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(下)

 帰宅後、俺は慌ただしくリビングを片付けていた。

「今更何をしておるのじゃ、きらは」

 雲は座布団の上に正座し、ズズズ、と湯のみに入ったオレンジジュースをすすった。別に和まないぞ……。あの座布団だって、雲がどうしてもと言うから購入したモノだ。我が家にはテーブルがあるのに。

「お前も少しは手伝えよ!」

「断る」

「何で否定したし!?」

「気を使う仲でもあるまいて。普段通りの振る舞いで良かろう?」

 そうもいかないだろ。彼女の言葉じゃないが、『親しき仲にも礼儀あり』だ。

 ピンポーン、と。間延びしたインターホンの音。

「っ!?」

「む、来よったな」

 俺とは対照に、明るく顔を上げる雲。

「……はい」

 恐る恐るモニターを確認すると、

『やあ明星。さっきぶり』

 疾風だった。

「…………」

『ちょっと明星、カギ閉められたら、お邪魔できないじゃないか』

 不法侵入やめろ、という言葉も出てこない。

「はやてかえー?」

 モニターまで背が届かない雲が、その下から声をかける。

『やあ雲ちゃん。ドアのカギを開けてくれないかな』

「心得た」

 色々フリーズしている俺の代わりに、雲が玄関まで出向く。

「お邪魔します。雲ちゃん、はいお土産。アイス」

「あいす! 知っておるぞ! 色鮮やかな、雪の甘露じゃな!」

「へえ、そんな表現もあるんだね。面白い。――明星は?」

「あそこで放心しておる」

「ああ本当だ。明星、お邪魔したよ」

「……よう」

 リビングにやってきた疾風に、軽く手を上げる。

「そんな間抜けな顔もできたんだね。羨ましい」

「何言ってんだお前……」

「ツッコミのキレが皆無……。明星、大丈夫? 慣れない神奈川で疲れちゃった?」

「判断基準がツッコミっておかしいだろ……」

「明星の心情はよく分からないけど、そんなに嫌なのかい? だったら断れば――」

「嫌なんて言ってないだろ」

「じゃあ?」

「……緊張してるだけだ」

「やれやれ。明星もだねえ」

 疾風が肩をすくめた時、ピンポーン、と。二度目のインターホン。

「ほら、今度は出てあげなよ」

「……分かったよ」

 俺は玄関に行き、ドアを開ける。

「――あ、あのっ、これ、差し入れで……。ほほほ本日は不束者ですがよろしくお願いします!」

 そこにいたのは、九十度腰を折り、何かが入ったタッパーを差し出す東風さん。

「ま、どっちもどっちだね。――あと東風、それは婚約の挨拶だよ」

「…………はぅっ」

 コイツはまた余計な事を……。東風さん真っ赤だぞ。

「ま、まあとにかく上がってよ」

「う、うん。お邪魔します」

 一度帰宅し、私服に着替えた東風さん。見るのは二度目だが、あの時はまだ“他人”だったし実質初めてか……。膝丈の、花柄のワンピース。シンプルだが、よく似合っていて可愛い。

「差し入れありがとな。――お、肉じゃがか」

「うん、大したものじゃないけど……」

「いやいや、ありがたいよ」

「そう、それならよかった」

 そういえばカナさんは、と言おうとした瞬間、

「――バッサー!」

 突如、東風さんのスカートが豪快にめくれ上がった。

「へ?」

 反応できなかった俺の目の前で、ピンクの布地がこんにちは。

「あっ…………!?」

 ようやく東風さんがスカートを抑えたのは、すでに自由落下を始めた頃。簡潔に言って、手遅れでした。

「人を無視して立ち話とは何事だ!」

 当然犯人は、このご立腹ポニーテールであり……。

「だからって、いきなりスカートめくりはどうなんだよ……」

「嬉しくなかったのん?」

「…………」

「九十八君……? 見ちゃったよね……?」

「ヘイヘイきらっち〜?」

 答えてなるものか……!





 一時間ほど前にカナさんが出した提案は、『九十八家に泊まればいい』だった。一度も訪れた事がなく、両親不在で気心知れた二人だけなので落ち着ける。アタシ天才じゃん! と。

 筋は通っているが、理にかなっていない……。

 だが東風さんもやはり独りは嫌なのか、迷った末に頷いた。雲は大賛成だったし、俺もまあ……反対する理由も無いからな。こうして、東風さんのお泊まりが決まったのだった。

 ――で、何故カナさんや疾風が我が家にいるのかと言えば、

「どーせひよがご飯作っちゃうんだし、食べないともったいないでしょ!」

 と、

「面白そうだから」

 という二つの理由によるものである。

 元々は東風さんが寂しくないようにと始まった企画だ。賑やかな方が彼女も喜ぶだろう。



 全員が揃うと、早速調理開始。

 当たり前のように持参したエプロンを装着する東風さんを、一応止めてみる。

「客人なんだし、ゆっくりしてていいんだぞ?」

 しかし案の定、東風さんは否定。

「お世話になるのに、座ってるだけなんてできないよ。手伝わせて下さい」

「……了解」

 まあこうなるよな。真面目な性格だし。

「メニューは決まってるの?」

「ああ、カレーにしようと思う」

 簡単だし、大人数にピッタリだ。一応得意料理だし。

 神奈川に来てからは作っていないから、雲も初めてなんじゃないだろうか。

「ルー使うの?」

「えっ……そうだけど……」

 何その『普段は使わないよ』的な発言は……。発想が次元一つ違う気がする。得意料理の概念が崩れてしまった。

「じゃあ私は、食材のカットをしようかな」

「よ、よろしく」

 ちなみにカナさん達は、リビングでテレビを見ている。どうやら手伝ってはくれないようだ。

「ん? どしたのきらっち。手伝って欲しかったの?」

「ああまあ、できれば人手は多い方が助かるし」

「もー仕方ないなあ。言っとくけどアタシ、家事できないからね?」

 ドヤッ、と放たれた言葉。

「何故今の流れでそのセリフになるんだ……」

「あ、九十八君、カナは本当に家事……特に料理は苦手だから……」

 冷蔵庫から食材を出した東風さんが、苦笑いで教えてくれる。

「じゃあやっぱいいや。座ってて」

「むむ……。ちょっと悔しい」

 とか言いつつ、リビングへ戻るカナさん。……カナさんの気まぐれっぷりは凄まじいな。

「……さて」

 俺も始めないとな。まずは鍋で水を沸騰させないと。東風さんがカットを終える前に、準備を済ませないと――

「一通り終わったよ。次は何をすればいい?」

「早っ!」

 振り返ると、ニンジンタマネギジャガイモ。均一にカットが終わっていた。

 え、もう!? こっちはまだ鍋を掴んだ段階なんですが!

「あ、じゃあ切ったの炒めるね」

「お願いします……」

 これ、もう俺いらないんじゃないか?

 鍋に水を入れながら、食材に火を通す東風さんの後ろ姿を眺める。手際がいいのは勿論だが、

「〜♪」

 何より楽しそうだ。半ば致し方なく自炊を始めた俺と違い、料理そのものを楽しんでいる様子が伝わってくる。ララさんに東風さん。本気で上手くなるためには、まずは楽しむ心が必要なのかもしれないな。

 ……とか何とかカッコいい言ってみたが、慣れないキッチンでの東風さんの動きが素晴らしすぎて、もはや俺は役立たずだった。



「――いっただっきまーす!」

 八割が東風さん作のカレーと差し入れの肉じゃがを食卓に並べ、俺たちは手を合わせる。

 ……俺? 煮込んだよ。あとサラダ作った。絶品オリジナルドレッシングを作られたけど。

「……うん! やっぱりひよのカレーは美味しいね!」

「ありがとう、カナ。……でも、市販のルーだったからあまり目標の味はできなかったな……。またリベンジするね」

 ぐぅ……。これで満足できないとは……。次の機会までに、スパイスくらいは揃えておこう……。

「ひより、おかわりじゃ」

 相変わらずの早さと言うべきか、雲が空になったお皿を差し出した。

「こんな時くらい、自分で行ってこい、雲」

「わしの背丈では届かんのじゃ!」

「あ……何かごめん」

 ワナワナと炊飯器の台を睨む雲。結構低身長を気にしているらしい。

「大丈夫だよ、任せて」

 快く引き受けてくれた東風さんは、お皿を受け取り立ち上がる。

「あ、ひよついでにアタシのもお願〜い」

 すると、同じく颯爽と食べ終えたカナさんがお皿を持ち上げた。

「カナは自分で届くでしょ……」

「いいじゃん、ついでだよ」

 ニシシ、と笑うカナさんに、

「もう……」

 東風さんも反論は無意味と悟ったのだろう。大人しくお皿を受け取った。

 そこで俺は、残りのカレーをかき込んで立ち上がった。

「俺もおかわり。一緒に行くよ」

「九十八君……? ――ありがとう」

 さり気ないつもりが、一瞬で理解された。俺も疾風みたいなポーカーフェイスがあればな……。もっと自然にフォローできるのに。

 おかわりをよそって、食卓に戻る。さっきはかき込んでしまったが、今度は味わって食べる。

 ……うん、美味しい。東風さんが言った通り、市販のルーだから誰でも同じ味ができるはずなのに何かが違う。まろやか……? 特別な事をしていた様子は無かったが、何故か箸……じゃなかったスプーンが止まらない。隠し味……? いや、ここまで変わるものか?

 俺が悩んでいると、向かいからカナさんがケラケラ笑った。

「きらっち、考えてるね〜。ムダだよ? ひよの味は、アタシ個人七不思議の一つだからね〜」

 随分狭い七不思議だ事で。

「ちなみに残りは?」

「ひよの優しさ成分の出処。ひよの怖くないお説教。ひよの運動音痴のくせに掃除が機敏。ひよの――」

「か、カナ……」

 東風さんばっかりじゃん。

「あとは、ひよの謎巨乳!」

 それは俺も気になる。ってじゃなくて!

「結局、分からないんだな」

「だったら本人に訊いてみればいいじゃん。反応が予想できるけど」

 む、それもそうだ。あれこれ考えるより、訊いた方が早い。

「どうなんだ? 東風さん」

 上手い事美味しさの秘密が聞き出せれば、俺でも再現できるかもしれん。そうすれば、きっと雲も満足してくれるだろう。

 と思っていたら、

「えっと……私にもよく分からないの……。特別何かを入れたわけでもないし……隠し味とかも……」

 残念ながら返事は芳しくなかった。

「ほーらね。アタシも前に同じ質問した事あるもん」

「あ、強いて言うなら……」

「言うなら?」

「お、美味しくなれって気持ちと愛情を込めてる……よ?」

 おおぅ……。それは反則だわ……。

「ま、だから言ったじゃん? 七不思議だって」

 全くもって、その通りだ。





 その後、皆で食後のデザートでアイスを食べ終わると、

「――んじゃ、邪魔者は退散するかね〜」

「お邪魔したよ」

 カナさんと疾風は帰宅、

「あ、一つ忠告」

「ああそうだ東風」

 しなかった。揃ってわざわざ向き直り、東風さんを見る。

「きらっち襲ったら、ダメだかんね?」

「明星のチキンハートっぷりは理解してるけど、我慢するんだよ?」

「大丈夫だよ! 何もしないから!」

 からかわれただけだと分かってはいるだろうが、反応しない訳にはいかなかった東風さん。ったく……変に意識させやがって……。

「「良い夜を」」

 ハモった。絶対楽しんでやがる……。

 ドアの向こうに消えた背中二つを脱力しながら見送り、リビングに戻る。

「カナったら……」

 東風さん、若干顔が赤い気がする。う、これは気にしたら負けだな……。

「しかし……かなもはやても、わしらに何もさせようというのじゃ? 夜など眠るだけではないか」

 夜がメチャクチャ早い座敷童は首を傾げる。

「お前は寝るのが早すぎるんだよ。いつも道連れで連れて行きやがって……」

「わしは風呂に入る」

「もういいよお前……」

 相手するのも疲れたわ……。

「ひより、共に入ろうぞ」

「うん、いいよ」

 快く頷いた東風さんはしかし、キッチンに視線を向けた。そこには、食べ終わった食器が水に浸けられて放置されている。

「先に洗い物片付けてからでもいい?」

「ダメだ」

「えっ?」

 東風さんの案を、俺は即座に却下する。

「洗い物は俺がやる。東風さんは、ゆっくりしてくれ」

「でも……」

「東風さんは客人なんだからさ。少しくらいもてなさせてくれよ」

「九十八君……ありがとう」

 東風さんは働きすぎなんだよな……。気持ちは分かるが、こっちが申し訳なくなってしまう。逆の意味で遠慮をして欲しい。

「じゃあ……お先にいただきます」

 そう言って一礼すると、着替えとバスタオルを抱えて脱衣所に消えた。もちろん雲も一緒だ。閉まったドアの向こうで、おかしな会話が繰り広げられる。

「あれ雲さん、着替えは?」

「きらが持っておる」

「持ってるって……?」

 これはマズい。あらぬ誤解を招く。

「おい雲。着替えはタンスに入ってるって言っただろ。自分で取って来い」

 ドア越しに呆れ声を飛ばす。すると、

「む、心得た。今宵の寝間着は、わしが選ぶとしよう」

「あっ……雲さん――」

 勢いよく開かれる脱衣所のドア。そこに立つは、パンツのみの座敷童。

「せめて脱ぐ前に開けてくれませんかねぇ!?」

「きらのたいみんぐが悪い故じゃぞ」

 ぐぬ、否定できない……。

 とりあえず凝視して変態だと思われたくないので、視線を前にそらす。

「…………」

「…………」

 東風さんと目が合った。中途半端に右腕を伸ばした、下着姿の。ブラは水色かー。

「…………ふえ?」

「すんませんしたっ!」

 東風さんが何か反応する前に、即行で頭を下げてドアを閉めた。もしこんな住宅街で悲鳴なんか上げられたら、明日から近所を歩けなくなってしまう。……それにほら、不可抗力だったし?

「扉に向こうて謝るとは。きらは奇行が目立つの」

「お前に奇行とか言われたくないぞ……。てか、こっち来ちゃったのかよ」

 パンツ一丁の雲は、俺の横で呆れ顔を見せた。相変わらず、隠そうとは一切しない。

「寝間着と言うたのは、きらでないか。わしは悪うないぞ」

「あーはいはい。そうだなそうだな」

「むう……」

 頬をプクーっと膨らませてこちらを睨む雲。どうやらご機嫌斜めみたいだが、むしろ微笑ましいな。

「九十八君……? 雲さん……? どうしたの?」

 脱いでしまったがために、ドアを開ける事もできない東風さんが困惑気味な声を飛ばす。

 おっとそうだった。コイツのパジャマを取ってこないと。

「東風さん、すぐ戻るから先に入ってていいよ。多分一分で雲も行くから。――あとさっきはホントごめん」

「う、うん。私も気にしてないから……。――分かった。じゃあここで待ってるね」

 頷きかけて気付く。会話繋がってないぞ。これは急がねば。



 急いで二階の雲の部屋――と言っても、寝る時は俺の部屋に来るし洋服は一人で着られないので、実質物置――に入ると、タンスから適当なパジャマを物色する。どうせ寝るだけだし、明日は土曜日だから何でもいいんだよな。

 ボタンだと東風さんが苦労するだろうと思い、俺のTシャツを掴んで立ち上がった。

 脱衣所の前まで行くと、

「ふむ、おおよそ三十びょーじゃな」

 腕組みでお出迎え。

「何でそんなに偉そうなんだよ」

 倍以上の疲労感を感じながら、パジャマを手渡すと入ってこいと促す。

「うむ、ひより、待たせたの!」

 完全に油断していた。再び勢いよく開けられたドアの向こうで、

「…………へ?」

 ぼんやり立っていた東風さんの下着姿を、バッチリ拝見してしまった。

「み、見ちゃダメ!」

 今度は謝罪する暇もなく、東風さんは反射的に近くにあったタオルか何かをぶん投げた。

「ごめんなさぶっ……」

 それを頭から被り、俺は視界真っ暗なままドアを閉めた。

「……てか何だこれ?」

 タオルじゃなくて、……服? 花柄のワンピースだ。――って、これ、

「――それ返して!」

 よほど慌てていたのか、ドアを開けてワンピースを回収する東風さん。三度目の下着姿。

「お、お風呂いただくね!」

 耳まで真っ赤な彼女は、無理矢理作った笑顔でそう告げた。それからドアを閉めた。

「…………」

 素晴らしいモノを三度も見てしまった俺は、しばらくフリーズ。

「……皿洗おう」

 この記憶を留めておくのは申し訳なさすぎる。無心になって、消去しようそうしよう。



 皿洗いを済ませ、ノンビリテレビを観ていると、

「今宵も良い湯じゃった」

 雲が出てきた。お、ちゃんと服着てる。まだ乾いていない長すぎる髪も、措置として結い上げられている。流石は東風さん。

「って、東風さんは?」

「すぐ来るぞい」

 そう言って雲は冷蔵庫へ向かってしまった。だが、一分ほどしても東風さんは出てこない。

「東風さん? 大丈夫か?」

 ちょっと心配になって、ドアに声をかける。

「あ……九十八君……」

 返ってきたのは、酷く弱々しい声。

「ど、どうしたんだ? 開けて平気か?」

「うん……平気」

 許可も貰えたので、慌ててドアを開ける。そこにいたのは、

「雲さんって、江戸っ子だね……」

 全身から湯気でも出そうな状態で壁にもたれかかる東風さんだった。

「あー……」

 そういえば、雲は熱風呂好きなんだった。“江戸っ子”という表現も、的を射すぎていて怖くなる。

「動けるか?」

「な、何とか……」

 フラフラと立ち上がった東風さん。リビングに向かうと、そのままイスに崩れ落ちた。

とりあえず濡らしたタオルと、氷水を持っていく。

「あ……ありがとう……」

 こんなになるまで入らなくてもよかったのに……。長風呂する雲に付き合ったのだろう。お人好しな性格だよホント……。

 東風さんのパジャマは、ボタンでとめるタイプのモノだ。火照った身体を冷ますための無意識だろうが、胸元がはだけていて、目のやり場に困る。それなら今すぐ風呂に入ればいいのだが、こんな状態の東風さんを雲だけに任せるのは少し不安だ。煩悩に負けたワケじゃないぞ決して。



