第1章──前兆Ⅰ
いよいよ聖霊少女錫────続編の幕開けです。
前回の謎だった物語が少しずつ明らかになると同時に、錫の冒険はどんどん進んでいきます。
またしても突きつけられた謎を錫は解き明かせるのか──。
暫し現実を離れて──錫ワールドにトリップしましょう!
前兆
Ⅰ
「なんと……この短刀を以てしても敵わぬのか…」
「そんな子供だましの短刀など、この私には玩具にすぎぬわ。さぁて…次はどうやって楽しませてくれるのかな?それとも、もうお遊戯はお仕舞いなのか?」
「くっ……」
「先生…先生…ここを開けてください!お願いです…早くここを…」
「ならん…絶対に入ってはならん…お前が敵うような相手ではない…」
「ほう、それぐらいは分かるようだな。おとなしくしていればよいものを…抵抗するからこんな目に遭うのだ。どーれどれ…キサマの霊力を吸い尽くしてやろう…」
「先生…先生!」
「逃げろ…とにかくお前は逃げろ…」
「安心しろ、痛くはない……クックック」
「よ、よせ…よせ、やめろぉ~」
──「何が起こっているというのだ…。乾丸先生の晶晶白露さえ歯が立たない奴とは…どんな化け物なんだ!?」
越知英資は恐怖を感じて、言われるままその場から逃げ出した。
Ⅱ
「助けて浩子…私もうダメかも…」悍ましい気配の漂う薄暗い空間で、錫は恐怖と戦っていた。
「何言ってるのスン…諦めちゃだめ」
「だって…キャー!……首の無い亡霊が襲ってきた…」錫は浩子にしがみついた。
「信枝は?信枝はどこ…?」。「あの子は先に行ってしまったわ…」
「裏切ったのね信枝…許さない…」。「スン、鬼よ…今度は鬼があそこに…」
「……ヒャッ!浩子、こうなったら晶晶白露でやっつけていい?」
「…残念だけど………こいつらに晶晶白露は効かないと思うわ…。とにかく早くここから逃げ出すしかないのよ…」浩子は錫の手を無理やり引っ張ると、目の前に見えている黒い扉を勢いよく押し開いて通り抜けた──。暗がりから一気に外の世界に飛び出した二人は、眩い太陽の光に一瞬目を射られた。
それからすぐ目の前で腕を組んで立っている信枝に気づいた錫は、ただでさえ大きな目をさらに大きく開き、口を一文字にして信枝を睨みつけた。「裏切ったわね……信枝…」錫は怒りを顕わにしていたが、信枝は悪びれた様子もなく笑って答えた。
「ふっ…やっと出てきたわね…。たっぷり楽しめて良かったじゃない…くふふふ」
「くふふふって……あれほど約束したでしょう!?絶対に見捨てないって…」
「見捨ててないわよ!スンが前に進まないから見失っただけ。それに話題のお化け屋敷のわりには大したことなかったじゃない…」
「どこがよぉ~!むちゃくちゃコワかったわよぉ…ね、浩子、ね?ね?」
「う、うん…」浩子は錫に押されてしぶしぶそう答えた。
「それだけ恐がったら、充分元が取れたってものよ!」信枝が〝からから〟と笑いながら言った。
「何よそれ……金輪際信枝のことは信用しないことに決めましたぁ~!」
「まぁまぁ二人とも…。それよりもスンは頑張ったんだから、約束どおりのご褒美を…ね?」
「そうよそうよ!約束だったんだから、次は〝双子のこぐまショー〟を一緒に観に行ってよ!?」
「はいはい、分かりました…。お子ちゃまだねぇ、スンは…」
お盆を迎える数日前、三人は久しぶりに休みが揃い、平日の遊園地で余暇を満喫していた。
「あ~可愛かったぁ、こぐまのグリちゃんとズリーちゃん!帰りにぬいぐるみ買っちゃおう」
「何でも買ってちょうだい。こっちは退屈で寝てたわよ…」信枝はさもつまらなさそうに両手を上に伸ばしてあくびをした。
「ところでさぁ、小腹もすいたことだし、ここの遊園地一押しの〝ホットホットホットドッグ〟食べない?」
「相変わらずスンの食欲は健在ね」
「だってここに来たら絶対食べようって楽しみにしてたんだもん!」
「これだよ…浩子…」信枝が呆れて言うと、浩子は〝ふふふ〟と楽しげに笑った。
「げぇ──!ホットドッグだけであんなに長い列が…」錫が赤いワゴン車型の店を指さして叫んだ。
「でもあんたは、あの長蛇の列を並ぶんでしょ?」信枝は聞くまでもないという素振りだ。
「ニシシ……もちろん」それから約三十分──三人は気長に待ち続けて漸く順番が回ってきた。
