表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

昇華する魂

 東に向けて。

 光が大きな弧を描いた。

 その光とともに魂が空を駆け、降りていった。池のそばへ。

 そこに、小さなお社がある。まわりには家が並び、ぽつりぽつりと暖かな明かりが灯っている。月がぽっかり浮かんでいた。

 音がしない。時間が止まっていた。

 三角座りをして、両膝に顔を埋めて、ひとり泣いていた。


 あの人は本当にわたしのことを思ってくれているの。

 何度も何度も去来した疑問。

 あの人の思いは、ただの後悔と憐憫じゃないの。

 自己嫌悪が、勝手な罪意識になっているだけじゃないの。

 ・・・だとすれば、それは愛情と言えるの。

 わからない、わからない。


 でも。

 わたしはどうなんだろう。

 あの人に愛された。それがために人がどんどん離れていった。

「あら、今日はお兄さまとご一緒ではないのですね」

 よみがえる記憶。いろいろな言葉が心に針を刺す。


「あまり惑わせるようなことをされるのは、如何なものかと思います」

 惑わせる? 惑わせてなんかいない。思いを通わせているだけ。あの人が思ってくれる。あの人を大切に思っている。ただそれだけ。

「またご一緒なのですか」

 一緒にいたら、いけないの? あの人と一緒にいることはいけないことなの?

「どなたに吹き込まれたのです。次の帝になる方をたぶらかせと」

 吹き込まれる? たぶらかす? なにを言っているの?

「どなたでもいいのですか。けがらわしい」

 けがらわしい? わたしはけがらわしいの?

 それに、わたしから求めたわけじゃない。あの人以外、許してもいない。


「同じ血をわけた方とはご一緒になれないのですよ」

 そんなことわかってる。わかってるわよ。

 わかってるけど、わかってるけど。夜ごとあの人が訪ねてきて、求めてくるんだもの。おまえしかいないって言われるんだもの。しょうがないじゃない。

 こんなことしちゃいけないことぐらいわかってる。わかってるけど、わかってるけど。

 わるいのは、わたしじゃない。

 わるいのは、わたしじゃない。

 わるいのは。。。

 ハッとした。

 わたしは。

 いったい誰のせいにしようとしているんだろう。

 わたしは、本当に、本当に、あの人を、あの人のことを、思って、いるの?

 わからない、わからない。


「もう嫁がれては如何ですか」

 また記憶がよみがえる。

 それができたら、どんなにか気が楽だろう。

 責められることもなくなる。あの人の立場も守れる。同じ血をわけた兄妹なんだから、縁が切れることもない。

 でも、でも。

 そんなことをしたら、あの人と一緒にいられなくなってしまう。せつない思いが胸を締めつける。

 なんであの人なの?

 なんで同じ血をわけて生まれてしまったの?

「なんてうつくしい人だ」

「まるで花のような」

「匂い立つような」

「照り輝くような」

 少し前まで、まわりはチヤホヤする人ばかりだった。気を惹こうと懸命な人ばかりだった。なのに。

 ・・・

 わたしはいったいなにを求めているんだろう。

 人からどう思われたいと思っているんだろう。

 わからない、わからない。

 どう思われようと、あの人とはどうありたいんだろう。

 わからない、わからない。

 なぜあのとき。

 あの人の思いを真正面から受けてしまったんだろう。

 もっとやわらかに受け流してあげれば済んだこと。

 安易に受けるから、大切なあの人の未来を奪った。地位も、名誉も、命さえ。

 争いを生み、多くの人たちを傷つけ死なせた。

 若かった。若すぎた。

 なぜあのとき。

 まわりにあわせるべきところをあわせて、自分たちの破滅や周囲の混乱を避けることこそが、本当に相手を思うってことじゃないの?

 でも、それは理屈。

 わたしの気持ちは?

 わたしはどうありたかった?

 わからない、わからない。

 ただ、

 今言えることがあるとすれば。

 前世と同じ定めのもと、ふたりが生まれ落ちたってこと。


 わたしたちは、試されているの?

 ・・・

 今の暮らしは?

 いつもなにを思ってる?