 その後俺も入浴を済ませ、時刻は九時過ぎだが他にする事も無いので就寝準備。

「ふわぁ〜むにゅ……」

 すでに睡魔に屈しつつある座敷童と、ようやく湯あたりから回復した東風さんと二階に上がる。

「東風さんの布団はここに敷いたから」

 と、俺は雲の部屋を示す。

 そもそもが仮住居みたいな我が家は、客人用の布団なんて常備していない。雲のために買った布団が、二枚セットで本当に良かった。

「ありがとう、九十八君」

 東風さんが、深々と頭を下げる。これは恐らく、今までをまとめたお礼なのだろう。流すのは簡単だしその方が楽ではあるが、彼女の気持ちを考えると軽くあしらうのは申し訳ない。

「友達同士、持ちつ持たれつって事でさ。また困ったら、いつでも頼ってよ」

「――うんっ。ありがとう」

 嬉しそうな返事。どうやらこちらの真意も伝わったようだ。

「じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ」

 最後に挨拶を交わすと、俺は自室へ向かった。

「――ん?」

 のだが、ふと服に抵抗を感じた。見ると、

「何処へ行くというのじゃ、きら……」

 寝ぼけたように、俺の服を掴む雲。

「いや、自分の部屋だよ。もう寝るんだから」

「何を言う……。ここに布団があるではないか」

 何か不機嫌になった。いやいやちょっと待て。

「今日は東風さんと寝ろ。一人じゃないしいいだろ?」

「“今日は”って……?」

「ごめん東風さん。そこはスルーしてくれ」

 そこまで対応できない。この辺の言い訳は、後々疾風にでも考えてもらおう。

「わしは眠い。そこに布団がある。ならば寝る。良かろう?」

「いや何だよその三段活用! 全然理由になってないし!」

「……寝る」

「うおぃ! 引っ張るな!」

 九割夢の世界へ旅立ってしまった雲は、俺の抗議などどこ吹く風。俺の裾を掴んだまま、部屋の中の布団へ一直線。

 大体、布団は二つしかないんだぞ!? 三人は無理だろ! それに東風さんが許諾するハズが……。

「く、雲さんはもう寝ちゃってるようなものだし、これはもう仕方ないんじゃないかな? 今だけの特別で、私も眠いし不可効力で最善策だよ!」

 ちょっと乗り気!? しかも言動が不安定すぎるぞ!?

「おやすみじゃ……」

「お、おおおおおおやすみ九十八君!」

 二つの布団をくっつけ、雲と東風さんは横になってしまった。

「…………」

 退避しようにも、雲は未だに裾を掴んだままだ。この手を離すのは簡単だが、ここまで握り締めるのは行くなという意思表示だろう。

「やれやれ……」

 なので、俺も諦めて雲の隣、布団の端に横たわった。できるだけ距離を空けたが、せいぜい十五センチ程度だ。まさか川の字になって寝る事になるとは……。

 こんな状態で寝られるか分からんが、とにかく寝よう。目を閉じるだけでも、違うだろうから。





 一時間半ほど経過しただろうか。

「…………」

 やはり寝られなかった。

 雲は即行で熟睡。気持ち良さそうな寝息が聞こえている。東風さんも、どうやら寝付けたみたいだ。寝たフリの可能性も否定できないが、人間は就寝中、呼吸がゆっくりになると聞いた事がある。東風さんの呼吸も、それだ。

「……ま、いいか」

 東風さんが休めているなら、それで御の字だ。俺は最悪、一日くらい徹夜しても問題ない。

「良かった良かった――ごふぅっ!?」

 突如、腹部を謎の衝撃が襲った。

 割と冗談抜きで身体がくの字に折れ曲がり、カレーが逆流するかと思った。

 何事かと視線を下ろすと、

「ふみゅ……」

 座敷童の踵がめり込んでいた。さらに、

「みゅふふ……」

 ゴロリと寝返りをうって器用に俺の上に乗っかってきた。

 どんな楽しい夢を見ているのやら、幸せそうな寝顔が目の前にある。大変微笑ましいが、流石に人一人分は重い。不安定だし、髪の毛がくすぐったい。あと微妙に色々柔らかい。

 と思っていたら、乗り越えて反対側に転がった。ちゃっかり俺の掛け布団を巻き込んで持っていく辺り、実は起きているんじゃないかコイツ。

「まったく……」

 ちっとも良くないが、踵落としの被害者が東風さんじゃなくて俺で良かった。

 転がった拍子に布団から出てしまった雲を、少し持ち上げて俺が寝ていた場所にズラす。こういう時、コイツ軽いから楽だな。

 雲が転がったので、入れ替わって俺が真ん中に。踵落としで微かな眠気も吹き飛んでしまったが、東風さんを起こしてしまいそうで迂闊に動けない。

 そういえば、今のゴタゴタで東風さんは起きてないかと彼女を見やると、

「…………」

 反対側を向いているが、呼吸に乱れは無い。

「東風さんは結構眠り深いんだな」

 ――と思ったのもつかの間。

 いきなり東風さんが寝返りをうった。顔を見ると、半開きではあるが目が開いている。

「ごめん東風さん、起こしちゃったか? ちょっと雲の寝相が悪くて――東風さん?」

 そこまで謝ってから、彼女の様子がおかしい事に気付く。

「…………」

 目は開いているのに、正面の俺を見ているワケではないようだ。それに、妙に据わっている。少し怖い。

「…………」

 むくりと身体を起こした東風さんは、どう対応していいか分からない俺に視線を向ける。

「……ねえ」

「は、はい」

 思わず敬語になってしまった。

「きらくんはぁ、私の事どう思ってるのぉ?」

「は、はい?」

 ペタッと座ったまま、若干怪しい呂律で喋ってくる。

「大して可愛くもないし、ドン臭いし、ノロマな私がぁ、どーしてきらくんなんかといられるのー?」

 いきなりどうしたんだ? 東風さんって、こんな事訊いてくる性格だったか?

「どう、って……。友……達?」

「カナと一緒にいるだけでー、私には何の取り柄も無いのにぃ」

「いや、俺だって環境がアレなだけで、どこにでもいる高校生だぞ?」

「友達も少ないし、雲さんみたいに人気者でもないしー」

 ――と、ようやく分かった。……これ、東風さんの寝言だ。どうりで会話が成立しないと思った。

 つまり、これが東風さんの本音という事か。

「私の武器なんてぇ、この胸くらいだしぃ……」

 唐突に、パジャマのボタンを外し始める東風さん。

 へいストップ。話が変な方向に向かい出したよー?

「ちょちょちょい! 何してんの!?」

 幸いにもボタンは二つ目で止まったのだが、それでも真っ白い豊満な柔肌と少しだけ露出したピンクの下着が、暗闇の中で存在感を放っている。

「カナのゆー通り、自分の武器はゆーこー活用しないとぉ」

「いやちょっと落ち着けって! 東風さんの武器は他にもあるから!」

「……例えば?」

「えーっと、料理がマジで上手い!」

「お弁当くらいしか生かせないもぉん……」

 それじゃ満足できないのだろうか。

「んふふ〜……逃がさないよぉ、きらくぅん……」

 四つん這いのまま、ジリジリと距離を詰めてくる東風さん。後ずさりしかけた俺だが、すぐ背後には気持ち良さそうな座敷童が。

 退路を断たれた俺へ、

「えいっ」

 東風さんは飛び付いてきた。

「んゅふふふ〜……」

 ひいぃぃぃぃぃっ!

 抱き付かれた拍子に揃って倒れ込み、俺は抱き枕状態。その首筋に艶やかな微笑み声をぶつけられ、俺の中の何かが削られていく感覚が。

 雲では考えられないフニフニ具合と、女の子特有の優しい香り、全身に伝わる体温の温もりというトリプルコンボが俺を襲う。

「ちょ、東風さん離れて――」

「ずっと、きらくんの隣に…………すぅ」

「…………」

 俺は東風さんを引き剥がすのを諦め、寝ながらハンズアップ。

 東風さんの心配は、正直杞憂だ。少なくとも俺は、東風さんをおまけのように扱っているつもりは全くない。だが俺たちがいくら口でそう言っても、心に生まれた不安は簡単には消えないモノだ。真面目で優しい性格だと、なおさら。

「一緒に……いたいな」

 聞きようによっては、不安げにも取れる寝言。今後俺がする事は、今まで以上に仲良くして、距離を縮める事だ。そんな不安なんて、吹っ飛んでしまうくらいに。そのために……何から始めようか。



 ……ところで東風さん、寝言含め寝相メチャクチャ悪いんだな……。

 こっちとしては東風さんの本心が聞けて収穫だったが、当の本人は絶対に聞かれたくない部分だろう。

 願わくば、彼女が今の出来事を覚えていませんように。





 翌日、鼻っ面に衝撃を受けて目が覚めた。……数時間前にも同じような体験した気がするんだが、気のせいか?

 目を開けなくても分かる。どうせ雲だ。

 裏拳された細い腕をどかし、それから寝てしまった事に気付く。やれやれ。やはり人間、睡眠欲には勝てないようだ。

 ……で、未だに俺は抱き枕なワケですか。安らかな寝顔。変な体勢で、疲れたりしないのかな……。

「――ん……」

 と思っていたら、目覚めたようだ。

「…………へ?」

「……お、おはよう」

 至近距離で、バッチリ目が合った。

 シュバッ、と離れた彼女は、

「な、ななななな何で隣に九十八君が!?」

 朝一番で顔真っ赤。

「あー……覚えてない感じ?」

「覚えてないって……何が? ――もしかして私、物凄く失礼な事をしたんじゃ……!」

「覚えてないならいいんだ。気にしないで」

「えええ? 気になるよぉ……」

教えてどういう反応をするのか見たい気もするが、可哀想だしやめておこう。ユデダコ待ったなしだ。

俺は立ち上がり、ドアを開ける。

「さ、ご飯にしよう。――日和さん」

「う、うん。――あれ? い、今、名前で……?」





 一階に降りて、朝食の準備をする。カレーが余っているから、それと目玉焼きにしよう。

「ね、ねえ、九十八君?」

「何だ? 日和さん」

「! やっぱり……。どうして、急に名前で呼んでくれるの?」

「あー……嫌だった?」

「そ、そんな! 私としては、むしろ嬉しいくらいだけど……。いきなりだったから、ちょっとビックリしちゃった……」

 これは、彼女との距離を縮める作戦の一つだ。少し恥ずかしいしまだ慣れないが、ナイスアイデアではないかと思っている。

 ……とは本人には言えないので、

「ほら、お泊まりするほどの間柄なんだしさ。もう少し友達らしい事をしてもいいんじゃないか、とさ」

 これは昨晩から考えていた言い訳だ。中々それっぽいだろう? 夢の中では、名前で呼んでるっぽいし。

「九十八君……」

「だからその……日和さんも、苗字じゃなくてもいいんだぞ? いや無理にとは言わないけど!」

 案の定、日和さんは首を横に振る。

「ううん……嬉しい。――えっと…………き、きりゃ君っ」

 噛んだ。

「……あぅ……」

 ま、彼女らしいな。

「と、ところで明星君、雲さんは? 起こさなくてよかったの?」

「ああ、雲なら心配いらない」

 俺は目玉焼きを皿に移し、そう答える。それからカレーを温めなおした所で、

「良い匂いじゃの……」

 匂いに釣られて座敷童起床。

「……な?」

「あはは……」

 コイツの行動パターンは大体把握した。……まあ、残りの把握できていない部分で、騒動を引き起こすんだけどな。



「いただきます」

 全員寝巻きのまま、食卓で手を合わせる。

 俺や雲はいつも通りだが、日和さんはどうなのだろう。何となく、ピシッと着替えてから食べていそうな印象がある。

「うーんでも、お弁当作ったりするから、あんまり時間無くて。冷めちゃうし……」

 なるほど。結果が同じでも、理由が違うのか。俺たちの“着替えるのが面倒だから”という理由とは違うんだな……。

「んむ? ひより、それは何じゃ?」

 雲が指さしたのは、日和さんが目玉焼きにかけている、

「ソースだよ?」

「それを何故、えーぐに乗せておる?」

「え、えーぐ?」

「“エッグ”な。目玉焼きの事だよ」

「な、なるほど……」

 ためになる雑学を知った時のような、神妙な表情で頷く日和さん。まあ慣れないと、雲の外来語解読は大変なんだよな。

「“どうして”って言われても、私はソース派だから……」

「何じゃと!? 醤油こそ至高の調味料じゃて!」

 変な所に食いつく雲。でも気持ちは分かる。同感はできないが共感はできる。

「おい雲。目玉焼きといったら塩胡椒だろ。何にでも合う万能調味料だぞ?」

「ソースだって美味しいよ? 濃いめの味に程よい酸味。淡白な卵にはピッタリだよ」

 珍しく日和さんも譲らない。

三人がそれぞれ睨みを利かせていると、

「…………ふっ。下らんのう」

 雲が小さく吹き出した。

「ふふっ、ホントだね。凄く、どうでもいい」

「……だな」

 三人揃って笑いを漏らしながら、俺は日和さんを見やる。ほら、杞憂だ。だって今、こんなにも楽しいのだから。



「ところで、今日はどうするの?」

 朝食を終え、今度は一緒に皿洗いをしている日和さんが訊いてきた。

「ん〜……どうしよっか。――ご両親は?」

「夕方には帰ってくるみたいだけど……」

 となると、日中は空くという事か。

 今日は土曜日。学校は無いし、部活が無ければ特に予定も無いのが高校生だ。

「カナさんは?」

「今日はミラクルエイジでバイトだって」

「そっかー。疾風も何か用事があるとか言ってたな」

 二人はいない。とは言っても、このまま家に篭っているのも勿体無い。天気もいいし。どうせだからミラクルエイジに冷やかしに行ってもいいが……迂闊な事言ったら、カナさんにフォークとか投げられそう。

「あ、じゃあ……買い物とか、どう……? あんまりお金無いから、ウインドウショッピングになっちゃうかもだけど……」

 ふむ買い物か。どうしても買いたいモノは無いが、雲の服とか雑貨とか、できれば欲しいモノはある。

「いいんじゃないか? そうしよう」

「ホント? やったっ!」

 嬉しそうな日和さん。休日の過ごし方が買い物って、やっぱり女の子っぽいな。

「聞いたか雲。買い物行くから、着替えとか準備しとけよ」

 リビングで悠々とヨーグルトを食す雲に声をかける。この野郎……洗い物増やすなよ。

「今はひよりがいる故な。焦らんでも良かろ」

「変に日和さん頼るのやめろよな……。客人なんだから、負担増やすなよ」

「あ、私なら大丈夫だよ。雲さん面白いし、むしろ明星君の負担を減らさないと」

 こんな事を言ってくれるのは日和さんだけだ……。優しさが心に染み渡る。

 日和さんに気を取られていたせいで、

「……ふん。途端に名呼びとは、仲良いのう」

雲が一瞬不機嫌になった事に、俺は気付かなかった。



 雲の着替えを日和さんに任せ、俺も自室で寝巻きから着替える。まあ脱いで着るだけだから、そこまで苦労はしない。

 一階に下りると、

「わあ……やっぱり凄いね……」

 パジャマのまま、雲の髪を梳かす日和さんが。

「サラサラでクセも無いし、こんなに長いのに枝毛も無いなんて……。羨ましすぎるよ……」

 じゃあそれ、梳かす必要ないんじゃ……?

