覚醒前夜
「助っ人に来て」
それは透子ちゃんからの唐突な依頼だった。
合同練習の部活対抗ロードの補欠で出ろという。
なんでわたしがと思いつつ、透子ちゃんが拝み倒すように頼むものだから、最後はしぶしぶ折れた。
通称、お城ロード。媛高正門前から松山城まで駆け上がり、ぐるっと回って下りてくる。
高低差もあって、結構ハードなコースだけど、長距離なら自信がある。
「皇子ちゃんには内緒だからね」
透子ちゃんからそう注文があったから、なに食わぬ顔して兄を送り出すと、透子ちゃんから借りた陸上部の紅白ジャージを着て、そっと家を出た。ジャージは卒業生のものらしい。ちょっと形崩れしてるけど、部活ジャージなんて中学以来だから新鮮な感じがした。
路面電車に乗って車窓を眺めていると、県庁あたりでジョギングする水泳部の一団が見えた。兄もいた。県庁前で降りるつもりだったけど、南堀端まで乗ってゆくことにした。
集合場所の美術館前には、既に陸部の面々が集まっていた。
「そとちゃん、そとちゃん」
つやつやした黒髪を弾ませながら、透子ちゃんが駆け寄ってきた。
部長のところまで連れてゆかれる。
短髪で銀縁メガネをかけた長身の男子が、不愛想に「今日はすいませんね」と言った。ずいぶん神経質そうな顔。傍からひと学年上の女子が紙とペンを差し出した。
「なんですか?」
「入部届」
「わたし、入部するつもりなんか、ありませんよ」
「形だけよ、形だけ。万が一のときに保険とかのこともあるから」
透子ちゃんを見た。既成事実作って、どさくさに入部させようなんて考えてないよね?
透子ちゃんは大丈夫、心配いらないからと、宥めるように言った。
ため息が出た。
ま、ぐちゃぐちゃになりそうだったら、すぐ退部届を出せばいいだけのことなんだけど。
よく見ると、ご丁寧にも顧問の先生の許可サインまである。春先に勧誘にしつこかったのは顧問の先生だった。でも保護者欄には書きようがない。これじゃ形にならないんじゃないの? そう思いながらクラスと氏名を乱雑に記入した。
そう言えば、兄の入部届の保護者欄には、妹のわたしが記名したっけ。まだ中学生だったにもかかわらず、「代理」と入れて。そんな入部届になんの意味があるんだろと思いながら。つい二年ほど前のことなのに、ずいぶん昔のことのように感じる。
「なんだか、いかがわしい新興宗教にでも入信させられるみたい」
透子ちゃんに言うと、「高校の部活もわるくないと思うよ」なんてわけのわからない答え。成績トップの優等生がなんなの、その返しはないんじゃない? ぶーたれた顔で透子ちゃんを見ると、笑顔でごまかしてくれる。
「衣通子も案外流されるんだな」
お兄ちゃんからはそう言われそう。今日のお夕飯の話題はこればっかだな。ほかでもない透子ちゃんからの頼みだったからね、なんて言い訳の理由を、今から考えていたりするこの状況が、そもそも腹立たしい。
美術館前から媛高正門前辺りで、軽くアップをした。
運動部にこそ入っていないけど、毎日走っているし日曜には空手道場にも行ってるから、体の動きが陸部の子たちに劣るとは思わない。
柔軟体操で開脚したまま上半身をベターと地面につけると、同じクラスの男の子から「身体、柔らかいんだな」なんて褒められた。
口にはしなかったけど、むしろみんな体固くない? って思った。
中学の頃、スポーツはしたいけど球技が苦手だからって陸部に入った子もいたなあ、とも思った。
それでも、みんなといっしょに体を動かすのは、素直に楽しかった。
体を動かしているうちに、邪魔に感じたので、メガネを外した。髪をかきあげ、後ろでひとくくりにする。
?
視線を感じた。
男子が幾人かこっちを見てる。
そっちを向くと、一斉に視線が他を向く。
同じクラスの男の子が「メガネかけてなくても見えるの?」と聞いてきた。
「ええっと、誰だっけ?」
目を細めながらボケてみると、笑われた。
「そんなに?」
「なんか今日、みんなカッコよく見えるんだけど」
「オレは、いつもだろ?」
「言うねえ」
「メガネ外したとこ、初めてみた」
「うそばっか。水泳の授業のとき、メガネなんてかけてないよ」
「ああ、そうか。ちゃんと見てなかったなあ」
「それはいい心がけね」
「木梨って、案外面白いんだな」
案外?
わたしって、そんなにバリア張ってた?
「あっれえ?」
各部が正門前に集合したとき、水泳部から声が上がった。
夏休みなど、兄にお弁当を届けに行ったり、大会の応援に行ったりしたこともあるから、水泳部の面々はわたしのことをよく知っている。
「衣通子ちゃん、なんでそんなカッコしてんの? それにメガネまで外して」
親しげに寄ってくるのは、二年生の越智さん。
「実はな、うちの部員なんだよ」
陸部の部長がボソッと言った。
「うそだろっ」
大騒ぎしてる水泳部の面々の端で、兄だけがぼんやり遠くを眺めている。相変わらず落ち着いたものだ。
こんなときくらい、もうちょっとリアクションあってもいいんじゃない?
