かわいい兄
またハネてる。
顔を洗ったはずなのに、今朝も寝ぐせがついたまま。
もう高校生なんだから、ちっとは見た目にも気を遣ってよね。
お味噌汁を啜ってる端正なかおを見てると、ため息が出る。
「その頭、あとで直してあげる」
「いいよ、べつに」
あなたはよくても、わたしがよくないの。
南国の松山でも、年末から寒い日が続いていた。
節分の今朝もすっかり冷え込んで、結露がすごいことになっている。
「ほら、そこに座って」
朝食のあと、洗面所で丸椅子に座らせて、お湯に浸して軽く絞ったタオルを頭に押しつける。
「あつ、あつ、あつ」
「動かない、動かない」
動く頭を両手で押さえる。
「おまえ、よくこんな熱いの持てるな」
「なに大袈裟なこと言ってるの」
ふと思う。
十代にして既に主婦の手になっちゃったのかな。
掌をそっと眺めてみる。ちょっとふっくらした高校生女子の掌、だよね。
ドライヤーを当てながら、ふさふさした髪の形を整えてゆく。
鏡に映る表情はやれやれと言ってる。こっちがやれやれだよ。
「あー、もうこんな時間!」
「だからいいって言ったのに」
だからよくないんだってば。
急いで制服に着替える。
上下が黒、衿に白のラインが入った古典的なセーラー服。伝統的だかなんだか知らないけど、もうちょっと垢抜けたデザインにならないのって、いつも思う。
スカートは巻いて巻いて短くして。防寒のために黒タイツをはいて、ベージュのコートを羽織る。そして赤マフラーで首周りを覆った。最後に靴箱の上に置いてある黒縁のごついメガネを装着。
いかにもお勉強ひとすじといった感じの進学校女子が鏡に映っているのを確認。口元に笑みを浮かべてみた。
「向こうの部屋の窓、カギかけた?」
「うん」
「テレビのコンセント抜いたっけ?」
「大丈夫」
玄関の戸を開けると、冷気がわっと顔を刺した。
木梨皇子十七才、衣通子十五才。
兄妹ふたりだけの生活。
もう二年になろうとしている。
母が亡くなったのは、小学校三年生の秋だった。
歩いているところを自動車の衝突事故に巻き込まれた、と聞いた。
母はいつもころころ笑う人だった。わたしには怒られた記憶がない。優しくて、とてもうつくしい人だった。
当時、父は単身赴任で東京にいた。
お向かいの透子ちゃんのママに連れられ、わたしたち兄妹は病院に行った。どんより雲の垂れ込んだ肌寒い日だった。薄暗い廊下のベンチに座らされ、長い時間待たされたことを覚えている。
父が帰ってきたのは、その翌日だった。
葬儀が終わると、わたしたち兄妹を東京に引き取る話が出た。けれど、子どもの面倒を見る人がいないこと、わたしたちが松山を離れるのを嫌がったことから、結局は母方の祖母がうちに来てくれることで落ち着いた。
祖母の家は、電車通りの向こう側の道後町にあった。当時、祖母は叔父夫婦と一緒に暮らしていた。幼い頃からよく遊びに行ったし、祖母もまたうちによくやって来た。
一緒に住むようになって、祖母はわたしたちにたっぷりと愛情を注いでくれた。とりわけ女であるわたしには、家事の一切をみっちり仕込んでくれた。
その祖母も、わたしが中学三年に上がる春休みに亡くなった。
その前年にアメリカに赴任していた父からは、こっちに来るかと聞かれた。いっそ渡米するのもわるくないとは思ったけど、高校入学目前の兄が勘弁してと言ったので、その話は呆気なく消えた。
叔父からうちに来ないかとも言われた。
でも、気を遣ったり遣わせたりする生活は、ちょっと息苦しいように感じた。