「きら……ひよりが離してくれんのじゃ……」

 拘束されていたのかお前。

「日和さーん、ほどほどにな?」

「大丈夫! 今この瞬間で、充分堪能するから!」

 いや、そのセリフ……怪しすぎるぞ。

「きらぁ……」

 こちらに助けを求めるように視線を送る雲に、肩をすくめてみせる。

「ま、たまにはいいだろ。日和さん楽しそうだし、仲良くやれよ」

 夕方まで、時間はあるんだからな。

「か、髪質が真っ直ぐすぎて三つ編みにできない……。こんな事があるなんて……。ここは素直にツインテールに……いや、思い切ってお団子にしてもいいかも……」

 ブツブツと呟く日和さんは、若干怖い。雲が怯えるのも少し分かる。

「――よしっ!」

 結局、一度束ねた毛先を後頭部で結い上げるという髪型に落ち着いた。

「むう……頭の後ろが軽いのう。落ち着かん」

「でも可愛いよ! 似合ってる!」

「おお、何か新鮮だな」

 うなじが見える雲は、かなり大人っぽく感じる。

「いいなぁ。私も髪、伸ばしてみようかな……」

 日和さんは自分の髪を撫でる。日和さんの髪は、肩に触れる程度。ヘアアレンジは難しいだろうな。

「まあ日和さんの場合、あの髪留めがかなりのアクセントになってると思うけどな」

「あ、あれは、カナがプレゼントしてくれた物なの。小学校の卒業記念、って言って。だから、外に出掛ける時は必ず着けるようにしてるの」

 へえ。プレゼントするカナさんも、それを使い続ける日和さんも、お互いの友情があるからできるんだよな。俺と疾風はそこまでやったりしないから、正直羨ましい。だからあんな事されても、許せ……るのかな?

「さ、じゃあ着替えて来なよ」

 友情こもったいい話だったが、このままじゃ出発できない。俺が二人を促すと、キョトンとした顔を返された。

「着替える……? ――あっ。……私、パジャマだった……」

 オイオイ、気付いてなかったのか。おっちょこちょいだなぁ。

「雲さん、着替えてこよ?」

「何処に行くというのじゃ?」

 雲はそのまま、パジャマを脱ぎ捨てた。髪を結い上げてあるから、脱ぎやすいのだろう。上裸の座敷童、爆誕。

「――ってじゃなくて!」

 今日は大丈夫だと思ったら、ここで来たか……!

「雲さん!? ここで着替えちゃダメでしょ!」

「何故じゃ?」

「なにゆえって……明星君の前だよ!?」

「じゃからどうした。家主に遠慮なんぞ、無用じゃて」

「いや必要だろ!」

 主に食費とか羞恥とか恩義とか!

「最低限の遠慮はしないとダメなの! いくら兄妹で、雲さんが小さいからって――」

「小さいじゃと? ――この乳持ちに言われとうないわっ」

「あぅっ……」

 何の逆鱗に触れたのか、雲が日和さんの胸をパンチ。……ポヨンポヨン揺れるなぁ……。

「ごめん雲さん、怒らないで……。――とにかく、雲さんも女の子である以上、明星君や小鳥遊君の前で服を脱いだらダメだよっ」

 日和さんの説得が響いたのか、

「むう……ひよりがそこまで言うのであれば、わしは従うとするかの……。以後、気を付けるぞい」

 雲は不満ながらも、頷いた。

「うん、よろしいっ。――じゃあ私も、早く着替えないと……」

そして何故か、その場でパジャマのボタンを外し始める日和さん。――え、何してんの!?

「ひより……そちは何をしておる」

「へ? 何って、着替えを……はっ」

 日和さんは俺の存在を思い出したのか、

「き、ききききき明星君は出てって――――っ!」

 俺は物凄い勢いでリビングの外に押し出された。……解せぬ。



 二人が着替え終わった後、お互いに謝罪をしてから外に出た。

 時刻は十時前だ。高く昇り始めた太陽が眩しい。

 とりあえず、行くべきはショッピングモール。この周辺では、大体のモノはそこで揃う。下手にコンビニ行くより、色々お得だったりする。コンビニは値段高いし。

「雲さんのそのワンピース、可愛いね」

 雲が着ているのは、俺が初日に買ってやった水色に花柄のワンピース。現在は他にも何着か持っているのだが、

「これが、わしの外行きの衣装じゃからの。きらが恵んでくれた、大切な衣装じゃ。後生大事にすると決めておる」

 どうやらお気に入りらしい。恥ずかしい事言ってくれるぜ……。

「ふふっ、やっぱり好かれてるね、明星君」

「……だといいけどな」

「きらは照れておるだけじゃからの。真に受ける事も無かろうて」

「いや、何でお前が言うんだよ」

「きらがゆーじゅーふだんじゃからじゃ」

「それ、使い方違うからな! 教えたのは疾風か!?」

「かなじゃ」

「カナさんかい!」

 敵が増えたわ……。

「あははっ。やっぱり仲良しだなぁ。……羨ましい」



 ショッピングモールに到着した俺たちは、まずは服屋が立ち並ぶエリアへ。

 誰が提案したワケでもないが、雲のパジャマや普段着肌着を増やしておきたいし、やはり女の子といえば服だろう。

 ブランド品が揃う高級ショップは手が出せないので、リーズナブルな方へ。家族向けのお店へ入る。

 手持ち金に関しては、そこまで心配していない。この前、雲の事を伏せつつ『高校の友達と遊びに行くから、臨時の小遣いが欲しい』と嘘ではない内容を両親に伝えた所、「高校の友達? それってつまり女の子でしょ? 素晴らしい大快挙! いくら欲しいの? 五万? 十万? 振り込んでおくから!」という返事を貰った。

 結果、俺の銀行口座には新たに二十万が振り込まれていた。多すぎるわ。

「いらっしゃいませー」

 店員さんが挨拶をしてくれる。その際、少しだけ怪訝な表情を見せた。

 まあ明らかな未成年者の二人に、小学生に見える女の子。夫婦には見えないだろうし、カップルにしても不思議な構成。しかもお店がお店だ。

「も、もしかして私たち、友達に見えてないんじゃ……」

 日和さんが呟きたくなる気持ちも、分かる。周りには新婚夫婦か、子連れ夫婦しかいない。こんな高校生なんて、いないのだ。

 だが雲の服を買うなら、ここの品揃えが一番だ。恥ずかしがっている場合ではない。

「雲、気に入った服とかあるか?」

「これじゃ」

 と着ているワンピースを示す。

「……うんいや、それは分かってるんだけど、違うだろ。この店の売り物の中で、だよ」

「ふむぅ……そうじゃな」

 雲は意外にも真剣に物色し、店内を徘徊する。

 てっきり「知らん」とか言われると思っていた俺は、若干面食らいながら小さな後ろ姿を追いかける。

「――これじゃ」

 雲が振り向いたのは、お店の隅。まだ時期的には早いせいか値段も低い、

「……浴衣?」

 夏祭り用の、浴衣だった。

「これ……か?」

「うむ」

 予想外だった。洋服に憧れがあるようだったし、てっきり店頭や目立つ位置でマネキンを着飾っているフリフリスカート等を選ぶと思っていたのに。

「確かに西洋の衣装は動きやすいし、可愛らしい物が多い。わしには勿体無い程にな」

 雲は、浴衣の一つをそっと撫でる。

「じゃがわしは、やはりこういった元来の服への情を捨てきれんのじゃ。わしが生きた姿が、思い起こされるようで」

「雲……」

「……わしの考え、現代では間違っておるかのう?」

 そう訊ねる雲の顔は、困ったような笑み。まるで、否定される事を恐れているかのような。

「……いや、間違ってない。お前がそう思うんなら、それが正解なんだ。胸を張って、言いたい事を言え」

「きら……。――うむ! わしはこれが欲しい!」

「よし買ってやる! 好きなの選べ!」

「全部!」

「それは無理!」

「何故じゃ!?」



 雲が欲しがった浴衣を部屋着用と外出用で二着ずつ買い、それでもやはり憧れがあるのだろう。チラチラと視線を送っていたシャツやらスカートやらを加え、

「ありがとうございましたー」

 店を出た。

 さて、目的を優先してあのお店に行ってしまったが、そもそも買い物を提案したのは日和さんなのだ。次は彼女の希望を尊重して――

「あ、もし他にも用事があるなら、そっち優先でいいよ」

「……いいのか?」

「うん、私はあまり買う予定は無いし、――明星君じゃなくて雲さんのため、なんでしょ?」

 見透かされてるんだな……。

「じゃあ、もう一つだけ行きたい所があるんだ」

「どこ?」

「言いにくいし行きにくいんだけど……」



 つい十数分前に、恥はかき捨て的な格好いい事を思った俺だが、

「ごめん日和さん、お願いします」

 これだけは無理だ。

「わ、分かった。これは私の出番だね」

 むしろ、日和さんがいる今だからこそできる事だ。この――下着調達は。

 俺たちが立っているのは、いつぞやのランジェリーショップの前。

「そういえば、雲さんと初めて会ったのもここだったよね」

「うむ、あの時は世話になったのう」

「あの時“も”な」

 もはや世話になりすぎて、罪悪感が募るレベルだ。ああ、本格的に何かお返しを考えないとなぁ……。

「これで、足りるかな」

 俺は日和さんに一万円札を三枚渡す。

「さん……まんえん……。ど、どのくらい買えばいいの?」

「うーん……五枚くらい?」

 実際、女性の下着がいくらするのかよく知らないのだ。

「ご、五枚……。五枚って事はつまり一枚六千円でそんな高い下着は私も持ってないしそもそもあるか分からないけどこれ明星君のお金だから無駄にはできないしでも雲さんのためにできる限り似合うものを選んであげたいしそのためにはむしろ私が払った方がいいのかもしれないああでも私そんなにお金持ってないしよく考えたら買うのはパンツだけじゃなくてブラジャーもだろうしというか前回も考えなしに限界まで使っちゃったしどうすれば――」

 日和さんが凄い早口で何かを呟いている。

「あー……日和さん? 雲が欲しいって言ったヤツを買えばいいんじゃないか? あと、雲のサイズは小学生だしブラはいらないぞ」

「そ、そっか。それならみんな納得だよね!」

「お、おう?」

 納得って……何が?

「それで予算オーバーなら、その分を私が出せばいいわけだし!」

「いやそこは断って下さいお願いします!」





 三十分ほどすると、二人が手を繋いで出てきた。うーん、姉妹にしか見えないな。

「はい、お釣り」

「ホントに助かったよ。ありがとう日和さん」

 俺ではあの中に入る勇気が無く、雲の下着は入学前に日和さんが選んでくれた下着を洗濯ローテーションで間に合わせていたのだ。これで余裕ができる。

「お礼と言ってはなんだけど、このお釣り貰っていいよ」

「む、ムリ!」

 突っ返された。やはりお金みたいに分かりやすい形はダメか。もっとさりげなく、かつ日和さんの気持ちに応えられるようなお返しを考えなければ。

「――さて、俺たちの目的は果たせたぞ。日和さん、どうする」

「あ、じゃあ……私に、付き合ってもらっても、いい……?」

「無論じゃ」

「ああ」

 おずおずと申し訳なさそうな上目遣いの日和さんだが、その表情はどこか嬉しそうだ。やはり買い物が楽しみなのだろう。

 俺と雲は、足取り軽い日和さんに先導されるままエスカレーターで一つ上へ。

 その階はレディースファッションのエリアで、いくつもの服屋が並んでいた。

 今まで意識しなかったが、改めてこうやって見ると壮観だな。十以上の服屋が並んでいるなんて、競争率はどうなっているのだろうか。

「それでも利益が出るくらい、沢山のお客さんが来るからだよ」

 確かに、土曜日という事もあってかどのお店もお客で溢れている。一日の来客数がどのくらいなのか、少し気になる。

「日和さんがよく行くお店はあるのか?」

「あまりこだわりは無いけど……カナと一緒に行くお店があるの」

 友達と買い物か……。俺は長らくしていないな。

「男の子には、面白くない場所かもしれないけど……」

「まあ、その時はその時だな。微力ながら、コメントができるかもしれないし」

「うん、よろしくね。――あれ? よく考えたら、明星君の前でオシャレを決めないといけないの……? 物凄くハードル上がった気がする……」

「ん? 日和さん、何か言ったか?」

「いいいいいいや何にも!」

「そっか? ならいいけど……」

 そこまで敏感に反応しなくても。もしかして、コメントされるのは嫌なのか……?

「さ、ここだよっ」

 疑問は残ったが、もし嫌なら少なからず表情に出るだろう。その時は、当たり障りない感想で逃げるとするか……。

「わぁ、新しい服出てる。この前来た時は無かったのに……。――あ、こっちのも可愛いっ。――これもいいけど……まだ半袖は寒いかなぁ」

入店した瞬間から、日和さんは物色に忙しい。すっかり没頭する彼女に、俺も雲もただ後ろからついて行くだけだ。

「ひより……楽しそうじゃのう」

「ああ。何つーか、生き生きしてるよな」

 俺はファッションなんてからっきしだし、服だってこだわりなくサイズが合ったモノを適当に買うだけだ。試着すらしない事も多い。だから、日和さんが新鮮に見えるし、こっちまで楽しくなってきてしまう。

 周りを同じ気持ちにさせてしまう。これって、彼女の最大の長所ではないだろうか。

「は〜、新商品が沢山のあって、色々悩んじゃったよ」

 ホクホクとした顔で、何着かの洋服を両手に持つ日和さん。

「それ、買うのか?」

「……ちょっと、お金足りないかな……あはは……」

 むう、確かにそうか。今の俺でも、それ全部買うとなったら少し躊躇う。

「でも、試着はできるだろ? してみれば?」

「いいの? ここまで、結構時間掛かっちゃってるのに……」

 時計を見ると、もう正午を回っている。これはそろそろ、我が家の座敷童が空腹を訴え始める頃「きら、わしは腹が減った」……期待を裏切らないなお前。

「もうちょっとガマンしなさい。日和さんがまだ買い物してるんだから」

「ごめんね雲さん、もうちょっとだけ……いいかな」

「ふむ、ひよりの頼みじゃ。待ってやろうでないか」

 何でお前、日和さんのお願いは素直に聞けるんだよ。

「あ、持つよ」

 日和さんの両手には、ハンガーのフックが沢山。疲れるだろう。

「あ、ありがとう……」

「いいっていいって」

 試着室の前まで移動し、服を日和さんに渡し返す。

「じゃあ、ちょっと待っててね」

 日和さんがカーテンを閉めると、ガサゴソと中で音が。……な、何も聞こえてないからな……!

「売り物にも関わらず、こうして着る事が許されるのじゃな」

「まあ試着っていって、貰えるワケじゃないけどな。試しに着るだけだ」

「それでも、現代は何かと太っ腹じゃのう。そのまま着て、逃げる事も可能じゃろうて」

「……物騒な事言うなよ」

「わしが生きた時代の話じゃ。ま、ひよりがするとは思わんがの――ひっ!?」

「当たり前だろ――ってどうした?」

雲が途中で変な声を上げ、

「――うおわっ!?」

 俺は謎の衝撃で前方に弾き飛ばされた。

「ぐふぅ……!」

 何かにぶつかったおかげか、倒れずには済んだが、……何で壁が柔らかいんだ?

「き、明星君……?」

『きらが消えおったぞ!? きら!?』

 すぐ耳元で、日和さんの声。少し離れた所から、くぐもった雲の声。……いやまさかね?

 視線を上げると、

「どうしてここに……?」

 混乱しつつも顔真っ赤な、上半身下着な日和さん。しかも右手が、豊満な胸をブラ越しにわし摑み。……柔らかすぎな。

 ――ってやっぱここ、更衣室の中か!

「ごめんホントごめん! わざとじゃないんだ! 俺にも分からないけどわざとじゃないんだ!」

 若干怪しい日本語で弁解すると、そのまま外に出ようとする。

「――待って!」

「はい!?」

 だが何故か、日和さんが俺の腕を掴んで引き止めた。まさかそこまで怒ってらっしゃる!?

 ビンタの一つは覚悟した俺だったが、

「……今は出ない方がいいかも」

 出てきたのは予想外の一言。

「……?」

「ほら、外で……」

 俺が閉まったままのカーテンの向こうに耳を傾けると、

『――お嬢ちゃん、どうしたの? 迷子?』

『きらが消えおった!』

『きらっていうのは……パパかママの名前?』

 どうやら、店員さんが雲が迷子になったと思って話しかけてきたみたいだ。

「今明星君がここから出たら、変な目で見られちゃうよ……」

「日和さん……」

 着替え中に突撃した俺に怒りもせず、さらに名誉まで守ろうとするなんて……。泣けるレベルでいい人すぎる。俺はせめてもの気持ちで、目を閉じた。

 相変わらず外からは、雲と店員さんの微妙に噛み合わない会話が聞こえてくる。

『――何を言うておる? きらはきらじゃ』

『えっと……その“きら”さんはどこに行ったの?』

『知らぬから困っておるのじゃ!』

『えーっと……じゃあ、お店の中で良かったら、一緒に探してあげよっか?』

『いや、わしはここを動きとうない。きらは必ず、戻ってきてくれると信じておるからの』

『そ、そっか。でももし困ったら、すぐに言ってね?』

 そう言った店員さんが、離れていく気配がする。

「……もう平気かな?」

 日和さんが手を離した瞬間、自己最速の動きで更衣室から出る。

「――きら!」

 その直後に、雲が顔を輝かせて飛びついてきた。その衝撃でバランスが後ろに傾き――これ以上罪を増やしてたまるか!