 ふたりだけの、なに不自由のない穏やかな日々。

 屈託のない笑顔。

 すべてをさらけ出していられる。

 どんなことだってしてあげられる。

 ちょっとしたことがすぐ心配になる。

 愛だの恋だの、そんな意識さえ越えている。

 わたしがわたしでいられる穏やかな日々は、あの人と共にある。

 なのに、その永続は許されない。

 同じ血をわけて生まれた男と女は、ひとつになることが許されない。

 ・・・

 いや

 いやだ。

 そんなの絶対いやだ。

 一緒にいたい。

 ずっとずっと一緒にいたい。

 もう離れたくない。

 千六百年も離れ離れだったんだよ。

 あの人のいない暮らしなんて考えられない。

 あの人と離れるなんて絶対にいやだ。

 なのに。

 また咎められるの?

 みんなから白い目で見られるの?

 今までどおりの暮らしを送りたいだけなのに。

 ただありふれた毎日を送りたいだけなのに。

 わたしたちはそんなに罪深い存在なの?

 どうすればいいの?

 わからない、わからない。

 このまま、ずっと果てのない輪廻の中で、無間地獄を彷徨い続けなきゃいけないの?

 神さま。

 神さまがいるなら、お願い。

 どうぞこの穏やかな毎日を、あの人との暮らしを、この先もずっとずっと過ごさせて。

 お願い。

 あの人を、もうわたしから奪わないで。

 神さま、お願い。



 あたしは、光の落ちた場所に立っていた。

 池のほとりの小さなお社。いつもシロを散歩に連れてくる場所だ。

 時間が止まった音のない世界。神さまだけが動ける世界。

 誰かいる。

 パジャマ姿の女の子が、ひとり肩を震わしていた。

「どうして?」

 木梨衣通子ちゃんだった。

 こんな時間に、こんなところで、そんな格好をして、どうしちゃったの?

 思わず彼女のもとに駆け寄ろうとしたとしたそのとき、ぐっと手首を掴まれた。


「あなたは」

 振り返ると、そこにいたのは、伊予のくに神だった。

 白いブラウスに朱色のスカート。

 令和っぽくない格好が変に似合っていた。

 彼女は口もとに人差し指を当てて、あたしをお社の裏にいざなった。

「そとちゃんが泣いてる。それもあんな格好をして。話を聞いてあげなきゃ」

 くに神は変なかおをした。

「山積さん、あなた、衣通子と親しいの?」

「まだ親しいってほどじゃないかもだけど、仲良くしてくれるの」

「あれは衣通子じゃない」

 え?

「今、あそこにいるのは、はるか遠い昔、この世に思いを遺して彷徨う神さま」

 それって。。。

「よこしま?」

「そう言う者もいるわね」

「それ、いしづちの神が言ってた。今日、大きなのが現れるとかって」

「ええ、ついさっき現れたの」

「ねえ、そとちゃんはどうなっちゃうの? あんなに明るくてかしこい子が」

 くに神は笑顔を見せた。

「衣通子もいいお友達ができたものね。瀬戸のうみ神が選ぶだけのことはある。いいでしょう、山積凛さん。あなたに、あそこにいる哀れな女の子の話をしてあげる。あの子がどう語られてきたのか」


