恐竜転生。
いつの頃からかはもう覚えていない。
何故ならば口に発する言語と言えば「ぎゃあ」だとか「ぐわぁ」なのだ。
僅かに思い返してみれば……
ただいつものように酒を煽り、煎餅布団に倒れ込んだぐらいのものだろう。
特にその日は疲れていたこともあり、食事も早々に済ませて腹が朽ちたあとは酒の勢いも凄かった。
たった1本、肝臓に染み渡らせるだけで正体を無くしてしまったのだ。
冷たい缶が緩やかに温みを帯びて行く最中、天窓に打ち付ける雨音と喧騒乱れるテレビからの音声だけが妙に心地好かった気がする。
季節外れであるが炬燵の布団にくるまり、夢現に私は堕ちていった……。
そして気付けばこの有り様である。
いつもならば傍らに常駐されていた水分補給の為のペットボトルなどは一切見当たらず、替わりに目の当たりにしたのは可愛らしく小首を傾げる爬虫類か。
酷く蜥蜴に酷似していたが確か……幼い頃に図鑑や特別番組。
または博物館などでも目にしたことがあった。
と ── 咄嗟に私は起き上がり、いったい何事なのかと焦る。
「ぎゅあああ?」
……ん?
何か……おかしい。
今聴こえたのは自分の声であろうに、言葉として認識出来なかった。
ちなみに「何だ?」と呟いた筈であろう事は確かである。
じっと手を見る……。
それは昔読んだ事のある小説の一文からではない。
ただ自然に目が向かった先には鋭く尖り延びた爪があり、傍らで不思議そうにしていた生物と同じようでありつつも何処か狂暴さに満ち溢れていたのだ。
……嫌な予感しかない。
先程から辺りの景色を窺いながら、余りにも現実とかけ離れていたのだから。
鏡 ── 鏡よ鏡よ鏡さん。
私は一心不乱に探し求めようとする。
自分の姿を確認せねば、にっちもさっちもいかない。
長い鎌首をもたげつつ、チラリと見えた光輝く水面。
そうだ。
そこならば濁りきった沼でも無い限り鏡の如く己の姿を見ることが出来るであろう。
彼の伝承に名を馳せるナルキッソスではないにしても、これだけは確認しておきたい。
ドスドスと仰々しい足音を響かせて、そんなことにはお構い無しに駆け出し……水面に映る自分を見て思わず固まってしまった。
幼少の頃、憧れていた暴君。
数千年前に滅んでしまった偉大なる恐るべき生物。
口許には鋭くギザギザに尖った歯並びが鮮烈に痛々し気で、目付きは睨み付けるだけで自分自身が身を引いてしまうほどに恐怖で満ち溢れていたのである。
身体などは最たるモノで……最早、疑る余地も無かった。
これはアレだ……今でさえ博物館などで慎重に飾られ展示されている化石などが思い浮かぶ。
恐竜 ── それも最強の座を欲しいままにしていたティーレックス。
即ち、私はティラノザウルスであるという……。
いや。
いやいやいや……。
どう考えてもおかしいだろう。
「……グアウ……」
思わず頭を抱え込み、全く人間には相応しくない溜め息を溢してしまった。
だが、認めたくないものの現実はあまりにも無情で水辺にいた他の生き物達は私を見た瞬間から直ぐ様遠退いていくのだ。
そりゃあ、彼等からすれば脅威的な存在で有ることは間違いないであろう。
当時のことは現在でもはっきりと解析はされていないが肉食獣と草食獣との隔たりは確固たるモノで。
況してや私はその頂上に君臨する最強種。
「ねぇ。仲良くしようよ?」
などと口にしようもそれは決して叶うことは無いであろう。
向こうからしてみれば恫喝や恐喝に過ぎないのだ。
……兎も角、こうなってしまった以上どうにかせねばならないのは必定。
私はこんな世界で生きて行く気力も無ければ、明日に迎えていた大事な資料を整理して会議に臨まねばならぬのだ。
つい口にしてしまった酒の勢いもありはしたが「たった1本で過去に遡ってしまいました」などという理由は絶対に通じない。
それこそ1週間分に至る生活費が一瞬にしてオジャンになってしまう。
何とかして……現実に戻らなければ。
チラリと目にしたこと、か弱き草食獣を無視して空腹を満たすように水をかっこみ、照り付ける陽射しを忌々しげに仰ぎ見る。
徐々に野生としての本能なのか、または食欲には抗えないとでもいうのか。
ついさっき腹に溜めた水分など毛頭足しにもならない。
舌の渇きと共に、もうどうでもよくなってきた。
私は自分自身思いもよらないまでに盛大な轟き声を放つ。
「ぎゅああああああ……おおおおオン!!」
人間であった頃の理性などは皆無に近く、欲していたのは一片の衝動。
全てを狩り尽くし、滅し食べろ。
理性を失った私は片っ端から呑み込み噛み砕いていった。
何が正しいかなどは微塵も感じないし考えたくもない。
たとえ同種であろうとも激しい戦いに勝利して喰らい、一際高い崖っぷちに偉そうに立ち尽くし「俺が最強なのだ」とけたたましく雄叫びを挙げた。
なんと心地好いことか。
いつも狭っ苦しく営業に勤しんでいた日々などとうに忘れ去られよう。
地球上では私に敵うモノなどいない。
さぁて次は何処を……何を征服してやろうか……。
極みから離れ次なる大地へと歩みだした矢先 ── 一度も観ることなど無かった空から一筋の光が降り注いできた。
刹那、私は盛大に転がってしまうがそれは辺りにいたモノ達でさえ、雄大に聳える大樹でさえ儚く散り焔と共に消滅してゆく。
最早一個の怪物と成り果てようとしていた私ではあったが、歴史の一ページが思い起こされてゆく。
確か……流れ星が降り注ぐ中、雄々しき恐竜達は全滅してしまったのではないかという歴史。
私は走る。
こんな……こんな所で終わってなるものか。
これからが最大の魅せ場であったのだ。
「ぎゅわあああああオオオン!!」
絶叫は草木を薙ぎ倒すまでにつんざくらうも、やがて頭上から放り込まれたたった1滴は心の臓までも貫き口から吐き出される朱色は地上を何処までも塗り尽くしていくようで。
それはいつか見た薔薇で満たされた見事な公園を彷彿させており、私は溢れる涙と共に意識を失っていった ──……
「こちら、あの映画や皆様が手にしていらっしゃる教材に記載されております彼の暴君。ティラノザウルスでございます♪」
小さい旗を手にした白塗りが目立つ采配者。
斡旋するチームを率いて要点だけを事細かく解説しているようであった。
「へ~え、こんなに物凄く……強そうな恐竜でも宇宙には勝てなかったんですねぇ」
仄かに漂う馬鹿馬鹿しさがチクッと突き刺さるもサラリと流そうとする辺り歴戦の勇者なのかもしれない。
バスガイドはそんな些細なささくれなど気にせずに、次のコーナーへと先導していった。
だが、結局この現代へと帰ることの出来なかった私としては、甚だ如何ともし難い。
それでもあの当時はこれほどまでに目立ってはいなかった事を鑑みると、そりゃあ嬉しいに尽きるのは当然。
まさかの過去転移。
いや、転生とでもいうべきか。
その先がティラノザウルスであったということに。
私は敬意を表したい。
捨て子などでは無かったのは私としては誠に有り難いことであった。
次は、空の支配者が良いなぁ ──……。
恐竜って格好いいと思うのです。
でも、ナンダカンダでおなじ生き物。
抱えることは同じなんじゃあないですかねぇ。