「衣通子ちゃん、何があったんだ。このシスコンの世話しなきゃいけないから、部活には入れなかったんじゃなかったのか!」
越智さんが兄の肩に腕を回しながら、血相変えて?迫ってくる。この人、いつも馴れ馴れしい。
「うちの兄はやっぱりシスコンなんでしょうか」
口に手を当てて返すと、越智さんはまじめくさった顔をしながら言った。
「まちがいない、気をつけたほうがいい」
気をつける? なにを?と思ったけど、
「そっかあ、シスコンだったんだあ。わたし、シスコンの兄抱えてるんだ」と真顔で返した。
すると、兄がふっと笑った。
あー、なあに、そのリアクション。
陸上部、水泳部、ワンダーフォーゲル部の対抗ロードリレーは、男子、女子、男子と男女交互に総勢十五人で駆ける。わたしは十四走だった。
コースは媛高正門前から、県庁裏の上り坂をお城まで駆け上がって、天守閣をぐるっと回って合同庁舎まで降りてきて、媛高北門から正門まで戻ってくるもの。距離もそこそこある上、高低差がすごいから、かなりキツいコースだ。
よーいどんで始まったリレーは、陸部がリードした。それも圧倒的に。
水泳部十二走が戻ってきたときには、陸部十三走男子の姿が見えており、ワンゲルに至っては既に周回遅れになっていた。
「ねえ、こんなんで、わたしいなくても、ぜんぜん大丈夫じゃない?」
透子ちゃんに言うと、透子ちゃんは「そとちゃんじゃなきゃダメなの」と言った。
はあ?
「察して」
察する? なにを? わからない、今日の透子ちゃん、わからないよお。
水泳部の十三走は。
「お兄ちゃん?」
「ナイスラン! よく頑張った!」
そう言って兄は、ヨレヨレになった十二走女子からタスキを受け取ると、美術館前を駆けてゆく。
わたしは猛然と駆け込んできた十三走男子からタスキを受け取ると、兄の背を追った。
後ろに束ねた髪がポンポン跳ねる。
県庁裏手の急勾配に差し掛かった。兄が駆け上がってゆくのが見える。周囲の木々はまだ芽吹いていない。
上り勾配に入り、少しペースを緩めた。
水泳部のジャージはグレーと黒の渋い組み合わせ。背には愛媛高校と毛筆体で書かれている。
メガネ外したから、少し視界はぼやけてるけど、足は軽い。
段があるほどの急勾配には、観光客がちらほら上り下りしていた。
やがて、お城に向かって大きく左折するところが見えてきた。
水泳部ジャージにはずいぶん追いついた。
兄が曲がってゆく。あそこからだ。ギアを上げるのは。
ここまで来ると、人がたくさんいた。
ぐんっと鋭角に曲がる。くくった髪が行儀わるく揺れた。
暑い。ジャージ上のファスナーを、みぞおちあたりまで下ろした。それを合図にギアを上げた。
さーあ、お兄ちゃん。衣通子の実力、見せてあげるからね。
足がどんどん前に伸びる。体に重さはない。
観光客がぞろぞろ歩いているけど、かわしながらスピードを上げてゆく。
前との距離はみるみる縮まった。
天守閣が見えた。ジャージに風が入って大きく膨らむ。
陸部女子が幾人か集まって、ストップウォッチ片手になにやらタイムを叫んでいる。
「木梨妹、はやっ!」
誰かが叫んだ。
兄のうしろにピタリとつけた。そのまま横に並ぶ。目と目が合った。にっと笑った。向こうはやれやれって顔。
ぐんっ!
もう一段、ギアを上げた。
「抜いた!」
後ろから叫び声がする。ほぼ同時に歓声が上がった。
「すごーい!」
「やっぱ、ものが違うよ!」
天守閣を回り込むように駆けて、そのまま下りに入った。この道は裏になるため、人通りもほとんどない。
段差なんておかまいなしに、飛ぶように下りてゆく。
合同庁舎のところまで一気に下りて、北門近くで後ろを振り返った。
後続の姿はなかった。
媛高の西側の平坦な道をペースを維持しながら駆けた。
正門前の道まで出た。
正門前にいる全員が大きな歓声を上げた。なにやらタイムをわめいているけど、数値の意味がわからない。
タスキを右手に握った。スパートをかけた。
トップスピードでタスキを渡したとほぼ同時に、陸部の面々が「わあーっ」と集まってきて、口々になにか叫んでいたのにはびっくりした。
あとで聞けば、長距離をやっている男子より速かったらしい。
やれやれ、新学期になれば、あの顧問がまた口説きにやって来そうだ。
ゆるい参加で許してくれるなら、部活もわるくないのはわかっているけど、中途半端に参加して周囲に気を遣わしてしまうのが嫌なんだ。
和を乱すくらいなら、敢えてチームに参加する意味がない。
その夜。お夕飯で。
「衣通子はさすがだな」
兄が切り出した。
「やっぱり、陸上部に入ったら?」
「やっぱり?」
しばらく兄の顔を見た。
「まさかとは思うけど」
目を見据えた。
「今日の話って、お兄ちゃんが透子ちゃんに頼んだりしたんじゃないでしょうね」
兄は返事もせず、笑みを浮かべている。
まったく、もう。
その次の日、お向かいの透子ちゃんのママに呼ばれた。
パスタ料理をふたりで作って、お昼を一緒にした。
「昨日、臨時部員の活躍が凄かったんだって?」
「どうもお兄ちゃんが透子ちゃんに余計なこと言ったみたいで」
「皇子ちゃんもかわいい妹のことが気になるんでしょ」
「余計な心配しなくていいって言ってるのに。わたし、お料理とか家のこと、けっこう好きなんだから」
透子ちゃんのママは笑った。
「そんなこと言ってくれる娘、うちにもいないかなあ」
「透子ちゃんはお料理とかしないの?」
「ぜんぜん! なあんの興味もないみたい。あー、ほんっと、どこで育て方間違えたかなあ」
「あんなお勉強もスポーツもできる子なのに? ああなってほしいと思ってる教育ママなんて掃いて捨てるほどいるんじゃないの? バチ当たるよ、んなこと言ったら」
「あたし、べつに教育ママじゃないし。だいたいねえ、お勉強なんていくらできたって、お料理も一緒にしてくれないような娘なんて、母としてはぜんぜん面白くないわけよ」
「じゃあそう言えばいいじゃない」
「言ったわよ」
「そしたら?」
「そんなに誰かとお料理したいんなら、お向かいにそとちゃんがいるでしょ、だって」
苦笑する。だから呼ばれてるの?
