第1章──前兆Ⅱ
前兆──Ⅱ
Ⅲ
「これでもう大丈夫です」天登龍門は手にしていた晶晶白露を桐の箱に丁寧に納めながら、落ち着いた口調でそう言った。
「本当に…本当に助かったのですか?この子は…美鈴は大丈夫なのですか…?」明日香紗樹はぐったりとしたまま眠っている娘を両手で抱きながら龍門の顔を見た。
「憑物が取れて深い眠りに落ちているだけです。じきに目が覚めるでしょう」龍門の穏やかな物言いに紗樹は安堵した。
「それにしても、さっきまでのあの苦しみ方が嘘のようですわ…」
「よほど無念な死に方をした霊に取り憑かれたのでしょう…。ですが聖霊は成功したので、もう大丈夫です」
「ありがとうございます!本当になんとお礼を申し上げてよいか…」
「これが仕事です…。ではこれで…」龍門は長居をすることなく腰を上げた。
「龍門先生…これを…。充分ではありませんが…」紗樹は厚みのある封筒を龍門に手渡した。
「頂いておきます…」龍門はその封筒を受け取ると静かに玄関を後にした。
聖霊師・天登龍門こと香神一は、カリスマ聖霊師としてその道では名のとおった存在だ。義父・天登虎ノ門こと香神虎の跡を継いで聖霊師になったのだが、実は香神一にはまったく霊能力が無いというとんでもない秘密があった。にも拘わらずカリスマ聖霊師の異名を持つのは、鋭い観察力と学生時代に打ち込んだ演劇の賜物だ。それに、二つの〈神霊界賜尊具〉即ち晶晶白露と集鬼鈴の手助けがあって、龍門の名声は轟いた。
秘密と言えば──香神一には妻鈴子にも話したことのない細やかな秘密があった。知られたからといってどうなるような内容のものでもないのだが、実は一は今の自分の名前を大層気に入っていた。
男ばかり三人兄弟の末っ子にも拘わらず、名前が〝一〟。しかも旧姓はありふれた〝田中〟ときていた──。自分は三男なのに、どうして〝一〟なのかという素朴な疑問が解けたのは小学校五年生の頃だった。一の一番上の兄の名は甲乙の〝甲〟二番目の兄の名は優良の〝優〟だ。どちらの名前も一番を指している。一の父親が〝末吉〟だったことからして、子供たちには一番を意味する名を付けたかったのだろう。気持ちは分かるが、名字も名前もありふれている〝田中一〟という名前を、一はどうしても好きになれなかった。
香神虎から〝鈴子と結婚するなら婿養子が条件だ〟と言われた一が真っ先に考えたのは、自分の名前のことだった。もし鈴子の婿養子になれば〝香神一〟と改名される。画数が少なく、しかも直線しか使われていない〝田中〟というありふれた名前から、しなやかな曲線も加わった〝香神〟という苗字がもらえるのだ。一はそれを考えただけで嬉しかった。鈴子を愛していたことは当然のことだが、同時にありふれた名前からおさらばできる──一には願ったり叶ったりの条件だった。
もともと演劇部に入ったきっかけも、役柄で名前が変えられることだった。たまたま一の場合、演劇の才能が開花して回りから一目置かれる存在になったが、本当の動機は当の本人以外誰も知らない。一にとって名前に対するコンプレックスは大きかったのだ。
そういうことで、一が〝天登龍門〟の名声を広めようとしているのも決して名誉欲のためではない───もっと単純で、もっと可愛らしいと言える。ただただ〝田中一〟ではなく〝天登龍門〟という名、〝香神一〟という名、それが自分の名前であることが嬉しくて仕方ないのだ。それゆえその名を轟かせたい──それだけのことだった。
あえてもう一つ補足するならば、霊能力を持たない〈インチキ聖霊師〉天登龍門こと香神一──彼は正義感も人情味も持ち合わせている、なかなかの人間だということだ。
★
「人間界におる悪しき奴らのアレをもっと集めてこい…」
「はい…蚣妖魎蛇様──仰るとおりに…」
「ふむ──。それにしても…あ奴…さほど大した霊力も無さそうなのに〝開かずの大門〟をよく開けてくれたものだ」
「はい。我々にとっては願ってもみないことでしたな…」
「何者であれ都合のよい存在だ──逃げないように見張っておけ。くっくっく漸く来たのだ…この時が…」
Ⅳ
鏡の中に入ってしまった錫が後ろを振り向くと、グリちゃんが胸元当たりで両方の手のひらを広げて小刻みに振っている。慌てて戻りかけたが、今度は〝どすん〟と頭をぶつけてしまった。
──「いつかの牢のようだわ…。進むしかなさそうね…」錫は鏡を背にして奥へと進んだ。薄暗い鏡の中の通路を歩いて行くと、やがて見覚えのある景色が一面に現れた。
「やっぱりね…!そうだと思ったのよ。自称神様…いや…天甦霊主様なんでしょ?私をここへ連れて来たのは…?」錫は宙を見上げながら話しかけた。
「ばれてしまいましたか……お久しぶりですね…錫」
「さすがの錫ちゃんでも、この真っ白い景色を見れば分かりますぅ~」錫は懐かしそうにぐるりを見渡した。
「今では白の国も以前のような穏やかさを取り戻しています。死したる者が安らかに暮らせるのも、錫…あなたのおかげです。改めて心より礼を申しますよ」
「い、いやぁ~~そ~んなぁ~…私は錫雅さんの心意気を真似しただけで…。改めてそんな風に言われるとぉ~…」錫は満更でもなさそうに頭をかいた。
「ところが、また新たな問題が発生しました…。再びあなたに活躍してもらわなければなりません」
「へっ…?」錫の感情はエレベーターのように上がったり下がったりだ。「ど、どういうことですか…?」錫は恐る恐る天甦霊主に尋ねた。
