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予兆

 期末試験が終わった日。

 リビングのソファに腰掛けてひとりテレビを見ていた。

 水泳部で繰り出すから晩御飯はいいと、兄は言っていた。衣通子も来ないかと言われたけど、部外者が入ってそれぞれ気を遣ったり遣われたりするのがいやだったので、遠慮した。

 簡単にお夕飯を済ましたあとで、期末試験が終わった安堵感と疲れもあって、ついうつらうつらしてしまった。


 船に乗っている。

 青い空、青い海。波はとても静か。舳先に立って向かう先を見ている。風が心地よい。ところどころに濃い緑の島影が見える。

「この海の向こうに、あの人がいるのね」

 わくわくしながら、水平線の向こうを眺めている。船はぐんぐん進んでゆく。

「姫さま」

 誰かが呼んでる。

「いつまでそんなところにいるのです?」

「気持ちいいわよ、あなたもこっちに来ない?」

 見下ろすと、女が困った顔をしている。

「姫さまは酔わないんですか」

「ぜんぜん」

「わたしはもう世の中がすべて回っているようで」

「部屋の中なんかにいるからよ。外で風に吹かれてた方が気持ちいいわよ」

「でも、こんな嵐の中」

「なに言ってるの? こんな穏やかなお天気」

 見ると、空はまっくろな雲に覆われて、船は大きく上下していた。波が天から落ちるように降ってくる。


「姫さま、姫さま」

 女がしがみついてくる。全身ずぶ濡れになりながらも、声を張り上げる。

「上等じゃない! ほら、負けるな! 突っ走れえ!」

 全身の血が騒いでいた。絶対にあの人の許まで行くんだから! こんな嵐ごときに負けてらんない!

 船は波に揉まれながらも、ぐんぐん進んでゆく。女が横できゃーきゃー言っている。

「うるさいわね!」

「ここは危ないです! お部屋に戻りましょう」

「戻りたいなら戻りゃいいでしょう」

「姫さまあ」

 なに情けない声出してるの。

 嵐は程なく止んだ。船はどこかの湊に錨を下ろした。西陽がきれいに海を照らしている。島影がいくつも見える。

「着いたの?」

 女が困ったような顔をしている。

「着いたのね!」

 船からどぼんと海に飛び込んだ。ざばざば泳いで陸に上がる。

「姫さま、姫さまあ」

 女が必死の形相で追いついてくる。泳いでいるんだか溺れているんだかわからない。

「ほんとに世話が焼けるんだから」

 女を海から引き上げたとき、背後に人の気配を感じた。ふりかえる。西陽の中、誰かがいる。

「ああ」

 あの人なのね。

 胸がきゅんとなる。


「・・・そ・・・と」

 ・・・遠くから、声が、する?

「・・・とこ、そとこ」

 誰かが呼んでる。

「衣通子、おい、衣通子」

 体を揺すられている。

 目を開けた。

 光の中に人影があって、こちらを見ている。

 あの人なの?

「・・・おにい、ちゃん」

 兄が覗き込むように見ていた。

「こんなところで寝てたら風邪ひくぞ」

 ソファから上体を起こした。テレビがどうでもいいような番組を流している。時計を見た。もう九時を回っていた。



 期末試験が終わった翌週は入試と合格発表があり、在校生は一週間の間、入校禁止となった。

 校舎の中だけじゃなく、敷地内さえ立ち入るべからずとなるので、部活のほとんどは「自主練」となる。そうなれば、あくまで自主だから、参加するもしないも自由という話になって、よほど目的意識を持って活動してる部でなければお休みになってしまう。