 今から千六百年も昔のこと。

 それはそれはうつくしいお姫さまがいた。

 その姫は、実の兄である王子さまに見初められ、ふたりはとうとう結ばれる。

 けれど、同じ血を分けた兄妹が結ばれるなど、許されることではない。

 王さまになるはずだった王子は、先王が亡くなると、人々に愛想を尽かされてしまう。

 人々が王子の弟君を次の王さまにしようとしたので、慌てた王子は家来の家に逃げこんで戦の準備を始める。

 しかし、弟君に攻め込まれると、王子をかくまった家来に裏切られて、王子は捕らえられてしまう。

 そして、伊予に流されることとなった。

 都から追放される王子に、妹の姫が駆け寄る。

「あまだむ 軽の乙女 いた泣かば 人知りぬるべし 波佐の山の 鳩の下泣きに泣く」

「あまだむ 軽乙女 したたにも 寄り寝て通れ 軽乙女ども」

「天飛ぶ鳥も使いぞ 鶴が音の 聞こえむ時は 我が名 問はさね」

「王を島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ畳と言わめ 我が妻はゆめ」

 王子の歌に、妹姫も歌を返す。

「夏草の あひねの浜の蠣貝に 足踏ますな 明かして通れ」

 こうして王子は流されたが、残された姫は王子が恋しくて恋しくてたまらず、後を追う。

 なんとか王子のもとにたどりついた姫ではあったが、最期はともに自ら命を絶ってしまう。


 聞き覚えのある話だと思った。町内の子ども会かなにかで聞いたのかもしれない。

「そのお姫さまが、そとちゃんに生まれ変わったの?」

「ええ。取り憑いたと表現する者もいるけれど。そのお姫さまの魂が衣通子に宿っている。今、衣通子の中では、千六百年の昔から歩んできた記憶が蘇っている」

「じゃあ、つらくて悲しい記憶を思い出しているのね」

「それだけじゃない」

 え?

「ふたりがなぜ自ら命を絶ったのか、山積さん、わかる?」

 そんなこと、想像もできない。

「ふたりはね、次のいのちに賭けたの。誰からも後ろ指をさされることなく、結ばれるために」

 なんてこと。 思わず、口もとに手を当てた。

「でも、生まれ変わりなんて、都合よくできるものじゃない。年齢、場所、境遇・・・この広い世界で、離れ離れになった二片が巡り会うことなど奇跡に近い」

 奇跡に近いなんて、そんな絶望的な。。。

「事実、これまでふたりは幾度も幾度も生まれ変わりを繰り返し、ついに出会うことが叶わなかった」

 虚無、絶望、諦め、さまざまな感情が押し寄せてくるような気がした。

「なのに、また生まれ変わってきたの?」

「そう」

「でも、今度は会えるかもしれない。いえ、きっと会える。千年以上も探してきたんだもの。今度は大丈夫だよ」

 くに神は微笑んだ。

「そう、今度は会えたの」

「会えたの? え? 会えたの?」

 なのに、なんで泣いてるの? あんなところで、あんな格好をして。

「その相手は誰だと思う?」

 その相手?

 そとちゃんの笑顔が頭に浮かんだ。

 とてもきれいなお顔をしたそとちゃんが、弾けるような笑顔を向けている。

 指を伸ばして、口もとを拭ってあげている。

 その相手は。

 あのイケメンさん。

 いつも一緒に登校してくる、そとちゃんのお兄さん。

「まさか」

 くに神が笑ったように思った。

「そのまさかなの」

 ていうことは、なに?

 はるか昔、同じ血を分けた兄妹だったために残酷な運命を強いられたふたりが、よりによって、また同じ関係で生まれ落ちたっていうの?

 そんなことって、そんなことって。

 肩を震わせている哀れな女の子。目頭が熱くなった。


「千六百年も経って、ふりだしに戻ったら、そりゃいい加減にしてってなるよね」

 くに神はそう言って「ねえ」と後ろに顔を向けた。

 そこには、顔を伏せたそとちゃんのお兄さんの姿があった。

 びっくりして見つめてしまう。

 いつも穏やかそうなイケメンさんが、あらゆる不幸を一身に背負ったような顔をしていた。

 そうか、この人もそとちゃんと同じ思いなんだ。

「あなたたちの思いの強さには、つくづく呆れるわね。せっかく祀ってあげたのに」

 思いがけないくに神の言葉に驚いた。

「どうしても諦められない、あれの思いを抑えることができなかった」

「だからお付き合いしてあげたの? 律儀なものね」

「わたしには責任がある。すべてのことの始まりは、我が思いを抑えきれなかったため」

「あまり生々しいこと言わないでくれる? 違ったように聞こえる」

「伊予のくに神、わたしには、もうどうしていいかわからない。現世でお互い独り身のまま、あれと生涯を送る覚悟はできている。しかし、それで納得するのか」

 覚悟? 納得? 違和感を覚え、くに神を見ると、くに神はふふっと笑ってから、真面目な顔をイケメンさんに向けた。

「今まで黙っていたけど、あなたたちのように思いを遺して生まれ変わった者を、邪とかって言う者がいる。どうしてだかわかる?」

「・・・」

「ひとりの人間に魂をふたつ入れるとね、近い者の魂を奪ってしまうの。あなたの今のお母さんはお亡くなりになったわね。お婆さんももういない」

 下を向いていた人が、驚いたような顔をくに神に向けた。

「これまでの生まれ変わりも思い出してみて。近しい人が、それも大切にしてくれた人がいなくなっていったはずよ」

「そんな・・・」

「命を奪われた人にも人生はある。大切にしていたものもあれば、成し遂げたいこともあったはず。伊予の神として、人の成すことに干渉はしない。酷いことを成す者がいたとしても、愚かな過ちを犯す者がいたとしても、それは人の問題」

