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淡い金色に染まった木の葉の隙間から柔らかな秋の日差しを感じる午後のテラスで、アフェンドラ公爵令嬢レウィーシアはゆったりと古典詩集を紐解いていた。
色付いた木の葉がくるくると旋回しながら机の上に落ちたのを機に、ティーカップに目線を移したレウィーシアはその形の良い眉を軽くひそめる。
紙のように薄い白磁に青い幾何学模様が美しいティーカップは確かにレウィーシアの気に入りだが、秋も深まりつつある今はお茶が直ぐに冷めてしまうだろう。
後ろに控えている侍女にいま少し厚手で暖かみのある絵柄のカップに取り替えるよう言い付けようとしたが、それより先に渡り廊下からこのテラスに向かって来る背筋をピンと伸ばした白髪頭の大柄な男に気付いた。執事のバスターだ。
何か急な予定でも入ったのかと疑問に思いながらそのまま待っていると、バスターはテラスの入り口で立ち止まり慇懃に頭を下げた
「レウィーシア様、クリナム様がどうしても御姉君と話がしたいと、部屋までお越しをと仰っています」
レウィーシアは思わず首を傾げた。
弟のクリナムとは姉弟といえど正妻の娘と妾の子という関係から、普段は同じ敷地内にあるが別の館に住んでいる事もあり、殆ど交流が無いのだ。それがいきなり呼び立てるとは随分と不躾な話だ。
「用件は何かしら?」
「とにかく御父君か御姉君にお越しいただくようにとだけ」
更に深く頭を下げるバスターを見て、レウィーシアは軽くため息をついて膝の上に置いた詩集を閉じ、立ち上がった。
「お父様はまだあと数日はお帰りにならないのですから、仕方ありませんわね」
侍女にティーセットを片付けるよう言い置いて、バスターと共に弟の住む西館に向かう。
レウィーシアが普段暮らしている公爵家の本館から並木道と馬場を抜け、別館とはいえ公爵家の館らしく美しく清潔に整えられた西館に足を踏み入れると、館は異様な緊張感を醸し出していた。館内は厳重に人払いがされている様だが空気は暗く澱み、弟の部屋から小さく咽び泣くような声まで聞こえる。
バスターが軽く扉を叩くと、嗚咽はぴたりと止まった。
「クリナム様、御姉君がお越しにございます」
そのまま返事も聞かず扉を開き、レウイーシアに部屋に入るよう促してくる。
「ひっ……!!」
弟の部屋に入ったレウィーシアは、懸命に悲鳴を呑み込んだ。
部屋には血塗れで床に座り込む弟と、小柄な少女がその傍らに同じく血塗れで倒れ伏していた。
少女の身体には幾度も刃物で刺されたのか無数の傷跡があり、マールーン産の緻密な紋様の分厚い絨毯は黒い液体が染み込んでふやけて膨らんでいるように見える。壁にも高価な家具にも赤黒い血が飛び散り見るも無惨な状態だ。
「い……いったい……何があったの!?」
バスターがレウィーシアの後から部屋に入り扉を閉めた。
「こちらはクリナム様の御学友のエリアンナ・ルクリア男爵令嬢です」
バスターの全く動揺を感じさせない声にレウィーシアは少し落ち着つきを取り戻し、クリナムにそっと声を掛けた。
「クリナム、一体どうしたというのですか?」
「あ……姉上……彼女が……エリーが……」
部屋の隅にバスターと執事見習いの青年がそっと控えているのを確認し、少し弟との距離を詰めた。
「この娘は私達と同じ王立貴族学院に通う方ね。あなたと仲良くしているのをよく見かけました」
彼女が親しくしていたのは弟だけではなかったようだが。
クリナムはレウィーシアの二つ年下だが、男なのにそこいらの令嬢よりよほど可愛いらしいと冗談混じりに評される綺麗な顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃに歪めて叫んだ