「え? 練習あるの?」

 てっきり一週間お休みだとばかり思っていたので、兄が自主練に行くと聞いて少し慌てた。

 そんなにスポ根だった? 水泳部って。

「期末でずっと体動かしてなかったからさ、早く体動かしたいんだよ」

「ふーん、で、どこでやんの?」

「媛高の自主練って言えば、お城だな」

 観光客にはご迷惑なお城ダッシュとお城ロードか。

「それって、何時から何時まで?」

「一応、終日ってことになってる」

「じゃあお弁当いるの?」

「面倒だろうからいいよ。どっかで買ってくるから。衣通子だって用事あんだろ」

 女の子どうしやクラスの子たちで街中に繰り出す約束はいくつか入っている。

「いいよ、お金もったいないし、朝ごはんと一緒に作っちゃうから」

 そんな会話をして、月曜日、兄にお弁当を持たせた。


 いいお天気だったけど、まだ寒さの残る朝だった。

 兄を送り出して、お洗濯を済ましてから、家を出た。

「あら、そとちゃん」

 お向かいから透子ちゃんが出てきた。

 透子ちゃんは陸部の紅白のジャージに身を包んでいた。背には赤で「愛媛高校」と大書してある。

「透子ちゃんも自主練?」

「うん、この一週間は水泳部、ワンゲルと合同練習」

 そうなの? お兄ちゃん、そんなこと、ひと言も言ってなかったわよ。

「お兄ちゃん、とっくに出たよ」

「もう? 相変わらず皇子ちゃんって、真面目だよねえ」

「合同練習って、なにするの?」

「ひたすらロードとダッシュ、柔軟かな? お城ロードは結構きついよね」

「それ、一日じゅうやるの?」

「途中休み休みね。午後からはどっかに繰り出すんじゃないかな」

「なあんだ」

「自主練だからね。そとちゃんは? 道場?」

「うん」


 透子ちゃんがわたしの顔を見ながら、ひと息置いて、言った。

「そとちゃんって、学校行かないときはメガネしないよね。コンタクト?」

 また面倒くさい話を持ち出すのね、この子は。

「学校行くときも、すりゃいいのに」

「使い捨て使ってるから、毎日したらお金かかるのよ」

「そう、でもさあ、あのメガネ、やめたほうがよくない?」

「なんで?」

「ぜんぜんかわいくないもの」

 思わず苦笑する。

「もっと似合うのにしたら?」

 アドバイスはありがたく受け取っておきます。


 透子ちゃんと別れて春宮の道場へ。

 午前中いっぱい稽古をつけてもらったあと、お昼にお弁当を広げていると、春宮のおばさんが現れて「そとちゃん、そとちゃん」と手招きした。

「今日、午後の予定は?」

「特に。お兄ちゃんも部活で学校に行っていますから」

 おばさんは「じゃあ、一緒にお買い物に行かない?」と笑顔を見せた。

 予定のない午後をどう過ごそうかと考えていたわたしは、おばさんにつきあうことにした。

 道場でシャワーを使わしてもらってサッパリすると、おばさんの支度はもう整っていて、「さあ、行きましょ行きましょ」と急かされた。


 一旦、家に戻って道着を置いて、お着替えをしてから、南町の電停からおばさんとふたり路面電車に乗った。普段、大人の人と一緒に電車なんて乗らないから、こういうときにどうすればいいのか戸惑った。

 おばさんはそんなわたしに頓着することなく、にこやかな表情で話しかけてくれた。

 高校の話、兄の話、お料理の話。

「媛高って、お勉強が大変なんでしょう」

 ですね。ちゃんと復習とかしてなかったら、次の授業はひどいことになりますね。

「ひどいことって?」

 英語とか古典とかって、授業が始まったら、まず前の授業で習ったところを答えさせられるんです。指名されて答えなくちゃいけないから、もう誰が当てられるか空気がピーンと張り詰めてて、当てられたら「は、はいっ」なんて声が裏返っちゃうんですよ。

「ふふっ。それは大変ね。数学とかはどうなの?」

 授業はいいんですけどね、試験が。先生って、数学オタクで、一筋縄ではゆかない問題ばっか出してくるんです。だから、応用問題しっかり数こなしておかないと試験じゃあ通用しないし、かといって応用ばっかやってると基礎が疎かになって、「こんなこと理解できてなかったあー」なんて頭かきむしりたくなっちゃうこともあります。

