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未来を望む

作者: 六角 橙

 遅い秋の長雨が、濡れたアスファルトの匂いを運んできた。


「いいところだね」

「うん」


 頷いて、窓の外を見る。薄暗く、しかし、あちこちに旅館の窓の明かりが輝いていて、確かにロマンティックな雰囲気ではあった。


「こんなひなびた温泉が楽しくなるなんて、俺らも年取ったねぇ」

「アナタに言われたくはないんだけど」

「そうね」


 けらけらと笑う声の主。二十年来の親友から電話が来たのは、おとといのことだった。


 離婚した。その一言を聴いて、迎えに行って、カバン一つで出てきたという彼と、温泉に来た。


 きっかけは、不妊だった。男性側が理由の、不妊だ。親友は早々に、養子縁組を考え始めた。最初から彼女には、そういう状態であることも何度も説明したうえでの結婚だった。しかし、途中から、彼女は諦められなくなっていた。自分と、親友の子供がどうしても欲しかった彼女に押し切られ、親友は必死に不妊治療を続けた。だが子供は、できなかった。

 そして、事件が起きる。


 妻は夫とよく似た子供を、近所からさらってきてしまったのだ。子供は無事だったが、不妊治療に向かっていた夫が帰宅するまで、子供は怖い思いをしたという。


 結果、夫婦は全てを失った。

 財産も、仕事も、信頼も、失ってしまった。


 妻の心を壊してしまったことを、夫の自由も奪っていたことを、夫婦はお互いに心の底から後悔した。

 これ以上一緒にいたら、余計に不幸になる。残されたわずかな財産を分け合い、二人は離婚を承諾した。


「未来を望むのは、そんなに悪いことじゃなかったはずだけどなぁ」


 浅く笑う親友の顔。

 その彼方に、青白い夕暮れを見た。


 未来を望むこと。次を、思い描くこと。

 それはたしかに、悪いことではなかった。


 世界で一番、幸福だと思って、そして絶望していたあの頃を思い出す。


「ねぇ先輩、先輩はぜったいに、あたしを忘れてくださいね」


 それは、遅い初恋だった。

 高校の同じ部活の、一つ下の後輩。彼女が忘れてと言ったから、名前も顔も、忘れてしまった。覚えているのは、あの優しくも甘い声だけだ。

 特徴的な声の少女で、たしか、どこかのスタジオから声もかかってた。歌手か、声優か、女優か、それは分からない。

 彼女は俺を先輩として慕い、やがて俺たちは互いに恋をした。


 半年ほどは、恋人だっただろうか。拙いキスも、縁日の手つなぎも、ベッドの上での初めても、全て。あの声と、ともにあった。瞬きをするのと同じくらい早い、高校二年生の終わり。


 俺は、彼女が、部室で見知らぬ奴と抱き合い、やがてキスする場面に遭遇した。


 こんな小説みたいな、映画みたいなことがあるんだと、そう思った。逃げて、泣いて、どうしてかと迷って。あの行動の全ての始まりは、俺が彼女としたこと全部だったのかと思うと、どうにもならなかった。

 インターネットの検索結果はあてにはならず、誰かに相談することもできない。しばらくして俺は、彼女に別れを切り出した。好きな人と幸せになってほしい、そう告げると、彼女は驚き、そして泣いた。泣いて、言ったんだ。


「ねぇ先輩、先輩はぜったいに、あたしを忘れてくださいね」


 その言葉通り、俺は全てを忘れることにした。後輩はみるみるうちに美人になって、同期からは「いい女を手放しちまったな」とからかわれたけど、なにひとつ惜しくはなかった。惜しむ思い出も、忘れてしまったから。

 卒業式の後、彼女の言葉が含む意味を知ったのは、帰宅途中の俺を彼女が追いかけてきたせいだった。


「もうなにも、思いませんか?」


 綺麗になった彼女を見つめて、ふと気が付いた。

 綺麗になった、そう分かったから、前の顔との違いに気が付いた。


「まぶた」

「え?」

「二重になったんだね。よく似合う」


 あの瞬間、俺は笑ったのかもしれない。彼女は顔をくしゃくしゃにゆがめると、ごめんなさい、とそう言って、駆け戻っていった。

 彼女が本当に欲しかったことを、俺は間違えていたのかもしれない。忘れて欲しいという言葉は、実は何か別の言葉を孕んでいたのかもしれない。


 しかし言葉は、声に出さねば、紙に書かねば、文字として打たねば、誰からも察してもらうことはできない。

 さりとて、必ず成就し、伝わるとは限らない。


 だから俺は、親友に言う。


「明日は山登りに行こう」

「……うん」

「実は、牧田と井上もくるんだ」

「しらなかった」


 苦しそうに笑った友人の腕で、デジタル時計が静かに、午後10時24分を指していた。



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