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(上)

 一言で言うならば、地獄だった。



 見てくれない。聞いてくれない。触れない。人と生きる上で、絶対に必要な三つ。



 こちらからは全て見えるし、聞こえる。それなのに、気付いてもらえない。



 そして行く所が無ければ、死ぬ事もできない。この地獄を延々と耐えなければならない。



 もう、独りの方が楽なのに。誰もいなければいいのに。そう思った事もあり、実際にそうなった時もあった。



 そこで待っていたのは、静寂という新たな地獄。行き場のない日々を、ただただ過ごした。



 また一人、やって来た。若い。つまり、ここに居座る時間も長かろう。微かな希望に心を躍らせつつ、同時に辟易する。またあの地獄が始まるのかと。



 ――誰か、一緒に。――誰も、来ないで。誰か、誰も、誰か、誰も――――





 ――助けて。






 三月二十五日。

 場所は羽田空港国内ターミナル。

 時刻は午前十一時。そろそろ胃袋がエネルギーを求める時間帯だ。

 そんな時間に、俺は神奈川の地に降り立った。

 那覇から羽田へ。二時間半弱に及ぶ初めての空の旅は、楽しくもあり、同時に不安もあった。……だって飛行機だぞ? 墜落したらどうするんだ。

 ――という不安は杞憂に終わり、こうして無事に大地を踏み締めているワケだが。

「…………」

 俺は辺りを見渡し、賑わう土産店を眺める。

 俺が住んでいた沖縄の実家は、田舎も田舎。やっと電気が通っているような小さな島で、当然、こんな大きな建物は無い。

 仮にも十六歳。もちろん全てが初めてではないが、そんな田舎者な俺からしたら、この場所はまるで異世界のようだ。

「――あ、着いたら連絡するよう言われてたっけ」

 俺はケータイを取り出し、とある宛先へコール。する前に後ろから肩を叩かれた。

 この場でそんな事をしてくる人間は一人しかいない。俺は振り向き、そこにいる人物を捉える。

「やあ明星(きら)。久しぶり」

「ああ、久しぶりだな」

 そこに立っていたのは、我が幼なじみ。

 百八十近い身長と、サラリと流れる前髪。人の良さそうな顔立ちは整っており、彫りも深い。

 ――イケメン。

 百人中九十九人がそう答えるであろう容姿を持つそいつの名前は、小鳥遊(たかなし)疾風(はやて)。小学五年まで、同じ学校に通っていた。その後、疾風が神奈川の学校に転校。連絡は取っていたが、会うのは実に五年振りだ。

「みんなは元気?」

「ああ、元気だぞ。いつも通り今まで通り」

「それは何より。いつか会いたいね」

「……ホントに思ってんのか?」

「もちろんだよ。心外だなぁ」

「ならいいけどさ……」

 コイツ、クールというか、感情の振れ幅が小さいんだよな……。あの頃と変わらない。それがこの容姿にマッチしている分、ちょっとムカつく。

「――明星は、こっちに来るのは二回目だよね?」

「ん? ああ、そうだな。飛行機は初だが」

「前回はフェリーだったもんね」

 以前のあの日は試験日だった。

「明星も、災難だよね」

「……言うな。もう色々と諦めた」

 ――簡単に経緯を説明しておこう。

 事の始まりは、中二の春休み。俺の両親は、沖縄で観光会社を経営する社長とその秘書なんだが、その事業が東京に進出する事となった。その取り引きのため、数年間移住しなければならない両親。それに合わせて、俺の進学先と一人いる妹の転校先も東京の学校になる。ハズだった。だがその事を、たまたま電話で疾風に話した所、

「東京じゃないけど、僕が進学する高校はどうかな? 良さそうな学校だよ」

 という提案が来た。

 そこで予定を急遽変更。神奈川に住居を用意し、俺は疾風と同じ高校に願書を提出した。そして俺が猛勉強し、妹の転校手続きを始めようとしていた初冬、両親がとんでもない事を言い放った。

「ごめーん! “TOKYO”じゃなくて、“KYOTO”だった!」

 と。

 俺はあの日ほど、自分の耳を疑った時はなかった。聞いた話によると、ローマ字表記の会社名を読み間違えたとか。会社の行く末が非常に心配になるが、そこは類い稀なる経営の才能がカバーしているとかなんとか。

 そんなこんなで、両親の移住先は京都。だが俺の進学先は変更が間に合わないし、神奈川の住居も手配済みだった。

 ――そして高校に無事合格してしまったその結果、

「少し明星が羨ましいよ」

「逆の立場なら俺もそう言う」

 俺は今日から一人暮らしだ。

「……まあ、暇な時に遊びに来てくれよ」

「そうするよ。――それにしても明星、標準語上手だね。全然違和感無いよ?」

「こっちに住むって分かってから、練習したんだ。元々、学校じゃ標準語話すヤツも多かったしな」

「ふぅん……。方言が宇宙語みたいに聞こえて、孤立する明星も見てみたかったけどね」

「……冗談だよな?」

「さあ? どうだろうね?」

 怖い事言いやがる……。

「さて、僕は一旦帰らせてもらうかな。また後でお邪魔するよ」

「あ、おう。案内サンキュ」

 疾風と別れ、改めて新居を見上げる。

 ベランダも無ければ庭も無い、少々こぢんまりとした一軒家だが、一人で暮らすには勿体無い大きさだ。

 駅から徒歩十五分。入学する高校までは徒歩二十分。立地条件としてはかなりのモノだ。何故かここだけ空き家で、値段がいやに安かったそうだが……何だろうな。

「まあいいや」

 考えるだけ無駄だし、諦めて鍵を開け中に入る。引っ越しのトラックは明日来る予定だから、家の中は何も無い。

「閑散としてんなぁ……」

 玄関から短い廊下を抜けた先がリビング兼キッチン。その手前右側に、二階への階段がある。

「何にせよ、一人暮らしだもんな。テンション上がってきた!」

 そう呟きながらリビングに入ると、

「――む?」

 女の子が立っていた。





「…………」

 もう一度言おう。

 女の子だ。正体不明の女の子が、我が家の中にいる。百三十にも届かないであろう、むしろ幼女が。

 一応、ポケットを探ってみる。……うん、確かに俺が鍵を開けた。

 改めて前を向くと、

「……?」

 黒曜石のような瞳と、バッチリ目が合った。

「――えっと……どちら様?」

 そう訊く以外無かった。

「ふむ? わしは雲じゃ」

 女の子は、不思議な口調に反して甘々なロリボイスを発した。

「はあ雲さんね……。って何だそれ」

「名に決まっておろう」

 偉そうだな……。

「そうじゃなくて、何でここにいるの? てかどうやって入ったの?」

 まさか泥棒? 引っ越し初日からとんでもない事件だぞそれ……。――でもなぁ……。

 俺は改めて、雲と名乗った少女の外見を観察する。

 身長から判断すると年齢は十歳過ぎといった所だが、大人びた顔付きが年齢を上乗せさせる。何より目を引くのが、その髪だ。漆黒の髪の毛は、フローリングに届くかどうかという超ロングヘア。服装は現代では珍しい和服。だが、庶民感溢れるモノで華やかさは皆無。

「わしは初めからここにおったわ」

 そして謎の返答。

「いや鍵掛かってたよね? どうやったか知らないけど、不法進入だよ?」

「何を言うか。侵入者はそちであろうに」

 あろう事か、俺を曲者扱いしてきやがった。

「…………」

 頭が痛くなってきたぞ……。

「……とりあえず、順を追って整理していこう。――まず、君は誰?」

「雲じゃ」

「それは聞いた!」

「そちが言うたのじゃろう!」

「逆ギレ!? じゃなくて、何でここにいるかって意味!」

「わしはずっとここにおる!」

「いや意味分からんから!」

「そう言うそちこそ何者じゃ!」

「俺は今日からここに住む――」

「制圧とな!?」

「違う! 最後まで言わせろ!」

「ならばここにおる!」

「それ俺のセリフ!」

 もはや警戒心なんて彼方へ。そこまで言い合ってから、

「……ホント、君何者? それだけ教えて」

 服装といい口調といい、ここにいる事自体、普通じゃない。

「ふむ……わしも全てを把握しておる訳ではないが……」

 雲なる少女は考える素振りを見せ、同時に俺は、ここの物件の理由を悟る。

「――幽霊……いや、座敷童、かの? わしを見た者がそう驚くのでな」

 原因コイツだ。



「――じゃあ改めて訊くぞ。お前誰?」

 もう距離を置く必要もないだろう。何となくだけど。

「恐らく、座敷童じゃな。名は雲」

「座敷童って……つまり? さっき幽霊とか言ってなかったか?」

「幽霊というのはわしが持っとった考えじゃ。わしは一度死んでおるからな」

「…………は?」

「じゃが何故か身体が戻っての。その後わしを見た誰かが、座敷童と言うておったんじゃ」

「い、いや、ちょっ……」

「数を数えるのは得意ではないが、およそ百を三回といった所じゃな。わしがここにおるのは」

「ちょっとストップ。詳しく説明してくれ。死んだって……三百年って何だ?」

「そのまま、言うた通りの意味じゃ。わしは百を三つの前に死に、それから今まで、ここにおる」

 淡々と答える雲。

「お前……」

 くだらない嘘だと笑い飛ばす事もできたハズだ。だが、俺にはできなかった。ありえない場所に現れ、明らかに場違いな風貌。妙にリアリティのこもった話。

「座敷童、か……」

 気が付けば俺は、雲の言葉を受け入れていた。

「お前が座敷童だとして、これからどうすんだ?」

「ここに住むに決まっておろう」

 コイツバカだな、みたいな顔された。

「……随分堂々とした居候宣言だな」

 コイツの上から目線はデフォルトだと考えていいかもしれない。

「控えめに言うた方が良かったかえ? ――ここに住む故、宜しく頼むぞい」

「根本の解決になってねぇなそれ!」

 口調投げやりだし!

「ならばどうすれば良いのじゃ!」

「唐突な逆ギレ!? 態度に問題が――」

 そこまで言って、

 ピンポーン、と間延びした電子音に阻まれた。

「何じゃ?」

 それは、インターホンの音。

「っ!」

 トラックが明日来る以上、ここ神奈川で我が家を訪問する存在は一人だけだ。

 どうしようか……。十分前ならそのまま対応したが、今は変な幼女がいる。座敷童なんて、普通は言って信じてくれるとは思えないな……。

 とか考えていると、

「誰じゃー?」

 雲が玄関に出向いて声を掛けた。

「はっ!?」

 慌てて追いかけるが、時すでに遅し。

「明星、暇だったから遊びに来た――って誰……? 明星の声じゃないよね?」

 ドア越しの疾風はバッチリ怪しむ。

「女装に目覚めたなら話は別だけど……」

「そんなワケあるか!」

「あ、やっぱり違うんだね。じゃあ誰……?」

「あー…………」

 俺がどうしようか悩んでいると、

「とりあえず、説明よろしくね。お邪魔します」

 疾風は何の躊躇いもなくドアを開けて入ってきた。

「――この子は何者だい?」

 そして正面に立つ雲を捉える。

 ……もう、言い逃れはできないよな。

 俺は笑われる覚悟を決めて、口を開く。

「実はだな……「誘拐と監禁は未成年でも立派な犯罪だよ」聞けよ! てか言わせろよ!」

 笑われるとかの次元じゃなかった。そもそも聞いてもらえていない。

「でも明星、状況を確認してみてよ」

「状況……?」

 他に誰もいない室内。幼女が、謎の格好で立っている。

「……説得材料が無い、だと……!?」

「じゃあ明星、お巡りさん呼ぶね」

「いやいやいやちょっと待て! 説明はさせろ!」

 本気でケータイを取り出した疾風の腕を掴む。

「まあ、話くらいなら聞いてもいいかな。どうぞ」

「コイツは雲」

「僕には人間にしか見えないけど」

「……話進まないから、止めないでくれよ。コイツの名前だ」

「へぇ。分かった」

「結論から言えば、座敷童だそうだ」

「……?」

 恐らく俺も、十分前には同じ顔をしていたのだろう。疾風の怪訝な表情に親近感が湧く。

 ――とにかく、分かった事全てを説明する。

「ふむ……座敷童か……。何とも信じがたい話だけど、ここにこうして存在する以上、本当なんだろうね……。雲ちゃん本人もそう言ってるわけだし」

 物分かりのいい幼なじみで助かった。むしろ、俺より理解が早いかもしれない。

「雲ちゃんが生きていたのは、三百年前なんだよね?」

「そうじゃな」

「西暦で言えば、一七〇〇年と少し。十八世紀前半……江戸時代。ちょうど徳川吉宗の時代だね」

「完全に歴史の中じゃんか……」

 話について行けず、キョトンとしている雲を見やる。現代とはかけ離れた外見。確かに、教科書から飛び出してきたような錯覚に陥る。座敷童、か……。





「じゃあ明星、また明日。荷ほどき、手伝いに来るよ」

「ああ、よろしく頼む」

 うちにいても何もする事は無いし、雲という話し相手もできた事で、疾風は帰宅。

「本当にいいのかい?」

「んーまあ、またの機会にしておく」

 本来は一人で、現在食料も何も無い我が家だ。小鳥遊家に泊まるという話も出ていたのだが、今は雲がいる。ここに一人残すのも色々と不安だし、かと言って連れて行って事情を説明するのも面倒だ。

