第1話 エリート刑事、如月紫音。警視庁捜査一課の中心で愛を叫ぶ(1)
ただ今、午前8時53分28秒。
僕は出勤でごった返す霞ヶ関の歩道を、全力で走っていた。
僕の名は如月紫音。
かっこいい名前でしょ。名前負け?そんなことないよ。
「紫音はちょっと童顔だけど、黙ってればかっこいいよ」ってよく言われるし。
職業、刑事。
警視庁捜査一課というところに配属されて、もうすぐ一ヶ月ほど。
そして今はどうしても本気で走らなければならない事情があるのだ。
ようやく建物に到着した。
すでに8時55分を過ぎている。
ここからが勝負だ。
昨日はここからの決戦に敗北したのだ。
油断は禁物。
巨大な玄関口をまったくスピードを緩めずに通過。
一気に建物に突入した。
靴を履き替える?
そんなことは後だ。事は一分一秒を争う。
ああっ!
無常にもエレベーターはたくさんの人を乗せて、そのドアを閉じようとしていた。
ギャー!待って!
僕はためらわずに手にした自分の靴をエレベーター向かって投げ込んだ。
「イタッ!」
響く悲鳴。
ざわつくエレベーター内。
その騒ぎにまぎれて、なんとか追いついた僕は、無理やりエレベーターに乗り込んで、ほっと一息ついた。
ん?
なんだかみんなの視線が僕に集中しているように思える。
まあ気のせいだよね。
なかでもちょっと太ったおじさんが、僕の靴を片手に、猛烈な視線でこっちをにらんでいる。
「あ、ありがとうございます。お互い朝の混雑っていやになりますよね」
僕はさわやかな笑顔でおじさんから靴を受け取った。
どうしたんだろう?
おじさんはますます真っ赤になって、僕につかみかからんばかりにプルプル震えている。
「やだなぁ。どこからともなく靴が飛んできて、ぶつかるとかよくあるお話ですよね。朝からついてないこともあれば、このあときっといいことも起こりますよ」
僕の精一杯のフォローも届かなかったらしい。
おじさんは狭いエレベーター内で僕に殴りかかろうとして、周りの人たちにようやく止められていた。
短気はいけないよ。
特に警察というのは、みんなの言うことを聞いて、公平に事件を処理するところだからね。
おじさんを含めて数人が降りて、ちょっと楽になったエレベーター内。
ようやく12階にたどり着くと、僕はまた全力で走り出す。
12階、刑事課のフロアでも、捜査第二係は奥の方にある。
最後まで速度を落とさず全力疾走!
最後は自分のいすに向かってフィニッシュ。
キャスターつきのいすが、キュルキュル音を立てながら、僕ごと壁際まで運んで衝突。
そこでようやくとまった。
と同時に、フロア内にチャイムが鳴り響いた。
ぴったり9時。セーフ!
やっぱり昨日は油断だったんだな。
ほら、ちゃんと気合を入れればこのとおり!
ガッツポーズの僕!
でもその隣で、なぜだか赤い顔をした係長が、僕の胸倉をつかんでいた。
「まさか、チャイム鳴る前に滑り込んだからセーフ!とか思っているんじゃないだろうな?」
え?セーフだよね。
だって、ちゃんと始業前にたどり着いたんだから。
「貴様、係の全員が30分前にはちゃんと席について仕事を始めているというのに、自分だけギリギリに滑り込んできてそれでいいとか思っているのか?なによりテメーはみんなの模範とならなければいけないキャリアなんだぞ」
えーっ?
確かに僕は今年から警視庁に入ったキャリア組だけれど。
でも、それってどんなブラック企業の理屈だよ!
「係長こそそれでいいと本気で思ってるんですか?始業は朝9時からですよね。それなのに30分も前から仕事を強要するなんてありえない。いいですか。従業員に時間外労働を強制することは違法です。言い方を変えれば、犯罪ですよ。何よりも真っ先に犯罪を撲滅すべき警察が、率先して犯罪に手を染めてどうするんですか」
精一杯の僕の抵抗。
「ふざけるな!」
鬼の係長の怒号が部屋中に響く。
「キャリアだからって調子に乗るなよ。てめえはここに修行に来た見習いだ。それも過去最低レベルの出来の悪い見習いだ。俺の言うことが聞けるようになるまで徹底的にしつけてやる」
出た。
理論とか理屈を無視した感情論。
大嫌い。
「いいな、明日からはみんなの模範となるべく一時間前には来い。殊勝な心がけをみせて、全員分のお茶でも用意してみせやがれ」
げんこつ一発と、一時間早出の刑を言い渡されたかわいそうな僕。
おかしい!
間違っている!
声が大きくて、階級が高いだけの係長の言い分が勝つなんて、正義はいったいどこへ?
納得いかないけど、これ以上言い争ったらまた傷が増えるだけだ。
あーあ、えらくなったら絶対復讐してやる。
係長が一番に出勤して、みんなにお茶を入れて回る制度作ってやるぞ。
ちなみに「殊勝」は「しゅしょう」って読んで、けなげで感心な心がけのことを表すんだって。
僕なんて崖の上に咲く一輪のカスミソウレベルでけなげなはずなんだけどな。
読んでいただいてありがとうございます。
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