「それはそうと、昨日は男の子も大騒ぎだったそうじゃない」
「男の子?」
「メガネ外したそとちゃん見て、みんなビックリしてたんだって? 失礼しちゃうわよね、たかがメガネぐらいでそとちゃんの美貌を見破れないなんて」
おばさま、返答に困るんですけど。
「そとちゃんは、好きな男の子とかいないの?」
「またずいぶんな聞き方するのね、おばさまも。でも、残念なことに」
「いないの?」
「うん、なあんかね、恋愛ってピンと来ないんだ」
「気になる子のひとりやふたりくらいはいるでしょう?」
気になる子?
そうねえ。
ふと、先日、透子ちゃんと一緒にいた男の子のことが思い出された。
けれど、それはただの引っかかりでしかなくて。
「いないなあ」
透子ちゃんのママが笑った。
「余裕だねえ」
「おばさまは高校生のときって、好きな男の子はいたの?」
「そりゃあね、高校生にもなりゃ普通はね」
「その人とはどうなったの?」
「今、一緒に暮らしてるわよ」
「え? えー! おじさまとは高校のときからのつきあいだったのー?」
「なあんて。んなわけ、ないじゃない。あたし今治だし、向こうは宇和島だし」
「なあんだ。じゃ、高校のときのお相手とはどうだったの?」
「なにもなかったな。結局、思いも伝えられなかったし」
ちょっと遠い目をした。ずっと年上の人なのに、かわいいと思った。
「そう言えば、今年も行くの?」
透子ちゃんのママって、話をあっちこっち飛ばしすぎ。わからないって。
「お誕生日デートよ」
「お誕生日デート?」
「ほら、皇子ちゃんとふたりで毎年行ってるじゃない。一日じゅうどこかに」
ああ。
お兄ちゃんとふたりで出歩くのをデートなんて言われても。
「あなたたち、ほんと仲いいわよね」
「そうかな」
「そりゃ、そとちゃんがなんでもやってくれるから、皇子ちゃんだって、そとちゃんのご機嫌損ねるようなことはしないだろうけど」
くすっと笑った。
「そうね、邪険にされたら、ごはん作ってあげないかも」
「だよね」
ふたりで大笑いした。春の午後の光が部屋じゅうに溢れていた。
「お茶淹れるね」
「うん、ありがとう」
三月も半ばになって、愛媛高校では期末試験の結果発表があった。
職員室前に学年ごとに、成績順に全員の名前がでかでかと貼り出される。
この発表には少し緊張感がある。次の学年のクラス選定に関わるからだ。
愛媛高校には「三八制」がある。3組と8組に成績優秀者を集めるというもので、このいずれかに入るには、学年全体の上位八十人以内に入っていなければならない。
三年生のクラス分けはさらにシビアで、3組は文系の成績優秀者、8組は理系の成績優秀者が集められ、1、2組が国立文系、6、7組が国立理系、4、5組がその他となる。
こんな露骨なことをやってくれると、クラス分けを巡ってドラマが生まれ、隠語もできる。
「宮落ち」
3組と8組にいた生徒が、そこから他のクラスに移ることを言う。み=3、や=8に掛けたものだろうけど、その精神的苦痛は相当なものらしい。成績が下がったことが誰にもわかるので、「宮落ちした」誰々と枕詞を陰で付けられるそうだ。貼り出された紙の前で動かなくなる人が毎年何人か出ると言う。
「宮入り」
宮落ちの逆。単純に喜ぶ人が多いのかと思いきや、そんなクラスに入れられて、ついてゆけるのか不安になる人もいると言う。また、急に尊大になる人も出るらしい。
「宮戻り」
二年生で宮落ちした生徒が、三年生で宮入りすることを言う。けっこう多いらしい。だけでなく、国立トップクラスの現役合格者には宮戻り組が多数含まれるとか。
「一歩」
八十一番から九十番の人たちのこと。宮入りまであと一歩ということで、成績が上がって一歩ならまだいいけど、一歩で宮落ちする人たちはかわいそうとなる。
「廊下の宮」