 じゃあ、と疾風はドアを閉め、

「そうだ雲ちゃん」

 なかった。

「何じゃ?」

「これから明星と一緒に住むんだろうけど、くれぐれも気を付けてね。明星は割と小心者だから何も無いと思うけど、もし何かあったらすぐに言ってね」

「はよ帰れ!」

「うむ、心得た」

「お前も真に受けるな!」



 疾風と別れた後、リビングに戻る。

「きら、この後は何をするのじゃ?」

「んー……特に何も無いんだよな……」

 元々疾風の家に行くつもりだったし、本当に今の我が家には何も無い。

「とりあえず晩飯買って……あとは寝るだけだよなぁ」

 弁当買えばいいよな……。自炊はしようと思うが、色々疲れたし初日は勘弁して欲しい。

「雲、何か食べたいものあるか?」

「むう……何があるのかのう? 分からぬ」

 それもそうだ。江戸時代出身だったら、現代の料理なんか知らないだろう。

「じゃあ何となくの特徴教えてくれ」

「説明は難しいのう……」

「うーん、じゃあ適当に買ってきていいか?」

「わしを連れて行くという選択肢は無いのかえ!?」

「うおびっくりした。急に叫ぶなよ」

「きらが悪い!」

「ちょ、分かったから落ち着け」

 ご立腹の座敷童をなだめ、それから考える。

 連れて行くのが嫌なワケじゃないんだが、格好が……ねえ?

 和服ってだけでも目を引くのに、それがあちこちほつれ、しかも裾が破けて酷い有様だ。そんなヤツと街を歩いたら……最悪、職務質問もあり得る。

「そもそもお前、座敷童なのに外に出られるのか?」

「おお、それは分からぬの。試してみるぞい」

「いやちょっと待て! その格好で出るのは勘弁して下さい!」

 スタスタと玄関へ向かう雲を、掴んで引き止める。

「って触れる?」

「言うたじゃろう? わしの存在は自分でも把握できておらんと。肉体があるのじゃ。触れないはずがなかろう」

「そこで自信満々になる理由が分からないんだが……。――とにかく、その格好で外に出るのはナシ!」

 まだ顔も知らぬご近所に何言われるか分かったモンじゃない。

「むう、しかしきら、わしはこれ以外の衣服を持っておらん」

「マジか……って靴も無いよな」

 玄関には何も無かったし、今の雲は裸足だ。

「草履なぞ、贅沢言いおって」

「あ、そういうレベルなの!? お前の生前の暮らしが気になるんだが」

「言うかえ?」

「……やめておく」

 雲のせいではないだろうが、気分悪くなりそうだ。

「……となると、だ」

 雲が出歩くための服が必要になる。

「きら?」

「よし雲。ちょっと落ち着いてそこに立ってろ」

「立っておる」

 飼い犬にする“待て”のようなジェスチャーで、俺はリビングから出る。

「すぐ戻る!」

「きら!?」

 そして玄関から外へ飛び出した。





 ――およそ三十分後、

「も、戻ったぞ……」

 一キロほど離れたショッピングモールへ往復。体力には自信あったが、かなり全力ダッシュを敢行したせいでかなり疲弊。しかもドアを開けると、

「どこへ行っておった!」

 座敷童、ご立腹。……見上げられる仁王立ちって、初めて見た。

「いや、すまん。そんな格好のお前を外に出すワケにはいかないからな。――ほれ」

 噛み付いてきそうな雲に、持っていた紙袋を差し出す。

「む? 何じゃ、これは?」

「見れば分かるって」

「言うてもいいじゃろて……」

 若干不満の残る顔で、雲は紙袋から中身を取り出す。

 ――丁寧に包まれた紙包み。

「きらはわしに何をさせたい!」

「そこでキレる!? いいから確認しろよ!」

 かなりの不満な顔で、雲は包みをビリビリと破く(掃除が必要だなぁ……)。

「これは……?」

 畳まれていたせいで、すぐには正体に気付けなかった雲だが、持ち上げるとパラッと崩れる。

「好みとか分からんから、適当に選んだ。とりあえずそれで我慢しろ――ってうおぁ!?」

 我ながら割と理不尽なセリフは、飛びついてきた雲によって遮られた。

「きらは人となりができておる!」

 キラキラキラァッ、と瞳を輝かせ笑顔な雲の右手には、水色に白い花柄のワンピース。

「わしにこれを? 素晴らしい! 素晴らしいぞいきら!」

 ようやく離れた雲は、ワンピースを抱いてクルクル回る。

「あ、ああ……。喜んでくれたなら何よりだ」

 予想以上の歓喜ぶりに困惑しつつ、抱きつかれた拍子にドアにぶつけた後頭部を押さえつつ、急接近した幼いながらも美少女の顔に動揺しつつ、もう一つの包みを差し出す。

「こっち、サンダルな」

「! (キラキラキラァッ)」

「抱きつくのは勘弁してくれ!」





 今さっき往復したばかりのショッピングモールへ、再び。

「はぁー……」

 深々とため息。

「きら、元気が無いのう」

「まあな……誰かさんのせいでな」

「?」

「お前だよ……」

 原因は、プレゼントの一分後に起こった。



「――喜ぶのはもういいから、早く着替えてこい」

 喜び続ける雲は見ていて飽きないが、このままここで謎の踊りを続けられても困る。俺はリビングへのドアを示して言った。言ったのだが、

「む、それもそうじゃな」

 雲はその場で、帯代わりだった腰の紐を解き始めた。

「いや何でだ!」

 俺が大声を上げると、雲はビクゥッ! と震え、ストン、と着ていた和服が床に落ちた。

「うえぇっ!?」

 そしてさらなる驚き。

 雲は下着類を一切身に付けていなかった。結果、目の前には幼女の一糸纏わぬ姿が。

 慌てて後ろを向き、一言告げる。

「ここで脱ぐな! 何か着ろ!」

 あ、二言だった。

「き、きら、何故怒っておる……?」

 急に弱々しくなった甘々ボイスに、思わず振り返る。そこには、ショボン、と俯く雲の姿が。――全裸の。

「ぶっ!」

 もう一度後ろを向く。学習しろよ俺!

「きら?」

 いくら背が低かろうと、大人びて整った顔立ちが見た目齢を中学生ほどに引き上げる。そんな年代の女の子の裸、凝視できるワケがなかろう。変態確定だ。

「きら、こちらを向いてくれんかの?」

「それは厳しいぞ……」

「しかしこのままでは、わしはこれを着る事ができぬ」

「は?」

 予想外のセリフに、振り返る――と三の舞になるからそのまま訊いてみる。

「もしかして、洋服着るの初めてか?」

「うむ。そのような機会も無かった故な」

 確かに江戸時代に、洋服は無いもんな。

「じゃあ教えてやるからよく聞けよ。まず下から袖に手を入れて――」

 俺が後ろを向いたまま説明を始めると、

「分からぬ。きらがやるのじゃ」

 回り込んでワンピースを差し出してきた。

「お前なあ!」

「お、怒らんでくれい……。言い方が悪かったのかう……?」

 う、急に弱々しくなるのはやめてくれ……。

「はぁ……、分かった。分かったから両手を上げろ」

「こうかの?」

「それじゃ銃で脅されたみたいだろ。バンザイしろって」

「おお、こうかえ?」

 雲がバンザイした瞬間、

「そいっ」

 バスケのダンクシュートのようにワンピースを被せる。だが勢いが強すぎたのか、

「ぶはっ!? きら、何をする! 息ができんではないか!」

「ちょ、おい、暴れんな!」

「きらが悪い! 丁寧にやれい!」

「もう自分でやれよお前ぇぇぇぇぇっ!」

 割と本気の絶叫が我が家に響いた。

 


 ――そんなこんなで、人生一疲弊した数分を経験した玄関のやり取りを経て、ショッピングモールへ戻ってきたワケだが、

「何をしようか……」

 大規模なフードコートもあるみたいだから、そこで晩飯にして……それなら近所のコンビニでよかったような。

「雲、何か行きたい場所とかあるか?」

「知らぬ」

「…………」

 これだもんね。

「どうすっかな……」

 大きい施設に来ると、何もしないで帰るのは勿体無い気がするのは田舎者の貧乏性なのか。

「わちきは機嫌が良いからの。きらの提案に乗ろうではないか」

 スキップをしそうなほど上機嫌の雲。残念ながらスキップ自体はできないらしく、謎のステップを踏みながら飛び跳ねている。

「…………ちょっと落ち着け」

 玄関でのやり取りの通り、雲は下着類を身に付けていなかった。つまり現在ノーパン。あんまり激しく動くと見えそうで怖い――

「――あ、そうか」

「む?」

「目的、てか買う物見つけた。一緒に来い」

「む、了解した」

 わざわざこっちに来てよかった。ちょっと恥ずかしいけど……そうも言ってられないよな。



「何じゃ、ここは」

「お前のためだよ」

「ほう?」

 やって来たのは、モール内の店舗の一つ、女性用下着専門店の前。確か……ランジェリーショップとか言うんだっけ。店の外からでも色とりどりの下着が目に入り、ここにいるだけでもかなり気まずい。