 何とか堪えると、雲を下ろした。

「きら、何処に行っておった!」

「あー……ちょっと天国に」

「はあ?」

「いや何でもない」

「すまんかったの。わしが佇むこやつに驚いて、きらを突き飛ばしてしまったせいで」

 雲の後ろには、背の高いマネキンが。……なるほどね。真横に立つこれの存在に驚いて、思わず俺を突き飛ばしたって事か。

「よもや、きらを昇天させてもうたとは思わなんで……」

「いや、俺死んでないから!」



 ――それから試着を終えた日和さんに、もう一度謝罪。……最近、こんなんばっかりだな。

「もういいってば……。雲さんがビックリしてやっちゃった事なんだし、私も気にしないから。お互い忘れよ……?」

 物凄い優しさ。だが、流石に俺の中の罪悪感が消えない。

「――ところで日和さん、一番気に入った服とかあった?」

「え? うーん……これかな」

 そう言って日和さんが持ち上げたフリルシャツとスカートを掴むと、俺はレジに向かう。

「き、明星君!?」

 慌てて追いかけてくる気配がしたが、今回ばかりは無視。

「――これ下さい」

「こちらですね〜? 七千八百円になりま〜す」

「ななせ……!?」

 後ろで日和さんが何か息を飲んだが、気にせず一万円札を置く。

「お買い上げありがとうございま〜す!」

 紙袋に入れてもらったそれを、立ち尽くす日和さんに差し出す。

「迷惑かけたお詫びと……雲に付き合ってくれたお礼。これで許してくれとは言わないけど……一応俺からの気持ちって事で」

「そんな……貰っちゃっていいの? 私なんかが……」

「そのために買ったんだからさ。喜んでくれると俺も嬉しい」

「うん……っ! 嬉しい……っ! 人生で一番嬉しいかもしれない! 本当にありがとう!」

 泣き出しそうな笑顔で、紙袋を抱き締める日和さん。大げさだなぁ。これまでの行いを振り返ったら、むしろ足りないくらいじゃないかと思うけど……。





 買い物を済ませた俺たちは、遅めの昼食としてミラクルエイジに向かった。

「いらっしゃいま――お、ひよにモクっち! ときらっち!」

何というついで扱い。

 ちょっと傷ついたので、お返しにからかってみる。

「カナさんのバイト姿がどんなか、冷やかしに来――」

「アタシがフォークを投げるから、きらっちは的ね」

「すみません冗談です」

 分かればよろしい、とカナさんは取り出したフォークを置いた。……まさか本当にフォーク投げようとするとは思わなかった。

「ララさんは?」

「さっきまで忙しかったから、今はアラウンド中。ホールには出られないと思うよ?」

 うーんそっか。挨拶したかったんだけどな……。こうして外出の予定が無ければ、あまり立ち寄る機会も多くない。せっかく顔と名前を覚えてもらったんだ。色々訊いてみたい事はあったが、今回は諦めるか。

「さっきのお礼で、ここは私が奢るね」

 いきなり日和さんが、とんでもない事を言い出した。

「いやいや! あれはこれまでのお詫びって意味なんだから、ここで奢られたら意味無いって!」

「でも今日、私全くお金使ってないもん。明星君に払わせるのは申し訳ないよ」

「――ん?」

「いやだったら割り勘でいいじゃん。日和さんが全額負担する必要は無いって」

「――んん?」

「でも――」

「ヘイちょっといい?」

 並行する説得合戦に、カナさんが割り込んだ。

「二人共、いつから名前呼びになったの?」

「「……あ」」

「何何何何? え? どういう事かな〜? きらっちが買ってあげたって何を? ひよの持ってる紙袋それ何? お姉さん、詳しく聞きたいな〜」

 超絶楽しそうな笑顔を浮かべて、カナさんがにじり寄る。

「い、いや、ちょっと色々あって……」

「ははーん……。もしや、一線超えちゃった?」

「「超えてない!」」

「にゃはは〜、息ピッタリ!」

 カナさん、絶対からかってるな……。これからしばらくは、このネタでいじられる覚悟をした方が良さそうだ……。

「――ありがとね、きらっち」

 唐突に、カナさんが俺だけに聞こえる声で言ってきた。

「ネガティブになったひよを、励まそうとしたんでしょ? ひよ、全然自分に自信持てないから……ナイスアイデアだと思うよ? だから、ありがと」

「お、おう……」

 なんだ、カナさんには全部お見通しって事か。もしかしたら、同じような心配をしていたのかもしれないな。

「ま、今日はひよ達がお客さんだからね。アタシは仕事をしまーす。――あとひよ、キリないから支払いは割り勘にしなさい」

「うう……分かった」

 カナさんは一つ咳払いをすると、

「はい、三名様ご案内〜」「メニュー決まったら呼んでね!」「お冷置くね。おかわり欲しかったら、遠慮なく言ってね〜」「そんじゃ、ごゆっくり〜」

 ……いや、普段通りすぎるだろ。あの咳払い何だったんだ。

「ところでもしかして、今日は三人でデートでしたかな?」

「ぶっ!?」

「カナ!?」

 歩み去ったと思ったカナさんが不意打ちでそんな事を訊いてきた。

「お〜その反応、まさかホントに?」

「ちち違うよ! そんなじゃないし……」

「はいはいその反応、変わんないね〜。――時にモクっち」

「何じゃ? わしはおむらいすが良い」

「はいオムライスね〜。――それと、モクっち的にはどうなの? 兄妹って言っても歳の近い男女なんだし、意識しちゃう事あったりしないの〜?」

世間話大好きなおばちゃんか! あと、実際は全然歳近くないけどな。俺の方が年下なんだよなぁ。

「きらはきらじゃ。わしには恋愛は分からんが、きらは好いておる。――いつか子作りできたら良いのう」

お前いきなり何言っちゃってんの!?

「雲さん!? 子作りっていきなりすぎるよ!?」

「そこまで驚く事かのう? 仲の良い男女が互いに求め合う。その末にあるのは子作りであろう? きらとひよりは違うのかえ?」

「違うだろ!」

「ち、ちが……違いますっ!」

「ひよ、一瞬迷った?」

「ま、迷ってなんかないもん!」

「まーモクっちの考えは、少子化の現代日本には必要かもね〜。誰が実行するかはともかく」

 一瞬、カナさんがこちらを見た気がした。

 雲が生きてきた時代は、どういった恋愛だったのだろうか。きっと今のように、一目惚れで付き合ったり些細なケンカで別れるような事は無かったのだろう。雲に感化されたワケではないが、俺もそういう恋愛がしたい。結婚――とまでは行かなくても、それに匹敵するくらい、強い絆の恋愛を。

「――ささ、二人も早くオーダー決めちゃってよ! こう見えてアタシ、忙しいんだから!」

「じゃあ立ち話とかしてる場合じゃ……」

「あん? きらっち何か言った?」

「……何でもないです」





 昼食とデザートのケーキを食べ終え、ミラクルエイジをあとにして自宅へ戻る。

「――雲さんが実は大胆だったなんて、知らなかった……」

「何がじゃ?」

帰り道、先ほどの会話を思い出したのか日和さんが頬を染めながら呟いた。

「だって、いきなり子作りとか言い出すんだもん……」

「わしは器用ではない故な、思っておる事をそのまま言うてしまうのじゃ。本心を、じゃ」

「じゃあ雲さんは、明星君と子供を作りたいの……?」

 言い方が生々しいな。

「今は、と言うておらんじゃろ。わしは、きらと共におられればそれで良い」

「そっか……」

 日和さんには分かるハズもないだろうが、雲のその言葉にはそれ以上の意味が込められている。俺は三百年孤独を耐えた雲が、やっと見つけた存在なのだ。

「きらがおるだけで、わしは救われておるからの」

 恥ずかしい。が、受け止めなければならない。

「――ふむ、しかしわしも、きらとの確かな繋がりが欲しいのう」

「は?」

 いきなり、座敷童が変な事を言い出した。

「どうしたんだよいきなり」

「明確に、心に残せる繋がりが欲しいのじゃ」

 何だそりゃ。そんな事、今さら気にするようやヤツじゃないだろお前。

「で、どうしたいんだよ」

「鈍いのう。――ほれ、ちと耳を貸さんか」

雲が手招きするので、疑問を持ちつつしゃがんで耳を寄せる。

「――んっ」

「あ……」

 だが聞こえてきたのは、日和さんの小さな漏れ声。と頬の湿った感触。

――コイツまさか!

バッと雲を見やると、

「くふ、今はこれで我慢するぞい。――唇は、きらが全てを受け入れた時、かの……?」

悪戯っぽく笑う雲も、心なしか顔が赤い。ぐ……まさかコイツが、こんな事をしてくるとは……。

「照れておるかえ?」

「照れてない!」

「くふ、くふふっ……」

「笑うなよ! お前のせいだろ!」

「安心したぞい。きらはまだ、わしを見てくれておる」

「何だよそれ……」

“まだ”って何だ? お前、心に何を抱えている?

「――さて、帰ろうぞ。ひよりの母君も、待っておろうしな」

さっき雲は、本心しか話せないと言った。それは間違いないだろう。そういう性格だから。――だが、本心が必ずしも、“思っている事”とは限らない。本人でも気付けない、いやあえて気付かない想いも、あるのかもしれない。



 本日四月三十日月曜日は、平日だが授業は無い。

 何故なら今日は、

「きら! 行くぞいよこはま!」

「何でお前起きてんの!?」

 自由遠足の日なのだ。

 いつもより早めに設定した目覚ましを止めて一階に下りると、雲がワンピースを着て立っていた。そんなバカな……。いつもは朝食の匂いに釣られて起きてくるコイツが、俺より早く起きるなんて……。どんだけ楽しみなんだよ。

「早う飯じゃ」

「でも偉そうなのは変わらないのな……」

 朝一番で脱力して、朝食の準備を始める。

 日和さんに教わって少しレパートリーを増やしたが、毎日が自炊だとまだ足りない。何とかアレンジとローテーションで保たせたい所だ。



 ――朝食を食べ終わると、私服に着替える。

雲がワンピース姿の通り、今日は私服で構わないそうだ。まあ、学校で授業受けるワケじゃないからな。

 準備を終えてノンビリまったりしていると、

 ピンポーン、と電子音。

 俺たちはモニターを確認せずに玄関に向かう。誰だか分かっているからな。

「――おはよう、明星君、雲さん」

「おう、おはよう日和さん」

「おはようじゃ」

 扉の向こうにいたのは、日和さん。いつしか我が家へ迎えに来るのは、疾風から日和さんへ移り変わっていた。「楽しくなりそうでよかったね、明星」という疾風の意味深な微笑みが、妙にイラっときたのは秘密だ。

