エピソード20
夜が終わった。
長く続いた沈黙の王都は、いま初めての朝を迎えようとしていた。
石畳をかすめる風が柔らかい。
屋根の上には夜露を透かすような光の粒。
遠くでは鐘が鳴っている。
その音はもう虚無の鈍い響きではなく、まるで、人々の胸の奥からこぼれる息のように温かかった。
城の広場では人々が互いに名を呼び合っていた。
「おはよう、リナ!」
「グレゴール、パンはもう焼けた?」
「マリナ! 市場が開くよ!」
誰もが名を声にして確かめる。
確かめるたびに笑う。
笑うたびに光が少しずつ濃くなる。
エリアーナは城壁の上に立って、その光景を見つめていた。
長い髪を風に揺らしながら、静かに目を閉じる。
その背後から、足音が近づく。
「君はもう、立派な王だね」
カイルだった。
彼の肩にはいつものリュート。
その表面には、昨日までにはなかった細かな傷が刻まれていた。
それはまるで、この国が歩んできた痛みを写し取ったようだった。
「王だなんて……」
そう言って、エリアーナは静かに微笑んだ。
「私はまだ何も知らない子どもだし」
「それでも君はこの国に、失われていた声を取り戻した」
カイルはそう言って、少しだけ目を細める。
「それはどんな力よりも強いものだよ」
少しの沈黙のあと、二人の間を光が通り抜けた。
「……これからどうするの?」
エリアーナの問いに、カイルはリュートの弦を軽く撫でた。
「旅に出ようと思う」
「旅?」
「北の海に、歌が消えた島があるらしい。そこに、新しい音を探しに行きたいんだ」
「また……行ってしまうのね」
「君が望むなら戻ってくる」
エリアーナは俯いた。
そして小さく笑った。
「きっとまた会える。だってあなたは、約束してくれたから」
「約束?」
「歌が海に響く場所で、私の名を呼ぶって」
カイルの唇に静かな笑みが浮かぶ。
「覚えていてくれたんだね」
「忘れません」
エリアーナは微笑んだ。
その表情はとても柔らかかった。
風がふたりの間を通り抜ける。
淡い光がリュートの弦をかすめて揺れた。
カイルは歩み寄り、エリアーナの手を取った。
冷たくも確かな手。
「君の声が俺の歌を導いてくれた。ありがとう、エリアーナ」
「こちらこそありがとう、カイル」
それだけで十分だった。
互いの名を呼び合う、それがこの物語のすべてだった。
カイルは背を向け階段を降りていく。
エリアーナはその背を見送った。
一歩、また一歩。
やがて彼の姿は、朝霧の中に溶けていく。
遠くの港の方から、かすかな歌声が聞こえた。
カイルの声だ。
潮風に溶けて空へと昇っていく。
「――エリアーナ」
愛する人の声が空に響く。
エリアーナは目を閉じ、胸の奥でその音を受け止める。
涙はもう出ない。
代わりに頬に柔らかな笑みが広がった。
「行ってらっしゃい」
風が花びらを連れて吹き抜ける。
その香りはどこか懐かしく、あの日、沈黙に覆われた城で咲いた白い薔薇のようだった。
同じ頃、城の影の通路で、ひとりの男が空を仰いでいた。
ロウェン。
彼はかつての宰相の衣を脱ぎ捨て、ただの旅人の姿になっていた。
「姫は…立派に王になられた」
誰にともなく呟き、静かに微笑む。
その掌の中には、かつて割らずに持っていた封書があった。
封はもう意味をなさない。
けれどロウェンはそれを燃やさなかった。
代わりに封書を胸に押し当て、目を閉じた。
「陛下。あなたの大切な娘は、あなたの願いよりも強く、優しい方でした」
光が彼の頬を照らす。
ロウェンは小さく息を吐き、そして歩き出した。
朝日の中へ。
王都の中央広場に人々が集う。
その中央には、新しく植えられた一本の白い薔薇の木。
「沈黙の国」が取り戻した、最初の花だった。
子どもがその花に名前をつけた。
「リュミエール」
エリアーナはその名を聞いてそっと微笑む。
光。
まさにこの国が取り戻したもの。
胸の奥で、もう一度、誰かの声が囁いた。
『痛みを名前で抱きしめなさい』
その声に彼女は静かに頷いた。
空に白い光が昇った。
新しい朝の始まりだった。
THE・END