「ほら、買ってやるから何枚か選べ」

「きらは太っ腹じゃな。嬉しい限りじゃ」

 いつまでもこの場所にいたくないんだよ。

 お金を渡し、突撃する雲を見送る。

「――きら、どれが良いのか分からぬ」

 そしてUターンする座敷童。

「何となく予想してたけどさ! 裏切らないなお前!」

「い、いきなり叫ぶでないぞい! わしはただ何を選ぶべきか分からぬだけじゃ!」

「それが問題なんだよ! あの空気に男が突っ込めるか!」

「教えろい!」

「偉そうだな!」

「ならば付き添えい!」

「いや同じだからな!?」

 そんな事を叫んでいると、俺の意思がようやく伝わったのか頬を膨らませながらも雲は折れた。

「むう……それならばより有能な者に訊く他あるまいか……」

「俺が無能みたいな言い方すんなよ」

 あと他の人に訊くってのも不安なんだが。主に口調と態度。

「――そち、少しよろしいかの?」

「は、はい!?」

 そう言って雲は、近くを通りかかった女性に声をかけた。

 って通行人はダメだろ。店員さんとかいるんだしそっちにしろよ。

 だがありがたい事に、その女性――見た感じ、歳は俺と同じくらい。女の子って表現の方がいいか――は立ち止まって話を聞いてくれた。

「わしの下着を選んでくれんかの?」

「は、はい?」

「偉そう! 頼む立場考えろ! あと誤解される!」

 俺は雲の頭を強引に下げさせる。それから、男がランジェリーショップに入る度胸は無く難航していたという情けない内容を伝えた。

「この不甲斐ないきらに代わり、わしに知識を与えてくれんかの?」

「ちょいちょい下に見るのやめてくんない? ――あ、忙しいなら気にせずに。無理にとは言わないんで」

 どうやら思考が追いついていない女の子に、そう告げる。

「えっと……よく分かりませんけど、この子に服を選んであげればいいんですか?」

「まあ、そうですけど……」

 服というか、パンツを。

「それなら任せて下さい。私でよければ!」

「え? いいんですか?」

 言っちゃなんだが、我ながら無茶苦茶な頼みだと思うぞ? それを快諾するとは……何ていい人なんだ。流石は都会。

「じゃあ、行こっか」

「うむ、よろしく頼むぞい」

 女の子と雲は、仲良さそうにランジェリーショップに入って行った。

 ……あ、俺手持ち無沙汰だ。





 二十分ほどすると、二人はランジェリーショップから出てきた。

「素晴らしいのう……」

 雲は物凄く満足そうな顔をしている。まあ、パンツを持っていなかったと考えれば当然か。

「…………」

 対照的に、女の子は表情が暗い。どうしたんだ? まさか雲が何かしたんじゃ……。

「ついつい楽しくて似合うもの選んじゃったけど、よく考えたら私のお金じゃなかった……。どうしよう……」

 あ、そういう事か……。いい子すぎるだろ……。頼んだのこっちなのに……。

「きら、買えたぞい」

「おう、よかったな。ちゃんとお礼言えよ」

「む、そうじゃな。――礼を申す。感謝しておるぞい」

「俺からも。わざわざありがとうございました」

 雲の言い方にツッコむと話が進まないから、ここはスルーだ。

「い、いえ……お礼を言われるような事は何も……。こちらこそ、調子に乗って余計なお金を使っちゃったかもだし……」

 そう言って申し訳なさそうにする女の子。あ、これエンドレスなヤツだ。

「本当にありがとうございました」

 若干良心が咎めるが、ここで切る。

「――きら、腹が減った」

「…………」

 空気読めよお前。

「腹が減った」

「分かったからちょっと黙れ!」

「む、そうじゃ。礼を兼ねて、そちも一緒にどうじゃ?」

「話聞いてます!? って……は?」

「へ?」

「色々と世話になった故な。そのくらいの礼はして然るべしじゃろて」

 何やら勝手に自己完結してらっしゃる!?

「そういう訳じゃ。食事でもどうじゃ?」

 雲が女の子を見、俺もつられて視線を向ける。

 まあ確かにいきなり呼び止めて迷惑かけちゃったし、何かお礼はしたいんだよな……。それが食事って、何かナンパみたいだけど。

「金銭なら心配いらん。多少なりと懐は温かいからの」

 俺のな。

「そんな、申し訳ないですよ!」

 まあそうだよな。いきなり知らないヤツに“奢ってやる”なんて言われても戸惑うもんな。

「むう……」

 その断りっぷりに押されたのか、それ以上は強引に誘おうとしなかった雲。

「そちがそこまで言うのであれば、それも良かろ。――そちはこの付近に暮らしておるのかの?」

「え? はい、まあ……」

 すると雲はニコッと笑うと、不敵な表情を見せる。

「ならばまた会う機会もあるじゃろて。楽しみは次にとっておくとするぞい」

「は、はあ……」

 対してこちらは戸惑いの色。……俺も同じだ。雲、何となくいい事言った、みたいなドヤ顔してっけど、正直意味分からんぞ。





 結局お礼を言っただけで女の子と別れ、俺と雲はフードコートへ向かった。――パンツは穿かせた。

「さて、何にすっかな……」

 田舎暮らしだった俺にとって、こんな風に外食する事自体が稀だ。ハンバーガー、チキン、たこ焼き、ラーメン、そばうどん、大抵は揃っているから驚きだ。

 ……まあそんな俺よりも、

「な、何じゃここは……。芳しい匂いに溢れておるぞ……!」

 この座敷童の興奮がヤバい。キラキラキラァッ、と瞳がイルミネーションだ。

「きら!」

 輝く表情で振り向く雲。

「ああうん、好きなの食べればいいんじゃないか? そんな高くないし」

「! 恩にきる!」

 そう言って近くのたい焼き屋に突撃する雲。

「いや、それ食後にしろよ!」



「いただくのじゃ!」

「……いただきます」

 周りの視線が痛い。

 俺たちが座るテーブルには、俺が注文したかき揚げうどん。雲が注文したハンバーガーポテトフライドチキンサンドイッチホットドッグたこ焼き温そば。もう何人前か分からない。

「お前……それ本当に全部食べるんだよな?」

「無論じゃ! 何を言う!」

 ちょっと怒られた。

「……まあそれならいいや」

 いやちっともよくない。出費が痛すぎる。

 俺が若干遠い目をする前で、

「! 美味い! 何と美味い食べ物なのか……。三百年ぶりの食事がこんな晩餐になるとは……。死んでおるが、生きてきて良かった……」

 この上なく幸せそうに食事をする雲。……ここまで喜んでもらえるなら、多少痛くても我慢するか。

「――ふむ、次は甘味じゃな!」

「まだ食べるのかよ!」





「――楽しい食事だったの」

 帰宅後、雲は床に寝転がった。

「本当に存分に食べやがって……」

 あの後、たい焼きやら団子やらアイスやら、デザートも雲はあらかた食べ尽くした。何かあっても平気なように、と多めに持っていた所持金が、悲しいくらいにスッカラカン。

 今後は自重してくれるかなぁ……。というかしてくれないと、家計が火の車を通り越して大炎上。

「ったく……大食いなら先に言えよ」

「きらが良いと言うた故じゃろ?」

「そうだけどさ……」

 これからは迂闊に変な事言わない方がよさそうだ。

「また行きたいのう」

 寝転がったまま、こちらを見上げる雲。

「……そんな頻繁に行けねーよ。特別な日だけだ」

「ほう? ならば今日は“特別な日”だったのじゃな?」

「それは……」

「よもや、わしとの出会い、などと言わぬかえ?」

 なん……変な事言いやがって……。

「答えぬ、という事は図星かの? くくくっ」

 こ、コイツに手玉に取られるのは悔しすぎるぞ……!

「……まあ、引っ越し初日だからな。少しくらい贅沢してもバチは当たらんだろ」

 俺の苦し紛れの理由は、

「素直に言えば良かろ。つまらん事をしよる」

 雲を不機嫌にしてしまった。ムスッと頬を膨らませ、拗ねたようにこちらを見上げる。……怖くないし、むしろ可愛い。

「はは、じゃあそういう事にしておくか」

「むう……何故じゃ。負けた気になってしもうた……」

 この座敷童、案外チョロいかもしれない。





「んじゃ、電気消すぞー」

「うむ」

 あれから何だかんだあったが、特にする事も無いので布団を敷いて就寝準備。テレビすら無いからな。明日には来る予定だが。

 ちなみに場所はリビング。俺の部屋(になる予定の場所)でもよかったんだが……というか一人ならそうしていただろう。今は雲もいるし、どうせなら一番広いリビングで、ってな。

 パチッ、と電気をオフにすると、暗闇に慣れない目では僅かな輪郭しか判断できない。

「――むぎゃ! きら、何をする!」

「あ、すまん」

 どうやら雲を踏んづけてしまったらしい。軽く謝ってから、布団に潜る。――布団と言っても、タオルケットに近い。かさばるから手荷物には入れられないからな。

「やれやれ……」

 こうして横になると、ドッと疲れが押し寄せて来る。初日から非日常すぎるんだよなぁ……。

「――のう、きら」

 隣で、俺の敷布団だったハズのタオルケットに丸まる雲が口を開いた。

「きらには、わしが見えておるのじゃろう?」

「は? 何言ってんだ? 当たり前だろ」

 自分でも見えない相手と会話するとか、怪しすぎるぞ。

「確かに今更な問いかもしれぬが……以前までの家主は、わしが見えておらんようじゃった」

「え、そうなのか?」

 そう聞くと、ホントに幽霊みたいだな。

「わしの目の前を素通りし、話し掛けても反応せず、何故か実体も持てず触れる事すらできんかった」

「それは……つらいな」

 そこにいるのに、反応すらしてもらえない。無視されるよりつらいだろう。

「同情してくれるのかえ?」

「……まあ、それは……」

「ふふ、嬉しいのう」

「――ん? でも俺は見えたし触れたぞ? 何でだ?」

 俺だけじゃない。疾風も、ランジェリーショップでお世話になった女の子も。キチンと雲を認識していた。

「わしにも分からぬ。以前までの家主も、何となく気配は察しておったようじゃが」

 そのせいで気味悪がられたのじゃがな、と雲は続ける。

「……そっか」

「きらには分からぬか?」

「分からねーから訊いたんだろ」

 俺としても、原因は解明したい。まだ半日一緒にいただけだが、やっぱり目の前からいきなり消えるなんて嫌だからな。

「家主であるというのに」

「都合よく家主にすんな。まったく敬意が感じられないんだが」

「ふ、ならば“対等な家主”じゃな」

「変な名前付けんな」

 まあ、今さら敬語使われても戸惑うだろうけどな。コイツがそういう性格してないってのは、よく分かった。

「きらは優しいのう。――ひょっとすれば、この優しさが理由なのかもしれぬな。わしを受け入れてくれた優しさが」

「……へーへー、そりゃどうも」

「照れておるかえ?」

「うっせ」

「ふふふ、礼を言うぞい、きら」

 そう言って雲は、モゾモゾとこちらの布団に潜り込んできた。

「……何やってんだ?」

「見て分からぬか? わしもこっちで寝る」

「じゃあ俺は隣に――」

「それでは意味無かろう!」

「グベッ!?」

 脇腹にエルボーが入った。

「何すんだ!」

「きらが悪い! 気持ちを察せよ!」

 そんな逆ギレされてもなぁ……。まあいいけどさ。

「誰かと一緒に過ごすのは久方ぶりでの。寂しい気持ちもあるのじゃ」

 すぐ目の前の、少し困った笑顔。

「……あーはいはい。好きにしてくれ」

 そういう顔は反則だろ。

「ふふ……」

 雲は微笑むと、身体をくっつけてきた。

「ちょ――」

 いきなりそういう事するのは――

「……温かい。これが、誰かの温もりなのじゃな……」

「…………」

 その独り言に込められた感情を推し量るには、俺の人生経験は足りなすぎる。

「――のう、きら」

「ん?」

「きらには、わしが見える。それはる嬉しかった。やっと、わしを認めてくれる存在が現れた……。じゃが、きらはいつまでわしの隣にいてくれる?」

「いつまでって……」

「約してくれぬか? わしの居場所はこの場所だと……」

 不安、なのだろう。本当に三百年間独りだったとしたら、俺はどのような存在になるのか。

「ああ。お前の居場所はこの場所、この家だ。もし何かに迷うような事があったら、ここに戻って来い。俺はいつでも受け止めてやる」

「くふふ……嬉しい事を言うてくれる。こそばゆくないかの?」

「お、お前のためだろうが!」

 何で俺がダメージ受けなくちゃならんのだ。

「恩に着るぞい、きら」

 きっと、コイツには勝てないんだろうな。

 俺は大人しく、雲が立てる安らかな寝息を聞いていた。

 次の日、午前九時頃に引っ越しのトラックはやってきた。

 ベッドや冷蔵庫などの重い家具は所定位置まで運んでもらい、その他ダンボールに入った衣類などの小物はリビングに置いてもらい自分で荷ほどきする。

「お疲れ様でしたー」

 引っ越し屋さんに以上になります、と告げられ、お礼を言ってトラックを見送る。

 それに合わせて、

「やあ、明星。手伝いに来たよ」

 疾風がやって来る。

「よ、サンキュー」

「これ、母さんからの差し入れ。ケーキ」

 そう言って疾風は紙箱を差し出す。

「おう……マジか。今度お礼言わないとな」

 俺はそれを受け取り、

「……雲の分、あるか?」

 アイツの食欲は痛感したばかりだ。ちなみに今は、運ばれた俺のベッドでトランポリンしている。

 俺の質問に、疾風は少し驚いた顔をする。

「やっぱり雲ちゃん、いるんだね。迷子で保護者が引き取りに来た、とかもなく」

「ああ。あれから色々話したけど、やっぱ嘘を言ってるようには見えなかった。あれが全部演技だってんなら、アイツは天才子役間違いなしだ」

「そっか……。座敷童、か……。信じがたいけど、本当に存在するんだね」

「実際に目の前にいるんだし、信じるしかないんだよなぁ」

「――ちょっと調べてみたんだ」

 そう言って疾風は、一枚の紙を取り出した。どうやら年表のコピーらしい。

「一七三一年に、享保の大飢饉が始まってるんだ。数年間で百万人近い人が餓死してる。雲ちゃんが亡くなったのも三百年前みたいだし、時期が重なるんだ。もちろん、全然関係ない可能性もあるけどね。関東の被害は少なかったらしいし――明星?」