「彼女……彼女が!!ぼ、ぼ、僕がいるのに……!!ず、ずっと僕と一緒にいてくれるって言ってたのにっ……!!……違う!!こんなの嘘だ!!嘘に決まってる……あぁ……そうだよ……そうだよね、僕のエリー……君は僕だけの君、僕は君だけの僕なんだから……」
支離滅裂な言葉は段々と小さくなり、最後は囁くような大きさになっていったが逆に弟の目には狂気の光が増していくようだ。
レウィーシアは思わずギュッと両手を握りしめた。どうやら弟は取り返しのつかない事をしてしまったらしい。領地もろくに持たない末端貴族の娘とはいえ、男爵令嬢を手にかけてしまったのだ……しかも彼女は……
「……君が……君が間違えたのがいけないんだよ……どうして、どうしてクレオーズ様と……」
彼女はこのアフェンドラ家が代々仕えるアレリア王国の王太子クレオーズのお気に入りだったのだ。そして王太子はレウィーシアの……
少女の顔を改めて見ると、真っ直ぐでサラサラとした薄茶の髪は血にべっとりと汚されて小さな卵形の顔に張り付き、大きな菫色の瞳はもはや何も写さず虚ろに天井を見上げている。
その可愛いらしい顔だけが無傷なのは、弟の執着ゆえか。しかしそこに生命の影は見受けられない。
ならば、レウィーシアが決断しなくてはならないだろう。
死体をこのままにしておく訳にはいかない。父親が帰ってくるまで数日はかかるはずだが、それまでこの事を隠し通せるだろうか?そして弟はそれまでどうする?
これからしなくてはいけない事を考えながら、レウィーシアは思わず目眩を覚えた。
「取りあえずお父様にお知らせしなくては……バスター、誰か使いの者を……」
力無く床に座り込んでいたクリナムの肩がビクリと跳ねた。
「あ……あぁ……姉上、姉上っ!!違うんです!!……ぼ、僕は姉上の為にっ!!……そう、姉上の婚約者であるクレオーグ様に近づく不貞な女を、姉上の、いえ、公爵家の為に成敗しただけなんです!!そ、そう、どうか父上にお取り成しを!!」
……どうやら弟は完全に正気を失いつつあるらしい。
切れ者だと評判の父に、そのような戯れ言が通用するはずが無い事もわからなくなっているのか。
確かにレウィーシアは王太子の婚約者だが、その婚約者の弟が王太子のお気に入りの男爵令嬢を殺める、その意味は。
クリナムだけではない、一族もろとも処断されても仕方ない所業だ。
「失礼いたします」
突如、厳重に人払いがされていたはずの廊下から声が響き、古参の侍女が部屋に入ってきた。室内の血塗れの惨劇の跡など目に入っていないかのようにレウィーシアに一礼してから口を開く。
「お嬢様、奥様がお呼びでございます。すぐにおいで下さいませ」
彼女はレウィーシアの母に仕える忠実な侍女だ。クリナムを軽く一瞥し付け加えた。
「陛下が珍しい東極国のお品を下賜して下さったそうです。クリナム殿もご一緒にとの事でございます」
それだけ言うと、侍女は再度礼をしてさっさと出て行ってしまった
レウィーシアが覚えている限り、母がクリナムを呼び立てるなど絶えて無かったはずだ。一体どういった風の吹きわましか、それとも既に母の元に今回の件をご進注に向かった者がいたのか。
弟に目を遣ると、血の繋がりのない公爵夫人の呼び出しに、元々無かった血の気の色が更に失せガクガクと震え、一人で立ち上がる事も出来ないようだ。
気配を消して部屋の隅に控えていた執事見習いの青年がそっと近寄って手を貸して立たせた。風呂に入らせ、着替えさせるのだろう。
これ以上、屋敷の者にもこの事態が広まってはならない。
レウィーシアもバスターに扉を開けさせ、西の館の引き続き人払いを命じ、自分の部屋に戻り着替える事にした。
弟の部屋に居たのはほんの僅かな時間だったが、血の臭いがドレスに染み付いたような気がしたのだ。