エピソード1
塔の窓から見下ろす街に、人の気配はない。
いや、それは正確ではなかった。石畳の上を、確かに何人かの人影が歩いている。けれど彼らは誰とも視線を交わさず、誰とも言葉を交わさない。ただ黙々と、まるで影のように通り過ぎていくだけだ。
一人の女性が、青白い光を放つ水晶を握りしめて歩いている。虚ろな表情で、水晶の中の何かに見入ったまま。足元の石につまずきそうになっても、彼女は顔を上げようとしない。
エリアーナはため息をついて、窓を閉めた。
「今日も同じ…」
ガラスに触れた指先が冷たい。外の世界は、いつもこんなふうに遠い。
部屋に戻るエリアーナ。壁一面を埋め尽くす本棚。ここには、かつてこの街が賑やかだった頃の記録がある。人々が広場で笑い合い、手を取り合い、歌い踊った時代の物語が。
エリアーナは一冊の古い書物を手に取る。色褪せた挿絵には、提灯に照らされた広場で、色とりどりの衣装をまとった人々が輪になって踊る様子が描かれていた。
指先でその絵をなぞる。
「祭り」
この国から失われて、もう二十年。
本を閉じる。その音だけが、部屋に響く。
窓辺へ戻る。霧が塔を這い上がり、やがて視界を白く呑み込んでいく。
「私にはできない」
呟いた声だけが、虚空に落ちていった。
***
「おはようございます、姫様」
扉の外から声がする。柔らかな女の声。彼女の侍女ミラだ。
扉は開かない。銀の盆を床の境界線の手前に置く音がして、足音が遠ざかり、扉が閉まる。
それが、いつもの朝。
エリアーナは食卓へ向かって歩く。温かいスープの湯気が、朝の光を揺らしている。
スプーンを手に取る。口に運ぶが、味はしない。
いや、味はあるのだろう。でも、心はそれを受け取らない。
昨夜、塔の下から聞こえた、あの音。
本当に聴いたのだろうか。
夢だったのかもしれない。
けれど、あの旋律を思い出そうとすると、胸の奥が疼く。知らないはずの懐かしさが、心の底に沈んでいる。
窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。
塔の下では、すでに人々が歩き始めている。けれど、誰も顔を上げはしない。水晶を抱きしめたまま、同じ方向へと進むだけ。
まるで、見えない糸に引かれているようだった。
その光景を見ていると―
ふいに昨夜の音が、ほんの一瞬、耳の奥を掠めた気がして、エリアーナは思わず息を飲んだ。
でも、すぐにその気配は消えた。
風のいたずら。
そう言い聞かせる。
けれど、心臓が静かに早鐘を打っていた。
もし、あの音が本物だったのなら―
「姫様。国王陛下がお呼びです」
声をかけたのは宰相ロウェン。その声には抑揚がなく、まるで読経を行う僧侶のようだった。彼の声を聞くと、塔の空気が一段と冷たくなる。
エリアーナは息を整え、鏡の前に立って髪を整えた。瞳の奥で、昨夜の月の残光が揺れている。
「……はい。すぐに参ります」
***
王の間へ向かう階段は、塔の石壁に沿って螺旋を描いていた。一段ごとに足音を殺すように作られている。
まるで音そのものが罪であるかのように。
途中、壁の燭台に灯る炎がふっと揺れた。エリアーナが通ると、その明かりは静かに色を変える。青白い光。それはこの城の象徴であり、かつての炎が封じられた証でもあった。
広間の扉の前には、衛兵が二人立っている。銀の鎧に身を包みながら、顔は無表情。彼らの鎧もまた、擦れ合う音を立てないよう作られている。
重い扉がゆっくりと開く。滑らかで、音を立てない。
王の間。
天井は高く、窓には厚い青のカーテンが垂れている。光は遮られ、代わりに魔法灯が規則正しい間隔で並んでいる。均一な明るさ。均一な空気。
玉座に座る男が、静かに目を開けた。
アスケティカ王、エドワール・ル=アスケティカ。
銀髪の中に、かすかに黒が混じる。威厳よりも、疲れが勝っている顔だった。だがその瞳には、決して揺るがぬ意志の光があった。
「来たか、エリアーナ」
低く柔らかい声。だが、その抑制された響きが、かえって広間の静けさを際立たせる。
「はい、父上」
エリアーナは床に膝をつき、頭を垂れる。この部屋は声を吸い込む。言葉はすぐに空気に溶け、残響を持たない。
「……昨夜、塔の周辺で不穏な音が報告された」
王の視線が、彼女に向けられる。その瞳の奥に、警戒と哀しみが混ざっていた。
「お前…部屋の窓から、外を眺めていたのではないか?」
「……はい。でも、ほんの少しだけです。風が心地よくて……」
「風は…時に呪いを運ぶ」
エリアーナが息を止めた瞬間、王はゆっくりと立ち上がった。
静寂を破らぬよう、音もなく彼女へと歩み寄る。
床を踏む足音すら、まるで空気に溶けるように消えていた。
「大いなる静寂は、我らを守る盾だ」
低く響く声。
王の手がそっとエリアーナの肩に触れた。
氷のような冷たさが、布越しに伝わってくる。
だが、その冷たさの奥底に、エリアーナは確かに感じ取った——かすかな震えを。