「……アイツ、スゲー美味そうに飯食うんだ」

「……そっか」

 おれが黙ると、疾風も黙ってしまった。お互い、あまり触れたくないと感じたのだろう。俺たちには、雲の苦しみを理解できない。アイツがどんな壮絶な人生を送ってきたのか、想像もつかない。きっとあの性格も、自分なりの過去を乗り越えた結果なのだろう。

「――おおきら! 何なのじゃこれは! こんなに跳ねる布団は初めてじゃ!」

 こうして、マットレスでトランポリンして目を輝かせていても。……うん、多分。



 その後、疾風を交えて引っ越しの荷ほどき開始。雲にも手伝わせる。雲の過去がどうであれ、我が家の家計は別問題。ついでにニートにはさせない。……江戸時代出身のニートって……。

「明星、この服は?」

「あー、その辺はまとめてタンスだから、置いといてくれ」

「このカゴは、洗面所?」

「そうそう。洗濯機の横に置いてくれ」

「この缶詰は床下収納で平気?」

「おう、それで頼む」

「じゃあこのトースターは? お風呂場?」

「何も機能しないだろ! てか漏電して死ぬわ! いらんツッコミさせるな!」

「凄いキレだね。芸人目指せるかもよ? ――でもコンセントが無いから、漏電どころかそもそも電気発生しないよね」

「感想そこ!? しかもダメ出しされた!」

「きら、これは何じゃ?」

「お前も何か面倒ごとを……って、これ入学案内じゃん」

「警戒し過ぎだよ、明星」

「誰のせいだ!」

 雲が持っていたのは、一週間後に入学式を控えた、俺たちが通う高校の案内パンフレットだった。こんなの持ってきちゃったのか……。合格したんだから、いらないじゃん。

「ほう、これがきらの寺子屋かえ」

 表紙の校舎の写真を眺めながら、雲が呟く。

「うんまあ、そうなるな」

 寺子屋という当時の表現が正しいかは若干謎だけど。

「――ほう、この場所、わしは知っておるぞ」

 裏に記載された地図を見た雲が、そう言った。

「え? マジか?」

 三百年前とは道も建物も違うハズだが。

「うむ。このきらの家をわしの家だったと仮定するならば、この学び舎はここらの地主様の土地じゃな」

「地主様って……」

 何か通いづらくなったわ。

「ちなみに雲ちゃん、その地主様って、どのくらい偉かったの?」

「そうじゃな。当然じゃがわしらは年貢を納めねばならんかったし、武士の家系故逆らえば打ち首じゃった」

 怖いな……。納税できないだけで死刑か。知識として知ってはいたが、やっぱりそういう社会だったんだな。

「打ちこわしによって瓦解しておったがの。さして手強くなかったと聞いておる。わしは参加せんかった故、詳しくは知らんが」

 あ、大した事なかった。気にせず遠慮なく通おう。

「ははは。それにしても、やっぱり雲ちゃんの話はリアリティがあるね」

「まあ、その現実を生きてたんだし、当然っちゃ当然だよな」

「り、りありてい? とは何じゃ?」

 そこかい。

「本物っぽいって意味だよ。嘘くささが無い、とも言うかな」

「ふむ、わしは真の事を言うておるだけじゃしな」

 疾風の説明に、ペッタンコな胸を張る雲。

「流石、本物は違うね。――ねえ雲ちゃん」

「む?」

「もしよかったら、当時の状況とか環境とか、差し支えない程度に教えてもらえないかな?」

「疾風?」

 いきなり何を言い出すんだ? コイツ、そんなに歴史好きだっけ?

「特別歴史が好きな訳じゃないけど、文献でしか分からなかった出来事が、当事者の口から聞けるんだよ? このチャンスは逃せないと思うんだ」

 そう言われればそうかもしれないが……雲だってつらい経験を経ているだろうし、あまり根掘り葉掘り聞くのは気が引けるんだよな……。

 そんな俺の思いに反し、雲はアッサリと頷く。

「構わんぞい。わしの人生が未来の文献に乗るとは思うとらんが、連想くらいにはなるじゃろて」

「ありがとう、雲ちゃん」

「他ならぬ、はやての頼みじゃからな。断る故も無かろう」

 え? どういう事?

「それもそうだよね」

「お前も同調すんな!」

 ――その後、三人でケーキを食べながら雲の話を聞いた。現代では考えられない生活に目を丸くしたりもしたが、

「こんな素晴らしい食べ物が、現代にはあるのかえ!?」

 こっちを見ている方が楽しかった。




 神奈川にやって来て、二週間が経った。

 本日四月八日は、新学期初日。つまり入学式だ。

 神奈川での生活にも大分慣れ、疾風に案内してもらいこの辺りの地理も大体把握できた。

 ……まあもちろん、

「おはようじゃ、きら」

 座敷童は健在。コイツも中々元気だ。居候のレベル超えてるだろ。

 別にもう一人暮らしなんて求めていないが、少し――いやかなり困る事態に見舞われた。

「今朝も美味そうじゃ」

「その前にする事あるだろ!」

「む?」

 食卓についた雲に、大声でツッコミを入れる。

「何度も言ってるだろ! 前とめろ!」

 和服を着ていた影響なのか知らないが、雲はパジャマのボタンをとめない。しかも俺のパジャマを貸しているせいで、“羽織る”に近い。

 服やらパンツやらで手痛い出費が続いた結果、所持金がややピンチになってしまった。そのせいで雲のパジャマまでお金が回らなかったのだが……サイズが大きいせいか、ズボンは穿かずパンツだけときた。

 無防備なんだよなぁ、全く隠そうとしないし。ヘソとか丸見えだし、ペッタンコといえど胸部もチラチラ。目のやり場に困る事この上ない。

「着替えるか、せめて隠すかしろよ!」

「何故じゃ?」

「お前二週間、毎日素で返すよな!? 恥じらいを――」

「腹が減った」

「話聞いてます!?」



 俺が騒いでも雲は動じないので、諦めて朝食。ようは見なければいいのだ。

 ――それから制服に着替えて、持ち物をチェックする。……と言っても、今日は入学式だし、筆記用具と上履きがあればそれでいいらしい。

 制服に身を包んだ自分を見下ろしてみるが、着慣れていないせいか違和感が凄い。割とオシャレなデザインだし。

 一通り準備を終えた所で、ピンポーン、とインターホンが鳴った。

『明星、準備はできた?』

 疾風だ。

「バッチリだ。今行く」

 玄関に向かいつつ、雲に声をかける。

「んじゃ雲、学校行ってくる。昼頃には帰ってくると思うけど、もし出かけるならちゃんとドアの鍵を閉めて行くんだぞ。――あと、その時は必ず買ってやった服に着替えるように! これ絶対な!」

「……分かっておる。わしとて、肌着で外を歩こうとは思わん」

 ホントかよ。

 ムスッとした雲に、疑わしい視線を向ける。

「……まあよい。わしもすべき事がある故な。また後で会おうぞ」

「すべき事?」

 内容が気になったが、疾風を待たせるのも悪いし、どうせ大した用事じゃないだろうからスルー。この二週間、雲はちょいちょい一人で散歩に出かけていた。地形の違いを知りたかったらしい。だから、きっと今回もそうだろう。……服の騒動はあったけどな! だから不安なんだよ。

「悪い、待たせた」

「大丈夫だよ。何やら楽しそうだったしね」

 楽しくねーよ。

「――おや、雲ちゃんはお留守番?」

「散歩か何かに行くらしいけどな」

 玄関で見送る雲を見て、疾風が意外そうな顔をする。

「今日は入学式なんだし、一緒に来てもいいんじゃないのかな?」

「構わぬ。わしは残る」

 何だろ、元地主の土地には行きなくないのかな?

「ふーん、そっか。じゃあ雲ちゃん、行ってくるね」

「出かけるなら、戸締まりはシッカリな」

「うむ。をっけーじゃ」

「あはは。雲ちゃん、無理してそんな言葉使わなくても。雲ちゃんの独特の言葉遣い、僕は好きだよ」

「きらがよく使う故な。わしも使ってみたくなったのじゃ。現代語とやらを」

 英語だけどな。





 俺と疾風が入学する高校は、『私立徳巡(とくめぐり)学園』。我が家から徒歩で二十分ほどの位置にある、住宅街と商店街の両方に面した学校だ。

 実は、去年まで“女”学園であり、その名の通り女子校だったのだ。今年から共学に変更され、自宅から近いからと疾風に誘われるまま受験した。

 元々、進学校のような高偏差値な学校じゃないし気楽な高校生活を送れると思っていたのだが……

「……どうしてこうなったし」

「僕に訊かれても」

 校舎に入ってすぐの場所にあったクラス分けの掲示板を確認すると、衝撃の事実。

「男子は固めるって言ってた……よな?」

「うん、入学要項に書いてあった」

 俺たちは一年一組。ざっと確認してみたが、二人以外に男らしき名前が無い。

 もちろん先輩方に男子生徒がいるハズないし、女性っぽい名前の男子という可能性もなくはないが、男女比率まさかの二対八百という可能性。

 入学式の前から気まずさで若干憂鬱になりながらも、とりあえず教室へ向かう。一年生は二階らしい。

 割とギリギリの時間だったせいか、教室内の席は大体埋まっていた。――男子ゼロ。

「……うわ」

「諦めなよ、明星」

 疾風にポンと肩を叩かれ、覚悟を決めて入室。――瞬間、多くの目がこちらに向いた。か、帰りたい……。

 反転してダッシュしたい衝動に駆られたが、疾風は気にせず自分の席に座る。そして早速囲まれる。これだからイケメンは……!

 あの多くの視線は、俺ではなく疾風に向いていたんだな……。

 色々疲れた俺も、自分の席に座る。ちなみに一番後ろだった。おっしゃーやったぜー。

 てか、お隣とその一番前が空席なんだが、大丈夫か? 初日から遅刻はよろしくないような……。

 と思っていたら、教室の後ろのドアを開けて人影が飛び込んできた。それと同時に鳴り出すチャイム。

「はぁ……はぁ……はぁ……。ま、間に合った……」

 遅刻ギリギリの(当然だが)女子生徒は、俺の隣に腰を下ろす。

 それから彼女は横を向き、俺と目が合った。

「――へっ?」

「うん……?」

 お互い、変な反応をした。

「前に、どこかで会ったような……?」

 俺が呟くと、

「! もしかして、この前ショッピングモールにいた!」

「ああ!」

 思い出した。二週間前に雲のパンツ買った時、代わりに選んでくれた親切な人だ。近い歳だと思っていたが、まさか同じ学校で、まさか隣の席だとは……。世界って狭いな。

「あの時はいきなりだったのに、本当にありがとう」

「あ、えっと……ううん、私なんかで役に立てたなら、よかった」

 うーん、優しいなぁ。

「でも……それだけじゃないような……」

 女の子の呟きに、もう一度考える。

 温和そうな顔つきに、ボブカットの髪と長めの前髪をモミジという珍しい髪留めで留めた――モミジの髪留め?