 日和さんの私服は、以前お泊まりした次の日に買ってあげたフリルが付いた長袖シャツと膝丈のプリーツスカート。

「せっかく買ってくれたから、着てきちゃった……。どう、かな……?」

 はにかみながら上目遣いで訊いてくる日和さんは、それだけで破壊力抜群だ。自覚は無いだろうが、全ての嘘を封じ込めるような力を感じた。なので、正直に答える。

「凄く似合ってるよ。本当にお世辞抜きで」

「……嬉しい」

 今度は視線を下げて、頬を染めた。……これはヤバいな。

「――いつまで話しておる。かなが怒るぞい」

玄関を出た雲が、若干冷めた目でこちらを眺めた。

「それは困る。すぐ行こう」

「カナが怒ると、変に暴走するもんね……」

いやぁ、カナさんの存在って凄いな……。あと怖い。





 いつも別れる十字路に到着すると、すでにカナさんと疾風が立っていた。

「遅い!」

 怒られた。

「罰として揉んで欲しいのか? ああん?」

「ごめんカナ……。お弁当作ってきたから許して」

「許す!」

 早いな! まあ、本気で怒っていたワケではなかったのだろう。腕組みをして満足そうに頷くカナさん。

「じゃあ行こうか。一回学校に寄らないといけないしね」

 疾風が言う通り、一度学校へ行って点呼を取ってもらわないといけないのだ。一応出席確認という事で。

 徳巡学園の正門で福田先生を見つけると、それぞれ名前を告げる。

「えーはい。五人確認しました。それでは行ってらっしゃい」

 ものの十数秒で終わると、福田先生は他の生徒の点呼に移った。

「……これ、このまま帰ってもバレないよな……?」

「きらっち、そーゆー事言わない」

「サボろうと思えば、遠足なんていくらでもサボれるからね。それを含めて、楽しむのが遠足じゃないかい?」

 地味にいい事言いやがる。何もツッコめなかった。

 ――学校を出て最寄りの駅へ向かいながら、ふと思った。

 ……雲って、電車見た事あるのかな。少なくとも俺は、一緒に電車に乗ったりはしていない。

「な、何じゃこれは!? 何故このような巨大な箱が動いておる!?」

 うわあテンプレ反応。

「……モクっち、電車見るの初めてなの?」

「うむ……これが“でんしゃ”とやらか……にわかには信じがたいのう。こんな物が軽々と動くとは」

「……ふーん」

 怪しんでいるなぁ。ここからどう弁解したモノか……。

「――元々、沖縄には電車が無いからね」

 上手い言い訳が思い付かないでいると、疾風がそんな事を言い出した。

「どゆ事? かぜっち」

「正確には、モノレールが一本走ってるだけなんだよ。雲ちゃんは移動中寝てばっかりだったから、電車を知らなくても無理はないんじゃないかな」

「へー。それならまあ分からなくもないか。――きらっちはどう? 電車ビビった?」

「……いや、俺は今日が初めてじゃないし」

「ぶー、つまんなーい。そこは腰抜かすくらいのリアクションしてくれないと〜」

「カナさんは俺に、何を求めてるんだ……」

「芸人魂?」

「答えなくていいから! てかそんなの求めてたの!?」



 それから電車に乗り、運良く全員並んで座れた直後、

「ほほう……景色が流れていきよる……」

 座敷童が窓から離れない。まあ、そうなるよな。行動が子供のそれそのものだ。

「雲さん、外を見る時は靴を脱がないと。誰か通る時に、当たっちゃうよ」

 そしてこっちはもう母親そのものだ。俺としては、負担が減るのでありがたい。雲も、日和さんの言う事は素直に聞いてくれるからな。

「…………」

 横浜まではおよそ一時間。どんな遠足になるのか、今から楽しみだ。





『次は〜横浜、横浜でございます』

 車内のアナウンスが流れ、俺たち以外にも、降りる準備をする人が目立つ。

「やっと着いたか〜」

 普段電車に乗ったりしないので、妙に身体が凝ってしまった。

 適当にほぐしながら駅の出口へ向かおうとすると、

「きらっち、どこ行くの?」

「どこって……横浜着いたじゃん」

 まさか別の出口か? 大きい駅には、出口が複数あると聞いた事があるし。

 だがカナさんが放った言葉は、そんな予想を遥かに超えてきた。

「まだ電車乗るよ?」

「……は?」



 カナさんの話では、目的地は横浜駅の最寄りではなくその隣、桜木町という駅らしい。というより、観光名所の多くは横浜駅の近くに無いらしい。……意味が分からん。

 という事で、改めて桜木町駅に到着。今度こそ駅を出て、ロータリーに立つ。

「……広っ」

 まず驚いたのが、その広さだ。何かイベントを行うのかという必要以上の広さ。

「はいはい、そういう田舎者反応いいから。置いてくよ?」

 カナさんが冷たい。いいじゃないか、新鮮な反応しても。

「まずはランドマークタワーね。なるべく朝の天気がいい内に見ておきたいんだから!」

 さっさと歩き出してしまったカナさんに、土地勘ゼロの俺はついて行くしかない。

 エスカレーターを登った先には、空港でよく見る歩く歩道が。

「ランドマークタワーはこの先だからね〜」

 カナさんに続いて歩道に乗るが、……凄くフワフワした、変な感じだ。

「きらっち、上見てみ?」

 カナさんが人差し指を上に向けたので釣られて見上げると、

「……うわ」

 ガラス張りの屋根越しにそびえ立つ、恐ろしく高いビルが視界に飛び込んできた。

「たっけぇ……。何階建てなんだコレ……」

 横を見ると、日和さんも雲も同じように見上げ口をポカンと開けていた。……俺含め、何だか間抜けな光景だな。

「――と、歩道終わったぞ二人共」

 俺たちが見上げている間にも、当然歩道は動き続けていたので、気が付けば終点だ。危うくコケそうになりながら雲と日和さんに告げると、

「__むわっ!?」

「__わわっ!?」

 残念ながらこっちはコケた。

「ちょっ――」

 バランスを崩した日和さんを慌てた支えると、同じく崩した雲を空いた右腕で受け止める。

「おお、きらっち凄い。――でもそこは邪魔だからこっちに来てね」

 褒めつつ、俺をズルズル引っ張って道の脇へ移動させる。ふ、服が伸びる……。

「あ、ありがとう明星君……」

「あー、気にしなくていいよ」

 久しぶりのフニフニを味わってしまったのだ。顔を見るのも恥ずかしい。

「……何故わしは腕なのじゃ」

 片手間みたくなったのが不満だったのか、雲が頬を膨らませた。

「だってお前、軽いじゃん」

「うっ……」

 しまった。つい思った事を言ってしまったがために、隣の心を折ってしまった。

「……決めた。私、ダイエットする! 明星君に片手で受け止めてもらえるくらいに!」

 何やら決意を固めたようだが、

「……ふぅ〜ん」

 どうやら俺と同じ事を思ったらしいカナさんが近寄る。

「決意表明したトコ申し訳ないけどさぁ、――こーんな胸持ってるくせにダイエットとか、ぶっちゃけ意味ないよ?」

 恐らく女性としての憎しみ込みなのだろう。日和さんの胸をツンツンつつく。

「あぅ、か、カナ……くすぐったいってば……。そ、それにこれは私が何かしたわけじゃないし……」

「だから憎いのだ! 何か裏技があるなら試すのに!」

「だ、誰か助けて……」

 カナさんも、やっぱり心は乙女なんだな。胸を大きくするために試行錯誤するカナさん……。申し訳ないが、想像したら笑えてきた。

「ま、アタシがこれを揉みしだける特権を持ってるワケだし、それでガマンするか!」

「そんな特権ありませんっ!」

 日和さんも大変だなぁ……。



 ランドマークタワー展望フロア行きへのエレベーターがあるドアをくぐり階段を下りると、券売機が。やはりタダでは乗せてくれないらしい。

「高校生は――八◯◯円……って高っ」

 エレベーターに乗るだけでこの値段か……。ぼったくりじゃないだろうな。

「明星、今から乗るエレベーターには、そこらのエレベーターとは比べ物にならない技術が結集して作られた代物なんだよ? お金を払うのは当然だよ」

 そうは言ってもな……。エレベーターはエレベーターだろう。

「乗れば分かるよ」

 そう言って疾風は、発券されたチケットを受付の女性に持って行った。ここで納得できないのが、地方勢の性なのだろう。

 エレベーターに案内され、扉が閉まる。

「このエレベーターは、最高速度分速七五◯メートル。時速にして四五キロという速度で地上二階と六十九階、およそ二七◯メートルを約四十秒で結ぶエレベーターです」

 係員の人がそんな説明。

 いやいやいや、速すぎだろ。ロケットか。

 見上げると、本来階下表示がされる場所に、スピードメーターがある。その数値が、あっという間に最高速度へ達する。そしてすぐに減速。

 そんな説明を受けている間に、エレベーターは停止し扉が開く。

 本当に一分足らずで着いてしまった……。

「ぃやっはー絶景!」

「ここは初めて来たけど、これは凄いね。お金払った価値あるよ」

 カナさんと疾風は、早速目の前の窓に張り付いた。

「ほう……なんという高さか……。人がここまで空に近付けるとはのう……」

 雲は雲で、表情が無くなるほどに感動している。江戸時代出身からしたら、まさに天変地異だもんな。

 ……で、問題なのはこの人。

「…………」

 顔面蒼白な日和さん。エレベーターから出た位置から微動だにしない。

「日和さん、もしかして……高所恐怖症?」

「う、うん……。高い所はホントにダメで……」

 実際に景色を見たワケでもないのに、この状態だ。これは相当に重症だな……。

「私の事は気にせず、明星君も景色を楽しんで来てよ……。私はここにいるから……」

 確かに絶景を堪能したい気持ちもあるが、それ以上にせっかく来たのに待ちぼうけは可哀想だ。

「日和さん、ちょっとだけでも見てみないか? お金払って来たんだし、勿体ないだろ?」

「でも……」

「……まあ、無理にとは言わないけどさ」

「……じゃあ、手を繋いでいてくれる……? それなら、少しはガマンできそう」

「う、分かった」

 差し出された手を、そっと握る。まさかいきなり、手を握る事になるとは思わなかった。……それ以上のハプニングを巻き起こしている事は秘密。

 ゆっくり、一歩一歩窓ガラスへ近付く日和さん。まるで断頭台に上がる死刑囚みたいな表情をしている。俺、余計な事言ったかもなぁ……。

 ようやくガラスの目の前に到達した日和さんは、一度目を閉じて大きく息を吸い込む。それから目を開けた。

「――わあ……」

眼前に広がる大パノラマには、言葉にできない迫力と感動がある。日和さんも、高所恐怖症を忘れて見入っている。……と思ったが、握った手は指先が白くなるほど力がこもり、視線は絶対に真下を見ないように必死に堪えている。

 ……何かごめんよ日和さん。

 真下に見える、米粒より小さい人やミニチュアみたいな車は中々面白いのだが、彼女にそれを勧めるのは酷すぎる。こうして景色を見ていられるというだけでも、日和さん的には御の字なのだろう。

「――あれ? ひよが外見てる!? 高所恐怖症じゃなかったっけ?」

グルリと一周したらしいカナさんが、疾風と雲を従えて戻ってきた。

「あ、カナ……。――そうだけど、一人じゃないし、少しでも克服できればと思って……」

「ほーん。きらっちパワーのおかげか!」

何それ強そう。

「じゃあその力を信じて、ステップアップだ! ――ひよ、あそこに赤レンガ倉庫あるでしょ?」

 高所は全く平気らしいカナさんが、右側に見える赤レンガ倉庫を指差す。

「次はあそこに行く予定なんだけど、そこに通じる道を辿ってみ?」

「?」

 疑問符を浮かべたまま、日和さんはカナさんの指先を追う。ついでに俺も。

「そしたら自然にほら……真下が見られるのだ!」

 どうでもよかった! 凄いドヤ顔するから何があるのかと思ったが、全然大した事なかった。

 そう俺がツッコもうとした直前、

「…………」

 日和さんが音も無く膝から崩れ落ちた。

「おわっ!?」

 手を繋いだままの俺は肩が抜けそうになり、

「ちょ……ひよ!?」

 流石のカナさんも慌てて日和さんを支えた。

「ひより、した!?」

「東風、大丈夫かい?」

 雲と疾風も心配して覗き込んだ。

「……うん。大丈夫」

 放心状態の日和さんがそう応えるが、心がこもっていない。感情ゼロなのが怖い。――そしてその目から、涙が一筋。

「日和さーん!?」

「ひよ!?」

「ひより!?」

 俺たちが三者同様に驚き慌て、

「あらら……。とりあえず、降りようか」

 日和さんを支えてエレベーターへ向かったのだった。



 ――ランドマークタワーのエレベーターから出ると、そこはランドマークプラザという隣の建物。出口は別の場所なんだな。

 心配そうな係員さんの視線で見送られた俺たちは、ひとまず近くのベンチに日和さんを座らせた。

「――ひよ、ホントごめん! 調子乗った!」

 すぐに、カナさんが両手を合わせて頭を下げた。

 ようやく回復した日和さんは、優しく首を横に振った。

「大丈夫だよ。――カナの暴走は今に始まった事じゃないし」

「うっ……」

 ……実は少しだけ根に持っているのかも?

「ちょっとビックリしちゃっただけだから、もう平気! 心配してくれてありがとう」

「ホントにごめんね?」

「もう……気にしないでってば。これで雰囲気が悪くなる方が、私は嫌だよ?」

 そう言って日和さんは、カナさんを優しくハグした。

「ひよ……。心の友よ!」

 ハグ返し。

「ふふっ、カナ、苦しいってば」

 ハグする二人を見て、俺も安心する。



 ――気をとり直して、ランドマークタワーをあとにする。

 次に向かうのは、さっきカナさんが言った、赤レンガ倉庫らしい。歴史的に有名、というくらいしか知らない俺は、どんな所なのかも何をする所なのかも分からない。

 試しに疾風に訊いてみたが、

「それを自分で理解するのも、醍醐味の一つだろう?」

 と言われた。……便利だなその言葉。

 みなとみらい大通りを歩き、左手に日本丸という船が見えた頃、

「――ごめんね、明星君」

 隣を歩く日和さんが突然口を開いた。

「何が?」

「私のせいで、結局全然景色見てないでしょ……? せっかく上ったのに……」

 言われてみれば、確かにそうだ。反対側からは富士山とか見えたらしいが、俺は見ていない。

「――本音を言えば、確かに残念だった」

「そうだよね……」

「でもそれ以上に、日和さんが景色を少しでも楽しんでくれたなら、俺はそっちの方が嬉しかった」

「明星君……?」

「日和さんを見捨てて景色を見る事もできたっちゃあできたけど、それじゃ意味ないだろ? 遠足は皆で楽しむ。これが鉄則だと思うからさ」

「……ありがとう。スッキリした」

 それなら良かった、と前を見ると、

「言う時は言うねぇ、明星」

「名言いただきました!」

 疾風とカナさんが楽しそうな笑顔でこちらを見ていた。

「……忘れてくれよ?」

「いやいや、こんな素晴らしい言葉を忘れるなんて僕にはできないなぁ」

「右に同じ!」

 この二人は……!

「むむむ……。――決めた!」

突然、カナさんが俺を指差した。

「今のきらっちの名言を、“スーパーきらっちスペル”と命名する!」

「絶対に嫌だ!」

「賛成」

「お前も乗っかるな!」



 不名誉な必殺技みたいな命名を受けた所で、俺たちはみなとみらい大通りを外れて汽車道という板張りの道を進む。

 文明開化で初めて汽車が走った道らしい。なるほど板に埋め込まれた線路が、その名残なのだろう。

「風が気持ちいいね〜」

「こうして海を見られる日が来るとはの。かな、感謝するぞい」

「いやぁ〜、どういたしまして! どうよ、横浜の海は? 沖縄と違う?」

「ふむ……良く分からんが、思ったより透き通っておるの」

「へー。アタシそんなに関係ないけど、神奈川県民としてありがとう!」

 凄ぇ。奇跡的に会話が噛み合った。

 だが実際、思ったより水は綺麗だ。大都市の側で港の中だから、少なからず濁っているかと思っていたのだが、たまに魚を発見できるほどに透き通っている。神奈川を甘く見ていた。

 ふと振り返ると、そこには相変わらずの存在感を放つランドマークタワーがそびえ立っている。あそこから見た時はジオラマ程度の大きさだったのに、こうして歩くとやはり距離がある。人間ってやっぱり凄いな。

「――イェーイ! モクっち号発車だー!」

「心得た!」

 ……で、あれは何をやっているんだ?

 雲とカナさんが、線路の中心を走っては戻るを繰り返している。

「“せっかく線路があるんだから、普段できないしやらない電車ごっこをノリでやるべきだ”って始めたみたいだね。雲ちゃんはよく分かってなさそうだけど」

 ……何だそりゃ。

「カナさんのハイテンションはいつも通りだけど、今日は遠足補正がかかってるのかもね」

「何だよ遠足補正って」

「遠足補正とは、普段行かないような場所に仲良しグループで行く事によって起こる心身の上昇を指し――」

「それっぽい解説せんでいい!」

「人が親切に教えてあげようとしているのに、不親切だなぁ、明星は」

 殴るぞお前。

「カナさんもなぁ、遠足だからってはしゃいで、まるで子供みた――」

「お詫びのジュースをスローイン!」

 いきなり振り向いたカナさんが、小さめのペットボトルをぶん投げてきた。

「――いっで! カナさん何すんの!?」

 咄嗟に差し出した右手で何とかキャッチできたが、衝撃でジンジン響く。

「ちっ……ナイスキャッチ!」

「今舌打ちしなかった!?」

「それはひよのだからね! さっきのお詫びに買ったんだから!」

 ……じゃあ何で俺に投げたし。普通に本人に渡してくれよ。

 不満を持ちつつ、日和さんにペットボトルを手渡す。

「ありがとう、カナ。――ごめんね、明星君……大丈夫?」

「マジ天使なひよは許してくれたけど、やっぱし自分が許せないからね! それ一本で許せとは言わないケド」

「ううん。気にしてくれたの、凄く嬉しい。カナ、大好き」

 日和さんはペットボトルを胸に抱くと、慈愛に溢れた微笑みを浮かべた。

「…………。……気にすんなっ」

 あ、カナさん照れた。

「さあさあ赤レンガ倉庫に到着到着! アタシの話はどうでもいいでしょ!」

 照れたカナさんはレアだし、もうちょっとからかってみたい気もするが、気の毒だし海に突き落とされそうだからやめておこう。



 赤レンガ倉庫は倒壊した一部を除いて、最低限の補填だけをした明治当時の建物をそのまま使用しているらしい。

 なので資料館か歴史館を予想していたのだが、入ってビックリ。雑貨屋さんが並んでいた。

 流石に狭い室内では、両サイドにお店が連なり奥には飲食店もあるようだ。

「…………」

「きらっち、面白い顔してる」

 すっかり元通りのカナさんが、ケータイで俺の顔を撮影。

「よし、保存」

「いや消してくれよ!?」

「このアタシが、わざわざ遠足で勉強を組み込むと思ったかね?」

「いや全然」

「……即答されると、ちょっと蹴っ飛ばしたくなるけどそれはいいや」

 ちっとも良くないぞ。

「“皆で楽しく!”がアタシのモットーだからね。――ここでご飯食べるんだから、混む前に席取っちゃうよ! ほらほらレッツゴー!」

「わっ……引っ張らないでよカナ」

「ひよは迷子にならないように、アタシがエスコートしてあげるよん」

「大丈夫だってば……」

 カナさんのあの切り替え方は、立派な長所だよな。過去は過去と割り切って接してくれると、こちらとしてもありがたい事が多い。特にカナさんは、このグループのムードメーカーでありエンジンでもあるからな。……あとトラブルメーカー。その辺は割り切らずに改善して欲しい。



 運良く丸テーブルを確保できた俺たちは、そこで日和さんのお弁当を開く。

 飲食店が並ぶ中で持参のお弁当を食べるのはルール違反ぽいが、

「ここのお店は各々がしのぎを削り合ってる。その味よりも、東風の料理が上だって考えればいいんじゃないかな?」

 なるほど。そう考えれば周囲の視線も痛くないな。

「五人いるから、そこまで沢山無いけど……召し上がれ」

 相変わらず色とりどりで美味しそうだ。色合いで食欲をそそるのも、俺にはできない技術だな。

 少しだけでも料理するようになった今なら分かる。鮮やかさも勿論意識したのだろうが、それ以上に野菜多めに適度の肉類。栄養バランスがシッカリと考えられている。

 栄養が偏らないようレシピから考え、美味しい味付けに仕上げ、それから綺麗に盛り付ける。……料理って、ただ作るだけじゃないんだな。奥深いし、ララさんや日和さんが『楽しい』という気持ちも分かる気がする。

「いただきま〜す!」

 手を合わせたカナさんは、容赦なく数が多くない唐揚げを頬張る。

「む……わしもいただく!」

 その横で雲も、負けじと箸を掴んだ。

 ってオイ、この二人が本気出したら、絶対に等分しないよな……?

「く、負けてられるか!」

 こうして日和さんの料理を食べる機会は少ないんだ。充分に堪能したいじゃないか。

「……これは、僕らの分は残らないかもね?」

「あはは……」

 弁当箱を蹂躙する三膳の箸に、疾風が肩をすくめた。控えめな日和さんも、作った側として苦笑いするだけだ。

「――日和さんも食べろよ?」

 俺は箸をひっくり返すと、弁当箱のフタに適当におかずを取り分ける。

「わ、ありがとう……」

「むぐむぐ……きらっち紳士じゃん!」

 いや、だって本当に無くなりそうなんだもん。

「明星、僕には盛ってくれないの?」

「お前は何だかんだで、ちょいちょい食ってるだろ!」

 疾風はちゃっかり、競争率が低い、それでも美味しいサラダを咀嚼している。

「僕は明星みたいにがっつけないから、お腹いっぱいになるか不安なんだ」

「ケンカ売ってんのかお前!」

「まさか。明星が暴力振るわないのは知ってるし、これでも評価してるんだよ? 幼馴染の戯れだと思って流してよ」

「…………」

 俺は乗り出しかけた身体を戻した。このタイミングでそんな事を言われては、怒りも引っ込んでしまう。

「――さてライバルが減った所で、僕も食べようかな」

「かぜっちナイス! 今の内だモクっち!」

「うむ! 分かっておる!」

 ってしまった! 作戦通りかあの野郎!

