第2章──猜疑Ⅰ
第2章──猜疑Ⅰ
Ⅰ
浩子はこの春から栄養士として、近くの総合病院に勤務していた。
高校卒業後の進路を決める時、浩子は菓子職人になるための専門学校に行くことも考えたが、結局お菓子作りは趣味の範囲に留めておいて、栄養士の資格を取得するため短期大学に進んだ。成績もそこそこ良かったし、就職先も第一志望だった今の病院に決まり、トントン拍子にみえた。けれどもそのほとんどを女性が占めている病院の厨房内はあまりにも凄まじいものだった。勤務年数が二十年を超えるベテラン女性が二人も幅を利かせていて、厨房を完全に牛耳っていたのだ。今まで若手が何人泣かされ辞めていったか分からない。ちょっとでも逆らおうものなら忽ち二人の餌食にされてしまう。面倒な仕事、細かい作業はすべて押しつけられ、もし段取りを間違えたり失敗でもしようものなら罵倒され、いつまでもねちねちと責められる。
恐い者知らずの二人は上司にも何かと歯向かい、気に入らなければストライキを起こす始末だ。当然だがこうした争議には回りを巻き込む。もし賛同しなければ今度は自分が標的にされてしまうので拒否できない。
栄養士はそんな厨房に料理の献立や材料の切り方、衛生面の指導までこと細かく申し伝えなければならないが、浩子のような新米の栄養士のいうことなど聞く耳を持つわけがない。しかも見るからに温和しそうな浩子など鼻であしらわれるだけだった。
幸い浩子はずっと厨房にいるわけではないので、その点では救われたが、それでも過去には三日と保たなかった栄養士もいたくらいだ。
浩子は見かけより打たれ強い性格なので、〝これが社会の現実……なかなか順風満帆とはいかない。若いうちは全てが勉強……次は管理栄養士の資格を取ってみせる!〟と正面から物事を受け止めていたが、あまりにも言う事を聞いてくれない時には〝信枝に正義の鉄拳をお見舞してもらおうかしら…〟と思うこともあった──。
Ⅱ
太陽が完全に沈む前に遊園地を後にした三人は、街まで繰り出して食事をすることにした。錫のリクエストで、今人気のステーキレストラン『うしうし』に決めた三人は、銀色に磨かれた大きな鉄板の前に座ってシェフのナイフ捌きに見とれながら、ガーリックオイルの香りと共に美味しそうに焼けてゆくジューシーな肉が、自分の前に運ばれてくるのを生唾を飲んで待っていた。
錫たちが注文したのは、『うしうし』でも特に人気のある〝ステキなステーキコース〟だ。このコースは肉のグラム数が選べるのだが、浩子と信枝は〝ステキなステーキ・三分の一ポンドコース〟を。錫は〝ステキなステーキ・一ポンドコース〟を注文した──約四五〇㌘のビッグサイズステーキだ。浩子と信枝は別段驚きもしない。むしろ錫がそれを注文しない方が驚きだ。
錫は一口大にカットされた一ポンドのステーキをぺろりとを平らげ、さらに浩子が食べきれずに残してしまったステーキも喜んで食べてしまった。
優雅な一時を過ごして心もお腹も満たされた三人は、また近いうちに会う約束をして別れた。
錫が家に帰り、二階の自分の部屋に入ると早速今日買った〝グリとズリー〟のクマのぬいぐるみを包みから出した。似てはいなかったものの、〝いしと綿〟の姿が錫の脳裏を過ぎった。
──「会いたいなぁ………」錫の目頭がほんのりと潤んだ時だ──バッグの中の携帯電話が鳴った。浩子からだった。今錫の家の前にいるというのだ。錫は急いで階段を下りて玄関を開けた。
「いらっしゃい浩子……あのことでしょ?」浩子は黙って頷いた。
錫がコーヒーを淹れて部屋に戻ると、待ちきれない体で浩子は錫に尋ねた。「スン何があったの?どうしていきなり天甦霊主様があなたを……錫雅様を呼び出したの?」そう言いながら、じりじりと膝が前に出て、行儀良く座っていたクッションからはみ出てゆく。
「浩子……近い近い…」
「あっ……つい…」浩子は元の場所に落ち着いてから、コーヒーを軽く口に含んで一息させた。
「……ねぇ…今度は浩子が関わってないわよね?」錫はわざと目を細めて浩子を睨んだ。
「し…知らないわよ…。だから慌てて来たんじゃない……」
「ふぅ~ん…本当かなぁ…?…浩子には見事にダマされたからなぁ…」錫は浩子の顔を覗き込んで、嫌味ったらしく言った。
「もう…スンってば…」
「くふふふ…冗談よぉ。掻い摘んで説明するとね…。黒の国の中に堕羅の大門というのがあって、その大門を誰かが故意に開けてしまったらしいわ」
「堕羅の大門を……?」浩子は驚いて聞き返した。
「浩子知ってるの?」
「もちろん知っているわよ。あそこを開けるなんてあり得ないわ…」
「どうあり得ないの?」