 特徴のあるその髪留めが、二ヶ月前の記憶を引っ張り出す。

「! もしかして、試験の日に後ろにいた――」

「あっ! やっぱり!」

 役が逆転した。

 ――少し説明しよう。――二ヶ月前の試験の日、彼女は俺の後ろの席だった。どうやら筆記用具を忘れたらしく、涙目でオロオロしていた。受付本部に行けば貸してくれただろうが、それに気付ける余裕も無く、正直見ていられなかった。俺は、一応予備に、と持っていた鉛筆(先が丸まった。短い)を貸してあげたのだ。

 ……いや、貸した瞬間から申し訳ない気はしていたのだ。もっとマトモなヤツ渡せと。だが、彼女に今度は嬉しさのあまり涙目で何度も頭を下げられ、俺は何も言えなくなってしまった。試験終了後、すぐに姿が見えなくなった彼女は、わざわざ職員室で鉛筆を綺麗に削ってきてくれた。……もはや、罪悪感しか湧かなかった。

 まあここにいるって事は、合格したんだろう。よかったよかった。

「あ、あの……久しぶり、かな? ――えっと、試験の日は、本当にありがとう」

「いや、別にいいよ。俺の方こそ、あんな鉛筆渡して、失礼だったよな」

 その言葉に、彼女はフルフルと首を横に振る。

「そんな事ないよ。あの鉛筆が無かったら、きっと私はここにはいないもん」

 そうなのかなぁ……?

「私、東風日和っていいます。東の風で、“はるかぜ”」

「俺は九十八明星。漢数字の九十八に、明るい星で“きら”」

「九十八って、珍しい名前だね……」

「百から二つ少ないから、って事らしい。まあよく言われるけど、お互い様じゃないかなぁ」

「確かにそうかも」

 東風さんはクスクスと笑う。……あ、結構可愛いかも。

 ――とここで、担任の先生が入ってきた。俺と東風さんは会話を中断して、前に向き直る。……相変わらず、一番前の空席が気になるな。

「――はい、皆さん初めまして。おはようございます。担任の福田武雄です」

 担任の先生は、よれっとしたスーツを着た四十代に見えるオジサンだった。ほのぼのとした優しそうな人だ。……名前負け感半端ないな。

「えー早速ですが、編入生を紹介します」

 早速すぎるだろ。今日、入学式だぞ? そんな事あるのか。

 東風さんの列の一番前が空席だから、恐らくそこに座る人物なのだろう。

「えーでは入って下さい」

 福田先生の声で、教室のドアが開く。破天荒な事するのは一体何者かとそちらを見やると、

「雲と申す! みな、よろしく頼むぞい!」

「はあああああああ!?」

 座敷童。

 隣の東風さんがビクッとしたが、そこに構う余裕は無い。

「えー九十八君、静かにして下さい」

「あ、すいません……」

 いや、無理です。何で? 何故アイツがここにいる!?

「えー彼女は九十八雲さんです。九十八君の双子の妹さんですが、事情により生徒としての登録が遅れてしまいました。皆さん、仲良くしてあげて下さいね」

 小学校か。

「えー彼女の席はそこの一番前です」

 まあそれは予想通り……ってそんなの吹っ飛んだわ。シッカリと制服を着て、何食わぬ顔で着席する雲。

「えー徳巡学園は自由を重んじる学校です。四月末にある遠足でも、細かい企画は皆さんに一任します」

 先生の説明を半分聞き流しながら、俺は一番前のちっこい背中を軽く睨みつける。

 ……おい雲、後でたっぷりと話聞かせてもらうからな?.

「えーそれでは自己紹介でもしてもらいましょうか。――では一番の人」

「あ、はい。私は――」

 自己紹介が順調に進み、ほどなく疾風の番が回ってくる。

「小鳥遊疾風といいます。見ての通り、数少ない男子生徒ですが皆さん仲良くしてくれると嬉しいです。一年間よろしくお願いします」

 疾風の悠々とした自己紹介に、ほう、と教室のあっちこっちから声が漏れる。……ちょっと悔しい。

「はいはいアタシは――」

 次の人も自己紹介を終え、巡って俺の番。

「九十八明星です。えっと……疾風共々、よろしくお願いします」

 疾風が笑いをこらえているのが分かった。あの野郎……。

 ……さて、次は雲の番か。

「先刻述べた、雲と申す。みな、よろしく頼むぞい」

 口調はアレだが、まあ二回目だし教室内の反応も薄い。……好奇心旺盛そうな女子が何人かウズウズしているが……気にしないでおこう。

「えっと……東風日和です。よ、よろしく、お願いします……」

 俺と話している時と比べて、声が小さい。ひょっとして人前に立つのは苦手なのかな? 何となくそんな印象あるもんな。



「えー入学式の入場時間は九時半です。あと三十分ほど、教室で待機して下さい」

 福田先生がそう言い残して教室から出ると、しばらく自由時間だ。

 早速雲に話を訊く為そちらを見やると、

「ちっちゃ〜い!」「何コレ超可愛い!」「喋り方も古風だし、不思議ちゃん?」「お持ち帰りしたい!」

 囲まれていた。もはや雲本人が見えない。

「…………」

 諦めて座り直すと、

「妹さん、大人気だね」

 東風さんが話しかけてきた。

「ああうん……何か複雑だ」

 この言葉は、同じように囲まれている疾風へも含まれる。

「そういえば九十八君は、どうしてこの学校にしたの? 肩身狭い思いするような気がするのに……。逆の立場だったら、私絶対無理だよ」

 いや、俺だってここまでだとは思わなかったさ……。

 とりあえず俺は、東風さんに入学までの経緯を説明する。

「沖縄から? 凄いね」

「いやまあ、どうなんだろうな。確かに遠いけど……」

「いいなぁ、沖縄。一度行ってみたい」

「俺が住んでた島は、平和でいい所だよ。……本当に何も無いけど」

「でもそれって、自然豊かって事でしょ? 憧れるなぁ」

 思いの外会話が盛り上がっていると、

「――ひよー」

 謎の声と共に、一人の女子生徒がやって来た。ポニーテールに楽しそうな笑みを携えた、見るからに明るそうな女の子。“ひよ”ってのは東風さんの事か?

「ってひよが男子と話してる……? そんなバカな」

 そして失礼だな。

「あ、キミ九十八明星君でしょ? きらっちって呼ぶね!」

「何故に!? てかいきなりだな!」

「よろしくきらっち!」

 話聞いてないし!

「アタシの名前、ちゃんと聞いてた?」

「うわ凄まじいスルースキル……ってごめん。疾風の後ってのは分かるんだけど、覚えきれてないや」

「まーしょうがないよね。レアキャラのきらっちからしたら、アタシなんて数多いるモブの一人なんだしー」

 嫌な言い方だな! この場に限っては間違いではないけど。本気で言っているワケでもなさそうだし。

「――彼女は千倉(ちくら)歌鳴(かな)さんだよ、明星」

 声のした方を向くと、どうにか包囲網を突破したらしい疾風。コイツは人のあしらい方も上手だからな。

「むー、人のセリフ取らないでよね!」

「それはごめんね」

「イケメンだから許す! というワケでよろしくきらっち!」

「ああ、よろしく、千倉さ――」

「ちょい待ち!」

 いきなり掌を顔面に突き出された。……割とビビった。

「カタイなぁ! カナでいいって!」

「いや、初対面の女子をいきなり呼び捨ては……」

「“さん”付けは許す!」

「そういう問題か……?」

 気恥ずかしいんだけど――

「じゃあアタシもきららちゃんって呼ぶ――」

「カナさんこれからよろしく!」

「よろしい!」

 グッ、と立てられた親指を見ながら、軽く脱力する。こんな明るい脅迫、初めてだよ……。

「カナはこういう性格だから、あまり深く気にしない方がいいよ……」

 隣で東風さんが囁く。……うんまったくその通りだよ。





 約三十分後、入学式入場の時間になり出席番号順に並ぶと俺の隣は、ようやく解放された雲になる。

「おい雲――」

「きらの言いたい事など分かっておる」

 そこでドヤ顔されてもなぁ……。機嫌を損ねると話してくれなくなりそうだし、ちょっと黙っておく。

「簡単な事じゃ。ここに出向いて、きらと共にいたいと言うただけじゃ」

「え、それだけで何とかなるの?」

「ここの長が、わしの話にいたく感激しての。“きゃんせるのあなうめ”とか言うておったが、詳しい事はわしにも分からぬ」

「……充分、分かったよ」

 このキャラが学園長に気に入られて、進学を取り止めた生徒がいて、その代わりなんだろ。……裏口入学じゃん。いいのか徳巡学園。

「てか、人の名字使うなよ」

「わしには性が無い故な。不本意じゃが、拝借させてもらうた」

「不本意とか言うなや! 俺のご先祖に謝れ!」

 でもそうか。江戸時代の平民には、名字が無いんだっけ。フルネームを名乗れて、嬉しそうに見えるのは気のせいじゃないだろう。

「お前がクラスメイトになったのは分かった。けど、年齢誤植はマズいだろ。三百歳抜きにしても、中学生くら――」

「わしは十七じゃ」

「いにしか見えな――って、はあっ!?」

 思わず大声を上げてしまった。

「えー九十八君、静かに」

「あ、すいません……。――え、お前十七歳だったの? 年上だったの?」

「ふむ? きらは十六と言うておったな」

 このミニマム座敷童が俺より年上? 信じられねぇ……。何だこの敗北感。

「敬語とか使った方がいいのか?」

「気持ち悪い事言うでない」

「辛辣だな! 冗談だから素の本音を返すな!」

 まあ無理だろうな、コイツに敬語は。使うのも、使われるのも。もうそんな距離感でもないし。



『これより、本校第二十五年度、入学式を開式致します』

 教頭だという初老の男性が壇上で告げる。

 俺たちは一年一組だから、席は講堂の一番前だ。

 横にいる座敷童、床に届かない脚をプラプラと揺らし、早速退屈モード。

『――それではこれより、生徒の出席確認を行います。新入生の皆さんは、名前を呼ばれたら起立して下さい』

 お、これだな? 福田先生が言ってた“点呼”は。……点呼って、意味違うよな?

 一組の生徒が福田先生によって順に呼ばれていき、

『ん……? ことり遊び……――ああ、失礼しました。小鳥遊疾風』

「……はい」

 流石の疾風も若干苦笑いだ。

『千倉歌鳴』

「はいはーい!」

 ……カナさん、緊張とか目立つとか、考えないんだろうか。

『九十八みょうせ――きら』

 しっかり名前確認して下さい先生。教室ではちゃんと呼んでいたのに……。

『九十八雲』

「うむっ!」

 お前ももう少し現代っぽい返事はできないのか。

『ひがしかぜ、びより……?』

 ……もう出直して来いよ先生。



 入学式終了後、今日はこれで放課後。

「いやー、面白い先生だったね!」

 “点呼”を思い出したのか、吹き出すカナさん。

 カナさんは間違えられなかったからいいけど、俺たち散々だぞ?