それに、祖母が体調を崩してから、家のことをほとんどひとりでこなしていたわたしは、兄ひとりの面倒をみるぐらい、どうってことないと軽く考えた。
「じゃあ、ふたりでやってみなさい」
父はそう言い残して日本をあとにした。おままごとのような生活は、こうして始まった。
愛媛県立愛媛高等学校は、松山城内にある。
ちょうど天守閣の南西側、城壁の真下。媛高生はお堀を渡って登校する。
朝は学校に近い南堀端の電停で降りる。南堀端からお堀を渡って城内に入る雰囲気が好きだから。帰りは電停の位置もあって県庁前から乗るんだけど。
その日は、電車から降りると、風が強かった。
「さぶっ」
涙まで出てくる。
電線がヒューヒューと悲しげな音を立て、路面電車は凍ったレールを軋ませながら、鈍いモーター音を響かせた。
鈍色のお堀を渡ると、城内は霜が降りて、白々している。地面が固い。
こけて膝でも擦りむいたら痛いだろうなあ、なんてどうでもいいことが頭に浮かぶ。
放送局のあたりまで来ると、「そとー」と声をかけられた。
振り返ると、二階堂紫音ちゃんが手を振って駆けて来た。
「おっはよ」
「おはよう」
長身の彼女は少し頭を下げて、兄に「おはようございます」と言った。
「おはようございます」
兄も丁寧な返事をした。
「今日も寒いですね」
「そうだね」
紫音ちゃんは、たわいもないことばかり兄に話しかけてる。
それにちゃんと受け答えしてあげてる兄はえらいんだろうけど、ところどころ話が噛み合わないのはご愛嬌かな?
レトロな校舎に入って兄と別れてから、紫音ちゃんが少し背を丸めて囁いた。
「やっぱ、そとーのお兄さんって、カッコいいよね」
「そおお?」
「背は高いし、きれいなお顔してるし、髪も決まってるし」
思わず吹き出しそうになる。
「どうかした?」
「いや、べつに」
この子に今朝の姿を見せたら、どんな反応してくれるんだろ。
身内にしかわからないことって、人それぞれにあるんだろうな。
そう思いながら、冷えた教室に入った。
その日は、教職員の特別会議とかで、授業が終わると一斉下校だった。
赤レンガ造りの重厚な校門をくぐると、知った顔がいた。
白い顔に、赤みの差した頬。
肩口で切り揃えられたつややかな黒髪。
スキのない黒く大きな瞳。
幼なじみの三島透子ちゃんだ。
だれかと喋っている。
相手は背が高くがっしりした男子。陽に焼けた顔。坊主頭。
野球部の子かな?
あら?
あの子、どこかで会ったような、・・・どこだっけ?
透子ちゃんがこっちに気づいて手を振った。わたしも振り返す。
「じゃ、そういうことで」
長身男子は透子ちゃんにそう言うと、学校へと戻っていった。ちらと、こっちに会釈しながら。
「だれ?」
「ああ、8組の西条君よ」
「8組の、西条君? それって、もしかして西条はるか?」
「そうだけど」
テストが終わるごとに、毎回でかでかと職員室前に貼り出される媛高名物、成績順位表。
一番 1年3組 三島透子
二番 1年8組 西条はるか
入試以降、変わらぬ一番、二番。
「西条はるかって、男の子だったの?」
透子ちゃんが笑った。
「だって、ひらがなで、はるかなんて名前、男の子につける?」
「今度、西条君のご両親に会って、そう伝えてみたら?」
透子ちゃんはそう言って、また笑った。
でも。その西条はるかにどこで会ったんだろ、わたし。
「どうかしたの?」
「うーん、あの子にどっかで会ったことあったかな。よく思い出せないんだけど、どこかで見たことがあるよな気がして」
透子ちゃんは素っ気なかった。
「まあ同じ媛高生だからね。学校のどこかで会ったことぐらいあるんじゃないの」
そう、なのかな?
