ふたりの本当
気がつくと、お布団の中だった。
まだ薄暗い。空気がひんやりしている。
夢?
でも見てた?
頭がまだはっきりしない。
仰向けになったまま、部屋の中を見回した。
いつもと変わりはない。
夢と現の狭間で、昨夜の不思議な出来事を反芻した。
ひとつひとつがありありと思い出された。
あれは夢なんかじゃない。そう確信して、しばし甘美な世界に浸った。
前世の記憶はきれいに失われていた。
昨日、港で見た既視感さえ、消失していた。
けれど、わたしと兄が古代の意思を持って生まれ変わったことだけは、しっかり頭に刻まれていた。
となりで、あなたが寝息を立てている。
上品に整ったお顔。
そっと顔を近づけて、その頬に軽くキスをした。
なのに、あなたは起きない。
王子さまにキスされたお姫さまは目醒めるはずなんだけどなあと思ったら、「男なんて、そんなもんだよねえ」と言った貴子ちゃんのセリフが頭に浮かんだ。
ほんと、そうだよね。
自分のお布団に戻って、あなたの寝顔を眺める。昨日までと同じ顔。だけど、全く違って見える。
生まれてからずっと一緒に暮らしてきた。朝起きて、同じ食卓でごはんをいただいて、一緒に学校に行く。帰ってくれば、また一緒にごはんをいただいて、夜は同じ部屋で寝る。
その人が実は実は大切な大切な運命の人だった。
とても不思議。
見慣れているはずの顔が懐かしかった。ずっと見ているうちに、なんだかおかしくなってきた。
なにしれっとこんなとこにいるわけ? ずっとずっと離ればなれだったっていうのに。それに、いつまで寝てるの? もう明るくなってきたよ。
あなたが目を醒ましたのは、ずいぶん経ってからのこと。すっかり明るくなっている。わたしに顔を向ける。お互いお布団に入って、横になったまま。目と目が合う。
「おはよ、お兄ちゃん」
まだ目が半分寝てる。
お寝坊さん、よくおねんねしてたね。
「うん? 衣通子、ここは?」
昨夜の出来事とまだつながっていないんでしょ。ふふ、お兄ちゃん、かわいい。
「おうちだよ」
「衣通子、俺たち、」
「夢じゃないよ。前世のこと、わたしが思い出したの」
あなたは鳩が豆鉄砲でも喰らったような表情をしてから、微笑んだ。記憶がつながった? わたしも微笑んだ。しばらく見つめ合った。いとおしい気持ちで胸がいっぱいになる。こんなの、生まれて初めて。とても変な感じ。
「ね、ひとつ聞いていい?」
「うん?」
「お兄ちゃんはいつ前世のこと思い出したの?」
「いつ?」
「うん」
「衣通子と一緒」
「一緒?」
「十六の誕生日のとき」
わたしは体を寄せた。
「前世のことわかってから、わたしを探してたんだよね」
「うん、ずっと探してた」
「クラスの女の子とか?」
「道行く人とか、テレビに出てくる人とかね。もし、もうおばさんになっていたらどうしようって思ったし」
わたしは声を出して笑った。
「もうおばさんになってたら、どうしたのよ」
「また、来世に賭ける?」
「あきらめ、はやっ!」
「まあ、おばさんの程度にもよるよな」
「程度? ギリどれぐらい?」
「うーん、三十?」
「わかっ!」
守備範囲、狭すぎない? って、まあ、そんなもんか。
あなたは照れたような、嘘のない笑顔。
「なんとなく衣通子が、なんて思わなかったの?」
「それだけは考えたくなかった」
「考えたくなかった?」
「そりゃあ、だって前と同じになっちゃうだろ?」
そっか、そりゃ、そうだよね。
でも。
「じゃあさ」
今度はなに?ってかお。
「衣通子だったらいいのになあ、って思ったことはなかった?」
わざとねっとりした声色を使って、じっと見つめた。
あなたは黙ったまま、少し目を逸らした。
あ、図星なの? お兄ちゃん、かわいい。
もっと体を寄せる。お互いの息が感じられるほどに。
「衣通子が生まれ変わりでよかったね、お兄ちゃん」
目を合わせようとしない。ふふ、耳が赤いぞ。
「衣通子はどうなんだ?」
どうって。
ふと、昨日、街を一緒に歩いたときの高揚感を思い出した。ルックスがどうこうより、いつも穏やかで、黙々と一生懸命に取組む姿が好き。だけど、ごはんをこぼしたり、呆れるほど見た目に無頓着なところがある。
「まあ、よかったんじゃないの」
あ、お兄ちゃん、なに笑ってるのよ。
「衣通子」
「うん?」
「これからも、よろしく、な」
