エピソード16
夜半の王城を、低く鈍い振動が走った。
石壁が低く唸り、燭台の炎が理由もなく身をすくめる。
ロウェンは伏せたままの視線を動かさず、静かに息を吐いた。
姫が塔を出た。
伝令の声がまだ耳に残っている。
その声には恐怖が混じっていた。
無理もない。
王命に逆らうことは、すなわちこの国の秩序に背くことだったからだ。
「……やはり、こうなったか」
ロウェンはゆっくりと立ち上がった。
机の隅には、封を解かぬままの王印が置かれている。
数日前に届いたものだ。
彼はまだ、その封蝋を割ることができずにいた。
ロウェンは窓辺に立ち、遠い過去を思い出した。
まだ若かった頃。
王の命により、ある村を「封印」したことがあった。
人々が祭りを開いたことで、「虚無の影」が現れたからだ。
彼は村全体に沈黙の魔法をかけた。
人々は声を失い、やがて村は静かに消えていった。
あの時、一人の少女が彼を見ていた。
その目には、恐怖ではなく哀しみがあった。
「…あの子の目と、同じだ」
ロウェンは小さく呟く。
エリアーナの瞳に、あの少女の面影を見た。
「私はまた同じ過ちを繰り返すのか?」
沈黙だけが答えだった。
廊下を歩き出す。
足音が石床に吸い込まれていく。
壁に並ぶ絵画の瞳が、闇の中で彼を見送っているように感じられた。
姫を連れ戻せ。
それが命令だった。
だが、ロウェンの胸中には言いようのない息苦しさが広がっている。
「……まったく、厄介なものだ」
ロウェンは苦笑した。
だが、その表情の奥には疲労と痛みが滲んでいた。
外から冷たい風が吹き込む。
夜の中庭に出ると、兵たちが慌ただしく駆けていくのが見えた。
彼らの先には、黒い塔の影。
その麓を、二つの人影が駆け抜けていく。
「……見つけたぞ」
ロウェンは外套の裾を翻し、闇へと歩を進めた。
石造りの通路の先。
エリアーナとカイルは、王都を囲む外壁へと続く小門を探していた。
月明かりの届かぬ路地で、彼らは一瞬立ち止まる。
「もうすぐ……出口だ」
カイルが囁く。
その声の端が、かすかに掠れている。牢での傷がまだ癒えていない。
「もう少しだけ頑張って」
エリアーナが肩を支える。
そのとき――
「……お逃げになるのですか、姫様」
低く落ち着いた声が、闇の奥から響いた。
二人が振り向く。
そこに立っていたのは、ロウェンだった。
黒衣の裾が風に揺れる。
瞳は夜の光を映して冷たい。
だが、その奥に一瞬だけ哀しみの色が過った。
「ロウェン……!」
エリアーナが息を呑む。
ロウェンはゆっくりと歩み寄り、手を伸ばした。
「陛下のご意志に背くことは、あなた自身を傷つけます。戻りなさい。姫」
「いいえ」
エリアーナの声が震えた。
だが、その瞳には迷いがなかった。
「お父様は、私に選ばせてくれたの。自分の道を」
ロウェンの指先が止まる。
その瞬間、風が二人の間を抜けた。
夜の沈黙が刃のように張りつめる。
「……愚かなことを」
ロウェンは低く呟いた。
「……しかし、その愚かさを羨ましいと思うのは、老いのせいかもしれませんね」
カイルが一歩、前へ出る。
「俺たちはただ生きたいだけだ。沈黙の中で息を殺して生きることを…もう、終わらせたい」
その言葉を受け、ロウェンは静かに目を閉じた。
空気が張りつめ、時が止まったかのように静まり返る。
そして、ひとつ分の呼吸。
「…行きなさい」
カイルとエリアーナは、思わず目を見張った。
ロウェンは背を向け、ゆっくりと歩き出す。
「私はあなたたちを見なかった」
その声は風に溶けるようにかすかだった。
エリアーナは唇を噛み、深く頭を下げる。
「……ありがとう、ロウェン」
ロウェンは振り返らない。
ただ遠くで、鐘の音が鳴るのを聞いていた。
それは沈黙の国が初めて発した『音』のように思えた。
二人が外壁を越える頃、夜明けが滲み始めていた。
東の空に淡い金色の光が差し込む。
その光を仰ぎながら、ロウェンは小さく呟く。
「陛下……どうかお許しください」
その掌の中で、割らぬままの封書がかすかに震えた。
封蝋の下から息を潜めていた淡い光が、静かに漏れ出していた。