「なんだかそとちゃんが机の前で、あーとか言ってる姿が目に浮かぶわ」

 最初は授業についてゆくの絶対ムリって思ったんですけど、最近は合間合間のちょっとした時間を使えるようになってきたかなってとこです。

「それはすごいわね。大人でもそれできてる人なんてそうそういないわよ」

 お料理とかもしなきゃいけないから、ズルズルやってられないんです。


「皇子さんは手伝ってくれるんでしょう?」

 ええ。でも、家事はわたしがちゃんとするからって死んだおばあちゃんと約束したから、できるだけひとりでやるようにしてます。

「あらあら、あんまり皇子さんを甘やかしちゃダメよ」

 貴子ちゃんから似たようなこと言われたっけ。別に甘やかすとかじゃあないんだけどな。

「皇子さんはふだんなにしてるの?」

 ふだんですか? そうですねえ。お勉強してたりとか、筋トレしてたりとか、本読んでたりとか、あとカメラいじってたりとか。

「カメラ?」

 ええ、お兄ちゃんカメラ好きなんです。お父さんから一眼レフとかってカメラもらって、嬉しそうにいじってるんです。なにが面白いのか、いろんなレンズつけたり、はずしたりして。

「へえ」

 たまーにどっかから壊れたカメラ貰ってきて直したりしてるんですよ。でも、写真なんてあんまり撮らなくって、カメラばっか増えても仕方ないのに。なんなんでしょうね。


「そとちゃんのこと、ちゃんと構ってくれるの?」

 ええ、まあでも、わたしのこと、うるさいと思っているかもしれないですね。

「なんで?」

 たまーに言われますもん。衣通子、よくそんだけ話のネタあるなあって。

 おばさんは声を出して笑った。

「そりゃ話すことなんていっぱいあるわよねえ」

 でしょう。毎日生活してりゃ、話すことなんていっくらでも出てきますよね。

 でも、ついつい腕や脚を叩いたり、抱きついたりすることもあるから、やっぱうるさいって思ってるんだろな。

「今日のお弁当もそとちゃんが作ったんでしょう?」

 ええ。お兄ちゃんがお弁当をもってゆくから、ふたり分作りました。

「おかずたくさん入ってたわね」

 昨夜の残りがほとんどですけど。えへへと笑う。そんなとこ見られてたんだ。

 電車は県庁前からお堀に沿って直角に左に曲がり、市役所前から直角に右に曲がって南堀端へと至った。

 お堀越しに媛高の赤い正門が見え、石垣の上にお城の天守閣が見える。

 その上には少し霞がかった水色の空が広がっていた。


 市駅で降りてから、おばさんと一緒に百貨店や商店街を巡った。おばさんは楽しそうだった。

「そとちゃん、欲しい服とかないの?」

 欲しい服? そんなのいっくらでもありますよ。でも、あれもこれも買っても、着る服って限られるんですよね。

「そんないっぱい買うの?」

 なわけないじゃないですか、お金もないし。でも、前に一度だけ、お父さんから好きなもの買いなさいって商品券送られてきたことあったんです。高校の入学祝いだって。それも二十万円。

「あらあ、そりゃまた盛大な」

 でしょう。

「かわいい娘にここぞとばかり奮発しちゃったのね」

 ほんっとお父さんもバカなんですけど、そんなお金持ったことないから、わたし舞い上がっちゃって舞い上がっちゃって。あれこれ嬉しそうに買ったはいいけど、ほとんどたんすの肥やしになってて。

「ふふっ」

 だから、それからはこれっていうの以外は買わないようにしてるんです。ほしいの言い出したらキリないし。そこに時間かけるのもなあって。

 おばさんとはいくつものお店に入った。お互いの好みを語り合った。全然違うところもあったけど、合うところがあると、おばさんは嬉しそうなかおをした。歩き疲れると、お茶をしながら、またおしゃべりをした。時間はあっと言う間に過ぎていった。

 別れ際、おばさんはわたしの両手をつかんで、「そとちゃん、今日は楽しかったわ。また付き合ってちょうだい」と言った。わたしも「ええ、また」と笑顔を送った。意外すぎるほど退屈を感じないひと時だった。