ぼんやりしてちょっといやだったけど、深く考えても仕方ない。その話はそれきりにして、透子ちゃんと一緒に帰ることにした。
お城から吹き降ろす風が頬を切る。
空を雲が覆っている。
雲間から金色の陽が射し込み、天守閣が輝いている。
美術館の横を歩く。地面は白い。
透子ちゃんはセーラー服の上に茶色のカーディガンを羽織っている。足元は膝上まで白い素足を出している。
黒タイツに厚手のコートで足元を固めて、セーラーの襟まで伸ばした髪を赤いマフラーで覆ったわたしとは対照的だ。
「透子ちゃんと一緒に帰るなんて、いつ以来?」
「うちが真向かいなのにね」
高校に入って、透子ちゃんは3組に、わたしは5組になったから、学校で一緒になることはほとんどなかった。それに向こうは陸上部で、こっちは帰宅部だから、下校時間もまるで違う。
「いつも帰るのって、七時半ぐらい?」
「そうね、たまに皇子ちゃんとも一緒になるよ」
透子ちゃんは、兄のことを昔から「皇子ちゃん」と呼ぶ。
「お兄ちゃんと一緒のときって、どんな話するの?」
「どんな? うーん、そうね、そとちゃんの話になるかな、やっぱり」
「やっぱり?」
「だって皇子ちゃんと共通の話題って、そこしかないでしょう」
「で、どんな話してるの?」
「気になる?」
くすっと笑った。
「陰でなに言われてるのなあって思えば、ね」
透子ちゃんもくすっと笑った。
「ちょっとここでは言えないかなあ」
「あー、どうせまたなにか悪口言ってるんでしょう」
「大丈夫よ、妹の尻に敷かれて大変とかって話、ぜんっぜん聞いてないから」
「なによ、それー?」
透子ちゃんがくっくっくと笑った。
「そとちゃん、てっきり陸上やるって思ったんだけどな」
はあ?
「なんの話?」
「皇子ちゃんが高校に入ったとき、男が帰宅部やってどうするのって言ったんでしょ、そとちゃん」
はい?
「皇子ちゃん言ってたよ。妹に家のこと全部させて、自分だけ部活やってるのはどうなんだって」
ああ、そーゆー話? まだそんなこと言ってるの、お兄ちゃん。
「中学のとき、あんな記録作っておいて、高校なったらもうしませんなんて言われたら、そりゃ周りはなんでって話になるよね」
中学時代に学校のマラソン大会でわたしが記録を出したことを、透子ちゃんは言ってる。
「だって、部活終わってから、お夕飯なんてできないよ。お兄ちゃん、飢え死にしちゃう」
おなかを押さえて「はら減ったー」なんて言ってる兄の真似をしてみた。
「あー、皇子ちゃん、そんな顔するう」
ふたりで声出して笑った。
「でもさ、そとちゃん、帰ってから走ってるんでしょ。うちのお母さん、そとちゃんは夕方いつもジョギングしてるのよ、なあんて言ってるけど、ジョギングってレベルじゃないよね。何キロぐらい走るの?」
「十キロくらい」
「それ、どれくらいで走るわけ?」
「三十五分くらいかな」
「三十五分? 呆れた。キロ三分半ペースじゃない」
「まだまだでしょう?」
「十キロそのペースで走れたら、男子でも相当のもんだよ。・・・そりゃ、先生欲しがるよねぇ。そとちゃんなら絵になるだろし」
絵になる? なに、それ? まあ、陸部からの勧誘はしつこいくらいだったけどね。
「そとちゃん、ほんと部活やってみない? 全国だって狙えるよ。お夕飯なら、早めに切り上げさせてもらえばいいじゃない」
もう年度が変わろうかってのに? そりゃ無理でしょ。他の女子が絶対認めないって。
「うちは長距離に女子いないから、大丈夫だよ」
いやいや、絶対トラブルの元だって。新入りが一人だけ途中で切り上げて帰ります? んなの、あり得ないよ。
「ちゃんと話せば、みんなわかってくれると思うけど」
表向きはね、わかったようなかおしててもね、納得しない人、絶対出るって。
ほら、中学のときもいろいろあったじゃない。
わたし、八分にされちゃうよ。
もう怖くて学校に行けなくなっちゃう。
「あんなの、あたし、全然気になんなかったけどな」
そりゃ透子ちゃんは超然としてるもん。わたし絶対ムリ。それにね。
「部活って、土日もあるでしょう?」
「陸部はあるわね」
「土日っていろいろ忙しいのよね。道場もあるし」
「ああ、空手の?」
「うん、あれはね、小さいときからずうっとだから」
「あの人、なんて言ったっけ?」
あの人?
