第3章──聖霊師Ⅰ
聖霊師
Ⅰ
龍門が突発的に発熱したのは、次の日の早朝──明日香美鈴の家に行く約束をしていた日だった。かなりの高熱でとても起きあがれそうにない。
「お母さん…パパは大丈夫?」
「ダメね…。あれじゃ仕事は無理だわ…」鈴子は玉子酒を手際よく作ると、そこにすり下ろした生姜汁をたっぷり搾って入れた。「さぁ、出来たわ。パパに持って行きましょう」錫が鈴子の後ろを付いて龍門の様子を見に行くと、龍門は真っ赤な顔をして〝うんうん〟唸っていた。
「お~錫か………夕べまでは元気だったのに…。どうしたことか…」
「かなり熱がありそうよ…」
「こんなに一気に熱が上がるなんて……インフルエンザかな…?」
「えっ!?こんな季節に?…でもあり得るかも…パパは流行に鈍感だもん」鈴子の玉子酒を〝ずーずー〟と啜りながら、龍門はムッとした顔で錫を見た。
「そういうわけだ……俺はとても動けそうにない。錫、今日はお前に頼んだ」
「私だけで!?」さすがに錫も驚いた。
「どうだ、嬉しいだろう?ちょうど良い機会だ……聖霊師昇格試験だな」
「わっ!…香神錫、頑張ってまいります」やっとチャンスが回ってきた。
錫は聖霊に必要な道具──神霊界賜尊具を準備すると、一人車に乗り込んだ。
立派な桐の箱に納められた集鬼鈴と晶晶白露──この二つの神霊界賜尊具など錫には必要ないのだが、持参せずに聖霊したとなると後が大変だ。取りあえず面倒でも持って行かねばならない。
車で一時間足らず──明日香美鈴の家に到着した。緊張したのか足が震えている。
──「なんだかんだ言ってもパパの影響は大きいわ。一人だとこんなに不安なものなのね…」
錫は今まで、龍門と違って霊力のある自分なら聖霊など容易いと高を括っていた。けれどもいざ一人になってみて、自分がどれほど龍門を頼っていたのかを改めて感じ取った。それでも気持ちをしっかり持って神霊界賜尊具を脇に抱えると、たどたどしい足取りで玄関の前まで行き、一度深く深呼吸をしてからインターホンを押した。
「お待ちしておりました」玄関のドアを開けた女性は、白い着物に赤い袴を纏った錫を見るなり頭を深く垂れた。錫も合わせて同じように頭を下げた。
「あの……龍門先生はどちらに…?」龍門が来られなくなった理由を考えていなかった錫は必死で答えを探した。
「じ、実は龍門様は…急遽別の憑物退治をされることになって…私がピンチヒッ…い、いえ…代行で参りました」
「はぁ…」女性は怪訝な顔をしていたが、錫を応接室の長椅子に座るよう勧めると、自分は後からお茶を持って現れた。
「粗茶ですが…。申し遅れました…私は美鈴の母で明日香紗樹と申します」
「は、初めまして。私は天登龍門様の助手で…えぇっと……あの…巫女です」
「巫女さん?」紗樹はまたしても怪訝な顔をした。巫女に聖霊などできるのかと不安に思ったようだ。
──「あちゃ~……ちゃんと名前を考えてくればよかった…」反省してみたものの後の祭りだ。
「あっ、あの…私はまだ見習いなので、一人前になったら正式な名前を考えますから…」
「はぁ…」
──「何言ってるんだろう私…」これ以上墓穴を掘らないよう、錫は話を本題へと移した。
「早速ですが娘さんはどんな様子ですか?」
「はい。先日龍門先生に聖霊して頂いた後、暫くは元の娘に戻っていたのですが、急にまた様子がおかしくなって…」
「そうですか…。すぐに娘さんに会わせてください」話を聞くよりも自分の目で確かめた方が早いと思った錫は、出されたお茶に一口だけ口をつけて立ち上がった。
玄関から見て一番奥にある和室に案内されると、そこには布団が一組敷いてあり、愛らしい女性がすやすやと眠っていた。
「この子が娘の美鈴、二十三歳です。今はこうしてぐっすり眠っていますが、目を覚ましている時──何かの拍子で別人になってしまいます」
「別人…?」
「はい…言葉では表しようがありません…」
「…分かりました。一旦戻りましょう」錫は美鈴に一切手を触れず、そのまま応接室に戻った。
「聖霊はしてもらえないのですか?」心配と不満の交じり顔で紗樹が尋ねた。
「とりあえず美鈴さんが目を覚ますまで様子をみます…」
その時だった──錫のカバンの中で携帯電話がブルブルと振動した。着信は龍門からだった。
「ちょっと失礼します…」錫は急いで部屋を出ると、小声で話し始めた。「パパ…一体何の用?」
「無事聖霊が終わったか心配でな…つい…」
「聖霊はこれからよ…いちいち電話してこないで…。それより具合はどうなの?」
「お~!それなんだがお前が出て行ってから急に調子が良くなってな…。あれは何だったんだろう!?」
「えぇっ!?パパ何か悪い憑物に憑かれてるんじゃないの?」
「わっはっはっは…そうかもしれんな。それとな、今から川手が家に来るらしい…大事な用があるとかで…。まっ、そういうことでこっちも忙しい。じゃ、しっかり頑張れ!」一方的な電話だったが、龍門の具合が良くなって錫はひとまず安心した。
Ⅱ
八波不動産の川手治が龍門を訪れたのは、錫との電話を切って間もなくのことだった。
「龍門先生、お久しぶりです。いや~…先生にお会いしたかったです。でも何もないのにお会いできませんし……お会いできるような奇怪な出来事はなかなか起こりませんしね…」憎めないが相変わらず何を言いたいのか分からない奴だと龍門は少しイラッとした。
「それで用件は…?」
「そうですそうです…」川手はそれまでとは打って変わって鋭い眼球で龍門を見つめた。
「先生、最近おかしな事件が起こっているのをご存じですか?」
「おかしな事件とは…?」
「霊能者と呼ばれる人たちが再起不能にされる事件です…」この世界に精通していないはずの川手が、どこからそんな情報を得たのか龍門は不思議に思った。「その様子だとご存じないようですね…。記憶をほとんど抜かれて……言葉は悪いですがバカになってしまうのです」その話を聞いて、龍門は越知の師匠が憑物に襲われたと言っていたのは、このことかもしれないと察した。
「ところで川手さん…どうしてあなたがその類の話をそんなに詳しくご存じなのですか?」
「お知りになりたいですか……?」川手は不敵に笑うと両手でいきなり龍門を押さえ込んだ──。