「明星、この後どうするんだい?」

「どうするって、帰るだけだろ? 腹減ったし」

「そういえば、おばさん達は? 久しぶりに挨拶したいんだけど」

「あー、入学式には来てたみたいだけど、スケジュール厳しいって本社に帰ったぞ」

「うーんそっか。残念だね」

 傍で話を聞いていた東風さんが、少し目を丸くする。

「九十八君のご両親って、もしかして会社の偉い人なの?」

「まあ一応、社長とその秘書」

「す、凄い……」

「いや、と言っても、地方の中小企業だしこっちじゃ誰も知らないような会社だぞ」

 “TOKYO”ではなく“KYOTO”の大手企業と契約成立したみたいだから、少しは有名になってくれたら嬉しいけど。

「――きら、わしは腹が減った」

「分かったからちょっと待て」

 会話の流れ考えような? 今話してるじゃん。

「へいへいそこのモクっち!」

 ああ、ここにもいたよ大変な人……。

「モクっち……とな?」

「そそ! 雲ってモクモクしてるでしょ? だからモクっち!」

「む、むう? 良く分からぬが……みなが納得しておるなら、それで構わぬ」

「はい決定! これからよろしくねモクっち! ハイタッチ、イエイ!」

「い、いえい……?」

 雲を丸め込むとは……そのスキル、素直に欲しい。

「あとはそこのイケメンだけど……」

 カナさんが振り返って疾風を見やる。

「“はやて”ってアレンジ難しいよね……。その速そうな感じから――かまいたっちとかどう? カマイタチから」

「ぶふっ!」

 吹き出してしまった。可愛らしい名前だな。

「できれば、他の名前で。――それと明星、あとでちょっと話がある」

 口調が怖いんですけど……。

「む〜……じゃあとりあえず、かぜっちで!」

「それならいいかな」

 いいのかよ。

「――てか、思い付かないなら無理にアレンジする必要ないんじゃないのか?」

「何言ってんの! アレンジしないあだ名とか、意味ないじゃん!」

 え、俺は?

「――あ、あのところで、雲さんの喋り方、凄く独特だけど……何か理由があるのかな」

 ずっと気になっていたのだろう。東風さんが申し訳なさそうに割り込んできた。

「あ、そうだよねー。アタシも気になってた。モクっちの喋り方、キャラ付けにしてはガチっぽすぎるし」

 そりゃ気になるよな。俺も疾風も、出会いがあんなだっただけにスルーできたが、普通は無理だよなぁ。雲、変な事言っても多分信じてもらえない――

「わしは三百年を生きる座敷童じゃからな」

 ノータイムで応答しやがった! 絶対変な目で見られるぞ!

「――ぷふっ! あはははっ! いいね! モクっちいいよ! 超面白い!」

 ……あれ?

「その成り切りっぷりは拍手モノだよ! ブラボー!」

「きら、かなの様子がおかしいぞい……」

 これは……冗談だと思われてるのか?

 見ると、東風さんもクスクス笑っている。

「――んで、実際は?」

「あー……」

 誤魔化し切れなかったか……。ヤバい。何も考えてなかった。だってそれが本当なんだもん。

「――雲ちゃんは時代劇とかが好きでね。小さい頃から真似していた影響で、口癖になっちゃったんだよ」

 すると、横から疾風がフォローしてくれた。疾風のポーカーフェイスでいけしゃあしゃあと言われれば、

「ほーん、なるほどね」

 まあ信じるしかないよな。

「悪い疾風、助かった」

「信じてもらえないのも、当然だろうからね。でも安心しきるとボロが出るかもしれないから、注意してね」

「ああ」

 疾風との密談を終えると、

「何々? 何の相談?」

 ワクワク顔のカナさん。

「ちょっとな」

「秘密だよ」

 嘘をつくのは若干心が痛むけど、共犯者がいる分気持ちは楽かな。

「ほほ〜ん。女子には言えない内容、というワケですな!」

 ニヤニヤ顔のカナさん。……絶対誤解されたけど、もうそれでいいや。

「――きら、腹が減った」

「だから空気読もうな!」

「きらが無駄話をする故じゃろう!」

「原因お前なんだよ!」

「へーい兄妹喧嘩はそこまで!」

 ヒートアップしかけた瞬間、カナさんが割り込んだ。

「モクっちが特殊なのはよ〜く分かった! アタシもお腹減ってるんだから、無駄話しないの!」

 ええ〜? カナさんがそれ言う……?

「……きらっち、何その顔」

「いや何でも……」

「まあそれはさて置き。――みんな、もしこの後予定が無いなら、お昼一緒しない?」

「んん?」

 一緒に、と言われても俺たちは弁当なんて持ってきていない。入学式の日に学食が使えるのかは怪しい所だが。

「カナさん、僕たちお弁当じゃないんだ。明星の家で食べようと思ってたから、何も準備してないよ?」

 オイ、それ初耳なんだが。

「ふっふっふ……その言葉は予想してた!」

 カナさんは右手を突き上げ笑顔。ハイテンションだなぁ……。疲れそうなのに。

「アタシの行きつけのお店があるんだよね! 安くて美味しい! 最高のお店だよ!」

「私もよく行くの。いい所なのは保証するよ」

 東風さんまでそう言うなら、その情報は正しいのだろう。

「じゃあ、同行しようかな。九十八兄妹は?」

 九十八兄妹言うな。

「んーまあ、特に予定も無いしな。いいよ。――雲は?」

「きらについて行くぞい」

 だと思った。

「よし決まり! じゃあレッツゴー!」





 カナさんに連れて行かれたのは、学園から十分ほど歩いた住宅街にある『ミラクルエイジ』という喫茶店のようなお店だった。

「ここ! ささ、入ろ入ろ!」

 カナさんがドアを開けると、取り付けられたベルが、チリン、と可愛らしい音を鳴らした。

「こんにちは〜!」

「あら、カナちゃん。いらっしゃい」

 出迎えてくれたのは、店の制服であろう、スカートに『M・A』とプリントされたエプロンドレスを着た二十代後半に見える若い女性だった。他には誰もいない。

「ご飯いただきに来ましたー!」

「今日は入学式よね? 徳巡学園入学、おめでとう」

「ありがとうございまーす!」

 そこでカナさんはこちらに向き直り、

「この人は店長の羅良さん! アタシ達は親しみを込めて、ララさんって呼んでる!」

「それは……何が違うんだ?」

「漢字かカタカナか」

「それは分からない……」

「まあ優しくて料理が凄く上手な、いい人だよ!」

「紹介ありがとう、カナちゃん。――ララです。遠慮せず名前で呼んで下さいね」

 ララさんは、ニコニコ笑顔で穏やかそうな、一言で言うなら“ふわふわした人”だった。

「あら、後ろにいるのは日和ちゃん? 久しぶりねぇ」

「こ、こんにちは」

「あらあら、男の子まで。もしかして、徳巡の生徒?」

「はい。僕は小鳥遊疾風。こっちは、九十八明星と――その妹の雲ちゃん」

「徳巡の男の子は少ないって聞いたけれど、もう友達になったのね。流石はカナちゃん」

「いや〜、それほどでも〜」

 何だかララさん、母親みたいだな。

「今日は、とりあえず入学祝いって事で来ました!」

「あらあらそうだったのね。じゃあ好きな席に座ってちょうだい。注文が決まったら呼んでね」

「はーい!」

 カナさんは元気よく返事すると、近くのテーブルにつく。

「ほらほら、みんな早く!」

 俺たちも座ると、置いてあったメニューを開く。

 お店の雰囲気から察していたが、洋風の料理が多い。あ、でもおにぎりとかもあるのか。それに、値段がかなり安い。財布にも優しいお店だな。

「きら、何を頼めば良いのじゃ?」

「あー……何でもいいんじゃね? カナさんが言うには美味しいらしいし」

「おうよ! ララさんの料理を超える味を、アタシは知らないね」

 へー、そこまでなのか。ちょっと楽しみだな。

「みんな決まった? ――ララさーん!」

 カナさんがララさんを呼び、それぞれ注文をする。

「はい。じゃあすぐに作るから、待っててね」

 にっこり笑顔で、ララさんは厨房へと姿を消した。



「そういえばさ、きらっち達はどうして徳巡にしたの? やっぱり目指せハーレム?」

「いやいやいや」

「残念ながら、単純に近いって理由なんだよね。徳巡以外は電車使わないといけないから。ここまで男女比が凄いとは思わなかったけど。――ああでも、明星の場合は少し特殊か」

「どゆこと?」

 この中で事情知らないの、カナさんだけなのか。さっき東風さんに話したばかりだし、

「面倒だから、話さなくてもいい?」

「怒るよ」

「……はい」

 ですよねー。

 俺がカナさんに両親の仕事云々を伝えると、

「ぶふーっ! TOKYOとKYOTOって……!」

 ツボってしまった。お腹を押さえて、小刻みに震えている。そこまで面白いかなぁ?

「いやー、もう最っ高! きらっち、芸人として生きていけるよ!」

「俺が!? 完全に被害者なのに!?」

 カナさんはひとしきり笑った後、

「それで徳巡を受験したんだね〜。納得!」

「カナさんは? 何で受験したんだ?」

「アタシ? やっぱり近かったからってのと、ひよがここを受けるって言ってたから」

「東風さんが?」

「よく分かんないけど、徳巡学園に憧れてたらしいよ? ――ね」

 カナさんが視線を送ると、東風さんが楽しそうに口を開く。

「うん。小さい頃から徳巡学園のお姉さん達を見ていて、凄くキラキラしていて……憧れだったの。大きくなったら絶対ここに行くんだ、ってずっと思ってたの」

 へえ。何だかいい話だな。

「じゃあ、念願叶ってよかったな」

「うんっ」

 なるほど。そこまで思い入れがある学校だったから、試験の日にあそこまで過剰な反応をしていたのか。

「ひよが入学できたのは、きらっちのおかげでもあるんだよね〜。聞いたよ? 鉛筆貸してくれたんだって? ひよがお世話になりました!」

「そんな大した事じゃないけど、合格の手助けができたならよかったよ」

「九十八君……ありがとう」

 ほわん、と笑う東風さん。気付いてないみたいだけど、いい感動エピソードも聞けたしな。

「――ねえそういえばさ、モクっち、訊きたい事があるんだけど」

「む?」

 ずっと暇していた雲に、カナさんが問いかける。

「何やら事情あっての入学らしいけど、年齢誤植はマズいっしょ」

「きらも言うておったな。わしは十七じゃが、ここでは問題があるのかえ?」

「は? 十七? ウソでしょ!?」

 あ、デジャブ。

「雲さん……十七歳なの?」

「ひよりまで言うか。馬鹿にするでないぞ」

「別に馬鹿にしてるわけじゃないよ……。凄く驚いただけで……あ、でもそうすると、私たちより年上なんだね」

「だねー。それなら、偉そうなのも納得!」

 いや、カナさん、コイツの態度は元からだと思うぞ? 目上の人がいる時は、注意しておこう。

「――あらあら、賑やかね」

 そこにララさんが、料理を運んできた。

「ほう! らら、美味そうな匂いがするのう!」

 って言ったそばから……。

「モクっち敬語!」

「ふふっ、構わないわよ、カナちゃん。何故だか雲ちゃんには、敬語を使われる方が調子狂っちゃいそうだもの」

 おおぅ……なんて寛大な人なんだ……。優しすぎる。

「それじゃあ、オムライスの人」

 誰も応えない。

「あら? 私、オーダーミスしちゃったかしら……」

「……雲、お前じゃなかったか? オムライス」

「む? そうだったかの? ――らら、わしのようじゃ」

「よかったわぁ。勿体無いものね」

「食物を捨てるなど、言語道断じゃ。わしが許さぬ」

「あら、嬉しい事言ってくれるのね。雲ちゃん、たくさん食べてね」

「うむ! いただくのじゃ!」

 コイツが言うと説得力が違うな……。しかも何かララさんに気に入られてるし。

「カルボナーラは、誰だったかしら?」

「ああ、僕ですね。いただきます」

「カレーは、カナちゃんだったかしら?」

「はいはーい! アタシです!」

「甘めにしておいたわ」

「おお! ありがとうございます!」

 カナさん、カレーは甘口なんだな。何か子供っぽ「きらっち、余計な事考えたらフォークで刺すよ?」……理不尽だ。

「日和ちゃんと明星君も、ちょっと待っててね」

 もう完成していたのだろう。トレーを片手に厨房へ戻るララさん。すぐに持ってきてくれた。

「はい、サンドイッチよ。召し上がれ」

 俺と東風さんは同じサンドイッチ。結構ボリュームあるな……。俺は平気だけど、東風さんは大丈夫か?