 くに神はそこでひと呼吸置くと、強く言った。

「でもね、邪は違う。この世に遺した思いがために、意志に関わりなく他の人の命に関わるなら、それはこの伊予の神として放置できない。だから邪には安らかに眠っていただこうとしているの」


 そとちゃんのお兄さんはしばらく黙っていたが、やがてポツリと言った。

「それでは怨霊と同じではないか」

 くに神は答えなかった。

「わたしは、あれを怨霊にまでしてしまったというのか」

 くに神は、やれやれといった顔をあたしに向けた。そして、しばらくこっちをじっと見たあと、深く頷き、そとちゃんのお兄さんにあることを告げた。

 思わず顔を上げるお兄さん。あたしも驚いていた。それが本当なら。。。

「そんな」

 くに神は微笑を浮かべた。

 言われたほうは、ただただ困惑していた。そして、くに神と何度か問答したあと、

「たとえそうであったとしても、あれを思う資格などわたしにはないのだ」と叫ぶかのように言った。


 いらぬ感情が、あれの身を奪い、そして、あれの名誉も地位も将来も奪った。

 挙げ句の果てに、生きる希望も、命さえも奪い、魂を彷徨わせることとなった。

 あれにとって、わたしなど厄災をもたらす以外の何ものでもない。

 わたしといる限り、あれは幸せになどなれない。

 思いを寄せる資格など、わたしにあろうはずがない。

 悲痛な魂の叫びが頭の中に響いた。


 沈黙が流れた。

 でも。

「そとちゃんは、もう一度、やり直したかったんですよね」

 あたしは思ったままを声に出していた。

「ふたりではじめからやり直したいと思ったから、自ら命を絶ってまで次の人生に賭けたんですよね」

 さっき見た、肩を震わせてる女の子の姿を思い浮かべていた。

「それはつまり、あなたとならやり直すことができると信じてたから、あなたのことを信じていたからこそ、そうしたんですよね」

 なのに、なのに、そんなこと言われたら、そとちゃん、かわいそすぎます。

 あなたを信じたそとちゃんがバカみたい。

 あなたは自分がそとちゃんの運命を狂わせたと言われる。自分が自分がって、じゃあ、そとちゃんはあなたの操り人形だとでも思ってるの。そとちゃんにだって、気持ちも意志もあるんですよ。


 あたし、あなたといるときのそとちゃんの笑顔を知ってます。

 他の誰にだって見せない、とびきりの笑顔。

 あんな笑顔見せられる相手がいるそとちゃんのこと、羨ましくて羨ましくて。

 だから、あなたのこと、そとちゃんのカレシだって信じて疑わなかった。

 そとちゃんがなんであんな笑顔を見せられるの?

 千年以上も昔の記憶だってまだ蘇ってなんかいなかった。

 昔のことがあろうとなかろうと、あなたのことがただ好きだったからでしょう。あなたと一緒にいるのが楽しいからでしょう。


 あなたはどうなの?

 そとちゃんと一緒にいて、イヤだった? 面倒だった?