「ほら、犬連れて近所散歩してるおじさん。そとちゃんの空手の先生なんでしょ?」
「ああ、春宮のおじさん?」
「そうそう、春宮さん。あの人、面白いよね」
「面白い?」
「このあいだも犬がオシッコしてたら、こっちにもしなくていいのかなんて、いちいち犬に聞いてるの」
「えー、なにそれー?」
「だから全然進まなくて、ずっとうちの近くにいたんだよ」
「ふーん」
そう言えば、春宮のおじさんは生前の祖母ともよく立ち話をしていた。
「そとちゃん、お誕生日、三月三十日だったよね?」
透子ちゃんが唐突に話題を変えた。
「ええ、でも、なんで」
「皇子ちゃんがまた一日付き合わされるよって、ぼやいていたから。もうそんな季節なんだなあって思って」
えー、お兄ちゃん、透子ちゃんになに言ってるの? ちょっと憮然。
「でも皇子ちゃん、そうは言っても、かわいい妹につきあうの、まんざらでもないみたいだったよ」
透子ちゃんはそう付け加えて、ふふっと笑った。
電車通りに出た。みかん色の路面電車が市役所方面からぐっと曲がってくる。
乗り遅れないよう、電停に走った。
家に帰ると、兄はもう戻っていた。
メガネを外して着替えを済ますと、軽く近所を駆けてから、近所のスーパーまで兄とふたりでお買いものに出かけた。少しぼやっとするけど、視界に枠がないのはやっぱりいい。
電車通りまで出ると、空が広くなった。
西の空はさっきより晴れていて、東に移った重々しい雲を、金色の夕陽が照らしている。
陽の光を背に、並んで歩く。
時折、冷たい北風が吹き付けてくれる。痛いほどに。
「今晩、なにする?」
左を歩く人に聞く。
「なんでもいいよ」
「それ、いっちばん困るんだけど」
「じゃあ、カレー?」
「こないだやったとこじゃない」
「だっけ?」
もう、なんにも覚えてないのね。
「寒いから、お鍋にしよっか」
「ああ、いいな、それ」
「じゃあ、なに鍋がいい?」
「なんでもいいよ」
だからそれが一番困るんだってば!
結局、鳥の水炊にすることにして、手羽元を多めに、白菜、春菊、大根、しいたけ、人参、エノキダケ、木綿豆腐二丁、牛乳二本をカゴに入れた。恵方巻と豆まきの豆も。
牛乳を選んでいるとき、「なにやってるの」と声をかけられた。
「見りゃわかるでしょう、牛乳選んでるの」
「だってみんな同じだろ?」
「日付が違うのよ。奥の方に新しいのがあったりするの」
「賞味期限切れてるわけじゃないんだし、どうせすぐ飲んじゃうんだから、そんな神経質にならなくても」
なに言ってるんだか。
「ちょっとでも新しいのがいいに決まってるでしょ。同じ値段なんだよ」
「そうやって古いのばかり残すから、廃棄することになったりするんじゃない?」
「それはお店の仕入れの問題でしょう。なんでうちが売れ残り品の始末をしなきゃいけないのよ」
「・・・なるほど、そりゃ、一理あるな」
なるほどじゃないって。
スーパーを出るとき、マイバッグを抱える兄を見て、紫音ちゃんに朝言われたことを思い出した。
「そとーのお兄さんってカッコいいよね」
カッコいい、ねえ。
陽が随分長くなって、辺りはまだまだ明るい。
けれど、まばゆい光に熱はなく、吹く風は肌を刺す。