 その次の日は、貴子ちゃんたちと映画を見に行った。アイドル主演の話題の映画だった。

 見終わってからお茶してると、紫音ちゃんが大きなため息をついた。

「あんな男の子、どっかいないかなあ」

「カッコよくてやさしくて、わたし一途に愛してくれる人?」

「そうそう」

「そんなのいるわけないって、いないからアイドルなんでしょ」

 貴子ちゃんが、らしい返しをする。

「白馬に乗った王子様が、紫音、俺についてこい、なあんて言うわけ? ないない」

「なにかの間違えでもいいからあってほしいよね」

「なにかの間違えって例えばなによ?」

「例えばって言われても」

 貴子さあ、そこ追求したってなにも出ないって。話題変えてあげるよ。


「でもさあ、白馬の王子様がホントに現れたら、それはそれで大変よね」

 パカパカパカって白馬がやってくるんでしょう? それ、どこに来るの? 学校? 正門から白馬が乱入してくんの? あの赤レンガ門飛び越えて? もう、その時点で学校じゅう大騒ぎだよね。んでもって、砂けむり上げながら白馬が校舎向かってくるんでしょう? 校舎ん中入ったら、廊下を猛烈な勢いで駆けてくるわけよ。廊下歩いてる人、ビックリだよね。5組の教室で紫音見つけた王子様は叫ぶの。

「紫音!」って。

 そのとき紫音どーゆーの?

「王子様あ!」

 とかって言うわけ? それ、授業中だったら、先生どう反応すんだろ? うちの担任なら、馬の加速度計算してたり? 空気読まない王子様は白馬ごと教室に入ってきて、机とか教科書とか蹴散らしながら紫音をさらってゆくんだよね。そのとき、紫音どう言うの? 「あーれー」とか? そんなときくらいしか言えないセリフだよね。

 それでさあ、みんななにをどうしていいのかわかんないけど、とりあえず追いかける人、出てくるよね、絶対。「待てー」とかって。そんなんで待つ王子様じゃないだろけど、それで紫音に思いを寄せてる男の子がわかったり?

 さらわれた紫音は白馬に乗せられて、そのあと、どこ行くの? 学校出たあと、電車通りを馬が駆けてくの? 信号、ちゃんと守ると思う? 今度は街じゅう大騒ぎだよ。テレビはヘリで中継するかもだし、SNSで「今どこ走ってる」とか「こっちに現れた」とかって、世界中に生配信されちゃうぞお。


 みんなでゲラゲラ笑った。

「山ん中なんかに連れてゆかれて、もう大丈夫とか言われても困るよね」と紫音ちゃん。

「松山城の天守閣に連れて行かれたりとか?」と明日香ちゃん。

「その王子様って着物着てんの?」と貴子ちゃん。

「いきなり時代劇?」とわたしが言って、またみんなでゲラゲラ笑った。

 ひとしきり笑ったあと、「でもさ」と明日香ちゃん。

「そとーのお兄さんって、白馬の王子様に近いよね?」

 はあ?

「あたしも思った。今の白馬の王子様、そとーのお兄さん想像してた」と紫音ちゃんが応えると「それ、似合いそう」と明日香ちゃんが笑った。

「えー、うちのお兄ちゃん、着物着てんの?」

「そとー、時代劇に戻ってどうすんのよ」と貴子ちゃんが言うと、

「そとーのお兄さんなら、ヨーロッパの中世の騎士、みたいなのが似合うよね」と明日香ちゃん。

 それを聞いたわたしはフィギュアスケート羽生結弦の衣装を着た兄を想像した。ちょっと着せてみたいかも。

「なんかでもさあ、その白馬の王子様がさらいに来るのって、紫音じゃなくて、そとーだよね」

 明日香ちゃんがそう言うと、

「妹さらって、どこ連れてゆくの? 家?」と紫音ちゃんが言い、

「それ、ただの早退やん」と貴子ちゃんが言って、みんながゲラゲラ笑った。

「でもさあ、あのお兄さんにホントにそれやってみてほしいよね」

 明日香さあ、ちょっとくどくない?

「そとーて、そのときどんなセリフ言うの? あれーじゃないよね」

「お兄ちゃん、なにやってんのー!って怒鳴りそう」

「あ、そとー、それ言いそう」

「そう言われてすごすご帰っていったり?」

「えー、それ、かわいそー。でも、妹には弱いもんねえ」

「そとー、完全に尻に敷いちゃってるからねえ」

 あのさあ、みんな好きなこと言ってない? そんなシーン絶対ないから。


「あ、お兄さんと言えばさあ」

 ぼんと手を打って、紫音ちゃんがまた別の話を持ち出した。

「4組の友近さんの話、そとー聞いた?」

「4組の友近さん?」

 って、誰?

