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エピソード2

七歳の誕生日。

エリアーナは初めて、城下町に出たいと願った。

しかし、父は即座に首を横に振った。

「外は危険だ。お前が傷つくのを見たくない」

「でも、お父様……」

「ダメだ」父の声は優しいが、揺るがなかった。「私はもう誰も失いたくないんだ。お前の母も、祭りの最中に……」

言葉が途切れた。父の目には涙が浮かんでいた。

その夜から、エリアーナの部屋には新しい水晶が置かれた。

「これがあれば、危険な外に出なくても、世界中を旅できる」

父は微笑んだ。

けれどエリアーナは知っていた。

水晶の中の世界は、どこまでも美しく、どこまでも空虚だった。そこには、人の温もりも、風の匂いも、何もなかったのだ。


***


「二十年前、あの日……祭りの夜に、どれほどの命が失われたかを忘れたか」

王の手が、わずかに震えている。

「父上は怖いのですか? また……あのようなことが起こるのが」

問いを口にした瞬間、宰相ロウェンの眉がかすかに動いた。しかし、王は怒らなかった。ただ、深く息を吐き、天井を見上げた。

「怖いとも。だが、恐怖を知らぬ者に国は守れぬ。わたしは静寂を選んだ。それが、最も多くを救う道だ」

「でも……」

言いかけた声は、喉の奥で止まった。王の瞳は、まっすぐ彼女を射抜いていた。

その光の中に、かつての優しい父の面影がほんの一瞬だけ見えた。

だがすぐに、それは霧に消えた。

「お前の力は危うい。心が動けば動くほど、外の世界の影を呼び寄せる。だからこそ、感情を静め、閉じよ。それが、アスケティカの姫としての務めだ」

沈黙が部屋を包んだ。

広間の空気が、氷のように固まる。

エリアーナは唇を噛み、俯いた。

そのとき、王の声が少しだけ和らいだ。

「お前が外の世界に興味を持つのは理解している。だが、外は音が多すぎる。人々はそれに酔い、やがて滅びる。我らは静けさの中にこそ真実を見出すのだ」

その言葉は、まるで呪文のようだったが、彼女の心にはひとつの問いが芽生えた。

では、私が昨夜聴いたあの音は…偽りだったの?

答えは出ない。

ただ、胸の奥でその音がまだ、微かに残響している。

まるで、誰かが遠くから呼んでいるように。

「下がりなさい、エリアーナ。明日からは、塔の外に出ることを禁ずる」

「……はい」

彼女の声が微かに震えた。

けれど王は気づかない。彼の瞳は、もう遠い過去の亡霊を見つめていた。

エリアーナは立ち上がり、静かに一礼すると、扉の方へ歩いた。

胸の奥で、何かが静かに燃えている。

それは反発か、悲しみか、それとも―

背後でロウェンが低く唱える。

「静寂の掟に従い、王国は今日も平穏なり」

その瞬間。

エリアーナの足元で、魔法灯の一つがわずかに明滅した。

ほんの一瞬、金色の光を放ち、また青に戻る。

誰も気づかない。

けれど、彼女だけは見た。

それは、閉ざされた王国に初めての揺らぎが生まれた瞬間だった。


***


夜が来た。

王都を(おお)う霧が、ゆっくりと塔の窓辺まで昇ってくる。その白い揺らめきは、まるで眠りにつこうとする巨大な獣の吐息のようだった。

塔の最上階。

エリアーナは机に積まれた本のページを閉じた。今夜はどの物語にも心が入っていかない。言葉の一つひとつが、どこか遠い世界のもののように感じられた。

窓の外には、黒い空と、月の淡い輪郭。

街の灯はほとんど見えない。それでも、かすかにいくつかの青い点が浮かんでいる。水晶の光。それはこの国で唯一、夜を照らす灯りだった。

生きているのに、誰も息をしていない。

そんな錯覚が、この国の夜にはいつもあった。

エリアーナは両手を胸の前で組み、そっと目を閉じた。

「……外の空気を、もう一度感じたい」

その囁きは、自分にすら届かないほど小さな声だった。

けれど、その瞬間―何かが窓を叩いた。

胸の奥が跳ね上がる。

まるで世界が、自分の声に応えたような錯覚。

「……誰?」

立ち上がって、そっと窓辺に近づく。外は霧が濃く、ほとんど何も見えない。

もう一度、音がした。今度は少しだけ強く。

エリアーナはためらいながらも、窓の鍵を外した。

冷たい空気が流れ込み、長い銀髪を揺らす。

その風の中から、小さな影がふらりと入ってきた。

一羽の小鳥だった。

濡れた羽を震わせながら、机の上に落ちる。薄茶色の羽根に、右足には何か細い紐が結ばれている。

「…あなた、どうしてこんなところに?」

鳥は小さく鳴いた。その声が、塔の静けさに溶けていく。

エリアーナは布を取って、そっとその身体を包んだ。足に結ばれていた紐をほどくと、小さな巻紙が出てきた。

細い羊皮紙(ようひし)に書かれた短い文。

震える手で開くと、そこにはたった一行、こう書かれていた。


「もし誰かがこの手紙を読んでいるなら、今夜、あなたは一人ではない」


エリアーナの呼吸が止まった。

胸の奥に灯がともったようだ。

あなたは一人ではない。

その言葉が、ずっと閉じ込められていた心の奥に、優しく触れた。

何年もの間、誰も自分に話しかけなかった。誰も自分の声を必要としなかった。

それなのに、今この瞬間だけは違う。

確かに、誰かが自分を「見つけて」くれた気がした。

鳥は小首をかしげ、黒い瞳で彼女を見上げる。その小さな瞳の中に、星明かりが映っていた。

「……ありがとう。あなたが届けてくれたのね」

彼女は指先で鳥の頭を撫でた。

その瞬間―

指先がかすかに温かく光った。

米粒ほどの小さな光。

まだ弱々しい。でも、確かに灯った。

自分の力が、初めて反応したのだ。

「ねえ……この手紙の主は誰なの?」

もちろん、小鳥が答えることはない。

けれど、その瞳の奥に映る外の夜が、ほんの少しだけ彼女を誘っていた。

霧の向こう。

あの見えない場所のどこかで、誰かが自分を想っている―そう感じた。

窓の外に手を伸ばす。冷たい空気が指先を撫で、心の奥で何かが動く。

恐怖と、憧れと、期待と。

相反する感情が、ひとつの色になって混ざっていく。

塔の下から、遠く微かな音が聴こえた。

風ではない。鐘でもない。

それは―歌のようだった。

言葉にはならない旋律。けれど確かに、人の声。

音の消えた国で、あり得ないはずの歌だった。

エリアーナの唇から、無意識に息が漏れる。

「これが外の音…?」

胸の鼓動が早くなる。

世界がほんの少しだけ息を吹き返したように感じた。


***


その夜、彼女は初めて、塔の外を見つめたまま眠れなかった。

手の中の小鳥はいつの間にか眠り、羊皮紙は彼女の胸の上に置かれている。

月が雲間から顔を出し、彼女の銀髪を照らした。

まるでその光が、「はじまり」を告げているかのように。

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