エピソード14
この街はいま、目に見えない歪みをきしませていた。
塔の窓から見下ろす街が、まるで呼吸を忘れたように静まり返っている。
昨日まで、あの広場には笑い声があった。
人々が名を呼び合い、歌が響いていた。
けれど今 、声はもどこからも聞こえてこない。
「……どうして」
エリアーナは呟いた。
胸の奥がざわめく。
風が止まり、光が翳る。
それはまるで誰かが世界の糸をほどいているかのようだった。
空の端、灰色の雲の裂け目に、黒いものがうごめいた。
煙のようで、影のようで、形を持たない。
けれど確かに「在る」と分かる存在。
「虚無の影」
その名を幼いころに父から聞いた。
人の心が乱れるとき、世界の均衡が崩れ、闇が現れる。
だからこそ、この国は感情を抑えるように作られた。
喜びも悲しみも、名前さえも封じられて。
でもあの夜。
封印は解かれ、心が動いた。
そして、確かに影が目を覚ましたのだ。
エリアーナが思いにふけっていると、突然塔の扉が勢いよく開いた。
「姫様!」
駆け込んできた侍女のミラ。
彼女の顔はまさに蒼白だった。
「広場が…! 黒い霧が人を呑みこんで……!」
エリアーナの足が自然に動いた。
塔を駆け下りる。
靴音が静かな廊下に響く。
外へ出ると、街の空はすでに黒く染まっていた。家々の影が歪み、瓦礫のように崩れていく。
泣き声、叫び声、祈り。
そのすべてが、闇に飲まれて消えていく。
エリアーナは両手を胸の前で握りしめた。
「お願い……。もう誰も失いたくない」
その瞬間――
足元の石畳が淡く光り、彼女の魔力が震えた。心の奥で、誰かの声が響く。
歌え。
それはカイルの声だった。
彼の声は、闇の中でもまだ生きていた。
エリアーナは瞳を閉じた。
そして、歌い始めた。
名を呼ぶ声が 風に乗る
忘れられた心を 探すように
もしあなたが 闇にいるなら
どうか この声を届けて
声が震えた。
その震えが光になった。
広場を包む黒い霧が一瞬だけ揺らいだ。
「お願い……届いて」
エリアーナの涙が頬を伝う。
その祈りが、遠い牢の中の男へと向かっていく。
カイルの胸に微かな温もりが灯った。
暗闇の中で、リュートもない彼が、息を吸い込む。
そして――
闇の底から、ひとつの音が生まれた。
かすれた声だが、確かに彼自身の『歌』だった。
その声がエリアーナの歌と重なる。
二つの旋律が、世界の裂け目を縫うように響く。
空が鳴った。
影がゆっくりと光に飲まれていく。
その中心で、まだ何かが蠢いていた。
その影の奥に、父の姿が見えた。
「……父上?」
声が震える。
だがその瞬間、影が彼の形を崩した。
王の輪郭が闇に溶け、ゆっくりと消えていった。
エリアーナの視界が白く弾ける。
風が吹き荒れ、世界が光に満たされる。
そして、すべてがまた静かになった。
数十分後、光がようやく収まった。
この街は壊れてはいなかった。
街の輪郭は歪んでいたが、まだ立っている。
人々の声が遠くから微かに聞こえた。
それは恐怖でも悲鳴でもなく、息を取り戻すような小さな「安堵」の声だった。
エリアーナは膝をついたまま、空を見上げた。
さっきまで黒く染まっていた雲は、ゆっくりと裂け、そこから淡い金色の光が差し込んでいた。
助かったの?
胸に手を当てる。
人々の胸にはどこかに穴が空いたような感覚が残っていた。
守れたという実感よりも、失われた何かの気配があった。
塔の鐘が低く鳴る。
その音が響くたびに、胸が締めつけられる。
「父上……」
あの影の中で見た姿が、頭から離れない。
あれは、確かに父上―国王レオンハルトだった。
しかし、あの瞳はもう人のものではなかった。
あれが虚無に呑まれた姿?
そう気づいた瞬間、エリアーナの背筋が震えた。
王である父が、誰よりも恐れていた闇に。
彼自身が呑まれていたのだとしたら――
風が吹いた。
空気が少しだけ澄んだ。
エリアーナがゆっくりと立ち上がった。
足が自然に動き出す。
塔へ。
自分の部屋へ。
廊下を歩きながら、壁にかかる古い絵画の前で立ち止まった。
そこには、まだ幼い自分と、微笑む父の姿があった。
あの頃の父は確かに優しかった。
花の名前を教えてくれた。
「この国を愛してほしい」と、静かに言っていた。
なのに、どうして。
何かに導かれるように、エリアーナは絵へと手を伸ばした。
指先が額縁の裏に触れた瞬間、かすかな感触とともに、一枚の紙片がはらりと床へ落ちる。
拾い上げたそれには、見慣れた父の筆跡があった。
『もし光が戻る日が来たなら、私はこの身を以て均衡を繋ぐ。
この国が生き延びるためには、“虚無”を一度、受け入れねばならない。
どうか恐れるな。
私の娘、エリアーナ。お前の選ぶ道こそが、この国の答えとなる』
紙は震える指のあいだでかすかに音を立てた。
こらえきれず落ちた涙が一粒、文字の上に滲み、言葉の輪郭を溶かしていく。
「……お父様」
彼は、すべて分かっていたのだ。
この日が訪れることも、自らが呑み込まれる運命も。
それでも彼は未来を託した。
心を取り戻すこの世界を…娘であるエリアーナに。
エリアーナの瞳に再び光が宿った。
その光は、夜明け前の星のように小さくとも確かだった。
「カイルを……助けに行く」
彼女は立ち上がり、ドレスの裾を掴んで駆け出した。
階段を下り、長い回廊を抜ける。
足音が響くたび、決意が強くなっていく。
途中で、見張りの兵に見つかる。
「姫様! どこへ――」
エリアーナは立ち止まった。
兵士の顔を見る。
若い男だった。
その目には、怯えと迷いがあった。
「……行かせてください」
兵士は槍を握る手を震わせ、小さく頷いた。
「……どうぞ姫様」
エリアーナは深く頭を下げ、走り出した。
西塔の扉の前で、一瞬だけ立ち止まる。
深く息を吸い、扉に手をかける。
待っていて、カイル。
闇の中へ踏み出すその瞬間、背後の空が再び白く光りはじめた。
それは、まるで夜明けの予兆のように。