 そんなことないですよね。

 あなただって、そとちゃんといるとき、ずっと嬉しそうな顔してる。一緒にいるのが楽しいからでしょう。

 なら、気持ちに素直になったらいいじゃないですか。

 一緒になったら不幸になるとかって、わかったようなこと言って。

 そんなの、卑怯です。

 あなたは思いやりで言ってるかもしれないですけど、そんなの思いやりでもなんでもない。そとちゃんの純粋な思いから逃げてるだけなんです。

 やり直そうって決めて、生まれ変わって来たんでしょう。

 やっと会うことができたのに、やっとこれからってときに、ここで怖くなって、逃げてどうするんですか。

 ふたりで人生を切り拓いてゆく覚悟はどこに置いてきたの。




 どれほど経ったろう。

 歩み寄る者がいる。

「なに泣いてるの?」

 若い女の声。

 少し顔を上げて、声の主を見た。

 白いブラウスに朱色のスカートをはいた女の子が、腰をかがめて顔を寄せてきた。

 肩で切りそろえられたつやつやした黒髪。透き通るような白い肌。黒い瞳。

 透子ちゃんだった。

「どうして」

「どうして? あなたが呼んだから」

「呼んだ?」

「神さま、お願いって」

 目の前にいる少女の黒い瞳を見つめた。透子ちゃんは口もとに笑みをたたえて言った。

「あたしは、伊予のくに神だから」

「伊予のくに神?」

「ええ、今はこの三島透子の体をお借りしてるの」

 夢で見た記憶。

「あたしの中にはね、神さまがいるの」

 あのとき、透子ちゃんははっきりそう言った。あれは本当のことだったんだ。

「お久しぶりね。軽大郎女かるのおおいらつめ。もうどれくらいになるんだっけ? 前にお会いしてから。あなた、十六になったら、生まれ変わりに前世の記憶が蘇るよう願をかけてたのよね」

 そう言われて、伊予のくに神と初めて会ったときの記憶が蘇ってきた。


 もう七百年ほど前のこと。

 わたしはこの世に生を取り戻していた。

 けれど、そこにあの人の姿はなかった。あの人の生まれ変わりを探し続け、見つけられないまま、気づけば齢四十を越えていた。

 この先、あの人を見つけても、どうすることもできない。

 悲しみを胸に、魂が伊予の空を駆けた。くに神はそのとき現れた。そのときのくに神は老婆の姿だった。

「そなたの待ち人はもういない」

「もう? もうとは?」

「そなたが十ほどの頃に亡くなった」

 十歳なら、まだ過去の記憶が蘇る前になる。

「木梨軽皇子の魂はわしが封じた。そなたの魂も同じ場所に封じてやろう。現世で同じ場所、似た境遇、近い年齢で生まれ変わるなど、万にひとつも起こらない。ならば魂だけでも同じところに祀って進ぜる」

 そのとき、くに神はそう言って、生まれ変わりの身から、軽大郎女の魂を封じたのだ。そう、今、まさにいるこの場所に。遥か千六百年の昔、船がたどり着いた津のあったこの場所に。くに神とわたしは、軽兄妹のために、小さな祠と碑を立てた。


「せっかく一緒に祀ってあげたのに、どうしてまたこの世に生まれてこようなんて思ったの?」

 どうして?

 理由は簡単。

 だってわたしたちは約束したから。

 純白のウェディングドレスに身を包んだ花嫁さんの姿が思い出された。花嫁を周囲の人たちが祝福していた。そう、お互いを思うふたりが一緒になることは、まわりも喜ぶことのはず。

 なのにわたしたちの思いは忌むべきこととされた。だから次のいのちに賭けた。ふたりが結ばれるために。

「ま、いいわ。理屈じゃないものね」

 くに神はふっと息をはいて、笑った。

「伊予のくに神、ご用はなに? また魂を封じようというの?」

「あら、あなた、せっかく生まれ変わってきたのに、そんなこと考えてるんだ」

「でも、わたしたち、あのときとまた同じ」

「そのことなんだけどね、軽大郎女。あなたに会わせたい人がいるの。ちょっと会ってくんない?」

「会わせたい人?」

「そう。あなたが生まれるまえから、あなたを見ていた人」

「生まれるまえから?」

「ええ、木梨衣通子が軽大郎女の生まれ変わりだってことを、あたしに教えてくれた人」

 そのときだった。

 時が止まって、音のない世界に、東から光が向かってきた。

 それは竜の形をして、目の前の池に飛び込んできた。柔らかな光の中から現れたのは。

 西条はるか、だった。


「愛媛さん、呼んだ?」

「ええ、ご苦労様」

 愛媛さん?

 くに神が微笑んだ。

「この人もあたしと同じなの」

 同じ?

「生まれながらに、神が宿っている」

 神さまが?

「そう、山の神さまだけどね」

 山の神さま?