 すでに食べ始めていた雲を除いて、四人揃って手を合わせて『いただきます』。

 パスタを一口食べた疾風の、動きが止まった。……どうしたんだ?

「これは…………美味しい」

「きら……そちが作っておったのは何だったのじゃ?」

 そんなに凄いのか。食べるのが楽しみだ。

 俺もサンドイッチを口に運ぶ。

 ふんわりとしたパン生地に、シャキシャキとしたレタスと柔らかいハムカツのバランスが絶妙である。そこに適量塗られたバターが、口当たりを滑らかにしてくれている。

 ……文句なしに美味かった。悔しいが、雲の言う事も納得せざるを得ない。俺が作るモノと根本から何かが違う。

 俺がほとんど手を止めずにサンドイッチを完食する頃、

「…………」

 その横で東風さんが表情を曇らせていた。見ると、サンドイッチが三分の一ほど残っている。

「ひよ、大丈夫?」

「うん……ちょっとお腹いっぱい」

 やっぱり、女の子には厳しい分量だったか。……メニューに書いてあったんだけどな。『ボリュームたっぷり!』って。

「無理して合わせるからだよ〜?」

 合わせる? 何に?

「カナ!」

「にしし〜。ま、自業自得って事で、頼むなら自分で頼んでね〜」

「う……うん。――九十八君、その……残り、食べてくれないかな……。残すのは、ララさんに申し訳ないし……」

「ああ、別にいいよ」

「ホントに!?」

 俺が東風さんのサンドイッチを咀嚼すると、彼女は驚いたような嬉しいような表情を作った。

 ちょっと反応が過激すぎやしないか……? こんなの大した事じゃ――

「――はい、キス成立☆」

「ゲホッ!」

「九十八君!? ――あ、これお水!」

「ゲホッ……おお、サンキュー……」

 東風さんが差し出してきたお冷を飲み干し、ようやく一息つく。

「ふぅ……。……カナさん、いきなり変な事言わないでくれよ……」

「えー? だってきらっち無自覚だったんだもん。ひよ傷ついちゃうよ?」

「カナ!」

 ……何となく、むず痒い。東風さんの顔も、若干赤い。

「……あー、ほら、東風さん、俺、そこまで気にしないからさ。あんまり気に病む必要もないと思うぞ?」

「気にしない……そっか」

 あれ? 落ち込んだ?

「――区切りがついた所申し訳ないけど、」

 先ほどからやり取りを見ていた疾風が、笑いをこらえるように俺が飲み干したグラスを指差す。

「そのお冷、東風のだよ?」

 …………。

「………………はぅ」

 完全に真っ赤じゃんか。俺まで恥ずかしくなってきたぞ……。



「――それでは皆さん、また来て下さいね」

 ララさんは、わざわざ外まで見送りにきてくれた。

「ごちそうさまでした」

 東風さんの熱も、大分冷却できたらしい。

「今日も美味しかったです! また来ますね!」

「カナちゃんは、明日シフトよ?」

「分かってま〜す!」

「カナさんはここでバイトしてたのか? 随分早いな」

「そだよ〜。バイトできるようになった日からね!」

「カナ、中学生の頃からずっとここで働きたいって言ってたから」

「皆さんも、是非どうぞ。お待ちしているわ」

「ちなみに時給はいくらですか?」

「いや疾風、そういうのはいきなり訊く事じゃ――」

「九五〇円です」

「高っ! 高校生でですか!?」

「はい。その代わり、保険とかの対偶は無いですけれど」

 それにしても、だ。一人で切り盛りするのは、何かと大変だろう。凄い人だ。

「らら、少しいいかの?」

「はい雲ちゃん、何かしら」

「素晴らしい味じゃったが、ららはずっと一人で――」

「独り……身?」

 あ、ヤバい何か変なスイッチ入ったっぽい。

「わーわーわー! 空耳ですよララさん! モクっちは何も言ってません! だよねモクっち? 頷け!」

「う、うむ……?」

 それに被せるように、カナさんが声を上げる。

「だそうです!」

「そうでしょうか……?」

「はい!」

 カナさんの額を汗が伝ったのは、暑いからではないだろう。まだ四月だし。



 ミラクルエイジから少し離れた所で、カナさんが雲の肩を掴んだ。

「いいかモクっち! ララさんの前で“独り”とか“独身”とかタブーだから! ミラクルエイジの闇だから! 分かった!?」

「む、むう……?」

「分かれ!」

「こ、心得た」

 メチャクチャ強引じゃん……。ララさんの過去に何があったんだよ。

 無理矢理雲を頷かせたカナさんは、

「んじゃアタシ買うモノあるから!」

 と曲がり角で立ち止まった。

「カナ?」

「やーほら、ノートとかペンとか、買わないといけないじゃん?」

 それ、もっと早く用意するべきじゃないか……?

「というワケだから、今日はここで! ――付き合えかぜっち!」

 そして疾風をご指名。

「……ふむ?」

 疾風は思案顔で俺、雲、東風さんを順に見やると、

「…………」

 もう一回東風さんを見る。

「了解したよ」

 それから若干楽しそうな顔で快諾した。

「また明日ね〜!」

「明星、明日も迎えに行くよ。――寝坊しないでよ?」

「するか!」

 そう言って二人は商店街へ向かってしまった。

 取り残された俺たちは、

「……帰るか」

「……そうだね」

「うむ」

 それ以外に無かった。



 三人で帰路につきながら、

「…………」

「…………」

 か、会話が弾まない……。

 俺は疾風と違って女性慣れしてないから、こういう時どうしていいか分からない。雲は周りを見るのに忙しい様子。

「……東風さんの家も、こっちの方なのか?」

 結局出てきたのは、そんなありきたりなセリフ。

「うん。も、もしかしたら、近所だったり……」

「いやあどうだろう。こっち側はずっと住宅街だし、そんな事ないんじゃないか?」

「そ、そうだよね。ちょっと言ってみただけだから、深い意味は無いよ?」

「分かってるって」

「はぁ……」

 あれ? ちょっと落ち込んだ?

「ひより、そちはかなと仲が良いようじゃな」

 うお、いきなり話すなよ。身長差があるから、地面が話したのかと思っただろ。

「うん。ほら私、こんな性格だから。これでも、カナの明るさには助けられてるの。――こうして、二人とも仲良くなれた……し……」

 急に言葉がすぼんだ。

 どうしたんだ?

「ひより……よもや、『仲良いと思っておるのは自分だけ』と考えておるのではないか?」

 え、そうなのか?

「雲さん……!」

「ふむ、その反応、真のようじゃな」

 雲は満足そうに頷くと、それから呆れたように首を振った。

「何を心配しておるのじゃ……。わしと話せてつまらんと感じる人間など、おらんというのに……」

 すっげー自信だなそれ。ポジティブの次元通り越してるだろ。

「きらはどうか知らんがの」

「俺だって同じだわ!」

「九十八君……!」

 あ、今凄い事口走った気がする。

 下を向くと、ニヤニヤこちらを見上げる雲。

 ぐ、コイツ、初めからこのつもりで……!

「……あー…………、俺は不器用だからさ、嫌いなヤツと一緒にいるってできないんだ。顔に出るっていうか、口調に出るっていうか。だから、東風さんと仲良くなれて、俺も嬉しい……うん、嬉しい」

「煮え切らんのう。――これぞ、はやての言う“へたれ”かの」

「いらん言葉教わるな!」

 だが俺の曖昧な言葉でも、東風さんには伝わったらしい。

「そっか……私だけじゃなかったんだね。よかった……」

 心から安堵したような微笑みを見せる。

「九十八君は、優しいね」

「……そんな事ないと思うぞ」

 ちょっと恥ずかしい。


















 入学式の翌日、

「ふむ……」

「よしこれ被ってろ」

 起床してきた雲に、バスタオルをぶん投げる。

 こうすれば上裸のコイツを見なくて済む。俺だって学習するん「……いらぬ。邪魔じゃ」ポイされた! この座敷童には、俺ごときの知恵は通用しないというのか……!

「……にしても、いきなりすぎるよなぁ……」

 俺はケータイの画面を一瞥する。

 そこには、『モクっちの髪、見たらすぐ分かるんだからね!』というカナさんからのメール。

 ――昨日、ミラクルエイジでの出来事。



「モクっちさあ、その髪の毛なんだけど」

「む?」

 オムライスを頬張っていた雲に、カナさんがスプーンを向けた。

 雲の長すぎる髪の毛は現在、無造作に垂らされているだけだ。海に浮かぶ海藻みたいだな。

「アタシの見立てによれば、その髪の毛、相当質いいと思うんだよね」

「ふむ? 髪とな? 気を向けた事は無いのう」

「えーもったいない! それはもったいない! 絶対もったいない!」

 カナさんが騒ぐと、

「ねえ雲さん……ちょっと、触らせてもらってもいい?」

 雲の隣に座っていた東風さんが、若干怪しい挙動で手を伸ばした。

「構わぬぞ。好きにせい」

 許可が貰えた東風さんは、雲の漆黒の髪の毛を一房、手に取った。

「ふわぁ……凄い……。どんなケアをすれば、こんなしっとりしたツヤツヤの髪になるの……?」

 感動にすら聞こえる東風さんの声に、カナさんは予想通りとニヤリと笑う。

 そこまで凄いのか。一緒にいたけど、全然気付かなかったな。

「女の子は、細かい所にも敏感なんだよ」

 疾風がニコニコしながらこっちを見る。

「ちょいかぜっち! 細かいとは何だ!」

 もちろんいい意味さ。僕たちには無い世界を見る目。羨ましいよ」

「え、いや〜、流石にそれは恥ずかしいよかぜっち〜」

 ……コイツ、詐欺師とか向いてるんじゃないか?

「不名誉な事考えてる顔だね、明星」

「!?」

「というワケできらっち、モクっちの髪手入れして結ってあげてね!」

「俺ぇ!?」

「だって同棲してるんだから、他にいないっしょ? まさか学校来てからアタシにやらせるつもり?」

 変な圧力かけてくるなぁ……。確かにその通りなんだけどさ。流れるように話振られたから、反応できなかったよ。

「その羨ましい髪質を目の前にして放置するなんて、アタシにはできない! だから頑張ってね。基本的な知識は教えるから」

「自信ないんだけど……」

「そもそもきらっちに拒否権なんか無いんだから、覚えた覚えた!」

「…………」

 この後かなり色々な知識を教わったのだが、それはまたの機会に。



 朝食を食べ終わった後、無理矢理雲に制服を着せると、洗面台の前に立たせる。

「何じゃ、一体。わしはこの鏡とやらが苦手なのじゃが……」

「昨日カナさんが言ってただろ。髪の手入れだ」

 江戸時代の庶民には珍しい代物だったのか、雲は鏡に写る自分が苦手らしい。それに高級品だったとして、引け目を感じているとか。

 教わった通り、まずは櫛で梳く。朝一はクセを直したり大変らしいのだが、雲の髪はこの長さなのにほぼ整っている。俺にも寝グセが酷い時はあるし、それが大変なのもよく知っている。なるほど確かに、この髪質は羨ましいかもしれない。

 ひとまず簡単だと言われる、カナさんと同じポニーテールにしてみる。毛先が床ギリギリから足首になっただけだが、少し可愛らしい印象を持つ。

 ふーむなるほど。束ねただけで印象が変わるなら、アレンジしてみるのも面白いかもな。



 インターホンが鳴り、準備を終えて外に出る。

「やあ」

 待っていた疾風が手を上げる。

「よっ」

「おやひより、おはようじゃな」

 ……はあ?