「すっごくまぶしいね」と、右に歩く人に言った。
「なあ」と答えたその顔は金色に照らされ、ふさふさした髪が風に踊っていた。
その夜、お鍋をいただいてから、短めの恵方巻をふたつ並べた。
「今年はあっち向いて食べるのよ」と昨日調べた恵方を指差す。
「食べてるとき、喋っちゃダメだからね」
「そんなルール、誰が決めたんだ」
「ほら、文句言わずに黙って食べる食べる」
「宣伝に乗せられすぎだろ」
「だって面白いじゃない。退屈な日常に変化つけてくれるこんなイベント、わたし嫌いじゃないよ」
「ハロウィンのときは興味ないって言ってたくせに」
「騒動になるようなのには興味ないだけなの。そんな話いいから、ほら食べて食べて」
「はあ」
ため息ついてから、それでも、もくもくと食べてくれる。
そんな姿をかわいいと思いつつ、わたしも同じ方角向いて太巻きを頬張った。
なるほど、黙って食べるのって、全然面白くない。
「黙って食べてもおいしくないね」と言ったら、反応がなかった。
「ちょっと、聞いてる?」
端正な顔はこちらを向くと、太巻きを咀嚼しながら、口元に人差し指を立てた。
そのしぐさがあまりにかわいかったから。
後ろから脇腹を思いっきりくすぐってやった。
「ぐほっ」
口からお寿司の飯粒が飛び散る。
「あー、お兄ちゃん、きったなあい!」
「衣通子・・・やめ、やめろって」
ほんとにこの人って、くすぐったがり。子どものときから変わらない。
面白いから、抱きついてもっとやってやった。
あとのお掃除は大変だったけど。
そのあとは、ふたりで寒空の下に出て、豆まきをした。
「今年もするの」とか言いながら、始めるとちゃんと付き合ってくれる。
家族だな。
白い息を吐きながら「鬼は外、福は内」と大きな声を出してくれる生真面目な顔を見て、そう思った。
夜、畳部屋にお布団をふたつ並べる。
昔はそれぞれ自分の部屋で寝てたのに、祖母が来てから、みんな一緒に畳部屋で寝るようになった。それが祖母が亡くなったあとも、なんとなく続いていた。
お風呂から上がって髪を乾かしてから、パジャマに着替えてお布団に入る。
「電気消すな」
「うん」
部屋が暗くなると、すぐにかすかな寝息が聞こえた。この人はホントに寝つきがいい。のび太くんみたい。その邪気のない寝顔を見ながら、昔のことを思い出した。
あれは、兄が六年生、わたしが五年生の夏。
お盆も過ぎて、夏休みもあと幾日となったある日、子どもふたりだけで初めてプールに行った。列車に乗っての遠出だった。
その日のために、わざわざ水着を買ってきた。初めてのセパレート。びっくりさせようと思ったのに、完全にスルーされたっけ。
プールで過ごす時間は、あっと言う間に過ぎていった。
青白い空、かっと照り付ける太陽。濃い緑に、セミの大合唱。
「じゃあ、衣通子、バッタやってみるか」
その日はバタフライを教えてもらうことが口実だった。バタフライのことをバッタと言うんだと思った。ちょっとおかしかった。
「バッタはな、波動運動なんだよ」
「はどう、うんどう?」
「波になったと思って動いてごらん。こんなふうに」
と言って、兄は水の中で波打つように腰を上下に動かした。同じように腰を振ると