媛高は教室の中でも厳正な席次がある。窓側最後列から成績順に座らされる。廊下側最前列の席が最も成績の悪い生徒の席だ。3組、8組でもそれは同じで、成績優秀者が集められた中でも比較劣位の生徒は「廊下の宮」と揶揄される。
「しご」
三年生で4組、5組になったことを言う。「死後」の漢字を当てる場合もある。終わってるってことらしい。学校から国立は無理と宣告されたようなもので、女子生徒の中には泣き出す子までいると言う。「廊下の宮」があるくらいだから、「廊下のしご」もある。OBから「わたしなど廊下のしごでしたから」なんて挨拶されると、在校生の親近感が一気に増したりする。このあたりの感覚は、部外者には絶対わからない。
一年生の一番、二番は、入試以来変わらずの「三島透子」と「西条はるか」。
「ちょっと、そとー、すごいじゃなーい!」
一緒に見に行ってた紫音ちゃんから、どんと肩を叩かれた。
わたしは五十一番。入学以来、最高の出来。
「今回はけっこう頑張ったんだよねー」
「二年なったら、わたしも頑張らなきゃ」
とか言ってる紫音ちゃんも六十二番だからわるい成績じゃない。
貴子ちゃんは八十八番、明日香ちゃんは百三番だった。ヅミーは百八十五番だった。
「そとー、宮入りだね、わたしたち」
紫音ちゃんは62の数字を見つめながらしみじみと言った。
そう言われて、そっかあ、わたし宮入りすることになるんだと思った。二年生になれば、透子ちゃんと同じクラスになるかもしれない。そうなれば、小学校以来となる。
「媛高ってさあ、ついてゆくだけでも大変って思ってたけど、頑張ったらそれなりになんとかなるよね」
という紫音ちゃんに、
「でも、ついてくだけでも大変だよ」
と返して、ふたり笑った。
二年生の成績表も見に行く。
木梨皇子・・・、木梨皇子・・・、わ、六番。
すっごーい。お兄ちゃん、とうとう一桁になっちゃった。
お正月明けてから、毎日頑張ってたもんなあ。よーし、今晩はご褒美にステーキでも焼いてあげよ♡
「はー!」
紫音ちゃんも大きな声を出した。
「ルックスよくて頭いいなんて、完璧だよね。なんだか畏れ多いわ」
んなことないよ。
身内を褒められると、なぜか否定したくなる。口にはしないけど。
「そとーのお兄さんとつきあおうとしたら、相当の覚悟がいるよね」
「覚悟?」
「だって、あれだけのレベルに合わせなきゃいけないんだよ。どんだけ自分磨かなきゃいけないんだろ?」
あれだけのレベル?
自分を磨く?
「そんな大層な」
「だって、まわりが許してくれないよ。レベルが違ってると」
まわりが許してくれない?
「そんなの、当人たちがよければいいんじゃないの?」
「そうはゆかないわよ。そとーだって変な女がお兄さんのカノジョなんて許せる?」
変な女?
「たとえばよ、友近さんだったら?」
また具体的な名前を出したものね。暗い表情が頭に浮かんだ。でも、許せるかって聞かれても。知らない子のことを。
「ほーら、やっぱり違うでしょ?」
紫音ちゃんはそう言って笑ったけど、わたしは納得してなかった。
学校を出た。
空は晴れていたけど、へんに生暖かい風が素足に強く吹きつける。
制服のスカートを押さえながら歩いた。セーラー服のリボンが行儀わるくはためく。
「貴子ちゃんは惜しかったね」
紫音ちゃんは表情を暗くした。
「だよね。あの子、二学期は中間、期末ともアンダー80だったのに。次、会ったとき、声かけづらいな」
確かに。二学期の中間ではわたしも紫音ちゃんも百番にも遠かった。
「宮入りなんてどうでもいいって思うけど、そんなこと、宮入りした方から言われたら、気分よくないだろうから言えないね」
「あの子が宮入りしたい理由は他にもあったから、余計だよね」
「理由?」
「あれ? 知らない? あの子、西条くんにお熱なのよ」
西条くん? 西条はるかのこと?