「そう。石鎚山の神」

 西条はるかはわたしに顔を向けた。すらりとした長身。媛高の詰襟姿。ぞんざいな言い方をした。

「しけたツラしてんだな、せっかく生まれ変わってきたってのに」

 いきなりなんなの?

「軽のお姫さま。おまえが今の体に取り憑いたときのことを覚えているか?」

 取り憑いた? なんて言い方。

「おまえは、決して宿ってはならぬところに宿ろうとした」

 なにを言ってる?

「覚えているか?」

 そう言われて、ある光景がぼんやりと頭に浮かんだ。

 生まれる前、お母さんになる人を探していたときのこと。

 ある人を見つけて、その人のところに行こうとしたんだった。でも、別の人に宿ってしまった。

「お母さん、お母さん!」

 女の人が遠ざかってゆく。

 そうだ、わたしはあの人に宿ろうとしたんだった。

 ?

 いしづちは今、何と言った?

 決して宿ってはならぬところに宿ろうとした?

 宿ってはならぬところとは、あの人のこと?

「だから、阻止した」

「阻止?」

 !

 思い出した!

 あのとき、手を引っ張られたんだ。そして、そのまま押された。

 だから、わたしは見つけた人とは別の人に宿った。

 あれが本当なら、わたしがその人の子どもにならなかったのは、そのため。

 あの人の妹として生を受けたのも、そのため。

「お母さん、お母さん!」

 女の人は去っていった。

 そのとき、見たのだった。

 誰かがいた。にっと笑っていたっけ。

 その顔は。

 西条はるか!

 え?

 え?

 えー!

 じゃ

 じゃ

 じゃあ!

 あのとき、わたしの手を引っ張って、そのまま押したのは、西条はるか?

 ってことは。

 西条はるかが、わたしを兄と同腹に宿らせたというの?


 顔を上げた。

 西条はるか、いえ、いしづちの神を見た。

 不敵な表情でわたしを見下ろしている。

 頭が混乱していた。

 千六百年の時空を越えて、再び蘇るチャンスを得たというのに、そしてここには愛しいあの人が蘇っているというのに。

 あの山の神が、わたしたちをまた兄妹という関係にしたというの?

 苦しみを重ねろというの?

 許せない。

 絶対に、許せない!

 山の神がなぜそんな酷い運命をわたしたちに背負わせようとする?

 いしづちに怒りの目を向けた。

 山の神は、憎々しくも口もとに微笑さえたたえている。

 目を見据えたまま、わたしは立ち上がった。


「ずいぶん怖い顔してるんだな」

「あのとき、わたしの手を引っ張って押したのは、あなたなの?」

「そうだ」

「なぜそんなことをした!」

 いしづちは笑った。

「なぜ? それが運命だから、とでも言ってほしいのか」

「ふざけないで!」

 思わず叫んでいた。

 あなたになにがわかる? 千六百年もの間、望みかなわないまま耐え続けたこの思いを。

 なんてことしてくれたの。

 悔しくって、涙が溢れた。


「ねえねえ、軽大郎女」

 伊予のくに神の声。

 なんなの? その軽い物言いは?

「ちょっと話を聞いてくれない?」

 なにを今さら。

「まずは落ち着いて。今の世で、あなたとあたしは幼なじみでしょう。そのよしみで聞いてほしいんだけど」

 くに神が微笑んでいた。

「見てもらった方がいいわよね、いしづち、見せてあげて」

 見せる?