「――ごちそうさまでした!」

 嵐のような昼食が終わり、

「好評だったみたいで良かった。でも、凄い勢いだったね……」

 弁当箱を片付ける日和さんは、終始喜びと驚きを交互に見せていた。

「まーでも、ちょっと物足りないかな〜。もうちょっと食べたい」

 カナさんが言う事はもっともだ。

 日和さんのお弁当はかなりの分量があったが、それはあくまで平均的な話だ。俺、雲、カナさんという面子が揃っているこの五人では、分量不足は否めない。

「まあ、そのための飲食店だからね」

 そう言って疾風は、周りを目で示す。……食事のついで扱いとか、お店が可哀想だな。間違っていないが。

「さっきあっちに、美味しそうなアイスがあったんだよね〜。ぜひとも食べたいしきらっちヨロシク」

「流れるようなパシリ!?」

「文句ある?」

「いやあるよ! あるけど……もういいや」

 こうなったカナさんが動く気ないのは、もう分かっている。

「アタシはバニラね〜」

「僕はミント」

「わしはきらと共に――」

「あ、明星君、私も一緒に行くよ」

「日和さん? いや、一人でも大丈夫だぞ」

「五個持つのは大変でしょ? 私は向こうで決めたいし、ちょうどいいよ」

「うーんそっか……。なら、お願い」

「うんっ」

 やっぱり日和さんは優しいな。こうしているだけで、負担が減るからありがたい。――俺が離れた後、あんな会話が繰り広げられたとは知らずに。

「よしよし……作戦通り。きらっちをパシリに出せば、ひよは必ずついて行く。こうすれば自然に、二人の距離は縮まっていくのだ!」

「カナさん、意外と策士だね」

「これなら同時に、きらっちの反応も楽しめるしね!」

「……わしも、きらと共に決めたかったのじゃがな」

「まあまあいいじゃん! モクっちはずっと一緒だったんだからさ、たまにはひよに譲ってあげなよ!」

「……“ずっと一緒”ではないのじゃがな」

「ん? モクっち何か言った?」

「何も言うとらんぞい」





 デザートを食べた後は、赤レンガ倉庫を出てすぐの海辺で休憩。波も穏やかで、平和な空気だ。

「――おー、でっかい船が停まってんな」

 少し離れた停泊場に、とてつもなく巨大な客船が停泊していた。近くを進む漁船が可愛く見える大きさだ。

「おや……あれは有名な豪華客船だよ」

 珍しく疾風が、驚いたように声を上げた。

「え、かぜっちマジ?」

「うん、日本の会社が所有する船だけど、世界一周料理したりする船だよ。旅行プランにもよるけど、最低でも百万はする気がしたよ」

「最低百万って凄いな……」

 誰が乗るんだよ、そんな船。

 見れば、近くにいる人達も高級そうな服をまとっている気がする。……きっと俺たちには、永遠に縁が無い世界なんだろうな。

「――のう、はやて」

「何だい、雲ちゃん」

「あの船は、外へ向かうのかえ?」

「外……? ――ああ、そうだよ。多分だけど、あれは外国へ向かう」

「ほう……。わしもいつかは、赴いてみたいものじゃ。どんな世界が広がっているのか、心が躍る」

 そういえば江戸時代は、鎖国だったんだっけ。海外に行く、なんて考える事すら無かったんだろうな。考えそのものが異端扱いだったらしいし。

 そんな雲が、海外に興味を持った。もう、コイツは単なる“江戸時代出身の座敷童”じゃないのかもな。



 腹ごなしの休憩をした後は、

「次に行くのは中華街!」

 へ移動。

 『サークルウォーク』という珍しい円形の歩道橋を渡り、みなとみらい線馬車道駅へ向かう。

「さっきは汽車道で、今度は馬車道駅か。……紛らわしいな」

「実際には似て非なる物だけどね」

 疾風に言われなくても分かっている。ちょっと思っただけだ。

「“きしゃ”は知らんが、馬車は知っておるぞ。馬が重い荷を運ぶのじゃろ?」

「それ荷車……」

「ぶふっ……! モクっち面白すぎ!」

「……わし、何か間違った事言ったかのう……」

「ま、間違ってないよ。カナがいきなり笑うのがいけないんだから」

「えっ? 私が悪いの?」

「雲さんは真剣だったんだから! それを笑っちゃダメっ」

「……はーい」

……何だこの光景。

「――明星」

 突然、疾風が顔を寄せてきた。

「何だよ」

「分かってるだろう? 天然な雲ちゃんに口止めをしてない現状、かなり怪しまれてるよ」

「……どうしろってんだよ。入学式で本当の事話したんだぞ?」

「あれから一ヶ月経った。もう一度話してもいいんじゃないかな?」

「受け入れてもらえなかった時、雲を孤立させたくない。――分かってくれ」

「……それが、明星の答えなんだね?」

「ああ」

「分かった。じゃあ僕も、雲ちゃんのためにできるだけ協力するよ」

「……助かる」



 駅に到着した俺は、みなとみらい線が地下鉄だと知った。

 事実として知ってはいたが、本当に地下を電車が走るんだな……。

「崩れたらどうするんだ……」

 思わず漏れた独り言を、

「それ、建物が倒れるのと同じ心配だよ? 普段学校で、そんな心配する?」

 逃さず拾うカナさん。

「しないけど、地下って逃げ場ないじゃん」

「建物が崩れても、落ちて助からないよ?」

「……オーケー分かった。俺の負けだ」

 どうやら俺の不安は、カナさんにとっては常識のようだ。疾風や日和さんからも同意が無いという事は、つまり神奈川での常識なのだろう。初めて現代に放り込まれた雲の気持ちが分かった気がする。

 みなとみらい線に乗り込み、目的地である終点、元町・中華街駅で降りる。平日の午後だが、観光客らしき人がかなり多い。

 駅を出て少し歩くと、『街華中』と黄金色の文字で書かれた門が見えてきた。“朱雀門”というらしい。

「ほほう、何とも絢爛な門と通りじゃな。美味そうじゃ」

「前後の発言おかしいからな!?」

 だがまだ入り口であるにも関わらず、溢れる肉汁を彷彿とさせる匂いが漂ってくる。座敷童の意識が食べ物に持って行かれたのも分かる。

「ここは中国の街並みをモチーフにしてるんだよ。――雲ちゃんには、清国って言えば伝わるかな?」

「清国! 聞いた事があるぞい。我が国の隣で栄える、文明大国じゃな?」

「そうそう。ここは、その未来の姿だと思えばいいよ」

「うむ、心得た。どうりで美味い匂いがすると思うた」

「だから話繋がってないから!」

 ダメだ。この座敷童、すでに目が肉になっている。

「きら! 金をよこせ!」

「そのセリフ、完全にカツアゲだぞお前!」

 輝く笑顔で手を差し出す雲に、

「ぶっふっ……! ぷくっ……! モクっち面白すぎ……!」

 カナさんはツボり、

「く、雲さん、皆で一緒に食べようね……?」

 日和さんは周囲の視線を感じてアワアワしている。

「ひよりが言うのであれば仕方あるまい……。――ならば早う向かうぞい!」

「く、雲さん引っ張らないで……」

 早速近くのお店に突撃する雲と、引きずられる日和さん。立場的にどっちが姉か悩ましいが、相変わらずこの二人は姉妹みたいで微笑ましいな。

「これは美味そうじゃな!」

「えっと……これ二つ下さい」

「――明星、眺めてる所申し訳ないけど、東風がお金払っちゃうよ?」

「なっ――それを早く言え!」

 疾風の言葉で我に返り、日和さんが財布を取り出したタイミングで、

「俺が払いますハイ千円!」

 店員さんに千円札を手渡した。

「え、はい……お預かりします……」

 若干店員さんに引かれたが、日和さんに奢らせるよりはいい。

「明星君……? 別にこのくらい良かったのに……」

「そうもいかないだろ。日和さんはお弁当も作って、それをご馳走になったんだ。これ以上は、俺自身が許せない」

「明星君……やっぱり優しいね」

「……日和さんには負けるよ」

「私は……ただ弱いだけだよ。明星君みたいに強くないもん」

「強さは関係ないだろ。ぶっちゃけ、日和さんの優しさに甘えてる部分もあるからな……。――お前にも言ってるんだからな、雲。……雲?」

 いやに静かな座敷童を見下ろすと、

「――うむ、美味かった」

 注文した小籠包二つを、頬張り飲み込んだ所だった。

「ってそれ、一個は日和さんのだぞ!」

「ううん、お金払ったの明星君なんだから、明星君のだよ」

「もうよいわ。決まらん内に冷めては勿体無かろう。故にわしが頂いたのじゃ」

「「…………ぷっ」」

 何という無茶苦茶な自論。だがそのせいか、お互い謙虚に言い合っているのが馬鹿らしくなってしまった。

「……ここは、自分の分は自分で買うって事でいいか? 雲の分は俺が払う」

「……うん、そうだね。そうしよっか」



 改めて中華街を歩く。キチンとした飲食店も多いが、さっきのように食べ歩きできるよう出店販売もまた多い。

 それと同時に見かけるのが、

「手相占い、盛んなんだな」

 中国事情は詳しくないが、至る所に手相占いのお店が点在する。手軽でかつ明確に分かるから、やりやすいのかもな。

「手相かぁ……ちょっと見てもらいたいかも……」

 俺はこういった迷信的なモノは一切信じないが、やはり女の子としては気になるのだろうか。日和さんが自分の手を見つめる。……右手だけど。手相って左手だろ。

「やへときはよ、ひよ。ひほは運ないんはし、落ひ込むはけだって」

 ……何て?

 小籠包を頬張るカナさんが、モグモグ喋る。

「でも、せっかくの機会だし……」

 え、通じたの!?

「ほっちへもいいけど、オフフヘはひないほ〜。――ングッ……美味しかった。――どーせ、きらっちとの相性とか結婚線とかが気になっ「わーわーわーっ!」」

 うわビックリした。日和さんがいきなり大声出すなんて、どうしたんだ?

 日和さんはカナさんの肩を掴むと、目をグルグルさせながら軽く揺さぶる。

「カナ!? 余計な事言わないで!」

「ありゃ〜、図星だとは思わなかった」

「ウソだよね? 絶対分かってたよね!?」

「まあ絶対に脈なしってワケじゃないんだし、あとは自分の努力次第なんじゃない? 占ってもらうほどの関係でもないっしょ」

「それは……そうだと嬉しいけど……」

「ハイおしまい。――きらっち」

 カナさんが、日和さんの肩越しに俺を見た。

「ドジで鈍臭いけど、アタシの親友をよろしくね」

「カナ!」

「お、おう? よく分からんが、分かった」

 仲良くしてくれって意味だよな? 何で今さら?

「だってさひよ。良かったね」

「もうカナ……私が悪かったてばぁ……」

「ハイよろしい」

 ……今の勝負だったのか? 女子ってよく分からんな。

 そしてあと一人の女子はというと、

「ならばわしを占ってもらうかの」

 占い師のおばちゃんの前に座った。

「おい雲――」

 止めようかと思ったが、やめた。

「明星、これは見ものだね」

 隣の疾風も、いつものポーカーフェイスの端々に楽しさが滲み出ている。

 知っての通り、雲は江戸時代の座敷童だ。ここまで一緒に過ごして、それはとっくに確信へ変わっている。つまり、占いにおいて雲ほど特殊な相手はいないのだ。加えて、何にも動じないマイペース。面白くなりそうだ。

「これは不思議なお嬢さんだね。じゃあ左手を出して」

 雲が差し出した左手を、占い師のおばちゃんはそっと手に取る。

「お……おおお? 何だいこれは……」

 おばちゃんはかなり驚いた声を上げると、雲の顔を見た。

「お嬢さん……何者だい? この手相から、普通じゃない何かが感じ取れたよ。とてつもない、壮絶な過去を経験してないかい?」

「ふむ……無いとも言い切れんのう」

 俺は言葉を失っていた。あるだろう、お前には。『死』という誰もが経験する、しかし語る事は不可能な過去が。

「わたしは今まで何人もの手相を見てきたけど、お嬢さんみたいな……ハッキリ言うと、得体の知れない存在は初めてだよ」

「褒めておるのかえ?」

「褒めてはないね。わたしは占い師だし嘘がつけないから、正直に言わせてもらっただけさ。――過去は触れられたくもないだろう。これからを話すよ」

 ここまで来ると、続きが気になる。俺も耳を傾ける。

「――必死で自分をアピールしな。お嬢さんの生命線、一度途切れてるのさ。年齢的には、二十歳前って所かね。誰かに必要とされるような、そんな人間になる事だね。誰か一人でもいい。自分がここにいると、その想いを届かせるようにね」

「うむ、忠告、痛み入る」

「お嬢さん、気に入ったよ。是非また、顔を見せておくれ」

「心得た。心に約したぞい」

「お代はいらないよ。今後の人生、目一杯生きるんだね」

 流石は占い師なのか、明確な事は何も話してくれなかった。だが、このおばちゃんは本物だろう。手相でそこまで分かるのかよ。

「ふむう、難しい話は苦手じゃ……」

 ――雲のこれから。何が起きても、冷静でいられる覚悟を持つべきかもしれない。


















 翌日、雲の起床時間はいつも通りに戻った。く……やはり遠足補正がかかっただけだったか。毎日あれだけ準備を完璧にしてくれたら、どんなに楽か。

「ふあ……良い匂いがするのう……」

 雲のパジャマは浴衣に変わった。流石に着慣れているだけあってか、帯紐はキチンと結ばれてはだける事もない。

 これなら、毎朝慌てる事なく用意ができる。

「頂くのじゃ」

「いただきます」

 朝食を終えた直後に、俺は雲の制服を持って背後にスタンバイ。羞恥の薄さは相変わらずなので、着替えの時は所構わず脱ぐ。特に朝は、コイツのマイペースっぷりに磨きがかかるのだ。

 雲が浴衣を脱いだ瞬間に、制服のシャツを着せる。こうすれば、スッポンポンの雲を見る時間が少ない上に着せやすい……って、スッポンポン?

「お前パンツはどうした!?」

「昨晩は気分が乗らなかった故、脱いだ」

「気分でノーパンとかやめてくれます!?」

「最近暑くなってきおったし、脱いだ方が、涼しかろう?」

「……まあ、確かに」

 ――って納得するなよ俺!

「パンツは履け! 日和さんも同じ事言うぞ!」

「……むう」

 日和さんの名前を出した瞬間、雲は大人しくなった。ありがとう、日和さん。そして勝手に名前使ってごめん。

「……きらは、良うひよりの名前を呼ぶのう」

「ん、そうか? それは、日和さんが優しくて優秀だからだろ」

「……わしよりもか?」

「何を比べるかにもよるだろうが、生活力なら日和さんが圧倒的に上だな」

 勿論、俺よりも。

「……わしとひよりなら、どちらを取る?」

「は? そんなモン選べるかよ。大体お前が座敷童ってんで、一緒に住んでるんだろ」

「わしが座敷童でなければ……共にはおらんと?」

「そこは何とも言えない。だって、お前は一度死んでるんだからな。――まあもし幽霊みたいな登場されたら、お祓いしてたかもしれん」

「……それは冗談にもならんぞい」

「悪かったって。お前は今、こうして一緒に暮らしてるんだ。それでいいだろ?」

「……うむ」

 最近、雲はこうして日和さんの名前を出すと拗ねる時がある。ケンカでもしたのだろうか。今日、訊いてみようかな。





 ところがいつまで経っても、日和さんが迎えに来ない。電話してみたが、繋がらない。

「……どうしたんだ?」

 そろそろ遅刻のデッドラインだ。

「来ないのであれば仕方なかろ。寺子屋で待つとしようぞ」

 雲の言う通りだ。寝坊かもしれないが、もしそれで俺たちが遅刻したら彼女がどんな顔をするか……簡単に想像できてしまう。

 諦めて家を出て、いつもの集合場所へ向かう。

 当然疾風とカナさんは来ていて、

「遅い! 遅刻ギリギリになっちゃうでしょ――ってひよは?」

「うちに来なかった。電話にも出なかったし……カナさんにも連絡きてないのか?」

「うん」

「疾風は何か知らないか?」

「どうして明星やカナさんに連絡しないで、僕に連絡が来るんだい?」

 ……それもそっか。

「まあひよの事だし、疲れて寝坊とかでしょ! 先に行っちゃおう!」

 付き合い長いカナさんがこう考えるんだし、きっとそうなのだろう。何だかんだで、昨日は結構歩いたからな。





 やはりギリギリの時間に教室へ到着すると、すぐにHRが始まった。俺の隣は、空席。

「せんせー、ひよ――東風さんはどうしたんですかー?」

 HRが終わった後、カナさんが手を挙げて訊ねると、

「えー東風さんは風邪でお休みです」

 という返事が来た。



「ひよ、風邪だってさ」

「うん、聞いた」

 先生が出て行ってすぐに、四人で集まる。

「もしかしたら、昨日の疲れが出たのかもね」

「だよねー。体力ゼロのひよには、ちょっと厳しいプランだったかなー」

 やはり原因があるとしたら、昨日の遠足だろう。カナさんの予想が、悪い方に外れてしまったのか。

「ひより、おらんのかえ?」

「ああ。すぐに治るようならいいんだけどな……」

 あまり身体が丈夫そうには見えなかったし、長引かないか心配だ。

「――お見舞いに行こう!」

 暗いムードが漂う中、カナさんが声を上げた。

「うん、それはいいアイデアだね。風邪を引くと余計人恋しくなるし、きっと喜ぶんじゃないかな」

「だよね! アタシらの元気を分けてあげれば、すぐに良くなるハズだよ!」

 うわぁ、超精神論……。

「……きらっち、何さその目は。嫌なら行かなくていいけど?」

「いや行く。俺も心配だし」

「うん、そう言うと思った。きらっちパワーで、風邪なんかパパッと退治しちゃってよ!」

 カナさんの、風邪に対する考え方が凄い。本気で考えてそう。

「しかし……この人数で押しかけては、迷惑ではなかろうか?」

 突然、雲がらしからぬ事を言い出した。

「……どうしたんだ? 何か変なモンでも食ったか?」

「わしはきらと同じ物しか食っておらん」

「例えだよ……真面目に返すな」

「病に伏しているのであれば、あまり騒ぐのも良くなかろうて。最も仲の良い、かなだけ向かえば良いと思うがの」

「ん〜平気じゃない? 単なる風邪みたいだし、そんな悪化する事ないでしょ」

 俺も同意見だ。いきなりそんな事を考慮するとは、一体どうしたんだ?