え? そんな、いきなり改まったようなこと言うなんて。
頬が染まるのを感じた。お兄ちゃん、ズルい。
でも。素直に嬉しかった。
「いしづちの神には感謝してもしきれないな」
「いしづちの映像って、お兄ちゃんも見たの?」
「映像?」
「見てないの? じゃあ、わたしたちに血のつながりがないってこと、誰から聞いたの?」
「それは透子が教えてくれた。いしづちがそのために骨折ってくれたことも」
「わたしね、お兄ちゃんの本当の妹になろうとしてたんだって」
「懲りない奴」
「あ、ひどーい!」
あなたが笑った。わたしも笑った。ふたりでしばらく声を上げて笑った。笑い終えてしまうと、会話が途切れた。
あなたの目を見ていた。あなたもまっすぐに見つめている。
なに? この沈黙。くすぐったいような気持ち。
「朝ごはん作るね」
耐えきれなくなって、お布団から飛び出した。
お着替えして、キッチンに入る。ひとりになると、いろんなことが恥ずかしくなった。笑みも出る。
しばらくして、お味噌汁のお鍋がぐつぐつ音を立てはじめた。
いけない。
慌てて火を消す。
白菜のお漬物をざくざく切っていると、わたしの作った料理を、あの人がおいしそうに食べてくれる情景が目に浮かんだ。
千六百年も昔からわたしを一途に思ってくれる人。
と思ったら、頬を熱いものが伝わるのを感じた。胸の奥から震えるような幸せがこみあげてきた。包丁をもったまま、うつむいていたけど、耐えきれなくなった。包丁をシンクに置いて、その場にしゃがんだ。涙はとどまることがなかった。
どれほど経ったことだろう。あなたが入ってきた。
「衣通子」
駆け寄ってきた人に抱きつくと、その胸の中で声を上げて泣いてしまった。
朝っぱらから、なにやってんだろ、わたし。
現世のわたしたちは、愛し合うことを許されぬ、忌むべき間柄ではなかった。くに神といしづちのやま神、伊予の二神が認めてくれた。
けれど、今を生きる身には、重大な疑問が生まれた。
兄は、誰の子どもなんだろう。
わたしが宿ることのできなかったあの女の人は誰?
そもそも、わたしたちはどうして「兄妹」なの?
父にメールを打った。
「教えて。お兄ちゃんの本当のお父さんとお母さんを。お兄ちゃんとわたしの本当の関係を」
あまりに直球すぎるかもと思ったけど、あれこれ飾ったところで仕方ない。ずいぶん経って帰ってきた答えは
「近くおばあちゃんの三回忌があるから、そのとき叔父さんから聞きなさい。叔父さんには、お父さんから話しておくから」だった。
四月になってすぐ、祖母の三回忌が営まれた。
兄とわたしは道後町の叔父宅を訪れ、お仏壇に手を合わせた。
お坊さんが帰ってから、応接間に通された。お庭に面した縁側のある和室だった。そこにはなぜか春宮のおじさんおばさんもいた。座卓を挟んで、わたしたち兄妹と、叔父、春宮夫婦が差し向かいに座った。叔母が運んできた湯飲みが座卓の上に五つ並べられた。
兄は、緊張しているようだった。わたしは自分でも不思議なほど落ち着いていた。
「まあ、お茶でも」
叔父はそう言うと、湯飲みを口に運んだ。兄もひと口飲み、それを見てわたしも口をつけた。しばらく五人は正座したまま、黙ってお茶を啜った。やがて、春宮のおばさんから促された叔父が重々しく口を開いた。
「皇子、衣通子」
叔父の顔をまっすぐ見た。いつもボサボサの髪が小綺麗に切り揃えられていた。
「おまえたちの生まれについて、誰からなにを聞いて、どこまで知っているのか叔父さんにはわからないが」
叔父の声はふだんと変わらず穏やかだった。
「今日はわたしの知っていることを、そのまま伝えてあげよう」
そう言うと叔父は目をつぶり、深く息を吸って、吐いた。そして兄に顔を向けると、さっきより強い口調でゆっくり言った。
「皇子、おまえのお母さんは、おまえが生まれて二年足らずで亡くなった」
兄は静かに頷いた。いしづちに見せてもらった映像のあの人だと、わたしは理解した。
「そのお母さんはな」
叔父は、ひと呼吸置いた。
「わたしの姉だ」
「え?」
思わず声が出ていた。叔父は構わず続けた。
「そして、衣通子、おまえのお母さんの、双子の姉に当たる人だ」
息を呑んだ。想定外、だった。
祖母が遺したアルバム。そこにあった同じ顔したふたりの女の子。
叔父は続けた。
「それから、衣通子、おまえのお父さんだが」
わたしのお父さん?