「ごめん、その子のこと、知らないんだけど」

「ほら、いるじゃない。髪長くって、ちょっとジミーな感じで、メガネかけた子。あの子、そとーと同じ中学じゃなかった?」

 ああ、あの友近さん? 確かに中学は同じだったけど、クラス一緒になったことないから、よく知らないんだけど。で、その子がどうしたの?

「お兄さんに告ったらしいよ」

「いつ?」

 思わず大きな声が出ていた自分にちょっと焦った。

「期末試験が終わった日だって」

「で、どうなったの?」

「あっさりフラれたらしい」

「あら、そう」

 期末試験が終わった日と言えば。水泳部の集まりがあった日だよね。その日の記憶を懸命に追った。そこに貴子ちゃんが入ってきた。

「その話、聞いた聞いた。そとーのお兄さんが変なこと言ったってやつでしょ?」

「変なこと?」

「なになに?」

 貴子ちゃんがスマホを取り出して、画面をいじってから、「これこれ」と見せてくれた。

「今日はとっても悲しい日。ここ何年で一番悲しい日。中学の頃からずっと思ってきたのに。伝えなきゃと思い続けてやっと言えたのに。。。あの人と同じ学校に行きたくて、あんなに受験勉強も頑張ったのに。。。」

「でも、あの人が齢はいくつと聞いたので、十六って答えたら、ごめんと言われた。それがわからない。十六はまだ子どもってことなのかな。十七だったらよかったのかな。。。」

 こんなこと、よく恥ずかしげもなく赤裸々に公表してるのねと思ったけど。

「この相手がうちのお兄ちゃんなの?」

「らしいよ」

「ずいぶん変なこと言うのね。思い当たることある?」と明日香ちゃん。

「思い当たること? うーん、よくわかんないなあ」

 そう答えながら、ぼんやり自分はまだ十六になってないと思った。

 家に戻ってから、兄の様子をちらちら見たけど、普段と変わりはなかった。部屋着に着替えて、エプロンをつけてから、ソファに座って雑誌を見てる兄の横に腰掛け、その肩に両腕を回した。

「なに?」

 じっと目を見た。間をおいて、くすっと笑った。

「ごはん作るね」


「なに、これ?」

 洗い物が終わってから、黄色い表紙の古びた本が目に入った。結構、分厚い。背表紙が色褪せている。

 三太郎の日記?

「ああ、それ? 図書室で借りてきたんだ」

 なるほど、学校の図書室のシールがついている。

「なんだか難しそうな本ね」

「うん、その本のことが出ててさ、どんなものかって思って借りてみた」

 兄はそう言うと、「先、風呂に入ってくる」と部屋を出ていった。

 ひとり部屋に残され、なぜか興味を覚えて、古い本を手に取った。

 恐ろしく字が細かい。発行は昭和五十八年とある。あるページに目が留まった。

 人間はもともと男女一体だったのが、神の怒りを買って体をふたつに裂かれたのだという。それで男女はお互いの片割れを求めて彷徨うようになったのだと。


「この広き宇宙の間に離れ離れに投げ込まれた二片の運命を考えてみる。処女の美しさと頬の紅味とに輝いて、幸福にその半身の尋くるのを待っている者はけだし稀有だろう。そのある者は父母の命ずるままに霊魂の上の他人にその身を任せて、日ごとに心の底に囁く空虚の訴えに戦慄しながら、罪と破滅との陰にかすかにその半身の近づきくる跫音を待ち設けている。そのある者は眼と血とに欺かれたる抱擁の熱の次第にさめてゆくさびしさに始めてその前半身に対する切なる憧憬を感ずる。そのある者は友人もしくは友人の妻としてわれ知らず深くなりゆく親しみに前世の因果の怪しく現在に働きかけていることを覚って身慄いする。そのある者はその半身にめぐりあわぬ間に空しく死んでしまっている」


 どくん。

 心臓が大きく波打ったような気がした。

 巡り会う前に空しく死んでしまう。

「あなたの待ち人はもういない」

 え?

 上を見た。天井があるだけ。なんの変哲もない。

「あなたの待ち人はもういない」

 そう言われたことがあった。そんな記憶がよみがえった。

 でも、いつ?

