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エピソード17

夜明け前の街は静かだった。

ただその静けさは安らぎではなく、息を詰めた緊張そのものだった。

石畳の目地に残る朝露は凍りつき、軒先(のきさき)の猫が丸くなったまま動かない。

窓には灯りが灯っているが窓辺の人影は動かず、青白い輝きが肌を透かしているだけだった。

人は確かにそこにいるはずなのに、「いる」という確かさだけが、奇妙なほど希薄だ。

エリアーナはその違和感を、胸の奥で静かに噛みしめる。

外の空気は冷たかったが、どこか澄んでいて、新しい季節の匂いが混じっている。

だがその静けさの中には、重たい温度が潜んでいる。

誰かの息遣いが、風にかき消される前の最後の瞬間のように、薄く浮かんでは消えた。

「まだ……」

彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。

声にならない声。

言葉にすると砕けそうで、だからこそ押し殺す。

遠くから鐘の低い残響が一つ、二つ。

城の奥でゆっくりと打たれる音。

始まりの合図のように。


カイルは隣で静かに歩いていた。

リュートの鞄は軽く肩に寄りかかり、弦の匂いが夜風に溶けていく。

彼の手は時折、小さく震える。

エリアーナはその震えに、自分の指先を合わせるように近づけた。

温かさが伝わる。

現実だった。


広場へ出ると、世界の輪郭が一層くっきりした。

普段なら屋台の匂い、人々のざわめき、子供の笑い声が混じり合う場所。

今は塵が舞う音、遠く誰かの靴が石に触れる音、ただそれだけが断片的に鳴る。

人々は行き交っているが、目と目が合うことは決してない。

挨拶も、言葉の応酬も、存在を確かめ合う行為が消えていた。

「昔に戻ってしまったか…」

カイルの声が小さく落ちた。

広場の中心には、あの日、自己紹介ゲームで使った台座がある。

金属の飾りはまだ光を帯びているが、周囲の空気は薄く剥がれた布のようにたるんでいた。

あの日、幾つかの声が紡がれ、光の糸が空に走った。

それが目に見えなくなり、風に溶けても、彼とエリアーナの記憶にはまだ暖かかった。

エリアーナの胸に、あの光の残響が戻ってくる。

指先に残る小さな光の糸。

広場で交わした人々の表情。

名前を呼んだときの、凍りかけた心が少し溶ける感触。

「虚無は遠くから来るわけじゃない」

カイルがぽつりと言った。

「うん…」

彼女は頷き、言葉を紡ぐ。

声は自分でも驚くほど細かったが、胸の内で、言葉がひとつずつ膨らんでいく。

「ずっとここにあった。私たちが作ったものが、また戻ってきたんだわ」

ある老婆が荷車を押して通り過ぎる。

白髪の額に刻まれた皺が月光に溶ける。

老婆は目を伏せ、口を動かしていた。

何を言っているのか、エリアーナにはわからない。

だが口元の震えに、名前を探す努力のようなものを見た気がした。

彼女の心が締めつけられる。


「声を奪うんだ」

エリアーナは自分の中の小さな恐怖に向き合った。


それは物理的な奪取ではなかった。

記憶の縁からひとつずつ言葉をそっと剥がしてしまうやり方。

「俺はダリウスだ」と言えなくなれば、その人は名前という核を失い、薄れていく。

薄れていくとやがて消える。

虚無は人々の不在の中で膨らむのだ。

二人の足取りは自然と城の方向へ向かう。

城壁の影が伸び、塔の輪郭が空を突く。

路地を曲がると、夢幻水晶(むげんすいしょう)を抱えた若者がひとり、立ち尽くしていた。

水晶は青白く脈打ち、画面には流れる風景が映っている。

彼は指先でそれをなぞり、目はスクリーンに釘付けだ。

エリアーナは立ち止まり、その青年に近づいた。

青年は一瞬のように顔を上げ、そしてまた俯いた。

目に光はなかったが、小さく震えた唇が何かを呟いた。

それは名前に似ていた。だが風にかき消される。


「君、名前は?」

カイルが優しく囁いた。

青年は怯えて、言葉にならない音だけを漏らした。

音は震え、途切れ、そして消えた。

エリアーナは小さく手を上げ、青年の手を包んだ。

指先に触れると、ほんの小さな温度が伝わった。

まるで誰かが灯した火のように不安げだが確かな存在。

青年は目を細め、ゆっくりと息を吐いた。

唇が動く。

かすれたが言葉になった。

「……トム」

その一つの音が、二人の間の空気を震わせる。

周囲の人々がちらりと顔を向ける。

小さな波紋が広がった。

エリアーナは手の中に伝わる震えを感じながら、胸の奥で暖かい光がほんの少しだけ復帰するのを知った。

「来て」

彼女はそっと言って、青年の手を引き、広場の台座へと誘った。

彼女の声が掠れるように聞こえた。

風の中で溶けそうなほど細い。

だが、それは確かな出発点だった。

塔の影がさらに濃くなる。

虚無の匂いが、遠い潮のように鼻腔(びくう)をくすぐる。


エリアーナはもう迷わない。

胸に灯ったのは怖れではない。

確かな意志。

「一歩ずつ行こう」

カイルが(ささや)く。

彼の言葉は慰めではなく約束だった。

二人は互いに視線を交わし歩き出した。

背後で王都の鐘がもう一度鳴る。

音は小さい。

だけど、確かに届いた。

夜の冷たさの向こうに、まだ見ぬ朝がある。

そしてその朝に向かって、二人はゆっくりと歩を進めた。

『名前』を呼ぶために。

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