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エピソード4

翌朝。

エリアーナは塔の窓辺に座り、昨夜のことを思い返していた。

「エリアーナ」

彼があの名を呼んだ時の声が、まだ耳に残っている。

その響きを思い出すたびに、胸の奥が温かくなる。

まるで、初めて自分の名前を聞いたような気がした。

塔の中では、誰も彼女の名を呼ばない。

「姫様」と呼ばれるだけだ。

ただの「エリアーナ」として呼ばれることはない。


窓の外には、朝靄に包まれた街が広がっている。

あの広場は、どこだろう。

あの薔薇は、まだそこに咲いているだろうか。

指先が、無意識に窓枠をなぞる。

冷たい石の感触が、昨夜の記憶を呼び覚ます。

外の空気。風の匂い。そして―あの人の声。


(また、あの人に会いたい…)


そう思った瞬間、胸の奥で何かが震えた。

机の上に置かれた紅茶のカップが、微かに波紋を描く。

エリアーナは息を呑んだ。

今のって…私の力……?


その夜。

エリアーナは再び、塔を抜け出していた。

足音を忍ばせて石段を下りる。心臓が、胸の内側を叩いている。

昨夜よりも、恐怖は少ない。

期待のほうが大きいからだろう。

(本当に…来てくれるだろうか)


塔の扉を開ける。

夜風が顔を撫でた。

広場へ向かう道は、もう迷わない。足が、昨夜の記憶を辿っている。

霧の向こうに、広場の噴水が見えた。


そして―

そこに彼はいた。


広場の縁に腰を下ろし、リュートを抱えている。

月光を受けたその姿を見た瞬間、エリアーナの足が止まった。

(本当にいる)

胸が熱くなる。

カイルはふと顔を上げ、彼女を見つけて笑った。

「来たね」

その声は低く、けれど驚くほど優しかった。

エリアーナは小さく頷いた。声が出ない。

カイルはリュートを脇に置き、隣を軽く叩いた。

「少し話そうか」

エリアーナは立ったまま戸惑った。

(座る? ここに? 外で?)

そんな簡単なことさえ、どうすればいいのか分からなかった。

カイルが気づいて笑った。

「大丈夫。誰も来ないから」

その言葉に背中を押されて、エリアーナはゆっくりと腰を下ろした。

石畳が冷たい。けれど、その冷たさが心地いい。

隣に…彼がいる。

その事実だけで、世界が違って見えた。


「あなた…旅の人なの?」

「ああ」

カイルが空を見上げる。

「南の海を越えてきた。祝祭諸島ってところから」

「祝祭……」

その言葉を聞いた瞬間、彼女の心が小さく跳ねた。

幼い頃、母が語ってくれた物語の中にあった名前。

笑い声と音楽が絶えない、海の上の国。

誰もが毎日のように歌い、踊り、祝うことをやめない、不思議な島々。

「本当にそんな場所があるの?」

「もちろん」

カイルが目を細める。

「俺の故郷はさ、毎日が祭りみたいな場所なんだ」

「祭り…?」

「ああ。朝、目が覚めたら市場から笑い声が聞こえてくる。商人たちが冗談飛ばし合ってて、子供たちが追いかけっこしてて」

カイルの声が、少し懐かしそうに柔らかくなる。

「夜になれば誰かが酒場で歌い出す。知らない奴とも、気づいたら杯を交わしてる」

彼は少し間を置いて、微笑んだ。

「誰も一人で食卓につかないんだ」

エリアーナは息を呑んだ。

それはあまりにも、自分の世界と正反対だった。

「誰も…?」

「ああ。一人で食べるなんて、もったいないからな」

カイルが笑う。

「食事は誰かと分け合うから美味いんだ。笑い声があるから、味がする」

エリアーナの喉が、きゅっと締まった。

自分はいつも、一人で食事をしていた。

銀の皿に盛られた料理を、静かに口に運ぶ。味は分かる。けれど、それが「美味しい」のかどうか、よく分からなかった。

(笑い声があるから、味がする―)