「おまえの本当のお父さんは、おまえが生まれる前に亡くなった」
息が止まる思いだった。
「じゃ、じゃあ、今のお父さんは誰なの?」
「今のお父さんはな、皇子のお父さん、つまり双子の姉の旦那さんに当たる人だ。皇子のお母さんが亡くなったので、お父さんは衣通子のお母さんと再婚したんだよ」
兄もわたしも言葉を失っていた。
兄の母は、兄を産んだ後、崩した体調が戻ることなく亡くなった。父は幼な子を抱えたまま、やもめになった。一方でわたしの父は、結婚してほどなく亡くなった。そのとき、母はすでにわたしを身籠っていた。紆余曲折の末、独り身になった者どうしで再婚することとなった。
「だから、皇子と衣通子、おまえたちの元々の関係は、母方の従兄妹ということになる」
兄と顔を見合わせた。
「ただな、おまえたちのお母さんは一卵性双生児だ。つまり、体こそ違えど、遺伝子は全く同じだ。だからおまえたちが兄妹と言っても、あながち間違いとも言えないだろう」
叔父は湯飲みに口をつけると、さらに続けた。
「話はまだある。ここにいらっしゃる春宮さんはな、衣通子、おまえの実のお父さんのお父さんとお母さん、つまり、おまえのおじいさんとおばあさんだ」
「え? えーっ!」
おじさんは照れたような表情をして、わたしに微笑んだ。
おばさんは目にいっぱいの涙を溜めて、「そとちゃん、ごめんなさいね。今まで黙っていて」と言うと、ハンカチで目頭を押さえながら、部屋から出ていった。
春宮のふたりが、わたしのおじいちゃんとおばあちゃん? あのふたりと血が繋がっていると言うの?
「おまえたちには、あまりにショックな話だろう。ただな、これだけは信じてほしい。決しておまえたちを欺くつもりで今まで黙っていたわけではない。おまえたちの今のお父さんとお母さんが再婚したときに、おまえたちが大人になるまでは、本当のことを伏せることにしたんだ。子どもにいらぬ心配をさせたくない、というのがその理由だ」
叔父はそこまで言うと、ふうっと息を吐いた。
わたしは、なにも考えることができなかった。兄も黙って虚空を見つめていた。
「話は以上だ。わかったかな?」
「ありがとうございました」
座布団を外して、わたしたちは叔父と春宮のおじさんに深々と頭を下げた。
「そんな畏まったことはせんでくれ。さ、ふたりとも、顔を上げて」
顔を上げると、叔父が優しさに満ちた表情でわたしたちを見ていた。
「不思議なもんだな。これでようやく姉ふたりの供養ができたような気がする」
叔父はそう言うと、庭に顔を向けた。わたしもそちらを見た。外は霞がかった春の空が広がっていた。
兄が口を開いた。
「僕の本当のお母さんは、どんな人でしたか」
叔父は暖かな笑みを見せて答えた。
「とてもうつくしくて、とても優しい、いつも笑顔を絶やさない人だったよ」
「じゃあ、僕らが小学校のときに亡くなったお母さんと一緒だったんですね」
「そうだ、あのふたりは姿かたちはもちろん、性格もまるで一緒だった。いつもころころ笑って、まわりを明るくしてくれる、いやなところなど微塵もないふたりだった」
わたしも聞いた。
「わたしの本当のお父さんは?」
「わたしが知ってる男の中で、一番男らしい男だったよ」
春宮のおじさんもこう言った。
「自慢の息子だったよ」
そうして、遠くを見るような目をすると、うっすら涙を浮かべた。
「うちのまわりをいつも散歩されてたのは、ずっと衣通子を見守ってくれていたんですね」
兄が春宮のおじさんに言った。おじさんは照れたように笑った。
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げる兄の横で、わたしはおじさんの顔を見つめながら、心の中でありがとうと呟いた。
「おまえたちのお母さんはな、ふたりとも自慢の姉だった。あんないい姉はいなかった」
叔父はそう言うと、顔を上げて、目をつぶり、涙を零した。
「なんであんないい姉さんが、ふたりがふたりとも、いなくなったんだろう」
しばらく涙を流したあと、叔父はわたしを見た。
「衣通子、おまえはだんだんお母さんに似てきたな。おまえのちょっとした仕草や表情を見ると、若かりし頃の、あの優しかった姉さんを見る思いがする」
なにがおかしいのか、いつもころころと笑っていた母の笑顔が浮かんだ。
お母さん・・・。
胸の奥から思いがこみ上げてきた。
「お母さん」
