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エピソード5

「これ、持ってけよ」

カイルがポケットから小さな金の糸を取り出した。

月光を受けて、細い光が揺れる。

「これは……?」

「海の祝祭で使う飾り糸だ。誰かと別れる時、これを結ぶんだ。また会おうっていう約束の印」

カイルはその糸を、薔薇の茎に結んだ。

指先が一瞬、彼女の手に触れる。

その触感が、熱のように残った。

「また…会える?」


自分でも驚くほど小さな声だった。

カイルは一瞬だけ空を見上げ笑った。

「ああ、もちろん」

その言葉とともに、金の糸が淡く光を放つ。

薔薇が一度だけ震え、淡い光を宙に散らした。

まるで、二人の間に小さな奇跡を閉じ込めるように。


そのとき。

東の空が、かすかに色づき始めた。

夜明け。

その兆しに気づいた瞬間、エリアーナの心が鋭く緊張する。

「行かなくちゃ」

その言葉を口にするのが、どうしてこんなに苦しいのだろう。

カイルは少し驚いたように眉を上げた。

「戻らないと……見張りが、来る」

「…そうか」

カイルは短く息をつき、肩の力を抜いた。

「気をつけてくれ」

エリアーナは立ち上がった。

「あなたも……」

振り返らずに、歩き出す。

けれど、背中に確かに感じた。

―誰かが、彼女の名前を呼んだ気がした。

塔へと続く道は長く、そして暗い。

けれど、今夜の闇はもう、以前のように冷たくはなかった。


***


塔の扉が低く(きし)む音を立てて閉じた。

外の風の匂いが、ひと呼吸の間だけ部屋の中に漂い、やがて消える。

その残り香を、エリアーナは吸い込んだ。


―外の世界の匂い。石と潮、花と煙。そして、知らない人の声が混じっていた。

足音を忍ばせて階段を上る。

階下からは、誰の気配もしない。

だが、壁の内側に埋め込まれた水晶が、微かに明滅していた。

青白い光。

それはまるで、息づくように脈打ち、塔の内部を"静寂で満たす"ために呼吸しているかのようだった。

この塔は、生きている。

王が編んだ魔法の網の中で、一音一音を見張るために。


部屋に戻ると、机の上に昨夜書いた手紙の切れ端が残っていた。

『もし誰かがこの手紙を読んでいるなら、今夜、あなたは一人ではない』

その文字を見つめた瞬間、胸の奥が痛んだ。

まるで、自分の言葉がもう過去の誰かのもののように思えた。

カイル。

あの旅人の名を心の中で呼ぶ。

呼ぶたびに、何かが揺れる。

それは恐怖に似ている。だが、恐怖ではない。もっとあたたかい――"響き"のような感覚。

塔の窓を開ける。

朝日が差し込み、青い水晶の光とぶつかる。

光と光が交わるとき、部屋の空気が一瞬ざわめいた。

―そのときだった。


「姫様」

低い声が背後からした。

エリアーナは振り向くと、宰相(さいしょう)ロウェンが立っていた。

「朝の祈りの時刻です」

「……はい」

彼の視線が、机の上の紙片を一瞬だけ掠めた。

その目に感情はなかった。

ただ、わずかに光った青い紋様が、瞳の奥で瞬いた。

―夢幻水晶の監視魔法。

彼の目を通して、この塔のすべてが見られている。

「……祈りの前に、陛下からのお言葉を(たまわ)りました」

「父上から?」

「沈黙は平穏の証。音は乱れの兆し。もし異音を感じたなら、それは内の心にある不調である、とのことです」

ロウェンの声は、まるで儀式の詠唱のようだった。

淡々と感情を持たずに。

だが、言葉は確実に胸に刺さる。

異音は心の不調…。

エリアーナは小さく微笑んだ。

「……そうね。気をつける」

ロウェンは無表情に頭を下げ、去っていった。

扉が閉まると、再び塔には静寂が満ちた。

その静寂はもう完全ではなかった。


胸の奥であの金の糸が微かに鳴っている。

音ではない。

でも、確かに響いていた。

窓の外、遠くの街角に、朝靄の中の人影が見えた気がした。

金色の髪がわずかに光る。


エリアーナは目を凝らした。

だが、次の瞬間にはもう、その姿は霧の向こうに消えていた。


彼女はそっと窓を閉めた。

その指先に、金糸の残り香が触れた気がした。

冷たく、けれどやさしい感触だった。

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