「うまい、うまい。あとは体が上に上がったときに手をかいたら、バッタだよ」
言われたとおりにやってみた。何度か繰り返してるうちに、バタフライができたような気がした。
「お兄ちゃーん、衣通子、バッタできてたー?」
「見事な殿様バッタだった」
「なあに、それー。衣通子、バッタじゃないよー」
「衣通子がバタフライしてるから、エビフライしよ」
勢いよく水しぶきを立てて、兄がエビのように屈伸しながら水の中に沈んでゆく。
あはははははは。
賑やかに笑った。
バタフライの練習がひと段落したあとは、両肩に浮き袋をつけて流水プールを漂い、絶叫しながら何度も何度もスライダーを滑り降りた。水の中にどぶんと投げ出されるたびに、おかしくっておかしくって、ふたり顔を全部口にして笑った。
夕方になった。まだまだ明るい夏の空に湧いた入道雲がほんのり薄紅色に染まっていた。
晩夏の、どこかもの悲しく、気だるい空気の中、プールサイドにふたり並んで座った。
さりげなく肩を寄せた。肌が触れて、ぬくもりを覚える。ちょっと嬉しかった。
「あ、飛行機雲」
兄が空を指差した。ひとすじのライン。
「あんな色の飛行機雲、初めて」
雲は淡い紅色に染まっていた。
「ほんと」
兄に顔を向けて笑った。優しい二重の目、耳まで隠れる長い髪が濡れてつやつやしていた。
「お兄ちゃんって」
感じたままを口にした。
「きれいなお顔してるよね」
兄は微笑して、衒いなく言った。
「衣通子だって、すごくきれいじゃないか」
兄を見つめた。そんなこと言われたのは初めてだった。
その帰り。
混雑する列車の中、ふたり連結の幌の中にいた。
幌の中は薄暗く、蒸し蒸しした。無骨な連結板が、がちゃがちゃ音を立てながら、気儘に動く。ふたりとも一枚しか着ていなくて、列車が揺れるたびに、身体のあちこちが触れた。
「暑い?」と聞かれて、汗が滴っていることに気づいた。
きれいなお顔が近すぎる。二重の目が大きい。
「ううん、大丈夫」なんて答えて、なぜか恥ずかしくなって、下を向いた。
「ほら」
と、タオルを手渡された。顔を上げると、それはさっきまで兄の首にかかっていたもの。
「ありがとう」
と、それで顔の汗を拭った。男の人の匂いがした。
ふと思った。
わたし、臭ってない?
初めての意識に、恥ずかしさが身体じゅうから一気に噴き出した。
「暑いから、暑いから」
拭っても拭っても止まらない汗の言い訳を、心の中で懸命にした。脇の下から、嫌な感触が伝った。
列車が松山駅に着いた。口の中はカラカラになっていた。
夢を見た。
この世に生まれようとしている夢。
「どのお母さんにするの?」
たくさんの子どもが自分のお母さんを選ぼうとしていた。次々に子どもがお母さんとなる女の人のお腹の中に入っていった。じゃあねと手を振りながら。
わたしは、懸命に探した。
違う、違う、違う。
いろいろな女の人がいた。
どこ? どこ? どこにいるの?
焦りを感じる。
いない、いない、いない。
ふと、右上に光を感じた。そちらを見た。そこにひとりの女の人がいた。
あ。
あの人だ。
そちらに向かった。そのとき。
「ダメだ!」
腕を誰かに掴まれた。
え? なに?