 だれに?

 占い?

 懸命に思い出そうとしたけれど、なにも出てこなかった。

「衣通子、風呂入れよ」

 タオルで頭を拭きながら、パジャマ姿の兄が戻ってきた。

「あ、はい」

 なにかふわふわした感覚のまま、お風呂場まで行って、服を脱いで、湯船に浸かった。わたしの待ち人って、誰? もういないって、どういうこと?


「やっぱ、ついてゆけないな」

 ふと、ヅミーとの会話を思い出した。彼女は無理を重ねて媛高に滑り込んだという。

「そとちゃんは頭いいから、媛高しか考えてなかったんでしょうけど」

 媛高しか?

 そう言われて、確かに半分はそうだけど、半分は違うと思った。でも、そんな細かい話を返してもと思って、その場はスルーした。

 成績で高校を選んだのかと問われるなら、きっぱりと答えられる。

 それは違う。

 愛媛高校がこの辺りで最上位の成績をもっていないと通してくれないことは知っている。けれど、そこに憧れなどなかった。

 でも、中学2年の3月に、わたしの進路は愛媛高校に決まった。ヅミーが言うとおり、しか考えないようになった。どうして? お兄ちゃんが愛媛高校に合格したから。


 なんでこんなことを思い出したんだろ。

 息が漏れる。

 言いようのない寂しさに、身体の芯がいつまでも温まらないように思えた。待ち人は案外近くにいるのかもしれない。ふと、そんな考えさえ、頭をよぎった。んなはずはない。すぐに理性が否定する。あるいは、わたしはすでにわかっているのかもしれない。とも思って、誰のことを言ってるのと、自分で自分を笑った。湯船の中で、身体じゅうを指でなぞった。冷えた感覚から脱したくて、一番熱いところに指先を滑らす。声を出さぬよう、力を入れた。やがて、肩で息をしながら、なにもない風呂場の天井を眺めた。


 その夜、答えの出ない問いにずっと悩まされた。お布団に入ってからも、頭は冴えたままだった。寝られなくて、何度か意味もなくトイレに立った。日付が変わった。次は一時半だった。三時も覚えている。

 ふと、掌を見た。

 小指に赤い糸が結われている。なんだろう。糸を引いてみた。どこかとつながっている感じではない。

 糸の先を見ると、部屋の暗がりに向けてずっと続いていた。

 お布団から出て、糸の行方を辿っていった。和室の障子の向こうに続いている。部屋を抜け出して、夜の闇の中へと続く糸の先を追っていった。

 気がつくと、田舎道を歩いていた。蝉の声が聞こえる。空が青い。入道雲がもくもくと湧いている。汗が流れた。赤い糸は道の向こうにずっと続いている。

 歩いているうちに、これは見えない赤い糸だと気付いた。すごい発見をしたような気がした。なんでこんなことに気づかなかったんだろうとも思った。見えない赤い糸が見えている。ということは、この糸の行き着く先には、わたしの運命の人がいる。

 駆けた。息が弾んだ。この糸の先には、きっと素敵な人が待っているに違いない。わくわくしながら駆け続けて、どれほど経ったろう。

 いつしか墓場にいた。糸はまだ続いている。枯れた木の枝にカラスが止まっていた。カアと鳴いた。ぞっとして、視線を落とすと、糸はある墓石につながっていた。その前に立つ。冷ややかな墓石には「待ち人」と刻まれていた。

 どういうこと?

 その場に立ち尽くした。

「あなたの待ち人はもういない」

 誰かがそう言ったように聞こえた。言いようのない虚無感が押し寄せてきた。


 気がつくと、お布団の中にいた。

 ゆ、め?

 まだ暗い天井を見ながら、過敏になった神経が鎮まるのを待った。

「ここにも、いないのかな」

 ふと、諦めにも似た考えが頭をよぎった。

 ここにも?

 それって、なにを考えたんだろ? 答えのない問いが増えてゆく。

 となりで兄が静かな寝息を立てていた。ふさふさした髪、整ったきれいなお顔を見ながら、この人を話題にできるみんなは楽しいんだろうなと思った。わたしはいつもそばにいる。だけど。。。

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