「お前、日和さん心配じゃねーの?」

「……心配しておるに決まっておろう! じゃから、ひよりの為に……。ひよりの……為?」

 激昂から一転。何かを思案する雲。

「――やはり、皆で向かうが良いじゃろう」

「だよねモクっち!」

 コイツは今、何を考えたんだ? らしくない事を口にする座敷童に、そこはかとない違和感を覚えた。

「……わしは、何を思うた……? ――いや、しかしひよりにそれは……」






 放課後、一度スーパーへ寄ってリンゴを幾つか購入。それから日和さんの自宅へ向かった。

 毎朝我が家へ迎えに来てくれる日和さんだが、逆に俺は日和さんの家を知らなかった。カナさんに案内されて着いた場所は、距離的には我が家と学校の間。つまり、日和さんは一度反対へ向かってから登校するという事になる。……申し訳ないな。

 日和さんの家は、ベランダ付きの一軒家だった。ただ、うちと違って花壇があり、色とりどりの花が咲き誇っていた。……ベランダがあるのは羨ましいな。洗濯物干すの大変なんだ。

「きらっち、準備はいい?」

「……何の?」

「どーせきらっちは、クラスメイトの女の子の自宅にお邪魔する機会なんて無いと思うから。心の準備」

「……そんな事は、ないぞ」

「あ、ウソだ」

「ウソじゃねーし!」

「はいはい、余計な見栄は張らなくていいからね〜」

 ぐ、ぬ……。

 一通りからかったカナさんは、インターホンを押す。

『……はい』

 しばらくして出たのは、少し元気の無さそうな日和さんの声。

「宅急便でーす!」

 いやウソつくなし!

『ちょっと、待ってて下さい』

 ああホラ、日和さん信じちゃったじゃん。

「お見舞いは、サプライズ!」

「それっぽい言葉でドヤ顔しない! 相手は病人なんだから!」

「――はい、お待たせしました……」

 そこで出てきたパジャマ姿の日和さんへ、

「皆の元気を、お届けに参りましたー!」

「ひゃああああ!?」

 カナさんは大声で挨拶。

「か、カナ……? それに明星君に皆も……」

「お見舞いに来たよん」

「え? あ、ありがとう……」

 いまいち状況が飲み込めていない様子の日和さん。……カナさんが悪いな。

「えっと……とりあえず、上がって……?」

「お邪魔しまーす」

 カナさんに流される日和さんに促され、中に入れてもらう。

「日和さん、ご両親は?」

 って父親は確か単身赴任中だっけか。

「お父さんは、北海道だし……。お母さんも、パートがあるから出掛けちゃった」

「ひより……独りだったのかえ?」

「うん、よくある事だから」

 そう答える日和さんは、無理をしているようにも見える。

「でも、来てくれてありがとう。やっぱり一人で、寂しかったから……」

「うんうん、そうじゃないかと思ったんだ!」

 日和さん――というよりはカナさんが先行し部屋の前へ。

「ここがひよの部屋でーす!」

 うんまあ、『ひより』という可愛らしいネームプレートが掛かっているし、誰でも分かる。

「えっと、どうぞ」

 日和さんがドアを開け、中が少しだけ見える。うーん、ファンシーさが漂ってくる。

「…………」

 何となくでここまで来てしまったが、日和さんの部屋か……。緊張するな……。

「ホレ、変な所でチキンハート発動させてないで、入った入った! 後ろつかえてるんだから!」

 そんな俺の背中をカナさんが押し、倒れるように入室。

 黄色いカーペットに、ピンクのカーテン。棚にはファンシーなぬいぐるみが何体か鎮座し、中心の丸テーブルにも可愛らしい装飾が施されている。

 まさに、『女の子の部屋』だ。

「おや、東風らしい部屋だね」

「ほー、何とも面妖じゃな」

 ここに立っているだけで、メルヘンな気分になりそう。

「あ、あんまり見ないで……」

 カナさんに「病人は寝る!」とベッドに寝かされた日和さんが、恥ずかしそうに目で抗議してきた。

「日和さん、熱は?」

 適当に腰を下ろし、気になっていた事を訊く。

「もうほとんど引いたから、明日には学校行けると思うよ」

 一度は寝かされたものの、身体を起こした日和さんはほぼいつもの声だ。

「やっぱり、昨日の遠足?」

「うーんどうだろう。お医者さんには、疲れが溜まったせいで免疫力が落ちたからって言われたけど」

 それは間違いなく、遠足が原因だろう。……俺が巻き起こしたハプニングが原因じゃないよね?

「もうちょっと電車使うプランにすれば良かったよねー。ごめんひよ」

 責任を感じているのか、ペコリと頭を下げるカナさん。

「ううん、多分遠足だけが原因じゃないから。自分で体調管理をしなかったせいだと思う」

「ひよならそう言うと思ったけどさー。アタシは謝ったからね。ひよはもっと、周りを頼ってもいいんじゃない?」

 カナさんは俺を親指で示すと、

「あそこには最高のパシリがいるんだし」

「パシリじゃねーし!」

「じゃあひよに何かを頼まれたら?」

「……引き受ける」

「ハイパシリ確定」

 な、何故か論破された……。

「ところでひよ、電話したのに何で出なかったの?」

「電話?」

 日和さんはキョトンとすると、枕元にあったケータイを手に取った。

「……あ、電池切れてる……」

 オイオイ。

「なーにやってんの!」

「い、今充電するね」

「いやいや、今から充電しても遅いでしょ! アタシらここにいるんだから!」

「た、確かに……」

 それでも一応充電する日和さん。――というか、カナさんがツッコむとは……。レアなモノ見た気がする。

「まったく、心配したんだからね!」

「あ、ホントだ。不在着信が十三件……一つは明星君だけど、残りは……」

 日和さんはチラリとカナさんを見やる。

「……心配したんだから!」

 そっぽを向くカナさん。

「ふふっ、ふふふっ……ありがとね、カナ」

「美しい友情だね」

「だーもう! あんまり言うと怒るからね!」

 カナさんの顔は、隠せないほど赤い。今日はずっと一緒にいたハズなのに、いつの間に電話したのだろうか。もしかしてケータイいじっているように見えたの、あれがそうなのか?

「きらっち、それ以上考えたらパンツ投げるからね!」

 そう言ったカナさんは、タンスの前にスタンバイ。一番上の棚に手をかけた。何でパンツ!?

「そ、それ私のだよ!」

「知ってる。ひよじゃあるまし、この場で脱いで投げるワケにもいかないっしょ?」

「私だってそんな事しないもん!」

「でも去年くらいに、寝ながら暑い暑いとか言いながらパジャマ脱いだじゃん。あれはビビったよ?」

「そ、それは……私覚えてないし、寝てたからノーカウント!」

 カウントの問題か……? それに日和さんの寝相、あの日限定じゃなかったんだな……。

「東風、意外と大胆なんだね。奥手と鈍感で希望なしかと思ってたけど、ひょっとしたらチャンスあるかもね」

「ほ、ホントに? ――って小鳥遊君! 余計な事言わないで!」

「いや、僕は夜の東風がどれほどなのか詳しくは知らないけど、それを日中でも生かせればいい武器になると思うよ」

「そ、そうかな……?」

「むしろそれが使えないと、かなり苦労しそうだよ?」

「さっきからお前は何を言ってんだ! ――日和さん、できればあれは表に出さない方がいいぞ?」

「お? “あれは”って事は、きらっちも体験済み?」

「……え?」

 しまった。ツッコミのついでに余計な事を……。

「わ、私、明星君に何しちゃったの……?」

 日和さんは、不安と羞恥と好奇心がない交ぜになったような表情だ。

「アタシも聞きたいね〜。――ちなみにアタシの時は、パジャマを脱ぎ捨てて無駄に巨乳をアピールしてきたからちょっとムカついた」

「カナ!」

 後半感想じゃん。

「明星、これで答えないのは卑怯者だよ?」

 お前……! 被害ないからって楽しみやがって……!

「あー…………」

 抱き枕にされましたと白状するのは簡単だが、どう考えてもそこから根掘り葉掘り訊かれる未来しか見えない。――それに、せっかくの機会だ。言っておきたい事もある。

「……どうして、一緒にいてくれるのかって言われた」

「え……?」

「大した取り柄も無いのに、カナさんのおまけみたいな自分とどうして一緒にいてくれるのか、みたいな事を言われた」

 少し記憶が曖昧だが、大方間違ってはいないだろう。

「それ……ひよが言ったの?」

「寝言だと思うけどな」

 それはつまり、本音だという事だ。何も防御しない、心の奥の声。

「……っ!」

 カナさんは突然立ち上がり、日和さんを睨みつけた。

「ひよ……そんな事考えてたの? 自分はおまけだって、そんな事を?」

「それは……」

 否定しきれないのか。いや、嘘をつきたくなかったんだろうな。『そんな事ない』と笑えば済む話を、そうしない。どこまでも優しい彼女らしいけどな。

「そんなワケないでしょうが! アタシは誰よりも、ひよを大切に思ってる! ずっと一緒に過ごしてきたひよは、一番の友達だもん!」

「カナ……」

「アタシはそう思ってる! ――でももしひよが違うんなら、今ここで言って! 正直に、隠さず、全部!」

 感情を爆発させたカナさんは、

「……以上!」

 もう一度腰を下ろした。

「――一応言っておくけど、僕もカナさんと同じ意見だよ。付き合いは短いけど、東風は自分が考えてるような低い存在じゃないよ。それは断言できる」

「俺もだ。前にも言ったと思うけど、俺は日和さんといたいしその方が楽しい。気の合わないヤツと、上手くやるほど器用でもないから」

「ひよが控えめなのは知ってるけど、ネガティブシンキングはナシ!」

 しばらく黙っていた日和さんは、

「私……不安だっただけなの。皆いい人だから、どう思われてるのか気になって……。――でも違うんだね。不安だから一歩退くんじゃない。前に歩いて、自分で乗り越えないといけないんだね」

 日和さんは一度目を閉じると、

「――私、皆が友達で良かった!」

 今までで最高の笑顔を見せた。それは、他のどんな表情よりも魅力的に見えた。

「一件落着、だな」

「うん。――ねえ明星君」

「ん?」

「ありがとう。私、自分の弱さに逃げずに向き合えた。明星君の、おかげで」

「俺は何もしてないよ」

 元々、話を振ったのはカナさん。立ち向かったのは日和さん自身だ。

「でも、ありがとう」

「……どういたしまして」

 俺は気恥ずかしくなり、お見舞い品のリンゴが入ったビニール袋を手に取った。

「リンゴ剥くよ。台所と包丁借りていいか?」

「うん、どうぞ」

 優しい微笑みと視線を背後に感じながら、俺は部屋を出た。



 ――この時、どうして気付かなかったのか。恐ろしいほどの、あの違和感に。





 俺が台所でリンゴをカットしていると、

「せっかくだし、ウサギの形にしてみるか。……不恰好にならないといいけど」

「――明星」

 名前を呼ばれて振り返ると、疾風が立っていた。無表情で、顔が少し青白い。……珍しいな。コイツがここまでポーカーフェイスを乱すなんて。

「どうしたんだ? つまみ食いなら勘弁してく――」

「雲ちゃんは、どこだい?」

「は?」

「明星が出ていった後すぐ気付いたんだ。……雲ちゃんは、どこに行った?」

「…………」

 そういえば、途中から雲の声を聞いた記憶が無い。部屋に入った時、確かにいたのは、覚えているのだが。

「トイレとかじゃないか? アイツは空気なんか読まないし、もしくは勝手に他の部屋に――」

「調べたよ! トイレも他の部屋も全部、名前呼んで回った!」

 疾風の奥から、カナさんが血相変えて口を開いた。

「雲さん、どこにもいないの……」

「じゃあどこに……」

 いくらなんでも、この家から出るとは考えにくいが……。

「明星」

 疾風の表情は、今までになく真剣だ。

「雲ちゃんは普通の女の子じゃない。三百年間で見えたのは、明星だけなんだろう? それならその逆も、もしかしたらあるんじゃないかい?」

「……いやいや、まさか……」

「事実、雲ちゃんはどこにもいない。そうとしか考えられないだろう?」

 疾風は小さく首を横に振る。

「――雲ちゃんは、僕らの前から消えたんだよ」

「っ……! ふざけんな! そんな事あるか!」

 反射的にそう叫びながら、俺は外に飛び出していた。

「ちょ……きらっち!?」

「雲さんが消えたって……どういう事なの、小鳥遊君!」

「…………ふぅ。もう隠しておく意味もないか。――二人共、よく聞いて欲しい」



 ――日和さんの家を出た俺は、まず近くを無作為に走り回った。

「雲……どこ行きやがった……!」

 突然いなくなった事に動揺しながら、俺は同時にゾッとしていた。

 疾風に言われるまで、俺は雲の存在に気付かなかったのだ。いつも隣にいたハズの、“当たり前”に。

「――明星君!」

 曲がり角で、別方向から来た日和さんに呼び止められた。

「雲さん、いた?」

「……いや」

「そっか……。――小鳥遊君から全部聞いた。座敷童だって事も、……三百年前に、一度死んじゃったって事も」

「…………」

「本当……なんだよね?」

「真実は分からないけど、確信はある。アイツがウソを貫き通せるとは思えない」

「うん、私も、そう思う」

 日和さんは一度目を伏せて、

「今、皆で手分けして探してるの。私は、病み上がりだし遠くに行くなってカナに言われたけど……――何か心当たりは無いの? 雲さんが行きそうな所とか……雲さんがいなくなっちゃった理由とか!」

「分からない……」

 そもそも俺は、雲について詳しい事は何も知らないのだ。生意気。大食い。礼儀知らず。理解した気になっても、出てくるのはそんな特徴ばかりだ。それが今、何の役に立つというのだ。

「とにかく、私はもっとこの辺りを探してみるね」

「ああ。俺は雲と行った場所を、しらみ潰しに探してみる。もし見つかったら、電話してくれ」

「うん、分かった」

「でも、無理だけはしないでくれよ? これで日和さんが倒れたら、雲も自分を責めるかもしれない」

「明星君も……無茶しないでね」

「約束だな」

「うん、約束」

 俺は日和さんと別れ、再び駆け出す。

 まずは……学校だ。





 徳巡学園に到着すると、すっかり葉桜になってしまった桜並木が出迎える。あの桜吹雪の一瞬が、幻だったかのような錯覚に陥る。

 そんな暗い思考を振り払うと、正門の脇に控えている守衛さんに声をかける。

「……あの、ちょっといいですか……?」

「ん……?」

 この学校に男子が、と一瞬警戒の色を見せた守衛さんだが、俺が制服を着ているのを見て納得したようだ。

「ああ! 何だキミか。どうかした?」

 流石に二人なら、記憶に残るらしい。

「あの個性的な妹さんは元気?」

 ありがたい事に、雲の事も覚えていて向こうから話を振ってくれた。

「あ、あの、実はその事で質問なんですけど……。アイツ、学校に来ませんでしたか?」

 すると守衛さんはしばらく記憶を遡る仕草をした後、

「うーんいや……見てないね。校内へ入るにはここを通るしかないし、いたらすぐに気付いたと思う」

「そうですか……ありがとうございます」

 俺は頭を下げると、踵を返した。

「あ、ちょっとキミ! 妹さん……どうかしたの?」

「いえ、何でもないです。――もし見かけたら、保護してくれますか? お願いします」

そう告げると、地面を蹴る。持ち場を離れられない守衛さんは、見送るしかないだろう。

……さて、次に向かうのはあそこだな。雲、お前はどこに行っちまったんだ?



