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エピソード18

城門はまるで呼吸を忘れた巨人のように、黙って(たたず)んでいた。

扉の表面に刻まれた紋章は、ひび割れ、金の粉が風に散っている。

かつて栄華の象徴だったその模様が、今は亡骸のように乾いていた。

だが、それでも扉は彼女を拒まなかった。

「開けてください」

エリアーナが(ささや)いた。

すぐに消えそうなほどの小さな声。

でも確かに空気は震えている。


鉄の蝶番がゆっくりと(きしみ)みを上げる。

扉の向こうに広がるのは長い回廊。

壁の鏡は曇り、かつて煌めいていた燭台の炎は、すでに灯りを忘れていた。

それでも、床に残る微かな靴音がかつての記憶を呼び起こす。

幼い頃、父と並んで歩いた道。

手を繋ぐことはなかったけれど、その背中を追いかけていた。

あのときの父は、いつも堂々としていたけれど、いまはどうだろう。

「エリアーナ」

カイルが後ろで呼んだ。

彼の声が彼女の意識を現実に戻す。

「無理はするなよ」

「ええ……でも行かなくちゃ」

振り返らずに答えた。

声が震えているのを自分でも感じた。


玉座の間の扉の前に立つ。

分厚い扉の向こうには、すべての始まりがある。

父の沈黙、ロウェンの記憶、国を覆った沈黙の法。


そして――彼女自身の、生まれてからずっと閉ざされた名前の記憶。


エリアーナは深呼吸をした。

「行こう」

カイルの言葉がその背を押した。

扉が開く。


そこは音のない世界だった。

天井は高く、光は薄く、床の大理石が鏡のように冷たい。

王の座は遠く、まるで夢の中のように曖昧だった。

玉座にはひとりの男が座っていた。

「……お父さま」

声が空気の中で弾けた。

その瞬間、世界がかすかに揺れた。

風が通り抜けたわけでもない。

ただ、長いあいだ止まっていた時が、ほんの少しだけ動いたのだ。

男はゆっくりと顔を上げた。

頬は削げ、髪は白く、瞳の奥に燃えていた光は、灰のように淡い。

それでも、そこに確かに「レオンハルト」という人間がそこにいた。

彼女が名を呼ぶまで、ずっと沈黙の王であり続けた人。

「……おまえ、来たのか」

その声はまるで掘り出された石のようだった。

音は低く、掠れている。

だが確かに生きていた。


「はい」

エリアーナは歩み寄る。

玉座までの距離はたった数歩。

その一歩ごとに、心臓が締めつけられる。

足音が響くたび、広間の壁が息を呑むように揺れる。

「……この国はもう限界なのですね」

「そうだ」

レオンハルトは答えた。

短く、重く。


「名を呼ぶことが、罪とされた時から、すべては崩れ始めていた」

「なぜ、止めなかったのですか」

問いかける声が震えた。

父を責める言葉ではない。

ただ、確かめたかった。

「お父さまなら止められたはずです」

「……私は恐れたのだ」

王はゆっくりと目を閉じた。

「おまえの声を聞いたとき、私は理解した。名を呼ぶということが、どれほど強い力を持つのかを。おまえがまだ幼かったあの日、城の庭で、泣きながら私の名を呼んだな」

エリアーナの胸が締まった。

覚えていた。

幼い頃、夜に迷子になったときに確かに父の名を呼んだ。

「お父さま」と叫ぶと、世界が震え、光が弾けた。

翌朝、庭にいた木々が枯れ、侍女(じじょ)たちは恐怖に震えていた。

その日を境に、彼女は声を奪われたのだ。

「私が世界を壊した……」

「違う」

レオンハルトの声が低く響く。

「壊したのは、私だ。おまえを恐れ、封じ、沈黙の法を作った。だが……」

彼はゆっくりと手を伸ばした。

指先が震えている。

「おまえが再び声を取り戻したと聞いたとき、私は……ほんの少しだけ、救われた気がした」


言葉はなかった。

ただ感情の余白だけが、静かに流れていた。

喉がひりつく。

息を吸うたび、胸の内側が焼け焦げるように痛む。

「お父さま」

もう一度呼ぶ。

その声はもう震えていなかった。

「あなたのお名前を教えてください」

レオンハルトの瞳がわずかに揺れる。

涙ではない。

ただ、彼の中で長いあいだ凍っていた何かが、音を立てて崩れていく。

やがて彼は微かに笑った。

「レオンハルト・アウローラ。それが……私の本当の名だ」

エリアーナは思わず息を呑んだ。


「アウローラ…」

それは母の姓だった。

父は母の姓を自分の名に刻んでいたのだ。

その時――光が広間を包んだ。

天井のステンドグラスが鳴り、壁に刻まれた古い祈りが震える。

カイルが思わずリュートを抱えた。

弦がひとりでに共鳴し、澄んだ音がひとつ、空気を貫いた。

エリアーナの胸の奥で、何かがほどけた。

涙が静かに頬を伝う。

「ありがとう、お父さま」

その言葉に世界が静かに呼応した。

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