「おまえは、こっち」
ぐんと引っ張られて、そのままどんと押し出された。
押し出された先に、別の女の人が立っている。
勢いあまって、わたしはその人のお腹の中に入ってしまった。
お腹の中から外を見ると、選ぼうとした女の人の去ってゆく後ろ姿が見えた。
「お母さん! お母さん!」
そこで目が覚めた。
兄が横で寝息を立てている。まだ夜は明けていなかった。
のろのろと起き上がって、トイレに行った。
冷えた便座に座って用を足しながら、先ほど見た夢の中の女の人は誰だったんだろうと思った。
彼女こそ母になるべき人、だったのかもしれない。
なぜだろ、ぼんやりとだけど、そんなふうに感じた。
部屋に戻った。兄の寝姿があった。
だとすれば。
この人とわたしは「兄妹」という関係にはならなかっただろう。
お布団に入ってから、意味のないことをいろいろ考えた。兄は、憎らしいほど太平楽に眠っていた。
その週末、叔父に呼ばれて道後町に行った。
「衣通子ちゃん、ひとり?」
出迎えてくれた叔母に「お兄ちゃんは部活なんで」と答えた。リビングに行くと、叔父がこたつで横になりながら、テレビを見ていた。
「おう、衣通子、来たか。寒いな」
叔父はむっくり起き上がると、ボサボサの髪をもしゃもしゃ掻いた。この人の周りの空気はいつも緩んでいるように思う。きらいじゃないんだけど。
こたつに入りながら「なんか叔父さんっていつも呑気ね」と言うと、「人生それが一番だろうが」と軽く流してくれる。
まあ、そうかもね、と思いながら、叔父の見ているテレビを一緒に見た。依頼者が持ってきた絵画や骨董品、玩具の値段を算出する番組。叔父は「こりゃ贋物だろう」とか「そんな値段するの」などと、ひとりで盛り上がっている。
叔母がみかんを出してきて、お茶を淹れてくれた。ありがたくいただく。
「学校はどう?」
「まあまあってとこかなあ」
「媛高って大変って言ってたでしょう。夏休みの宿題もすごかったって言ってたわよね」
それはそう。英語、数学はともかく、現国に古典漢文、生物、地学に地理までどっさりプリントを渡されたのには本当に閉口した。七月中には終わらせてやると思いながら、結局はお盆までかかったから、夏休みは半分もなかった。
「嬉しそうに媛高みたいな学校行くからだよ」
叔父はそう言って笑った。
前も同じことを言われたような気がする。べつに嬉しそうに行ってるわけじゃないんだけどね。
「それで、用事って?」
「ああ、おまえに渡すもんがあってな」
叔父はテレビを見ながら言った。その重い腰を上げたのは、番組が終わってからだった。
「整理してたら出てきてな」
と言いながら出してきたのは、古い写真アルバムだった。
二十冊はある。
そこには祖父母のまだ若かりし頃の写真や、母を含め祖母の子どもたちの、生まれてから大学生ぐらいまでの写真が丁寧に貼られていた。それぞれの写真には日付と精緻なコメントが記されていた。
「こんなの、うちが貰っていいの?」
「うちには子どももいないから。そっちで持ってて貰ったほうがいいと思ってね」
叔父は優しいまなざしでアルバムを繰りながら言った。
アルバムには、同じ顔をした女の子がふたり並んでいる写真がたくさんあった。
母のきょうだいには、弟である叔父の他に、双子の姉がいたと聞かされていた。その人はわたしが生まれるか生まれないかの頃に亡くなったという。
でも、実際に写真で見ると、母がふたりいるようで、とても不思議な感じがした。
「この人、なんでそんなに早く亡くなったの?」
「体を悪くしてねえ」
叔父の、普段とは変わらない調子の返答に、そうなんだと素直に思った。
「これが高校時代のお母さんだ」
叔父の示した写真を見ると、わたしの制服と同じだった。スカート丈はずっと長いものの。
「お母さんも媛高だったの?」
「あの人は、頭よかったからなあ」
「そうなの?」
「中学のときは三年間ずっと首席だったからね。卒業式では総代だったし」
透子ちゃんみたい。
あれ?
