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エピソード6

朝靄(あさもや)が市場を()うように流れ、白い息のように景色をなぞっていく。

カイルは通りの端に立ち、息を吐いた。白い呼気が、音もなく消える。

パン屋の(かま)が開く。香ばしい匂いが広がる。けれど、誰も足を止めない。

魚商が値札を掲げる。けれど、誰も声をかけない。

人々は黙々と、まるで決められた台本を演じるように動く。

「これを」

「ありがとう」

「おだやかな日を」

どの声も同じ高さ。

同じ速度。

抑揚がない。

カイルの指が無意識にリュートの弦をなぞる。昨夜の余韻がまだ残っている――あの少女の瞳に映った夜空と、薔薇の花の赤。

けれど、この街では音を出せば衛兵(えいへい)が来る。だから彼は弾かない。ただ聞いている。人々の足音を。馬車の車輪が石畳を転がる音を。

それだけで分かる。この街がどれほど深く、死んでいるのかが。


風が強く吹き抜け、店先に干された布や衣服が今にも飛んでいきそうなほど大きく(ひるがえ)った。

通りの角で小さな子どもが思わず母親の手を引いた。

その口が動く。

だが…声がしない。


いや、声は出ているのかもしれない。ただ、街がそれを許さない。音が生まれる前に、空気ごと飲み込んでしまう。

母親は子の肩を叩くだけだ。名前を呼ばない。

カイルは立ち止まる。胸の奥で、何かが軋んだ。

故郷では、子供が泣けば必ず名前で呼ぶ。「トム、どうした?」「リナ、大丈夫か?」名前を呼ぶことが、抱きしめることと同じだった。

それがここでは――ない。

母親は、我が子の名前すら呼ばない。

周りを見回す。誰も、誰の名も呼んでいない。

魚商は客の顔も見ずに魚を包む。パン屋は言葉もなくパンを渡す。人々はすれ違っても、視線を合わせない。

「互いを知らないまま生きてるのか…」

呟いた声が、あまりにも響かなくて、カイルは自分の耳を疑った。

リュートの弦が風に揺れて微かに鳴った。

その音が胸の奥で何かと共鳴する。


名前を呼ぶこと。

それが、この国で最も失われたものなのかもしれない。

「……自己紹介」

カイルは口の中で言葉を転がす。

祝祭諸島では、誰かと出会えば必ず名を交わす。それが「共鳴の儀」と呼ばれていて、名前を交換することで魂が繋がると信じられている。

ここでは、それが途絶えている。

だからこそ―

「よし」

カイルは軽く笑った。

「自己紹介か。遊びの形なら、きっと怖がらないだろう」

空を見上げる。塔の頂が、淡く朝日に染まっている。

あの窓の向こうで、彼女はもう起きているだろうか。

カイルはリュートを背にし、ゆっくりと歩き出した。足元で、砂の音が小さく鳴る。

この街で唯一、まだ息をしている音。


***


塔の窓から、街の広場が見える。

あの日、枯れた薔薇が咲いた場所。その向こうを、人々が淡く流れてゆく。

エリアーナは窓の縁に指を置く。冷たい石の感触。けれど今日は、少しだけ違う気がした。硬いのに、どこか柔らかい。

―カイル

その名を、口の中でそっと転がす。声には出さない。けれど、唇の形だけで音を作る。

それだけで、胸の奥に微かな響きが残った。心臓の音と重なって、静かに鳴っている。

(……次は、いつ来るのだろう)

そんなことを考えたのは、生まれて初めてだった。

机の上には、白いカップ。紅茶はとっくに冷めている。けれど捨てられなかった。その香りが、ほんの少しだけ外の空気に似ていたから。

その日の午後、エリアーナは決意した。

「外に…出たい」

侍女(じじょ)のミラが紅茶を注ぐ手を止める。

「…姫様?」

「カイルに…会いたいの」

ミラの目が、わずかに揺れた。心配、驚き、そして――ほんの少しの喜び。

「…お供いたします」

「いいえ」

エリアーナは首を振った。

「私一人で」

ミラは、しばらく黙っていた。やがて小さく頷く。

「……お気をつけて」

その声は震えていた。


螺旋階段を降りる。一段、また一段。

石の壁が冷たい。足音がやけに響く。

心臓が早鐘(はやがね)を打つ。

(大丈夫。ただ、外に出るだけ)

自分に言い聞かせる。けれど、手が震える。

門が見えた。衛兵が二人立っている。

エリアーナは立ち止まる。息ができない。

(……無理)

足が動かない。視線が怖い。

もし声をかけられたら?

もし変に思われたら?

胸が苦しい。

その時―風が吹いた。

どこからか、リュートの音が聞こえた気がした。

(……行かなきゃ)

エリアーナは、奥歯を噛みしめる。

一歩。

衛兵が顔を上げる。

「姫様……?」

声が出ない。けれど、頷いた。

衛兵は戸惑ったが、やがて門を開けた。扉が軋む。その音が、まるで世界の境界が開く音のように、大きく響いた。


外の世界は、明るすぎた。

陽の光が目に痛い。人々の足音が、やけに大きく聞こえる。

エリアーナは壁に背を押し付けて、息を整える。

(大丈夫……大丈夫……)

一歩…前へ。

通りに出る。

人がいる。たくさんいる。

誰も彼女を見ていない――はずなのに、視線が刺さる気がした。

(見られてる)

(変に思われてる)

(逃げなきゃ)

足が竦む。

パン屋の前を通り過ぎる。魚屋の横を通り過ぎる。

誰も、声をかけてこない。誰も、笑ってこない。

それなのに、怖い。

広場が見えた。あの、薔薇が咲いた場所。

でも―カイルはいない。

エリアーナの胸が、冷たくなる。

(……いない)


風が吹いた。

誰かが後ろを通り過ぎる。

その瞬間、エリアーナの足がもつれた。

「あっ」

石畳に手をつく。

冷たい。

痛い。

誰も助けてくれない。

人々は素通りしていく。

涙がにじんだ。


(……やっぱり、無理だった)

その時――

「大丈夫か?」

声がした。

顔を上げると、そこにカイルがいた。


彼は手を差し伸べている。

その手は温かそうだ。

「……カイル」

「やあ」

彼が微笑む。

「こんなところで会うなんて」

エリアーナはその手を取った。

温かい。

そっと立ち上がる足はまだ震えていた。

「ひとりで来たのか?」

「……うん」

カイルの目が、少し驚いたように見開かれた。

「すごいじゃないか」

「すごくない……怖かった…」

「怖かったのに来たんだな」

エリアーナは頷いた。

カイルは優しく笑った。

「それが一番すごいことなんだ」

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