「あの子、野球大好きっ子でしょ? 一年生なのに、野球部のレギュラー取ったじゃない、西条くん。貴子、きゃーきゃー言うような子じゃないけど、同じクラスになること狙ってたから」
そうなんだ。
どうでもいいことかもだけど、わたしの知らないことってたくさんあるな。
もうちょっとアンテナ張ってたほうがいいかも。
紫音ちゃんと別れてから、県庁前の電停でひとり電車を待っていると、学ラン姿の媛高男子がわいわいとやって来た。そこに兄もいた。水泳部の面々だった。
「おや、衣通子ちゃん、ひとり?」
越智さんが馴れ馴れしく声をかけてくる。
「寂しいお帰りだねえ。カレシに困ってるんなら、いつでも相談に乗ってあげるよ」
「それって、越智さんがカレシになっていただけるって話ですか」
「おー、衣通子ちゃん、高校生になって一年経つと、ちっとは話がわかるようになってきたのかな?」
「じゃあ、困ったときに、またお願いしまーす」
「ちょ、ちょ、ちょ、それって衣通子ちゃん、カレシいるってことお?」
「ご想像にお任せしまーす」
電車が来たので、一緒に乗り込んだ。
「木梨は今回またまた成績伸ばしたよな」
「そうそう、俺ビックリだよ。あれなら東京でも京都でもぜんぜん平気だよね」
「いや、地元に残る」
「地元? あの成績で? それはちょっともったいないでしょ」
「もしかして医学部?」
「うん、そうしようって思ってる」
「まじかよ」
そうなんだ。耳をダンボにしながら、兄たちの話を黙って聞いていた。
しばらく電車に乗って、わたしたち兄妹は南町の電停で降りる。
風が強い。スカートの裾を押さえながら歩く。
電車通りを渡って、住宅街の路地に入ってから訊ねた。
「医学部受けるの?」
「ああ、さっきの話? そのつもりだけど」
ふだんと変わらず、淡々としたもの。
「そんな話、ぜんぜん聞いてなかった」
「お医者なら、いようと思えば、ずっと松山にいられるだろ」
松山にいることが優先ってこと? って、ことは。。。
「好きな人がいるの?」
「はあ?」
驚いたようなかおをされた。
「好きな人と離れたくないから、そう言うのかなって」
しばらくこっちを見て、笑顔を見せた。
「そうだな、そんな人、見つかればいいかもな」
見つかればいい? どういう意味?
「それに」
それに?
「衣通子をひとりにするわけにもゆかないだろ」
思わず見つめてしまう。
それって、わたしへの気遣い? っていうか、わたしが邪魔になってる?
こっちを見る瞳はいつもと同じ。穏やかで優しい。なんだか悲しくなってしまう。
「いいよ、お兄ちゃんがどこかに行きたいなら。衣通子、叔父さんところに転がり込むから」
「それはそれで叔父さん喜ぶだろな」
「なんで?」
「叔父さん、衣通子がお気に入りだから」
ふふっ。
「衣通子はいるのか?」
なにが?
「好きな人」
わたし?
なんでそんなこと聞くの?
いないのわかってて聞くなんて、ひどくない?
なによ、その笑顔?
「でも、医学部なんて意外だな」
「そう?」
「だってお兄ちゃん、カメラとか細かい作業好きじゃない。だから工学部とかに行くのかって思ってた」
「そうだな、精密機械とか光学もいいんだけどな」
「そもそもいつからお医者さんになろうなんて思ったの?」
「いつから? おばあちゃんの調子がおかしくなってからかな。最後はとても辛そうだったし、少しでも苦しんでる人を助けられたらって思って」
「そんな前から」
「俺って人の先頭に立ってみんなを引っ張るなんて性格じゃないから、普通に会社勤めしたって、出世しないと思うんだよ。それより、自分の腕でなんとかなるほうが性に合ってると思って」
「そんな話、初めて聞いた」
「まあ、進路なんてどうなるかわかんないし、これからだけどな」
さわやかな笑顔を見ながら、そうね、わたしだってもう二年生になるから、そろそろ進路のことを考え始めなきゃいけないんだよなと思った。
でも、まだなにも考えてない。
医学部かあ。
わたしには、ちょっと無理だな。。。
その夜。
「さーあ、たんと召し上がれ」
どーんとテーブルに置いたのは分厚いステーキ。こんなの焼いたのって、いつ以来?
「今日、なんかあったっけ?」
ふふ、目を丸くして。かわいい。
「テストの成績、ひと桁まで上がったでしょ? 衣通子からのお祝い」
「たかが定期試験で?」
「せっかくお祝いしてあげてんだから、文句言わずに食べなさい」
分厚いミディアムステーキを頬張る。
うん、幸せ。
ふたりでメインディッシュを平らげた後、お茶を淹れた。
「衣通子も今回すごく良かったんだな」
思わず、顔を上げる。なんだ、お兄ちゃん、わたしのも見てくれてたんだ。
「わたしはわたしで頑張ってるんだよ」
「わかってる」
優しい目を向けてくれた。
「衣通子、おまえがいてくれるから、こんな呑気に高校生活過ごせるんだ。本当に感謝してる」
なによ、急に。そんな真面目な顔して。
「そんなくすぐったいこと言うのやめてくれる?」
「だって、おまえが家のことみんなやってくれるから」
「あーあ、体じゅう痒くなってきた」
大仰に言って、立ち上がった。
「それ、早く飲んじゃって。洗い物するから」
「手伝うよ」
「いいよ」
食器をシンクまで運びながら、ふと思った。
ふたりだけのこんな生活、いつまで続くんだろう。
振り返ると、兄がお茶を飲み干そうとしている。
普通すぎる光景が、へんに悲しかった。