「理由は二つあるの…。一つはあの門を故意に開けようとするイカレタ奴がいたということ。もう一つは、あの門は相当な霊力を以てしないと開かないということ…。この二つを総合して考えるとね───〝尋常ではない霊力を持ったイカレタ奴が堕羅の大門を開けた〟ということよ。そんな奴が存在するなんて信じられないわ…」浩子が眉間に皺を寄せ、真剣な顔つきになったので、錫もだんだん恐くなってきた。
「その堕羅っていうのは、蛇とかムカデとかの毒気のある魂がいる所なんでしょ?」
「そうよ──その類のモノがわんさかいるわ」それを聞いた錫は、何があってもこの一件には関わるまいと思った。
「その化け物たちは大門を飛び出して人間界にも災いをもたらしているらしいよ…」
「えっ!?人間界に……?それで天甦霊主様はどうしろと?」
「それなんだけどね浩子…驚かないでよ……堕羅の大門の番人は何とおじいちゃんなんだって!」
「虎慈様が……!?」。「そうなの…」
「とすると、虎慈様亡き今──堕羅の大門の封印の玉の在処が分からない…」
「さすがに浩子は智信枝栄様だけのことはあるわね…。堕羅についてどのくらい知っているの?」
「知ってるのはその程度よ。封印の玉については隠し場所は極秘よ。門番が誰なのか分かれば隠し場所を知るために狙われる危険性もあるでしょ?だから誰が門番なのかは天甦霊主様以外知らないのよ。そして三つの封印の玉の隠し場所は天甦霊主様さえ知らないの…」
「ふぅ~ん…なるほどね…。自称神様は私に玉を見つけて封印しろとは言ってなかったわ。抜かりのないおじいちゃんのことだから、人間界に降りて来る時、誰かに玉を託した可能性があるだろうけど、今のところその人物が見つかってないんだって。だから人間界も調べてくれって…」
「それだけ?」
「うん。要するにおじいちゃんが玉を託した誰かが判明すれば、後はその誰かさんが堕羅の大門を封印してくれるってことよ」
「スンよく聞いてね……。もし天甦霊主様の言うとおり虎慈様が誰かに玉を託していたとすれば……。つまり……虎慈様の後を引き継いだ門番が本当に存在するとすれば、その門番がこんな非常事態に気づいていないことをどう説明する?」
錫は言葉に詰まったが、暫く考えて学校の授業よろしく戯けながら浩子に手を挙げた。「先生質問!」
「はい、スン君」浩子も調子を合わせた。
「おじいちゃんは門番だったらしいけど、ずっと堕羅の大門の前に張りついていたのですか?」
「とっても良い質問だわ!」浩子は錫が何を知りたいのかすぐに判った。的を外さないように答えようと、一呼吸置いてから口を開いた。
「堕羅の大門は黒の国に存在してるの。門番は白の国の者だから、ずっと張りついているわけにはいかないわ。だけど一度門番が大門を封印すると、百年以上はそのままで大丈夫なはずよ。時が来てそろそろ封印をし直そうと思えば、隠していた三つの玉を集めて一つにし、その玉を填め込むべき所に填め込んでやれば良いのよ。スンの疑問は〝門番が大門に付きっきりでなければ、たとえ封印が解かれたとしても気づかないのではないか?〟ということでしょ?たしかに暫くは気づかないにせよ、回りがこれほど騒いでいるのに当の門番が気づかないなんてまず考えられないわ…。どんなに鈍い門番だったにせよ、ここまで回りが騒ぎ出せば、異常に気づいて慌てて封印しにかかるでしょ」
「ということは……?」
「ということは……答えは一つ──初めから虎慈様は誰にも玉を託していなかった。虎慈様が無になられた時点で門番という存在もいなくなったのよ」
「どうして…?おじいちゃんのような用意周到な人が…どうして?」
「おそらく虎慈様は人間界に降りる前に堕羅の大門を封印し直したんでしょうね……そうすれば百年は大丈夫だから」
「さすがに百年以内にはまた戻って来れるものね…。でも、おじいちゃんは狡狗に捕まって〝無〟にされた。つまり永遠に三つの玉の在処が分からなくなったってことよね?」
「そういうことだと私は推測するわ」
「自称神様はそれを知ってたの?」
「それは何とも言えない…。だけど私でも想像がつくんだから…あるいは……」
「だとすると、始めから門番がいないのを分かっていて私にどうしてあんなことを?」
「それは…三つの玉を探せという意味でしょ!スンの性格を知ってて、何か取っかかりを与えたら、とことん追求すると思ったのかも…」
「ヒドい!ダマしたのね……私絶対に探さないから!そもそも最初からイヤだったのよ………だって毒のある生き物の幽霊よ!ムカデよ!蛇よ!蛇よ!スネークよ!にょろにょろよ……手も足もある狡狗の方がまだマシじゃない!そうよぉ……今になって考えてみたら、あいつらなんか愛嬌があって可愛いもんだったわ…キキキ」憤慨した錫は早口で捲し立てた。
「あらあら…狡狗も格上げしてもらえて幸せね」
「そりゃそうよぉ~!私は自称神様になんか踊らされませんからねぇ~だ!」錫は完全に拒絶していた。