「私が注文するわ。信枝と浩子は何にする?」錫が嬉しそうに尋ねた。二人は〝ホットホットホットドッグ〟一つとオレンジジュースのSサイズにすると答えた。
「オッケー!」錫は軽く返事をすると、嬉しそうに店員に注文した。「〝ホットホットホットドッグ〟を五つ!それからオレンジジュースの…」
「ち、ちょっとスン、ここのホットドッグはかなりアメリカンサイズだよ…?あんた一人で三つも食べれるの?」信枝が呆れ顔で聞いた。
「うん!」。「う、うん…て軽く言ってるよこの子…」
青空の下──錫は真ん中に大きなパラソルが付いたアルミ製の丸テーブルに座り、大きな口をあんぐりと開けて〝ホットホットホットドッグ〟にかぶりついた。
「ん~美味しいぃ~っ!スモークされた太くて大きなフランクフルトと焼き目の付いたコッペパンはボリューム満点──千切りにして炒めてあるほんのりカレー風味のキャベツがアクセントになって相性抜群。アッツ熱のホットと辛口の刺激的なホットなソースが堪らない。まさに〝ホットホットホットドッグ〟だわ!」
「あんたの食べっぷりとコメントを聞いてるだけで、このホットドッグが数倍美味しそうに感じるわ…」信枝は、錫がみるみるうちに一本目のホットドッグを平らげるのを、ただポカンと見ていた。
「ごちそうさまでしたぁ。…そこそこお腹いっぱいになったわ!」
「あんた…これだけ食べて、まだ〝そこそこ〟なの!?」。「スンならあり得るわね…うふふ」
二人の言うことなどどこ吹く風で、錫は紙おしぼりで口元をぬぐった。
「ねぇねぇ、ちょっと見て……あそこ!」錫は一体の着ぐるみを指さした。「さっきの双子のクマのグリちゃんだよ。しかも私たちに手まねきしてる」錫は一目散に駆け寄って行った。
「まったくあの子ったら…お子ちゃまだね…」信枝は呆れながらも錫を暖かく見守った。三人の中のあねご的存在だ。
常生拳空手道の総師範・段乃原正立を父に持つ栗原信枝は、毎日空手着に袖をとおさない日はなかった。道場の支部は、今やあちこちに点在していたが、信枝はその幾つかをかけ持っていた。
信枝は父の跡を継いで二代目になるつもりは毛頭無かった。幼い頃から厳しく育てられ、幾度涙を流したことか分からない。だがそんなことが理由ではない。
信枝は欲得なしでここまで常生拳を広めた父のことを心から尊敬していたし、娘とて容赦なく厳しく育ててくれたからこそ、自分もこれほどまで強くなれたと感謝さえしている。信枝にとって誇らしく偉大な父だ。けれども跡継ぎとなると、その父の偉大さこそが重圧だった。
多くの人たちから慕われ、地位も名誉も得たにも拘わらず、それに甘んじることなく日々空手の鍛練を怠らない。加えて精神面をも磨き続けている非の打ち所のない父の跡など、どうして継ぐことができようか。自分のような人間が跡を継いでも常生拳を衰退させるだけだ。世襲の掟があるわけでもなし、弟子の中から父の眼鏡にかなった跡目を見つけ、常生拳の二代目を継がせればいい──信枝は勝手にそう思っていた。
ところが近頃、そんな父が自分の弟子を婿養子にする話を持ちかけてくるようになった。愛弟子が父の跡を継いで二代目になればいいとは思っていたが、婿養子を二代目にするなど考えてもみなかったことだ。婿取りは一人娘の宿命なのかもしれないが、今の信枝にとっては迷惑極まりないことだった。信枝にはどうしても忘れられない愛する人がいたからだ。いや、表現が正しくない──どうしても忘れられない霊神がいたからだ。
〈錫雅美妙王尊〉──信枝が生まれて初めて恋した相手だ。
錫雅尊は信枝の親友香神錫が人間として生まれる前の魂だが、こともあろうに信枝はこの錫雅尊に恋をしてしまった。しかも信枝は、錫雅尊が自ら拗隠の国に留まり白の国へ通ずる抜け穴を塞いだことで、その魂は永遠に戻ることなく〝無〟になったと今も思い込んでいる。
錫雅尊である錫は、拗隠の国の抜け穴を塞ぐと、自らの魂を邪身玉に封印させて人間の世界へと帰って来たが、信枝にはそのことを伝えず、いつしか錫雅尊への叶わぬ恋心が消えて無くなることを期待していた。ところが一年経っても二年経っても信枝の錫雅尊への想いは薄らぎもせず、〝永遠の憧れの君〟として信枝の心にますますガッチリと食い込んでいた。錫にとって、これは大誤算だった。
