エピソード15
西塔の地下は、世界から切り離されたように静かだった。
石壁を伝う冷気が、指先の感覚を奪っていく。
燭台の火はまばらで、通路の先は闇に沈んでいた。
エリアーナは息を潜め、足音を殺す。
心臓の音が、自分の耳の中で大きく響く。
石畳は湿っていて、一歩踏み出すたびに冷たさが靴底から這い上がってくる。
闇の向こうに鉄格子の影が見えた。
そこがカイルのいる牢だ。
「……止まれ」
背後から低い声。
振り向くと、槍を構えた衛兵が一人、通路の入り口に立っていた。
顔を覆う影の下で、彼の瞳だけがわずかに光を帯びている。
「姫様!なぜここに?」
その声に、エリアーナは息を呑んだ。
聞き覚えがあった。
「…ダリウス?」
衛兵が微かに笑う。
「やっぱり…覚えておられたんですね」
槍の先をわずかに下ろすと、ダリウスは静かに通路の脇へ退いた。
「行ってください。俺が見張りを止めます」
「でも―」
「俺はダリウスって、あの時言えた。あの瞬間から、俺はもう国の犬じゃない」
ダリウスの目には迷いがなかった。
「姫様これを…」
ダリウスは掌に握っていた鍵を差し出した。
「…あなたに名を呼ばれたこと、後悔したくないんです」
エリアーナの喉が熱くなる。
「ありがとう、ダリウス」
それだけ言って、彼の横を駆け抜ける。
鉄格子の前にたどり着くころには、息が荒くなっていた。
「カイル……!」
囁くように名を呼ぶと、闇の奥からかすかな声が返った。
「……エリアーナ?」
牢の奥、鎖につながれた影が顔を上げた。
その瞳が灯りのわずかな光を受けてきらりと光った。
「なぜ来た……危険すぎる」
エリアーナは首を振る。
「あなたを置いていけるわけない」
カイルはゆっくりと立ち上がり、鉄格子越しに彼女の方へ歩み寄った。
冷たい鉄が二人の間を隔てている。
その向こうで、エリアーナは手を伸ばした。
カイルの手が、鉄格子越しに彼女の指に触れる。
冷たいはずの鉄が、二人の温もりを伝えていた。
「ここから出ましょう。一緒に」
「鍵は……?」
「ダリウスからもらったの」
エリアーナは懐から古い鍵を取り出した。
鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。
カチッと乾いた音が響く。
鉄格子がわずかに軋み、開く音がした。
カイルはしばらく黙っていた。そして、小さく笑う。
「まさか君に助けられるとはね」
「当然よ。今度はわたしがあなたを導く番」
カイルはその言葉に目を細めた。
鉄の枷を外すと、彼の手は傷だらけだった。擦り剥けた皮膚、乾いた血の跡。
エリアーナはその手を両手で包み込んだ。
温かい。
傷だらけでも、確かに生きている温もりがある。
「もう、大丈夫。あなたは自由よ」
その瞬間――
石壁が震えた。
低く、鈍い音。
地の底から何かが目覚めるような、いやな振動。
「……『虚無』が動いてる」
カイルが呟いた。
「王が……完全に呑まれたのかもしれない」
エリアーナの瞳が揺れる。
だがそれは恐れではなかった。
「なら止めなきゃ。わたしたちで」
カイルは微かに笑う。
「…そうだな」
彼女の手を強く握った。
「行こう、エリアーナ」
二人は闇の通路を駆け抜けた。
背後で牢の扉がゆっくりと閉まる音がした。
それはまるで過去との決別を告げる鐘の音のようだった。
塔を出ると夜風が頬を切った。
濃い群青の空。
星々は薄い雲の向こうに霞んでいる。
遠くで鐘の音がした。
まるでこの国のどこかがゆっくりと崩れ始めているかのようだった。
エリアーナは息を切らしながら、階段の踊り場で立ち止まった。
その肩が震えていた。
カイルは彼女の背中にそっと手を添える。
「……大丈夫か」
エリアーナは振り返り、小さく笑った。
「外の空気の匂いがする。懐かしいな」
牢の石の匂いと血の鉄臭さに慣れた彼の鼻にも、夜風の中に確かに草の匂いが混じっているのがわかった。
「こんな夜に逃げるなんて、無謀だと思ってたけど……」
カイルは苦笑した。
「君らしいな」
「あなたが笑うなら無謀でもいいの」
声はかすれていたが、どんな歌よりも真っ直ぐに彼の心に響いた。
塔の下から何かがうごめくような音がした。
地面が小さく揺れる。
「虚無が近づいてる」
カイルは空を見上げた。
雲の切れ間に、黒い筋のような光がゆらりと伸びていた。
「……怖くないか?」
「…少しだけ」
エリアーナはそう言って、そっとカイルの胸に額を押し当てた。
彼の心臓の音が聞こえる。
速く、でも力強い。
カイルは一瞬躊躇したが、やがて彼女の背中にそっと腕を回した。
「でも、わたしはもう逃げない。父上が守ろうとしたものを、今度はわたしが守る」
その言葉にカイルの胸が熱くなった。
あの広場で怯えていた少女はもういない。
いま目の前にいるのは、自分の足で立ち、選び取ろうとしているひとりの人間だった。
「……君をここまで変えたのは、名前を発せられたからだね」
エリアーナは小さく首を傾げた。
「名前?」
「うん。君が自分を呼び戻したから、世界が応えたんだ」
「でも、あなたが教えてくれたのよ。名前を呼ぶことが、誰かを信じることだって」
その瞬間、カイルは言葉を失った。
二人はしばらく、そのまま無言で立ち尽くしていた。
エリアーナの震えが、少しずつ静まっていく。
ゆっくりと彼女が顔を上げた。
「ねえ、カイル」
「ん?」
「この国を救えたら……その時は、あなたの故郷に連れて行って」
カイルは目を丸くした。
「祝祭諸島に?」
エリアーナは頷いた。
「人々が歌うってどんな景色なのか…見てみたいの」
彼は静かに微笑んだ。
「約束しよう。歌が海に響く場所で、君の名前をもう一度呼ぶよ」
エリアーナの表情がやわらいだ。
「……それ、楽しみにしてる」
二人はしばらく、無言で夜空を仰いだ。
その頭上をゆっくりと黒い雲が通り過ぎていく。
その隙間から覗いた星が、一瞬だけふたりの影を照らした。
闇の底で、鐘の音が再び響く。
それは、静かだが確かに聞こえた。
「始まり」を告げる音のように。