 ――ドアを開けると、ベルがチリン、と音を立てた。

「あら明星くん、いらっしゃい。一人?」

 出迎えてくれたララさんが、ニコッと笑顔を見せる。――ミラクルエイジだ。

「閉店時間ギリギリねぇ。間に合って良かったわ。――ここで食べるの? それともお持ち帰り?」

 ミラクルエイジでテイクアウトができる事を初めて知ったが、今はそれどころではない。

「いや、今日はお客じゃなくて……雲、見ませんでしたか?」

「雲ちゃん? いいえ……うちには来てないわね」

「そうですか……」

 ここにもいない、か……。

「待って。……何かあったのね?」

 ララさんは、真っ直ぐ俺を見てくる。自分も協力すると、目が訴えている。

「……雲が、迷子なんです」

 俺は座敷童云々は伏せて、雲がいなくなった旨を伝えた。

「そう……。もしかしたら、商店街の路地かもしれないわ。あそこは入り組んでいて複雑だから……」

「じゃあ今すぐそこに――」

 ララさんは優しく首を横に振ると、

「そこには私が行くわ。道を把握していないと、明星くんも迷子になっちゃうかもしれないもの」

「……分かりました。すみません、ご迷惑をおかけして……」

「いいのよ。雲ちゃんは常連さんだし、これからもお店の売り上げに貢献してもらいたいの。――着替えたらすぐに行くから、明星くんは人目に付きやすい場所をお願いできるかしら。……何か心当たりがあるんでしょう?」

 微笑むララさんに一礼すると、俺はミラクルエイジを出る。

 心当たりは、無いワケではなかった。何の根拠もない閃きのカンだが、今の俺はそれに頼るしかない。



 ――やってきたのは、ショッピングモールだ。雲と、日和さんと、買い物をした場所だ。

 まずは一番近くのフードコートを覗いてみるが、雲の姿は無い。店員さんに訊いてみたが、首を横に振られただけだった。

 俺はエスカレーターを上ると、雲の浴衣を買った家族向けの服屋に入る。

 そこまで広くない店内に、やはり雲の姿は無い。店の奥には、今朝雲が着ていた浴衣と全く同じ商品がハンガーに吊るされていた。

「ここでもない……!」

 俺は店のブースを出ると、斜め向かいにあるランジェリーショップに向かった。

 あれほど抵抗があったカラフルな世界に躊躇なく足を踏み入れると、疑問と警戒の視線を感じながらレジで雲について訊ねる。

「いいえ……。見てませんね」

 だが、ここでの返事も芳しくなかった。

「迷子センターに連絡しましょうか?」

 ありがたい申し出だが、いるかも分からない相手を呼び出すのはどうかと思うし、その間ジッと待っている事なんてできない。

「もう少し探して見つからなかったら、そうします」

 俺はそう言ってお礼を告げると、次の場所へ向かった。



「――あとはここか……」

 やって来たのは、日和さんの服を買ってあげたお店。

 ここにいなければ、正直お手上げ。ここが最後なのだ。――俺と雲が同じ時間を過ごした場所は。思い出を共有した場所は。

「髪の長い女の子……?」

「見れば分かる長さです。小学生くらいの背で、話したなら変な言葉使うヤツなんです」

「いや……見てないですね」

「そう……ですか……」

 ここでも、ない……。じゃあ、本当に雲は誰にも見えなくなってしまったというのか……。

 俺が絶望しかけた時、

「そういえば、しばらく前にもいましたね。そんな女の子」

 店員さんが不意に口を開いた。

「一人でいたので迷子かと思って話し掛けたら、『◯◯じゃ』とか珍しい口癖の女の子が」

「それです! その子です! どこにいましたか!?」

「す、すいません、見たのは今日じゃないんです……。二週間くらい前に、そこの更衣室の前で……」

 と指差された更衣室は、いつぞやに俺が突撃してしまった更衣室だ。確かにあの時、雲は外で店員さんと話していた。保護しようとした店員さんを断り、変な事を言って――

「……あ」

 突如、脳内に雲のセリフがフラッシュバックする。

『わしはここを動きとうない。きらは必ず、戻ってきてくれると信じておるからの』 

 そして、俺自身の言葉も。

『お前の居場所はこの場所、この家だ。もし何かに迷うような事があったら、ここに戻って来い。俺はいつでも受け止めてやる』

「……ああ」

 そうか。そうだったのか。思い浮かんでいたカンや考えが、まとまってカチリとはまった。

 ――あるじゃないか。もう一ヶ所、まだ行っていない場所が。

「すみません、居場所、分かりました」

「え? あ、それは良かったです……?」

 一人合点で置いてけぼりにしてしまったようだが、もうどうでもいい。

 俺は再びダッシュでショッピングモールをあとにした。





「――よう、一時間ぶりだな」

「…………」

 俺は佇む座敷童に、皮肉を込めてそう言葉を贈った。

 ――場所は、我が家のリビングだ。



 夕陽の差し込むリビングで、俺と雲は対峙していた。まるで、初めてこの家に来た時と同じように。

「お前、今までどこに行ってたんだよ。探したんだぞ?」

「…………ふん、ぬかしよる」

 雲の表情も口調も、冷たい。何かを押し殺しているかのようだ。

「突然いなくなったら、驚くだろうが」

「…………それが、どうした」

「どうしたってお前……、そんな言い方はないだろ。カナさん達も、心配して一緒に探してくれてるん――」

「誰がそのような偽善行為をせよと言うた!」

「な、ん……」

 突然響いた雲の叫び声に、俺は言葉を失った。

「探す? 心配? 今更取り繕いおって……それで誰が救われるという! 姿を消した途端慌ておって。そもそもそちは、わしが消えた事に気付かんかったろうが!」

「それ、は……」

「所詮わしは、現代に生きる存在ではない! この口調も! 知識も! ……わしが劣っておろう?」

「それは、関係ないだろ。誰もそんな事、言ってないぞ?」

「言わんでも、感じ取れるわ。そんな世辞は聞きとうない」

「お前……! じゃあ、日和さんが言っても本心じゃないって思うのか――」

「――その名を出すでない!」

 絶叫。耳を塞ぎ、雲は叫んだ。

「その名を聞くだけで、わしはおかしくなりそうなんじゃ……!」

「どうしたんだよ……。あれだけ慕ってたのに……。何があったら、そんな風に嫌えるんだよ……」

「違う……。ひよりが嫌いなのではない……。それは違う……」

 違う、違う、と繰り返す雲。――もしかしたら、日和さんが、雲が見えなくなった理由と何か関係があるのかもしれない。

「違う……。ひよりは悪うない……。わしが……わしが……。所詮死人の分際で……」

 ブツブツと呟く雲。

「…………!?」

 なんと、突然その姿がユラユラと陽炎のように揺れるではないか。

 まさか、これが消える合図……!?

「――雲!」

 その直後、俺は雲を抱き締めていた。何の考えも無い、反射的だった。

「きら……」

 触れる。まだ、雲はここにいる。

「雲、話してくれ。俺は、お前に消えて欲しくない。……もしウソだと思うんなら、それでもいい。――でも、何も分からないまま見えなくなるのは嫌なんだ!」

 強く、抱き締める。絶対に、この温もりを逃してなるものかと想いを込めて。

「わしは……わしとて……きらと別れとうない!」

 雲も、俺の背中に手を回して力を込めた。――やっと、雲の本音に出会えた気がする。

 雲は、この場所に戻ってきたのだ。俺と出会って、俺がいるこの場所に。そう、約束したではないか。

「わしが……わしが悪いのじゃ! ――きらの前には、いつもひよりがおる。当然であろうな、あれだけ人となりができておれば。――いつからであろうか。わしの心に、えも言われぬ塊が生まれた。それは消える事なく、大きさを増していった。――わしはそれを無い物として、日々を過ごしておった」

 雲が、突然俺のシャツを強く握り締める。

「じゃが……先ほど気付いてしもうたのじゃ。あの塊が……これが、ひよりを邪魔だと思う心じゃと! ――唐突に、二人は名で呼び合い始めた……。その程度で、わしは思ってしまう……。――きらは、ひよりを見ておる。それが憎いと、わしは思ってしまう……。――それに、気付いてしもうたのじゃ。大好きなひよりが、消えてしまえば良いと……」

 段々と、雲の声が震え始める。

「わしは……一度死んでおる。こうして肉体がある故も、未だ分からぬ。――わしには! ……きらしかおらぬ。わしを認めてくれたのは、きらだけなんじゃ」

 俺の肩が、濡れていくのが分かる。――雲が……泣いている。

「そんなきらがわしに背を向けたら……わしはどうすればいい? もう、ここに生きる意味も無くなってしまわぬか……?」

 不安に押し潰されてしまいそうな、か弱い声。

「助けてくれぬか……きら」

 それは、三百年生きたとか、座敷童とか、そんな事は関係ない。一人の少女の、心の底からの懇願だった。

「…………」

 言葉で伝えても、恐らく心の奥深くまでは届かないだろう。それだけこの闇は、深い。

 ――それなら、だ。

 俺は雲の肩を掴んで抱擁を解くと、その顔を見つめる。

 初めて見る、雲の涙。全ての感情が溢れ出した、心から溢れた涙。……この顔を作ったのは誰だ? 誰の不甲斐なさが原因なんだ?

 ――男なら、責任を取らなければなるまい。

「…………雲」

「――んっ……!?」

 俺は自分の唇を、雲の唇に重ねた。

 ――時間にすれば、ほんの一秒程度。だが永遠にも感じるキスを終えると、

「きら……?」

「前に……お前言ったよな。唇は、俺が全てを受け入れた時だって――つまり、これは……そういう事だ。俺の想いだよ。言ったろ? 受け止めてやるって」

 早打ちし続ける心臓の鼓動を抑えるように、俺はぶっきらぼうに口を開く。

 半ば放心の雲は、自分の唇をそっと触ると、

「これが、きらの答え……。――ああ……。救われた……。救われたぞい……。わしが生きる意味を、ようやく見つけられた……」

 日和さんに負けじ劣らず、最高の微笑みを見せた。

 ――同時に俺は、雲の中で何かが弾け消え去ったのを感じた。

 日和さんに対する……いや、もしかしたら誰からも認識されなかった頃から成長を続けたきた、雲の負の感情。

 嫉妬――よりも遥かに重い、孤独への恐怖。雲の存在を支配していたそれが、確かに消滅したのを感じた。

「ずっと、一緒だ。俺は、絶対にお前を独りにはしない。人生を懸けて、約束する」

 俺は、右手を真っ直ぐ差し出す。

「……うむ、約束じゃ。わしも、そちに何処までもついて行く」

 雲も、右手を伸ばして指を絡める。

 この確かな温もりが、俺と雲の絆だ。いつまでも、温もり続く限り。

「――雲さん!」

 突然、リビングのドアを開けて日和さんが飛び込んできた。

「明星君が走って行くのが見えて、もしかしたらと思って来てみたの! 良かった……。また会えて良かったよぉ……」

 雲にダイブして泣きじゃくる日和さんに、雲も戸惑う。

「ひより……。すまんかった」

「ううん。また会えたからいいの。もう、勝手にいなくなったりしないでね……?」

 雲の謝罪には存在そのものの意味が込められているのだが、日和さんには伝わるハズもなく。涙を拭いてもう一度ハグ。

 抱きつかれたまま倒れ伏す雲は、ゆっくり笑顔になる。

「まったく……わしは幸せ者じゃな」

「当たり前だろ、お前は幸せを運ぶ座敷童なんだ。お前がいるだけで、皆が幸せなんだよ」

「ふふ、そうじゃな。――のう、きら」

「ん?」

「これからも、変わらず宜しく頼むぞい」

「ああ、勿論だ」

 笑い声が、部屋に漏れる。



 俺たちの毎日は、幸せと幸運に溢れているのだ。それを胸に、今日を生きていく。







 ひとしきりハグを終えた日和さんは、ケータイでカナさんと疾風に連絡した。ついでに、カナさんからララさんに見つかったと連絡してくれるようお願いする。

 ――五分ほどすると、

「モクっち!」

「雲ちゃん、見つかったんだって?」

 カナさんと疾風がやって来た。

 二人共息が上がっている。必死で探してくれたのだろう。

「かなにはやて……迷惑をかけた」

 そして雲は土下座待機。……流石は江戸時代出身。違和感が無い。

「ちょちょ……そこまでしなくていいってば! ――ん? 待てよ?」

カナさんは一瞬慌てた後、何かを考える。それから、

「面を上げい!」

 何やら偉そうに口を開いた。

「……?」

 つい反射的に顔を上げた雲の脳天に、

「――どぉっせいっ!」

 チョップを振り下ろした。

「むぎゃ!?」

 ベシャッと潰れる雲へ、

「今のでチャラ! 座敷童だか何だか知らないけど、早くいつものモクっちに戻らないと怒るからね!」

 ビシッと指差した。

「か、かな……?」

「つまり、雲ちゃんはいつも通り、今まで通りに過ごして欲しいって事だよ」

 疾風は疾風で、小さくデコピンする。

「元気出そう。難しい事情は、明星が解決してくれたみたいだしね」

「うんうん、モクっち顔が明るくなった! やるじゃんきらっち!」

「そりゃどうも」

 どうやったとか訊かれる前に、話題を逸らそう。

「――皆、走り回って疲れただろ? お菓子出すから、ゆっくりしていってくれよ」

 お菓子で思い出した。……ララさんはどうしたのだろう。連絡ついたのか?

「ララさんなら、ミラクルエイジに戻るってさ〜。またいつでも来てね、って言ってた」

 そっか……。今度改めて、お礼に行かないとな……。

「――あっ。アタシ用事あるから、おやつはパス」

 そして相変わらず、いきなりなカナさん。

「用事って何だ?」

「えっ……? きらっち、それ訊いちゃうの? もー、きらっちのえっち」

「俺が悪うございました!」

 自分の身体を抱く仕草でこちらを見るカナさん。うんこれは深く踏み込んだらダメなヤツだな!

 すると、疾風まで変な事を言い出した。

「僕もおいとまするよ。ついさっき、ララさんに呼ばれたからね」

 ララさんに……?

「何でお前がララさんに呼ばれるんだよ」

「せっかくだから、閉店時のアラウンドを教えたいそうだよ」

「かぜっちは、ミラクルエイジでバイト始めたからね!」

 オイ、初耳なんだが。

「……いつからだ?」

「一番最初は、四月の十日だったかな?」

「入学すぐじゃねーか!」

 いつの間に……! 全然知らなかったぞ……。

「だからアタシも、そのフォローに行くのだ!」

 ……あれ? 疾風のフォローなの? さっきの恥じらい何だったの?

「細かい事は気にするな、以上! ――じゃね! ひよは体調に気を付ける事!」

「それじゃあお邪魔しました。――雲ちゃん、これからもよろしくね」



 カナさんと疾風が帰ってしまったので、三人でお茶にする。

 俺と日和さんは紅茶で、雲は緑茶だ。お茶受けは、物理的に雲が届かない場所に保管しておいた高そうなクッキー。両親が送ってきたモノだが、今日なら食べてもいいだろう。

 ポリポリクッキーを食べながら、ノンビリとお茶をすする。ついさっきまで険悪な雰囲気だったのがウソのようだ。

「そういえば……雲さんが見えなくなった後、明星君はどうやって元に戻したの?」

 そんなファンタジーな表現じゃないんだけどなぁ。さっき無理矢理話逸らしたのに。

「あーいや……それは……」

 単なる好奇心なのだろうが、それを説明するのは……ねえ? 今思い出しても、どうしてあんな事ができたのか我ながら不思議だ。

「――接吻じゃ」

「お前はどうして正直に言っちゃうかなあ!?」

 これだと、俺がただ勿体ぶっただけみたいじゃん!

「せ、せせせせせ接吻って何!? キスしたって事!?」

 案の定身を乗り出した日和さんは、

「――あちゅっ!」

 盛大にお茶をこぼした。

多少冷めていたから火傷はしないだろうが、それを首元から被ってしまえば少なからず熱いだろう。

「教えて明星君!」

 って怯まないだと!?

 日和さんはテーブルを乗り越える勢いで俺に迫ると、ジッと見つめてくる。

 ち、近い……。それに、お茶がこぼれたせいで胸元が……。シャツに着替えただけの日和さんは、透け透けである。……黄色かぁ。

「騒がしいのう」

 横で緑茶をすする雲。お前がこの原因だろうが。何で呑気にお茶飲んでんだ。

「ってかクッキー食いすぎ!」

 恐ろしい勢いで、百枚以上あったクッキーを半分も減らした雲。

「三等分って知ってる!?」

「言うたじゃろ? これからも変わらず、と」

「あれってそういう意味だったの!?」

 言葉通りすぎるだろ! もっと深い意味じゃなかったのかよ!

「雲さんがよく食べるのは、今に始まった事じゃないでしょ! それに、クッキーだったら私がいくらでも作ってあげるから!」

 お、それは嬉しい。……じゃなくて!

「と、とりあえず離れてくれない……? 言いにくいけど、下着透けてる……」

「ふぇっ!?」

 ああ、ようやく気付いてくれた……。これで少しは落ち着いてくれ――

「おおおおお教えてくれるまではこのままだもんっ!」

 何で!?

「ひよりが、少々怖いのう……」

「じゃあクッキー食ってないで日和さん止めてくれ!」

「断る。これは美味い」

「人生懸けた約束がクッキーに負けただと!?」

「人生懸けた!? 明星君、雲さんと何したの!? それは高校生で許される内容なの!?」

「いや、ちょ、落ち着いて……。病み上がりなんだし……」

「風邪と交換なら安いものだよ!」

 ダメだ……聞く耳持ってくれない。



 俺は、遠い目で天井を眺める。

「はは……このよく分からん苦労も、幸せの内なのかね……。はぁ……」

【終】

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