父・段乃原正立もまた頭を悩ませていた──。娘が誰かに恋をしているのは分かっていたが、何を尋ねても意味不明の答えしか返ってこないからだ。
いつぞやも〝お前が初めて好きになったという男とはいったいどんな奴だ?〟と尋ねると、〝別世界で暮らしている方です〟と答えが返ってきた。〝私より強いと言っていたが、彼も空手家なのか?〟と問うと〝あのお方は犬を家来に持つ魔法使いです〟と言われる始末。〝連れて来ることはできないのか?〟と尋ねると〝とっても恥ずかしがり屋なので…〟と断られる。〝どうしても会えないのか?〟とごり押しすると〝天国を守るために星になりました〟と聞かされる。すべてがあながち間違いではないが、何も知らない正立にとっては意味不明だ。
やがて父・正立が導き出した答えは、〝娘は男にふられたに違いない〟だった。失恋の痛手で心を病み、おかしな答えが返ってくるのだと──。ならば時間と共に心の傷も癒えるだろうと軽く考えていたが、年月が過ぎても変わらない。心配した正立が思い切って〝私には今のお前が抜け殻に見えるのだが…?〟と問うと、〝そう?私は肉体を抜け出して本当に抜け殻になれます〟などと、正立にはちんぷんかんぷんな答えが返ってくる有様だ。
これが失恋の深い心の傷のせいならば──と正立は娘のために婿養子を探してやることにした。予想はしていたが、信枝にその話を持ちかけると煙たそうな顔をして見向きもしなかった。
正立は自分の跡継ぎが欲しいわけではなかった──ただなんとか娘が元通りに戻ってくれたらと、それだけを願ってのことだった。そんな親心を信枝は母・光子から教えられた。自分のせいで父に心配をかけていたことを知った信枝は、うじうじしている自分に見切りをつけるべく、父の選んだ人と見合いをしようと意を決したのだった。
その運命の日まで────あと数日に迫っていた。
「ねぇねぇ信枝、浩子…グリちゃんがこのミラーハウスに入れって私を引っ張るの…一緒に入ろう?」着ぐるみのクマは、錫の腕を両手でつかんで引っ張っぱり込もうとしている。
「嫌よ…つまらなそう…」信枝はまったくその気なしだ。
「いいじゃないよぉ…どうせフリーパスだし…。いっぱい入った方が元が取れるわよ」
「スンはさっきのお化け屋敷だけで元が取れてるでしょ!?」
「……どうせ人の十倍は恐がらせてもらいましたぁ~!」
「くふふふ…行っておいでよスン。…信枝とここで待っててあげる」
「うん!じゃ入ってくる」ミラーハウスは鏡の壁で作られた迷路だ。時折表面が凹凸になった歪な鏡があったり、体型が太って見えたりスリムに見えたりする鏡が通り行く者を楽しませてくれる。お化け屋敷と違って楽し気な音楽が流れていて、錫もここなら一人でも平気だった。
「油断してたら鏡に激突しそう…」独り言をいいながら恐る恐る歩いていると、一瞬鏡に何かが映った。驚いて振り向くと、着ぐるみのクマのグリちゃんが両手で手を振りながら錫に近づいてきた。
「あっ、グリちゃん。私が迷うと思って助けに来てくれたの?」錫が尋ねるとグリちゃんは大袈裟に頷いた。
「どっちに進めばいいんだろう…」悩んでいる錫にグリちゃんが〝こっちこっち〟と無言のまま指をさした。
「えっ…こっち?…これ鏡じゃないの?」どう見てもグリちゃんの指さしている方向は鏡のように見える。だが、グリちゃんは頭を横に振って同じ方向を指さしている。錫はどうしていいのか分からなくなって、ゆっくりその方向に手を伸ばしてみた。冷たい鏡の感触が錫の手を伝わった。
「グリちゃんハズレ~!やっぱりこっちは鏡でしたぁ」錫が笑いながらそう言った途端、驚く現象が目の前で起きた。鏡の表面が錫の手によって波打ったのだ。
「へっ……なに?グリちゃん…この鏡おかしいよ…」そういって錫が後ろを振り向きかけた時、誰かに背中を強く押された。誰かといってもそこにはグリちゃんしかいないのだが──。
「………!」錫は叫ぶ間もなく鏡の向こう側に突き飛ばされた。グリちゃんは楽しそうに体をゆっくり左右に振りながら、両手を広げて手を振っている。まるで〝行ってらっしゃい〟と言わんばかりだ。
錫を飲み込んだ大きな鏡は、まるで水面のようにいつまでも波打っていた──。