Act.1 ハジマリの木
ざわざわ
「……、……!」
自分の頬や腕を何かがピシピシとくすぐる感覚がする。
瞬きをしてぼんやりと浮かんできた光景は、自分の背たけよりも高い植え込みの迷路をかき分ける己の腕。
風のざわめきの中に誰かの声が聞こえると、その方角を目指して小走りになる。導かれるように体が自然と向かったのは、聞こえたのがどこか既視感を覚える声だったからかもしれない。
機嫌が悪そうな鉛色の空に冷たい空気、湿った草木の匂い。轟々と音を立てる風が誰かを叱るみたいに雨粒を強く地面に叩きつけている。落雷の音が遠く聞こえて感じる強い焦燥感。
ピシャン、ガラガラガラ……
「ぅわっ……」
一際大きな雷が鳴った。辺りを一瞬、黄色く染める。
声のした方に視線を向けると、見上げるような木の太い枝に子供がしがみついているのが見えた。日が当たらないために彩度の落ちた世界で、真っ赤な髪が雷に明かされ鮮烈に光る。
「……!……!」
その姿を見つけた俺は、感情の処理に困るような苛立ちを感じた。
花も果物も成らない、自分の背丈よりも高いだけの木になんの用があるのかと。
何も、雨で滑りやすいこんな日に限って登ろうとしなくてもいいではないか。嫌な予感に鼓動が早まるのを感じる。
「……ル! ほら…………あ!」
何も出来ずにハラハラと見守っていると、突風が吹き荒び、こちらへ振り返ろうとした子供の体が傾く。
「!!」
☆☆☆
「……ッはぁ……はあ、はあ、は…………」
ばちりと目を見開いた。視界に光が散る。息苦しい胸を抑えると、手のひらからどくどくと脈打つ音が聞こえた。
呼吸が落ち着いてから辺りを見回すと、いつもと変わりない自分の部屋の天井が見えた。悪夢にうなされていたのだと理解すると、安心して息をつき、ひやりと頬を伝う雫を乱暴に拭った。
灯りがついていないとはいえ、部屋の中は暗い。まだ起きるには早い時間だとわかった。俺はいやな汗をかいたままもう一度寝ようという気にはならず、着替えるためにベッドから腰を上げた。
こんなに朝早くに目が覚めるのはいつぶりだろうか。顔馴染みのメイドが見れば大袈裟に驚くことだろうと思う。低血圧で朝が苦手な王子とはどうなのかと思わないこともないが。起きろと騒ぎ立てる彼女の声を想像して悪夢を脳みその奥に追いやった。
着替えをすませると、雨音が聞こえはじめた。
(……嫌な季節だ)
外の様子を見ようと窓に近づく。
ふと、窓枠に置いていた写真立てが視界に映りこんだ。
赤髪の少年が二人、鏡合わせにしたような顔と格好をして写っている。……数年前の兄と自分の姿だ。この頃は、自分でもどちら側にいたか分からないほどに瓜二つだった。顔も、性格も。
『あの事故』が起こるまでは。
俺と兄が六歳になる頃だっただろうか。
ある雨の日、何を思ったのか兄のアルズが庭の木に登り、足を滑らせた。幸い、怪我はなかったものの、頭を強く打ったせいか、一週間ほど意識が混濁するような高熱で寝込んだ。手を握って彼に声をかけたとき、酷く動揺、憔悴した姿をしていたのを覚えている。
しばらくして、容態が落ち着き、歩けるようになった兄は人が変わったようになった。
さらにそれから半年ほど過ぎたある日、兄は姿を消した。
予兆はあったと思う。遊び盛りの子供だったというのに、変に勤勉になり、物価や世界のことを調べ始めたり、魔法について知りたがった。周りに天才児と持て囃されていたが、彼には雑音など耳に入らないようだった。
周りは誘拐だなんだと騒いでいたが、俺は幼いながらに『兄が自ら望んで姿を消した』と確信していた。当時は『あの事故』が何かしらの影響を彼に与えたとしか思えなかった。
その日からもう十年ほどが経つ。
未だに生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。
失踪当時、国内外での情勢が芳しくなく、王家の子供を国民へ顔見せする機会は多くなかった。大小、様々な噂が国民の間で流れていたが、時の流れとともに忘れられた存在となっていった。
だが、思う。俺がいつまでもあのときのことを夢に見る理由は何なのだろうか。単に兄弟だからという理由だけではない気がして仕方がない。
双子の写真に反射する自分の顔を見てため息をついた。