終業式が終わって、春休みに入った。
三月三十日。
今日はわたしの十六回目の誕生日。お兄ちゃんにべったべたに甘える日。
さあて、プレゼント、なに買ってもらおうかな♩
昨日まで新三年生の春期講習を受けていた兄は、疲れきった顔して帰って来たから、今朝は遅くまで寝かせていたけれど、休み前からの約束だったから、いい加減に起こした。
「さあ、起きて起きて。街に出るわよ」
「もうちょっとだけ」
「何時だと思ってるの?」
掛け布団を剥いだら、丸くなった。
しょうがないわね。耳元で「起きろー」と大声を出した。
「うざいー」
うざいのはそっちでしょうが。
「覚悟なさい」
脇腹を思いっきりくすぐってやった。
悶えながら逃げようとするけど、甘いな、お兄ちゃん。弱点なんて知り尽くしているんだよ、この指は。
足を絡めてぴったり抱きついて、こちょこちょこちょ。身をよじって暴れるけど、離さない。
「わかった、わかった、わかったから」
「降参?」
「降参、降参」
やっとこさ起きてくれた。
寝ぼけまなこにトーストを食べさせ、食器を片付けてから、服を着替える。
鏡の前で髪を後ろで括って、目にワンデイを入れて表に出た。
昨日はあいにくの雨だったけど、今日は朝からすっかり晴れ上がって、空気が澄んでいる。桜花が街を華やかにしてくれている。
あー、とってもいい気持ち。
門の前で伸びをしていたら、犬を連れた春宮のおじさんと目が合った。
慌てて挨拶する。
ちょっと恥ずかしい。
兄が家から出てきた。
思わず、笑っちゃった。
「なに、その格好?」
なにかおかしいかって、おかしすぎるでしょ。もう、なんてセンスしてんのよ。わたしがいなかったら、どんな格好で外歩いているかわかったもんじゃないわ。
手を引いて家の中に戻ると、上から下まで着てるものを脱がせた。
兄はなあんにも考えていないかおをして、わたしのなすがまま。
ふふ、かわいい。
「それにカメラはいらないからね」
「せっかく写真撮ってやろうって思ったのに」
「街出るのに、そんな馬鹿でかいの持ってたら、邪魔になるだけでしょ」
「このミノルタの85ミリ、最高のポートレートレンズなんだぞ」
あの、なに言ってるんだか、全然わからないんですけど。
「じゃあ、今ここで撮ってよ」
この人にカメラ持たせたら、どうでもいいような写真ばっか撮って、なんのために一緒に過ごしているのかわからなくなることがある。
「ほら、綺麗に撮れるだろ」
デジカメのモニターには、素のわたしが映っているだけ。
「この髪の毛とか見ろよ、解像度すごいだろ。それにこの背景、きれいにボケてるだろ」
はいはい、すごいカメラだ。でも、今日は置いていくからね。だいたいねえ、綺麗に撮れるだろじゃないでしょ。モデルがいいからだって、なんで言えないの。
改めてふたり家を出る。
鍵をかける。電停まで歩く。路面電車に乗る。並んで座る。
普段とまるで同じだけど、今日は制服姿じゃないし、メガネもかけてないし、思いっきりオシャレしてきたから、とても新鮮。
キラキラした春の光に溢れた世界が、高校生になって初めてのバースデーを祝福してくれているよう。
市駅で降りる。
ほんとは神戸あたりまで行きたかったんだけどな。
港に面してオシャレなお店がたくさん並んでいるところを、ふたり並んで歩いてみたい。
上品なケーキでお茶してみたい。
山の上からキラキラした夜景を眺めてみたい。
松山って狭いから、絶対に同級生がいる。見られるのはいいけど、せっかくの時間を邪魔されたくない。
街中を歩く十七歳と十六歳。
期末試験さなかのヅミーとのやりとりを思い出した。
「そんなにお似合いのカップルだった?」
「うん、だって、すごく仲良さそうだったし、自然な雰囲気だし」
右隣を歩く人の横顔を見る。
整った顔、しまった表情。
いつも一緒にいるからピンと来ないけど、端から見たら、紫音が言うように、カッコいいんだろうな。
でもね、あなたが決まってるとしたら、それはわたしがいるからなんだよ。
そう思うと、嬉しくなった。さり気なく兄の左腕に右腕を絡ませる。
「どうした」
優しい目。ちょっと肩をすくめて笑顔を作ると、「なんでもない」と言って、体を寄せた。
春休みの街には、カップルが何組もいた。
みんな幸せそうな顔してる。
わたしたちも同じように見えるのかなあ。こんなふうに腕組んで寄り添って歩いてたら、そう見えてもおかしくないわよね。でも、実は兄妹なんだぞ。そんじょそこらのカップルなんかと違って、切っても切れない血の繋がりがあるんだよ、わたしたちには。って、なにリキ入れてんだろ、わたし。
服見て、靴見て、鞄見て、アクセサリー見て、文房具見て。
ね、これ、衣通子に似合うかな?
あれとこれ、どっちがいいと思う?
これ、ちょっと地味だよね。
ねえ、聞いてる?
もう、ちゃんと見てよ。
あ、これ、かわいい。部屋着にちょうどいいよね。
あ、こっち、春っぽい。かわいいよね。
ちょっと着てみようかな。いい? じゃあ、ちょっと待ってて。
試着室に入って着替えてから、鏡の前であちこちチェック。
うん、いいんじゃないかな。
カーテンを開けて、声をかける。
「お待たせ、どうかな?」
「うん、いいんじゃない?」
ほんとにほんとにそう思う? ねえ、テキトーに言わないでよ。かわいい? ほんとに? じゃあ、これでいいかなあ。うーん、ほんとにこれでいいと思う? 大丈夫?