 いしづちは面倒臭そうに「はいはい」という感じでこちらに近づくと、おもむろにわたしの額に指を突き立てた。頭の中に映像が浮かんだ。

 人がいた。

 女の人だった。

 その人は木梨衣通子として生まれる前のわたしが、最初に宿ろうとした人だった。

 彼女はベッドに寝かされていた。どこかの病院の中のようだった。

 子どもがいた。

 小さな小さな男の子だった。まだほんのよちよちの。

 次の瞬間、女の人が死んだ。死んだ人が運び出されて行く。

 残された男の子が泣いた。

「ママ、ママ、ママ」

「お兄ちゃん!」

 思わず叫んでいた。

 まだ幼い兄が誰もいない部屋で、ひとり泣いている。

「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」

 そこへ別の女の人が現れた。

 その人は赤ちゃんを抱いていた。

 泣いている兄のそばにやって来ると、「ひとりぼっちになって辛かったね」と言った。

「お母さん!」

 わたしは、また叫んだ。

 あのうつくしくて優しい母だった。

 母はその場にしゃがむと、涙顔の幼な子に懐かしい笑顔を見せた。

「もう大丈夫よ。ママはここにいるわ。ずっとあなたのそばにいるから安心して」

 小さな頬に伝う涙を、母は白く長い指でそっと拭った。幼い兄は涙目をまっすぐ母に向けている。

「ほら、あなたには妹もいるのよ。きっとあなたの力になってくれるわ。大事にしてあげてね」

 母が抱いていた赤ちゃんを男の子に見せた。

 わたし、だった。

 映像はそこで途絶えた。

 わたしは、惚けたようにその場に立っていた。

「軽大郎女、いや、木梨衣通子」

 ややあって、いしづちが呼びかけた。

「もうわかったろ」

 その口もとに小さな笑みを浮かべた。

「千六百年の思いを果たすため、おまえたちはここに生まれてきたんだ」


 いしづちは「じゃあな、別嬪さん」と言って、そのまま消えていった。

「伊予のくに神」

 わたしは呼びかけた。

「教えて」

「ええ」

「今のは、なに? あの人は、わたしのお母さんの、子どもじゃないっていうの?」

 くに神は笑った。

「見てもらったとおり、あなたたちは別の親御さんから生まれてきた」

「本当に?」

「ええ」

「じゃ、じゃあ、わたしたちは血をわけた兄妹じゃないってこと?」

 くに神は微笑をたたえたまま、こっくり小さく頭を動かした。

「じゃあ、じゃあ、」

 胸が苦しい。

「わたしがあの人と一緒になったとしても」

 声がうまく出ない。

「咎められることはないの?」

 くに神は、はっきりと答えた。

「ええ、誰も咎めない」

 胸の奥に熱いものが蠢いている。

「てことはなに? わたしたちは、わたしたちは・・・」

 くに神が首を後ろに回した。

「木梨軽皇子、もういいんでしょう? あなたの一番大切な人がお待ちかねよ」


 くに神の傍らに、あの人が顔を伏せて立っていた。

「あなた!」

 あの人が顔を上げる。視線が合った。いろいろな思いが一気に押し寄せてきた。

 ずっとずっと、あなたのことばかり思っていた。

 ふたり結ばれるため、千六百年の昔、わたしたちは次の人生に賭けた。

 それから。

 本当に気が遠くなるような長い長い年月を越えて、いくつもの生まれ変わりを経て、やっとやっと許されるときが来た。

「わたし、わたし」

 それ以上は、言葉にならなかった。視界が滲んでゆく。

 くに神がそばにいるのも構わず、あの人の胸の中に飛び込んだ。

 強く強く抱きしめてくれる。ぼろぼろと涙が零れ落ちる。

 広い背に腕を回す。胸の中に顔を埋める。懐かしい匂いがする。心安らぐ匂い。

「もうずっと一緒だよ、絶対だよ、約束だよ」

「絶対に離さない、どんなことがあっても絶対に」

「あなたのことがずっと忘れられなかった、あなたとずっと暮らしていたかった」

「ずっとずっと一緒に暮らしてゆこう、ふたりで未来を作ってゆこう」

 涙が止まらなかった。いとしい人がずっとそばにいてくれる。

 なにより、ふたり一緒にいるからと咎められることはもうないんだ。

「そとちゃん、皇子ちゃん」

 くに神、いえ、透子ちゃんから声をかけられた。

「見てられないから、あたし帰るわね」

 そうして、すっと消えていった。

 わたしの中にいる軽大郎女の魂と、兄の中にいる軽皇子の魂がふくよかに昇華してゆく。

 多くの魂が取り囲むようにふたつの魂を迎えていた。

「姫さま、よかった、本当によかった」

「おめでとう、やっと願いが叶ったのね」

 やがて光が池から立ち上がり、ふたつの魂がひとつに溶け合ってわたしたちを包んだ。

「あとは任せたわよ。ふたりでしっかり生きてね」

 軽大郎女と軽皇子は、木梨衣通子と木梨皇子へと生まれ変わっていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