同じ顔のもうひとりは、別の制服に身を包んでいる。
「姉さんふたりは一卵性双生児でね。子どもの頃はいつもふたり一緒だったんだけど、中学ぐらいから、わたしたちって、ふたつの人生を送れるんじゃないかって盛り上がってね。部活を手始めに違うことを始めるようになったんだ。高校もわざと変えた」
ふうん。
「外見は一緒だから、制服変えてそれぞれ違う学校行っても、他の誰もわからない。お婆ちゃんは、あんたたち、何やってるのなんて怒ったりしたけど、ふたつの学校を楽しめるからって、内緒の入れ替わりを続けてたみたい」
それは楽しそう。ちょっと妄想するだけで、いろいろ悪戯が思い浮かんでしまう。
「叔父さんは区別ついたの」
「あったりまえだろ。いくら双子でもなんとなく雰囲気は違うし。ほくろの位置だって違うし」
「雰囲気って?」
「衣通子のお母さんのほうがおてんばで冒険好きって感じだった」
そうなんだ。
その日は、叔父の家でまったりと過ごした。出されるままにお茶を飲み、みかんとお菓子をつまんだ。叔母が今度は紅茶を淹れてくれた。
「皇子ちゃんの部活って、遅いの?」
「今日は午後からだから、夕方遅くなるんじゃないかな」
「衣通子ちゃんは部活しないの?」
「さすがにそこまで余裕ないなあ。疲れて帰ってきて、ごはんなんて作れないもん」
「衣通子ちゃんは、偉いわね」
「でしょう」
叔母が笑った。
二十冊以上のアルバムとともに、帰りは叔父にクルマで送ってもらった。
「衣通子、困ったこととかないか?」
「困ったこと? そうねー、試験でマニアックな問題ばっか出してくる数学の先生とか?」
「そりゃあ困ったことだなあ」
叔父はそう言って、ひゃっはっはっはと独特な笑い方をした。
「おまえも高校の勉強しながら家事までやってたら大変だろう。うちに来てもいいんだぞ」
「ありがと。でも、お兄ちゃんも手伝ってくれるし、なんとかふたりでやってくよ」
「そうか、まあ、しんどくなったら、いつでも言ってくれればいいから」
叔父が帰ってから、もらったアルバムを改めて眺めてみた。若かりし頃の母の笑顔が溢れていた。
そうだった。
母はいつも笑顔だった。
なにがおかしいのか、いつもころころと笑っていた母。ふと、母の言葉がよみがえった。
「そとちゃん、いつも笑顔でいるのよ」
「なんで?」
「そとちゃんが笑顔だと、まわりの人がみんな幸せになるから」
「えー、そうなの?」
「そうよ。お母さんが笑顔でいるのと、むすっとしてるのと、どっちがいい?」
「お母さんがむすっとしてたら、やだ」
「でしょう? そとちゃんも一緒。あなたがむすっとしてたら、まわりの人だってやなんだよ」
「そっか」
「そうよ。それにね、いつも笑顔だったら、そとちゃんも幸せになれるよ」
「そうなの? じゃあ、お母さんは幸せ?」
「もちろん! だって大好きなそとちゃんがいつもそばにいるんだもん」
アルバムに記された精緻なコメントは、どんな些細なことにも目を配る祖母らしいと思った。
それにしても。
祖母はふたりの娘をふたりとも亡くしたことになる。
今まで考えもしなかったけれど、尋常でない悲しみであったに違いないと、頭では理解する。
ふと、祖母のある姿を思い出した。
中学一年のときだったか。体育の授業で、足を挫いて、早引けしたことがあった。
家のカギは開いていた。無用心だなと思いながら、家の中に入ると、変な声がしたように思った。リビングまで行くと、和室に祖母が一人、仏壇の前で、背を向けて座っている姿が見えた。母の遺影が祖母を見下ろしている。
泣いてる、あの気丈な祖母が。
見てはいけないものを見てしまった。
わたしはその場をそっと離れて、玄関まで戻ると、もう一度、靴を履いて、鞄を手にした。そうして、玄関の扉を開けながら、「ただいまー」と大きな声を出した。
ほどなく、奥から祖母が姿を見せた。
「どうしたの、こんなに早く」
「体育で足やっちゃって」
「どれ、見せてごらん」
制服のスカートをたくし上げると、足を一瞥した祖母は、わたしの目を見ながら、厳しい口調で言った。
「この程度で帰ってくるものじゃありません」
いつもと変わらないしっかりした表情を見ながら、和室で祖母が泣いていた姿はわたしの感違いだったのかもしれないと思った。
はっとした。
もしかすれば、祖母はわたしを双子の娘の代わりに育てたかったのかもしれない。
仏壇の上に掲げられた祖母と母の遺影を見た。
「大丈夫、家のことはちゃんとやるから」
わたしはそう口にした。