なんてことを三着ほどやって、結局、最初に試着した服に決めた。
ふたり、レジに並ぶ。兄が支払ってくれる。女の店員さんが包みを渡してくれる。
「すてきなカレシさんね」
違うんですけど。
でも、否定せずに、笑顔で包みを受け取った。そして腕を絡ませて体をぴたりとくっつけた。
買って貰っちゃった。お誕生日プレゼント、買って貰っちゃったあ。お兄ちゃん、だーい好き。
雑貨屋さんにも入る。
ペアの品がたくさん置いてある。
ねえ、このカップ、ふたりで使わない? お揃でいいよね。
ふたつ合わせてハート型になるカップも見つけた。
こんなの、どう? ラブラブって感じだよね。
わたしは使ってもいいけど、あんまり量入りそうにないから、大食らいのお兄ちゃんには合わないね。
クレープ食べて、ソフトクリーム舐めて。ランチも豪勢にホテルバイキングに入ったりして。
やだ、それ、盛りすぎだって。あーあ、ほら、こぼれてる、こぼれてる。
口もとに、ごはん付いてるよ。なに子どもみたいなことしてるの。
あ、そのケーキおいしそう。ぱく。お兄ちゃんのフォークからいただきい! なにやってんだって、いいでしょ、今日は特別な日なんだから。
うん、これ、おいしい!
こっちのプリンもなかなか。お兄ちゃんも食べて、食べて。
あー、ほらまた! 今度はケーキが付いてる。こっちこっち、違う違う、だからあ、そっちじゃないって。もう、ちょっと、じっとしてて。
指を伸ばして、口もとをそっと拭ってあげる。え? 人前だろって? なに照れてんのよ。人前でケーキ付けてるほうがマヌケでしょ。拭った指を舐めながら笑っちゃう。ホントかわいいんだから。
?
ふと、視線を感じた。
お下げ髪の女の子が向こうのテーブルからこっちを凝視している。口もとに手を当てながら。
ヅミーだった。
そのテーブルには三人いたから、家族で来ているんだろう。
ほら、知った顔に会った。ほんっと、松山って狭いんだから。
でも、ヅミーでまだよかった。
軽く左の掌を振る。向こうは下を向いた。見ちゃいけないものでも見たって感じなのかな。ふふ、かわいい。
「知った人でもいた?」
「クラスの子」
と言いながら、お兄ちゃんのお皿のケーキにフォークを刺して失敬する。んー、これもなかなか!
あとになって、ヅミーが食べ物を取りに行ったタイミングでわたしも席を立った。
「こんにちは」
声をかけると、ヅミーが驚いたような顔をこちらに向けた。
「そとちゃん?」
「うん」
「今日はメガネしてないのね」
ああ、そうか。今日はかけてこなかったよね。だから、そんな顔されてたんだ。構わず話を続ける。
「ほんと奇遇ね。こんなところで会うなんて。家族で来てるの?」
「うん」
「わたしも。誕生日のお祝いして貰ってるの」
「え? そとちゃんって、今日がお誕生日?」
「うん、って、まさかヅミーも?」
「うん」
これには素直に驚いた。
「ほんとに? 誕生日が一緒の人、初めて見た」
ヅミーは下を向いて小さな声で言った。
「いいなあ、そとちゃんは」
「なんで?」
「すてきなカレシにお誕生日祝ってもらえて」
はあ?
「だから前にも言ったでしょ? あの人、カレシじゃないって」
ヅミーはハッとした顔をこちらに向けた。
「そっか、お兄さんって言ってたよね」
「だから、そっちと同じ。家族にお祝いしてもらってるの」
「そうかあ、でも、いいなあ、あんなステキなお兄さんがいて」
「ステキ?」
「あたしなんか一人っ子だから、ずっと優しいお兄ちゃんがいればなあって思ってるもの」
「いたらいたで、面倒なこともあるんだよ」
「でも、今日のそとちゃん、すっごくきれい」
はい?
「ていうか、輝いて見える。あんな笑顔、お兄さんにしか見せないよね」
「・・・」
ちょっと弾け過ぎてた? 家にいるのと同じようにしてたらダメね。
バイキングを存分に楽しんだあと、ヅミーの家族より先にその場を後にした。ヅミーに軽く手を振りながら。ホテルを出ようとしたとき、純白のウエディングドレスに身を包んだ花嫁さんがいた。
きれい。
たくさんの人たちが笑顔で花嫁さんを取り囲んでいる。
いいなあ。花嫁さんって、あんなふうにみんなから祝福されるんだ。
右隣の人の手をつなぐと、くっと握った。
「きれいね」
「うん」
と答えた顔を見るけど、なあんの興味もなさそう。
そのあと、映画を見に行った。
並んで座って、ポップコーンを頬張って。笑って、ちょっと涙もこぼして。
映画館を出たら、街は夕陽に照らされていた。穏やかな陽射しが花咲く季節をオレンジに染め上げてゆく。
市駅近くのビルの上にある観覧車が見えた。
「海が見たいな」
観覧車を見ながら言うと、「今から?」と兄は驚いたような顔をしたあと、ひと呼吸置いてこう言った。
「じゃあ暮れる前に、港まで行く?」
港に? 今から? こっちが驚く。
手を引かれて市駅まで行き、港行きの電車に乗る。
この電車にはふだん乗らないから、ちょっと旅行気分。思わぬ展開に胸が踊る。
電車は住宅街をしばらく走ると、いきなり海辺に出た。
「うわあ、見て! 見て! 海、海!」
電車の中で、はしゃいでいるのは、わたしだけ。周りの人たちがちらっとこちらを見る。思わず両手で口を押さえた。兄は穏やかな表情のまま。耳まで赤くなるのを感じる。
駅に停まる。小さいけどきれいな砂浜が、駅の前に広がっている。
やっぱり海は遠くから見るより、間近に見るほうがいいわね。この景色はとても新鮮。
その次が終点で、レトロな駅は夕陽の陰になって、ちょっと寂しい雰囲気。
シャトルバスに乗り換え観光港まで。すぐに着く。バス代がもったいないくらい。
港の二階にある展望デッキに行く。
目の前に瀬戸の海と島影が見える。夕陽が眩しい。しおかぜが海の香りを運んでくる。
ふたりで展望デッキを歩く。
広島に行く高速船が波に揺られながら出発を待っている。
このまま、あの船に乗って海を渡ったら、すてきだな。
そんなことを想像して、表情が緩んでいる自分に気づく。
どちらともなく立ち止まり、ふたり並んでデッキの柵に凭れて、海を見た。
ときおり吹く風が髪を揺らす。風は冷たい。顔にかかる髪を掌で押さえながら、夕陽が反射する波間を眺めた。静かなたゆたいを見てると、心も穏やかにシンクロしてゆく。
ふと、懐かしい感覚に襲われた。
懐かしい?