「あなたは記憶にないでしょうが、こちらの世界は白の国と拗隠の国だけではありません。他にもたくさんの国があります。その中でも特に関わりの深い国が、白の国と対照的な〝黒の国〟です」
「白の国は天国でしょう?その対照的な国ということは…?」錫は想像しただけで〝ブルッ〟とした。
「そのとおりです…。黒の国とは地獄のことです。その地獄でとんでもないことが起きてしまったのです」
「とんでもないこと?」
「そうです。黒の国は簡素な門はありますが、国全体が固く閉ざされているわけではありません。それでも逃げ出す魂はほとんどないのです。逃げ出したところで間違いなく連れ戻されますし、より厳しい罰を強いられるからです。そんな黒の国ですが、最北東部に特殊な大門で封印された〝堕羅〟という場所があります。ここは古より、主に毒気のある形をした魂が寄り集まっている悍ましい場所です」
「毒気のある生き物って…?」聞いているだけで錫は気分が悪くなった。
「主に蛇やムカデを指します。ところがその堕羅の大門が何者かによって壊されたのです」
──「その続き……もう聞きたくない…」錫の顔色が遊園地の乗り物で悪酔いしたかのように青ざめた。
「天甦霊主様…私そろそろ帰ります…」けれど、そんな錫の言葉を無視して天甦霊主は話を続けた。
「奴らが堕羅に閉じ込められている理由は、黒の国に悪さをする厄介な連中だからなのです」
「そうだ……信枝と浩子が待ってるから帰らなくちゃ…」
「以前の奴らは、大門を抜け出しても黒の国で悪さをするだけだったのですが、どういうわけか、この度は人間界にまで降りて来たのです」
「そ、そうだ…私、絶叫マシーンに乗るんだった…」
「そうなると放って置くわけには…」
「その後コーヒーカップに……」
「話をそらしても無駄ですよ。勝手には帰しませんからね」天甦霊主は声を強めて錫を諭した。
「…何を聞かされても引き受けませんよ。生理的にだめなの……そういう類の生き物は…」錫は顔を顰めて言った。
「堕羅の大門を完全に封印するためには、外側から玉を填め込んでやらねばなりません。この玉は大門が封印されると、自ずと三つに分かれてバラバラになり取り出されます。一つのままだと霊力が強すぎて、この力を悪用する者が現れるからです。さて…ここからが大事な話です。三つに分かれた玉は、門番が責任を持って自分の好きな場所に隠しています。万が一間違って堕羅の大門の封印が解かれた時、その門番が玉を集めて再び封印します──つまり玉は鍵となるのです」
「…だったら何が問題なのですか?その門番が玉を集めて大門を封印すれば良い話でしょ?」
「そのとおりなのですが……その門番が問題なのです……」
「どれほどの問題か知りませんが、私には関係ないでしょ!?」天甦霊主は暫く沈黙した。
――「自称神様はなんで黙っているんだろう…。というより…何か考え込んでいるような気がするなぁ…」
「その門番とは――――――天翔虎慈之尊だったのです…」
「そこまで分かってるんなら、その人にお願いすれば………えぇ~~っ…おじいちゃんじゃない!?」
「はい。今は亡き虎慈尊です…」
「…ってことは玉の隠し場所が分からないってことですか?」
「ビンゴ!」
「ビンゴって…神さまなのに…。それじゃ秘宝の時と同じではないですか…?」錫は〝またか〟と思ってげんなりした。
「ところが今回は少し見通しが明るいかと思いますよ」
「えっ!?見通しが明るいとは?」少しだけ声に張りが戻った──実に単純だ。
「今度はそれがどんな物なのかはっきりしていますし、それに…抜かりない虎慈尊のことですから、堕羅の大門の玉を誰かに託して人間界に行った可能性は充分にあります」
「じゃ、託された人を見つければ一件落着じゃないですか?」
「そうなのです。そこであなたにも人間界を調べてもらいたいのです」
「人間界を調べて分かるのですか?」
「なんとも言えませんが、調べてみる価値はあるでしょう」
「でも…おかしなことに首を突っ込んで蛇やムカデのお化けに襲われるのはイヤです…。今回は必然的なことでもなさそうだし………やっぱりごめんです」
「この度は誰に相談しても構いません。虎慈尊が関わった霊力の高い人物を調べるだけで良いのです」
「気が向いたら調べてみます…」天甦霊主は煮え切らない錫の返答に、これ以上話を続けても無駄と思った。
「くれぐれも頼みましたよ………では…」錫は自分の意識が薄れてゆくのを感じていた──。
やがて錫は入り込んだ鏡の前で目を覚ました。すぐそばにグリちゃんの着ぐるみが転がっている。ゆっくり立ち上がった錫は、それを不審に思う余裕もなく、あちこちの鏡に頭をぶつけながら出口へと急いだ。
ようやく外へ出ると、信枝が相変わらず退屈そうな顔で錫を待っていた。「お待たせ…」
「やっと出てできた…。そろそろ捜索願いを出そうと思ってたところだったのよ…」
「そんなに長かった…?」
「五分くらいかしらね…」浩子がそれとなく言った。
「もう…信枝ったら大袈裟なんだから!」
──「向こうの世界にいたのはそんなもんか…。神さまは時間を自由に操れるのかな…?」
「さぁ、絶叫マシーンに乗りに行くんでしょ?」信枝がそう言って先頭を歩き始めた。
「行く行くぅ、行くよ!」慌てて信枝の後ろをついて行こうとすると、錫の耳元で浩子が囁いた。
「スン大丈夫…?なんだか顔色が良くないわよ…」
「…うん、自称神様に会ってきた」今度は浩子の顔が青ざめた──。