声を漏らすと、堰を切ったような感情を止めることはできなくなった。
「お母さん・・・」
懸命に声が出るのをこらえた。わたしって、いつからこんな泣き虫になったんだろう。このところ、ずっと泣いてばかりいる。
ふと、いつだったか、母が膝枕で耳掃除をしてくれたとき、髪をさらさら撫でてくれたことを思い出した。
「そとちゃんって、ほんっとにくせっ毛ねえ。あなた、こんなところ、お母さんに似なくてよかったのに」
そうだ。あのとき、髪を撫でられる心地よさとともに、「お母さんに似ている」と言われたことが、とても嬉しかったんだ。
聞きたいこと、知りたいことは、山のようにあった。でもそれは、これから徐々に聞くことにして、まずはわたしの本当のお父さんと、兄の本当のお母さんの墓参日程を決めて、叔父宅を辞した。玄関を出ようとすると、春宮のおばさんが駆け寄ってきた。
「そとちゃん、これからもうちに来てくれる?」
その目があまりに寂しさと恐れに満ちていたから、びっくりした。思わず、おばさんの手を握って言った。
「あたりまえじゃないですか。だって、だって」
おばさんの目から大粒の涙が零れた。それを見たわたしの目にも、涙が溢れた。
「そとちゃん」
おばさんに抱きしめられ、やっと声に出した。
「おばあ、ちゃん」
おばさんの動きが止まった。と思うと、「わあああああ」と耳元で声がした。おばさんに抱きしめられながら、胸の奥から湧き出る感情を、わたしも抑えることができなかった。
「本当のお母さんがべつにいたなんて、想像もしたことなかった」
帰路、兄がぼつりと言った。
「お母さんは、ほんとにいいお母さんだった。していいことと、わるいことをはっきり教えてくれる人だった」
「うん、そうだったわね」
「水泳をはじめて、しばらくしてからね」
「うん」
「スイミングスクールで級がぜんぜん上がらなくなったことがあってね。同じ頃に入った他の子たちがどんどん上に行くのに、ひとり取り残されてゆくんだよ」
兄を見た。
「それが嫌で、もうやめるって言ったことがあったんだ。そしたら、一度はじめたことは、最後までやり遂げなさいってお母さんに言われた」
「お母さんはいつも言ってたわよね。もうちょっとだけ頑張ってみよう、もうちょっとだけ頑張ってみようって」
「そう。あのとき、人間はどんなことでもやり遂げることが大切だって言われたんだ」
そう言うと、兄はこっちに顔を向けて続けた。
「ちょっと難しいことがあったり、飽きたりして、やめることを覚えると、なんでも投げ出してしまう人間になっちゃうよって。そんな人間はなにもできないし、なにも身につかない。皇子はそんな人間に決してなっちゃいけないって。しんどいことがあるとき、今でもお母さんのあの言葉が思い浮かぶ」
わたしも母から似たようなことを言われた気がする。お料理で、お裁縫で、かけっこで、空手のお稽古で、そろばんで、お勉強で。
「できるようになるまでやってごらん。大丈夫、そとちゃんは普通にできる子なんだから。続けていたら、そのうちできるようになるよ。そとちゃんにできないことなんて、ないよ」
そして、できたときには「ほーら、できた、できた」と言って、ころころ笑ってくれた母。おかげで、どれだけ前向きになれたのだろう。
兄が立ち止まった。
「生みの親でない親をもつ子どもは、自分の親が本当の親ではないって敏感に感じるものだって聞いたことがあるんだけど。でも、お母さんのことを、ほんのちょっとでも、そんなふうに感じたことはないんだ、本当に」
わたしも父のことを考えていた。アメリカにいる父と血のつながりがあるかないかなんて、意識したことすらなかった。もっとも、父とはほとんど一緒に生活していない。それでもきちんと生活費も学費も払ってくれていることに感謝しなければならないのだと思った。
「お父さんも辛かっただろうな。結婚した相手をふたりも亡くしてしまって」とわたしが言うと、
「お父さんは、おばあちゃんや叔父さんにも申し訳ない気持ちだったと思う」
「そうね、お父さんが松山にあまり帰ってこないのも、わかるような気がする」
ふたりの千六百年にわたる思いを叶えるために、もしかすれば周囲の人たちを大変な運命に巻き込んでしまったのかもしれない。知らないところで、いろいろな人の、いろいろな思いや心遣いがあって、わたしたちは生きていられるんだと、ぼんやり感じていた。