その言葉が、胸の奥に沈んでいく。

「……どうして、そんな国からここへ?」

「この国の"沈黙"を見に来たんだ」

「沈黙を……?」

カイルはうなずく。

「旅の途中で聞いたんだ。夢幻水晶の国って話を。誰もが眠りの中で生きていて、現実では笑わない国。信じられなくてさ」

彼は広場の空を見上げた。そこには、薄い雲と、青白く滲む月。

「最初にこの街を見た時、正直、怖くなった」

「怖くなったって……?」

「ああ。人が歩いてるのに、足音がしない。灯りがあるのに、そこに誰の声もない」

カイルの声が、少しだけ沈む。

「まるで、世界が息を止めてるみたいで」

その言葉に、エリアーナは胸を押さえた。

彼が感じた"恐怖"は、彼女が生まれた時から背負ってきた空気そのものだった。

「……あなたには、聞こえるのね」

「何が?」

「沈黙の音が」

カイルは少し考えて、それから弦を一度、軽く鳴らした。

「ああ。聞こえる」

低い音が、夜気に溶けていく。

「沈黙って、静かじゃないんだ」

「……え?」

「むしろ、すごく叫んでる」

エリアーナは眉をひそめた。

「叫んでる……?」

「ああ。人が何かを我慢してる音。言いたいことを飲み込んでる音が―」

その瞬間、エリアーナの胸に何かが落ちた。

(そうか……そうだったんだ)

自分が感じていた息苦しさの正体。

それは静寂ではなく、誰もが飲み込んできた叫びの集まりだったのかもしれない。

塔の中で一人で過ごした無数の夜。

言葉にできなかった想い。

声にならなかった願い。

それら全てが、今も喉の奥で渦巻いている。

「……聞こえる」

エリアーナが呟く。

「今なら、聞こえる気がする」

カイルは彼女を見つめた。

その瞳は責めるでもなく、同情するでもなく、ただそこにいてくれる。


そのとき。

広場の隅にあった枯れた薔薇の茂みが震えた。

カイルもエリアーナも、同時にそちらに視線をおくる。

月光を受けた茂みの中で、一本の枝が淡く光り始めた。


そして―ひとつだけ、赤い(つぼみ)がついた。

「いま…咲いた?」

カイルが呟く。

エリアーナは立ち上がり、蕾に近づく。

それは確かに、生きていた。

花弁が、まるで心臓のように脈打っている。

「わたし……なにも、して……」

その瞬間、蕾がゆっくりと開いた。

金色の光が、花の中から溢れ出す。

それは二人の間に漂い、やがてエリアーナの胸元へ吸い込まれていった。

温かい。

胸の奥が初めて満たされる感覚。


――共鳴魔法。


その力が、長い沈黙を破って初めて目を覚ました瞬間だった。

カイルは息を呑んだまま、その光景を見つめていた。

そして小さく笑った。

「生きてるな」

その声は、まるで祝福のように優しかった。

「――この国で、こんな花を見るのは初めてだ」

エリアーナは指先をそっと薔薇に伸ばす。

花弁はほんのりと温かく、まるで息づいているようだった。

「……きれい」

それは、彼女が塔を出て初めて口にした素直な言葉だった。

薔薇の花が開いたあとの空気には、説明できない温度があった。

夜は相変わらず冷たいのに、胸の奥だけがやけに熱い。

「お前の力なんだな」

カイルが言った。

「わたしの……?」

「ああ。お前が感じたこと、思ったことが、魔法になった」

エリアーナは首を横に振った。

「でも、わたし……何も、唱えてない。魔法陣も描いてない」

「それでいいんだよ」

カイルが微笑む。

「本当の魔法は、心が動いた時に生まれる。技術じゃない。――繋がりなんだ」

繋がり。

その言葉を聞いた瞬間、エリアーナの胸がまた震えた。

薔薇の花が一度だけ揺れ、金色(こんじき)の光が宙に散った。

まるで二人の間に小さな奇跡を閉じ込めるように。

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