表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/20

エピソード10

朝の光が広場の石畳を斜めに切り裂いている。

カイルはリュートの弦に指を這わせた。

一音、また一音。

澄んだ音が空気を震わせる…はずだった。

音が消える。

吸い込まれるように、何もかもが静けさの中へ溶けていく。

噴水のそばで商人が果実を並べている。

音もなく。

通りの端には兵士の影。

彼らは動かない。

まるで油絵の中の人物のように。



カイルは息を吸った。

空気が冷たい。

「……みなさん、おはようございます」

予想通り、誰もカイルの言葉に耳を傾けない。

遠くで鐘が一度だけ鳴った。

その音さえもすぐに沈黙に飲み込まれる。

「俺は旅の楽師です」

誰も見ていないが、カイルは笑ってみせた。


「今日はひとつゲームをしにきました」

果実を運んでいた女性の手が止まる。

「自己紹介ゲームってやつです」

その女性は顔を上げたが、カイルと目が合うと、また歩き始めた。

ただ、彼女の瞳には何かが揺らめいていた。

怖れと…ほんの少しだけ別のなにかが。


「ただし、ご自身の名前を言ってはいけません」

カイルは広場の中央へゆっくりと歩み出た。

「自分のことを名前以外で伝えてみてください」


風が吹いた。

鳥が一羽、青い空を横切る。

羽ばたきの音だけがやけにはっきりと聞こえる。


「僕は歌が好きです。

特にみなさんの前で歌うのが好きで…だからこんなことをしています」

カイルはそう言って、やわらかく微笑んだ。

「みなさんは…どうですか?好きなこととか…ありますか?」

返事はない。

カイルは小さく苦笑した。

やはり無理か…。


「…ぼく」

不意にか細い声が落ちた。

カイルがはっとして振り向くと、広場の隅に少年が立っていた。

十にも満たない年頃。

灰色の作業着に、泥で汚れた靴。

少年の手はかすかに震えていた。

「ぼくは……」

言葉はそこで途切れた。

周囲の大人たちが顔を見合わせる。

誰も何も言わない。

ただ、息を潜め、少年を見守っていた。

少年の喉が、こくりと鳴った。

「ぼくは…パンを焼くのが好きです。

今はまだ見習いだけど…いつか、自分のお店を持ちたい。だから…頑張っています」

その声は小さく、かすかに震えていたが、言葉には揺るぎがなかった。

カイルの胸にあたたかな火が灯る。



広場を覆っていた張りつめた何かが、ぴしり、と音を立ててひび割れた気がした。


「素敵だね。君は朝の香りを知っている人なんだな」

弦を鳴らす。

低く、温かい音を彼に届けたくて。

それは風に乗って、少年の足元に触れた。

淡い光が生まれる。

波紋のように、石畳の上を広がっていく。

今度はパン屋の女主人がカイルの目に留まった。

光が彼女の指先をかすめる。

その瞬間―

彼女の目に涙が滲んだ。

母の声が聞こえたような気がした。

小さかった頃のあの優しい声が。


「……わたしは」

女主人の唇が動く。

「わたしは、花に話しかけるのが好きです。毎朝、水をやりながら…話すんです」

光が重なる。弦が共鳴する。

「それから―」

女主人が続ける。

「わたしの仕事は、花屋です。北通りの小さな店で」

もうひとり遠くの方で、誰かの口を開いた。

鍛冶屋の青年だった。

大きな体を小さく縮めて、俯いている。

「……俺は」

声が掠れる。

「俺は、金槌を叩く音が好きです。火花が散る瞬間が――好きです」

光が彼の足元にも触れる。

「仕事は……鍛冶屋。剣とか、鍋とか、作ってます」

次々と、声が生まれ始める。

「私は…機織りが好き。糸が布になる瞬間が……」

「僕は…本屋を営んでいます。たくさんの本に囲まれた性格がしたくて」

「わたしは料理が好き。誰かが美味しいって言ってくれる顔が見たくて」

一人、また一人。

ぎこちなく、震えながら。

けれど確かに、自分の声で、自分のことを語り始めていた。

「靴職人です。一日中、革と向き合ってます」

「薬草を育てています。小さな庭で、色んな種類を」

「石工です。城壁の修理とか、道の舗装とか」

「洗濯屋です。汚れた服を真っ白にするのが――誇りです」

光が広場を満たしていく。

それぞれの言葉が、それぞれの色を持った光になって、空へ昇っていく。

カイルは目を閉じた。

これは魔法じゃない。

ただ、当たり前のことなのだ。

歌が喉から溢れ出る。

名を知らぬ人よ あなたの声をきかせて

名を呼ばぬ国に あなたの風を吹かせて

忘れられた音が また灯火をともす

ひとつ、ふたつ、あなたの名を風に乗せて

光が広場を満たしていく。

その眩しさの中、カイルは一瞬だけ、誰かの影を見た。

塔の上。

窓辺に白いドレスの少女が立っていた。

風がカイルの髪を揺らし、リュートの音が消えていく。

広場の端で、兵士のひとりが小さく口笛を吹いた。


それは警戒の合図。


カイルは光の中で、ゆっくりと息を吐いた。

この街でなにかが今始まったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