あれ?
わたし、なにを感じているんだろ。
内海に夕陽が沈んでゆく。島から色がどんどん失われてゆく。
静かな波の音。髪を揺らす風。潮の匂い。
あれ?
この景色。
どこかで、見た。
え?
こんなとこ、わたし、いつ来たっけ?
遠足?
いつの?
いつ?
思い出せない。
思い出せない、けど。
けど、絶対にここに来たことがある。
いつ?
ずっと昔のことのような。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「ここってさあ、前に来たことあった?」
兄はわたしに顔を向けた。
「わたし、この景色、見たことあるような気がするんだけど。でもいつだろ? 遠足で来た覚えなんてないし、おばあちゃん来てから、こんなとこ来てないよね。ちっちゃいときあった?」
兄は黙っていた。
海を見る。目の前に大きな島がある。きらきら夕陽を照らすさざなみ。
なんだろう。この景色の中に、なにかとても大切なことが秘められているように感じる。
どどどどど。
急に大きな音を立てて、高速船が動きはじめた。白い船体がオレンジ色に染まっている。
風が動いた。頬に冷気を感じる。
バックで港を離れると、船は船首をぐるりと沖に向けた。
「あ」
大きな音を立てて港を離れてゆく高速船を見ながら、ハッとした。
「船だ! お兄ちゃん、わたし、ここに船に乗ってきたことある」
兄はまじまじとわたしを見つめていた。
でも、わたしは記憶をたどることに懸命だった。
船なんて、いつ乗ったんだろ? 船に乗ってきたってことは、どこかに旅行に行ってたってこと?
どう考えても、おばあちゃんが来てから、船に乗ったことはない。
となると、その前ってことになるけど、どうしても思い出すことができなかった。
「船なんていつ乗ったっけ」
小さい頃の話なら、家族と一緒だったはず。
「衣通子と一緒に船に乗ったことなんてないよ」
「そうなの? じゃあ、誰と乗ったんだろ」
例えば、母とふたりだけでどこかに行ったことがあったんだろうか。
アルバムの写真にそんなのあった? 覚えがない。
母もけっこうマメにアルバムを作ってくれていたから、わたしと船に乗るようなシーンなら、きっと何か記録を残していたはず。
「衣通子」
「うん?」
「もう帰ろ。冷えてきたろ」
「そうね」
駅までは歩いた。
海を見ながら歩きたかったから。なにかを思い出すかもしれない。
けれど、なにも出てこなかった。
帰りの電車の中でも、ずっと記憶をたどっていた。
窓の外はすっかり暗くなっていた。兄もなにも言わなかった。
タタンタタンとレールの継ぎ目を刻むリズミカルな音ばかりが、ガラガラの車内に響いていた。
船の記憶は結局なにも思い出せなかった。
お夕飯は水泳部でたまに行くという小汚い中華料理屋で済ました。
これでもかというほど盛られたチャーハンを平らげ、家に戻ったときにはもう七時を過ぎていた。
買ってもらった春物を袋から取り出して、さっそく着てみた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
リビングでソファに腰掛けた兄の前でポーズを取った。
「どう? かわいいでしょ」
兄は寂しく笑った。
「かわいい、かわいい」
「なあに、そのテキトーな言い方。ね、この服着て、どっか行ってみたいから、またつきあってよ」
そう言いながら、くるりとひと回りする。スカートがふわっと舞った。
「そうだ、それこそ神戸でも行ってみない? 春休みならまだ行けるよね」
「そうだな」
そうだなって、行くのOKって言ってる?
「じゃあ、何泊くらいする?」
「何泊って?」
「神戸行くんでしょう?」
「え? 行くの?」
「今、そうだなって言ったじゃない」
結局、旅行の話はうやむやのまま、その日は順番にお風呂に浸かって、パジャマに着替えて、いつもどおりお布団をふたつ並べた畳部屋で横になった。
こうして、楽しい楽しいわたしの誕生日は終わった。
はずだった。