、隣にカイルがいる。

それだけで少し気持ちが楽になった。

「この街の人たち」

カイルが言う。

「誰も名前を呼ばないんだな」

エリアーナは頷く。

「……呼ぶ必要がないから」

「必要が…ない?」

彼女は少し考え続けた。

「私たちは役目で呼ばれるの。名前よりも、立場で。だから……名前を呼ぶときは…たぶん、何かを失うとき…」

カイルは息を止めた。

音楽を奏でてきた人間にとって、それはひどく哀しい世界の理に聞こえた。

「それは…寂しいね」

「寂しい……?」

エリアーナはその言葉を繰り返す。

寂しい。

そんな風に、考えたことがなかった。

「じゃあさ」

カイルはリュートを抱えたまま、軽く弦を鳴らした。


「ゲームをしよう」

「……ゲーム?」

「うん。名前を使わない自己紹介ゲーム」

エリアーナは首を傾げた。

カイルは弦を軽く鳴らしながら言う。

「名前を使わずに、どれだけ自分を伝えられるか。もし相手がそれをちゃんと感じ取れたら――そのとき初めて、名前を教える」

「……それはどんな意味があるの?」

「意味なんてないかもしれない」

カイルが微笑む。

「でも、この街では誰も本当の声を出さないだろ。だったら、せめて一度くらい―名前じゃない言葉で、君の音を聞きたい」

夜の空気がゆるやかに揺れた。

エリアーナの胸の奥で、あの金の糸が微かに震える。言葉にできない何かが、確かに共鳴している。

「……難しそう」

「簡単だよ。たとえば、俺なら―」

カイルはリュートを軽く鳴らした。

低い弦が一度だけ震え、温かい余韻を残す。

「俺は旅の途中で拾った星を、誰かに届けたくて街を渡り歩いてる。でも本当は――ただ、誰かに聴いてほしかっただけなんだ」

エリアーナはその音を聴きながら、ゆっくりと頷いた。

「……あなたの音、少し寂しい」

カイルの唇がわずかに笑みの形をつくる。

「じゃあ、次は君の番だ」

「私……?」

「うん。名前を使わずに自分のことを話してみて」


エリアーナは小さく息を吸った。

風が髪を揺らす。

広場の明かりが瞬き、どこか遠くで鐘の音がひとつ鳴った。

「……私は」

言葉を探す。

何を言えばいいのか分からない。

戸惑いながらも、エリアーナは胸の中に浮かんだ言葉を、そっとすくい上げる。

「私は……本しか読んだことがない。人の笑い声を、聞いたことがない。でも、ある夜――あなたの音楽を聴いた」

静かな空間の中で時間だけが静かに過ぎる。

だが、その沈黙の時はやさしかった。

カイルがそっと目を閉じる。

そして小さく弦を鳴らした。

「それで十分だ。もう君の音が聞こえた」

そのとき―エリアーナは気づいた。

胸の中であの金の糸がもう一度震えている。

それはふたりを繋ぐ微かな響き。

夜空のどこかで、見えない星がひとつ、瞬いた。

「カイル…ありがとう」

「こちらこそ」

ふたりは言葉少なに微笑み合う。それ以上の言葉はいらなかった。

やがて陽が傾き始める。

「そろそろ戻らないと」

エリアーナが立ち上がる。

「またここに来る?」

「……うん」

カイルが微笑む。

「じゃあ、明日の夜。広場で」

「約束」

エリアーナは、初めて自分から約束をした。その言葉が、胸の奥で温かく響いた。


***


その夜、エリアーナは部屋に戻った。

窓の外には月が浮かんでいる。

冷たい光が部屋の床を照らす。

胸の奥がまだ温かい。

カイルの手の温もり。

彼の笑顔。

そして、彼が教えてくれた『ゲーム』

(名前を言う必要のない自己紹介……)


エリアーナはもう一度自分の言葉を思い出す。

『私は本しか読んだことがない』

その言葉を口にした時、胸の奥で何かが震えた。それは、痛みのようで――でも、懐かしい鼓動のようでもあった。

机の上の白い花が揺れた。

風が吹いたわけではない。

ただ、揺れた。

エリアーナは目を見開く。

花弁(はなびら)がゆっくりと開いていく。

(つぼみ)だったはずの花が、音もなく咲いていく。

「……え?」

光が、微かに滲む。金色の糸が、花の周りを漂う。

(これは……)

エリアーナの胸に恐怖が走る。

――魔法。

共鳴魔法が勝手に発動している。

「やめて……!」

手を伸ばす。

けれど、光は消えない。

花が完全に開き、部屋中に甘い香りが満ちる。

その瞬間――窓の外で茂みにある薔薇が一斉(いっせい)に咲いた。


エリアーナは窓辺に駆け寄る。

外を見下ろすと、城の庭全体が光に包まれていた。

枯れていたはずの薔薇が、すべて満開になっている。

白く、赤く、金色に輝いて。

「……嘘」


幼い頃と同じ。

あの日、父の名を呼んだ時。

木々が枯れ、侍女(じじょ)たちが恐怖に震えた、あの日と。

(また……やってしまった)

足が震える。息ができない。

胸の奥で、あの金の糸がまだ脈打っている。

(止めなきゃ)

けれど、止め方がわからない。

その時―扉が開いた。

「姫様!」

ミラが駆け込んでくる。その顔は、青ざめていた。

「庭が……光って……」

「ごめんなさい」

エリアーナの声が震える。

「私、また……」

ミラはエリアーナの肩を掴んだ。

「落ち着いてください。深呼吸を」

「でも……」

「大丈夫。あなたは悪くない」

優しく響くミラの声。

その温もりに触れた瞬間、エリアーナの胸の光が―ゆっくりと、薄れていった。

窓の外の薔薇も、静かに光を失っていく。


エリアーナは、その場に座り込んだ。

「……怖い」

「姫様…」

「私の力が……人を傷つけるかもしれない」

ミラはそっとエリアーナの髪を撫でた。

「あなたの力は、花を咲かせました。それは、美しいことです」

「でも……」

「でも、あなたは恐れている。その恐れが、あなたを縛っているのです」

エリアーナは、涙を拭った。窓の外を見る。

薔薇は、まだ咲いている。光は消えても、花は残っている。

(……美しい?)

それは、本当に美しいのだろうか。

「ミラ」

「はい」

「私……また、外に出たい」

ミラが目を見開く。

「今日、カイルに会ったの。彼は、私にゲームを教えてくれた」

「ゲーム…?」

「名前を使わない、自己紹介」

エリアーナは、小さく微笑んだ。

「私、初めて……自分のことを話せた気がする…」

ミラの目が、優しく細まる。

「……姫様は変わり始めていますね」

「私が……?」

「ええ。良い方向に」

エリアーナは、胸に手を当てた。心臓が、静かに打っている。

(私が…いい方に…)

それは…怖いことだろうか。

窓の外で風が吹いた。

薔薇の花びらが一枚舞い上がる。

その花びらが、月の光に透けて―まるで、誰かの名前を呼ぶように、空へと消えていった。

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