「何言ってんだお前? どう見ても疾風じゃねーか」

「これだから頭の堅い明星は……」

「え、何でお前が参加すんの?」

 だが疾風は笑顔でスルー。殴りたいこの笑顔。

「ひよりはあそこじゃ」

 雲が曲がり角の電柱を指差すと、

「バレちゃった……。雲さん凄いなぁ」

 気まずそうに東風さんが姿を見せた。

「あんな所で何やってたんだ?」

「そ、それは……」

「――ふむ。運よく明星の自宅を特定できたし、偶然を装って一緒に登校しようと思った。しかし明星の自宅の前には僕がいて、出るに出られない状況になってしまった……とこんな感じかな?」

「小鳥遊君!?」

「あれ、的外れだったかな? ごめんよ」

「ま、間違っては、ないけど……」

 ……さっきから何の話をしてるんだ?

「さて、あまりのんびりしていると遅刻しそうだ。話は歩きながらでもできる」

 もう話す事はないとばかりに会話を打ち切った疾風は、さっさと歩き出す。凄く気になるのだが、東風さんのプライバシーにも関わるしガマンしよう。誰にでも知られたくない秘密くらいあるだろう。

 昨日の曲がり角まで向かうと、

「お? 何さ何さ〜。アタシをのけ者にして盛り上がっちゃって!」

 朝からハイテンションなカナさん。

「……ひよが一緒にいる事について小一時間ほど問い詰めたいけど、」

「あぅ……」

「先にモクっちの髪だね! やるじゃんきらっち!」

 グッ、と親指を立てるカナさん。

「これでよかったのか? あんまり自信ないんだけど」

「まあ最初だしこんなモンでしょ。ひよはどう思う?」

「へ? 私?」

「モクっちの髪を羨ましがってた一人として、さ!」

「そ、そう言われても……」

「東風はここまで夢見心地だったから、雲ちゃんまで注意が向かなかったんじゃないかな?」

「小鳥遊君!」



 五人で登校し、校門をくぐる。

 昨日は色々余裕が無くて気付かなかったが、ここの桜並木綺麗だな。頭上は抜けているのに、せり出した枝でアーチ状のような錯覚に陥る。桜吹雪もいい感じ。

「桜……。ほう、気付かなんだが、現代は何とも綺麗な色をしておる」

 雲が立ち止まり、掌を差し出す。そこに、狙ったかのように花びらが一枚舞い乗った。そして風が吹き抜け、雲の長い黒髪が流れる。

 儚げに見える雲の姿は、現実世界から切り取られたかのようだ。俺もみんなも、無意識に足を止めて口を閉じた。

 時間にすれば、ほんの数秒だったのだろう。

「すまぬの。感傷に浸ってしもうた」

 雲はこちらに向き直ると、ニコッと微笑む。

 ……ああ、コイツはやっぱり、生きてきた時代が違うんだな。





 教室で朝のホームルームを終えると、俺たちは体操服に着替える。

 今日の日程は午前中に身体測定。午後に体力測定だ。

 徳巡学園に男子更衣室なんてモノは元々存在せず、空き教室に“男子更衣室”という申し訳程度の張り紙をしただけの悲しい待遇である。

「そんじゃね〜。お二人さん、覗きに来たらダメだよ〜?」

「行かないから!」

 更衣室の前でカナさん他女子と別れ、ドアを開ける。……うん、廃材とか置いてあるんですが。

「ほら明星、気にしてもどうしようもないよ」

 疾風に肩を叩かれる。

「お前はポジティブだな……」

「超少人数なんだから、こうなる事は予想できたじゃないか」

「実はネガティブだった……」

 文句を言いつつ着替えるしかないので、さっさと着替える。

「そんで測定場所は……」

 女子は体育館、男子は――保健室。

「「…………」」

 流石に疾風も言葉が出ないらしい。

「女の子にはプライバシーとかあるだろうし、多少はね?」

「充分多大だろコレ」

 疾風のフォローなのか分からない一言にツッコミつつ、保健室のドアを開ける。無人だった。

「…………せめて先生一人くらいはつけてくれよ……」

「同感。これはもう、早く終わらせて教室でのんびりするしかないかな」

「あ、それいいなー」

 測るのは身長、体重、座高の三つだ。八〇〇人いる女子は時間がかかりそうだが、あいにく男子は二人だ。五分もかからなかった。

「……さて、教室戻るか」

 この先の暇つぶしの仕方を考えながらドアを開け、

「きゃっ!?」

 誰かとぶつかった。

「っと、ごめんなさい」

「…………」

 うん? 反応が無い。

 頭半個分視線を下げると、

「すぅ……いい匂い……」

 何かを呟くモミジの髪留め。……モミジの髪留め?

「東風さん?」

「!? ひゃい!? ごめんなさい!」

 名前を呼んだだけなのに、飛び退かれて謝られた。そんな威圧的だったかなぁ……?

「にしし〜、変にトリップとかするからだよ〜?」

「きらとはやてはおったかえ?」

 さらにその後ろから、カナさんと雲が顔を覗かせた。

「どうしたんだ?」

 いくらなんでも、終わるの早すぎないか? 女子側の混雑は相当だろう。

「混んでたから、こっち来ちゃった!」

「人が多すぎての。身動き取れんかった……」

「……まあ雲さんの場合、先輩たちに囲まれちゃったからね……」

 マスコットかよ。まあ黙ってりゃ美幼女だからな。生意気な口調が無けりゃ、リアル日本人形だもんな。

「二人は測り終わったのん?」

「ああ、二人だからな」

「明星、卑屈になるのはよくないよ」

「ほっとけ。――東風さんたちはここで測るのか?」

「そのつもり〜」

「じゃあ俺たちは教室で待ってるから」

 そう言って歩き出そうとした俺の肩を、ガシィッ、とカナさんが掴んだ。……ちょっと痛い。

「ちょい待ち。アタシらはコッソリここに来てるの。先生にバレたら面倒でしょ?」

「……つまり?」

「見張ってて! ごめんね!」

 まったく悪びれた様子の無い笑顔。

「断るのは難しそうだね」

「かぜっち分かってるぅ〜」

 何で嬉しそうなんだよ……。

「反論も――」

「無意味!」

 断言されてしまった。

「じゃ、よろしく〜」

 強引に押し切ったカナさんは、保健室のドアを閉めた。

 取り残された俺たちは、仕方なく言われた通り見張りを「じゃあ明星、よろしく」はあぁぁぁ!?

 疾風が片手を上げ、スタスタと歩き出した。

「二人並んで立ってるのもマヌケだし、逆に怪しい。見張りなんて一人で充分だろう?」

「いや、裏切るなよお前!」

「先に教室戻ってるね。――後でジュース奢ってあげるから」

 俺の抗議を華麗に受け流すと、疾風は本当に戻って行ってしまった。

「…………」

 呆然としつつ、見張りは継続。俺まで戻ったら、カナさんに何言われるか分からない。

 ボンヤリとドアに背中を預けていると、

「――お待たせ!」

 スパーン、とドアが開かれた。

「うおっ!?」

 体重をかけていた俺は、重力に逆らえずそのまま後ろへ。

「うわ、きらっち危な!」

 とか言いつつチャッカリ横に逸れたカナさんを視界の端に捉えつつ、

「きゃっ!」

 その背後にいた東風さんを巻き込んでしまう。

「ひより!」

 咄嗟に雲が支えたらしく、転倒という事態は避けられた。――のだが、

 ――ふにっ。

「ん……?」

 何だ、背中に伝わるこの柔らかな感触は……。

「――――――っ!」

 俺と雲に挟まれた東風さんが、声にならない悲鳴を上げている。

 まさか……。

 ふと前を見ると、

「参考までに言っておくと、――ひよ、隠れ巨乳説!」

 おぃぃぃぃっ!

 全てを悟った俺は、慌てて体を戻す。

「ご、ごめん東風さん!」

 振り返り、真っ赤な東風さんに謝罪。

「う、うん、大丈夫……。びっくりしただけだから……」

 消え入りそうな声。全然大丈夫じゃないな。申し訳ない事したなぁ……。う、俺まで暑くなってきた……。

「……もしきらっちさえよければ、さっきついでに測ったひよのスリーサイズとか、教えちゃうよ? 特にバ・ス・ト☆」

 ススス、と近寄ってきたカナさんが、耳元で囁く。

「…………」

 布越しであれだけハッキリした感触だ。高校生の平均値を軽く上回るのは間違いな……

「カナ!」

 俺の妄想を断ち切るかのように、さらに紅く染まった東風さんが叫んだ。

「ジョーダンだって。ごめんごめんひよ。――というワケだきらっち。残念だったね〜」

 ニヤニヤこちらを見るカナさんに、

「何も言ってねーし!」

 九割図星の俺はそう吠えるしかなかった。



 教室に戻ると、

「おや、思ったより遅かったね」

 疾風が缶コーヒーを飲んでいた。

「明星、約束の奢り」

 そして脇に置いてあった別の缶コーヒーを俺に放ってきた。

「――って熱っ! お前バカだろ!」

 何でこの時期にホットを飲まなくちゃならんのだ。

「それよりかぜっち聞いて! ひよって巨――」

「カナダメぇ!」

 東風さんの制止は何とか間に合ったみたいだ。

「巨?」

「な、何でもないの。気にしないで」

 誤魔化すように笑う東風さん。

「……ふむ」

 だがこのイケメン、余計な思考を始める。

「バストサイズでも測ったのかな?」

「はぅ……」

 コイツはまた恥ずかしげもなく……。東風さん可哀想だろ。

「バレちゃったなら仕方ない! そっちの情報も暴露してもらおうか!」

 抵抗する間もなく、記録用紙がひったくられた。俺や疾風は、見られて困るものでもないからいいんだけどさ。

「ならばきら、わしのを見るかえ?」

 その代わりなのか、雲が紙を差し出してきた。

「お、ちょうど気になってたんだよな」

 コイツの身長とか、実際はいくつなのかとかを。

 目を通すと、身長百四十六センチ……うん? 体重……あれ?

 ふと欄外の数字三つに視線を向け――「そ、それ私の!」た瞬間に東風さんに持って行かれた。

「おお、すまんかった、ひより」

「お前、わざとやってないよな……?」

「無論じゃ。何を言う」

 何でちょっと怒ってんだよ。むしろ東風さんに怒られろよ。

「に、九十八君、見た……?」

「み、見てない」

「言い訳は見苦しいよ、明星」

「お前は黙ってろ!」

 優雅に缶コーヒーを飲む疾風にツッコむ。イケメンは何やっても板につくからムカつく。

「わしのはこっちじゃな」

 改めて雲が差し出した用紙を受け取る。

 身長、百十八センチ。

「低っ!」

 体重、二十一キロ。

「軽っ!」

 ちっこいとは思っていたが、これは予想外……。欄外のスリーサイズは……うん、ウエスト以外は悲しみだな。

「モクっちの体重は、反則っぽいよねー」

 結局自分のは見せてくれないカナさんが、珍しくネガティブに呟く。

「うん、羨ましいとか、そういう次元じゃないよね……」

 うお、東風さんが異様に暗い。体重にコンプレックスでもあるんだろうか。とりあえずフォローを。

「大丈夫だと思うぞ? 東風さん、そんな体重なかったし」

「え?」

「ん?」

「む?」

 ……あれ?

「やっぱり見られてたぁぁぁぁぁ……」

 ……しまった。自爆してしまった。

「ドンマイひよ。きらっちはお世辞じゃないと思うよ?」

 落ち込む東風さんを慰めるカナさんが、視線をこっちに向ける。――『やっちまったな』と。……放っといてくれ。

 ま、まあ一応付け足しておくと、東風さんの胸囲は凄かった。うん。

 本人には絶対に言えないけどな……。



 ――それから五人でおしゃべりをしながら時間を潰していると、チラホラと他の女子たちも戻ってきた。

 そうしてやってくるのは、お昼の時間。

 俺と雲は弁当を持ってきていないので、学食へ向かう。

「明星、自炊はしているんだろう?」

「そりゃまあしてるけど、特別料理が上手いワケでもないし、ぶっちゃけそこまで気力が湧かない」

 我が家の座敷童の食べっぷりは、その辺のやる気を根こそぎ奪っていく。中学までは弁当なんて作った事すらなかったのに、いきなりコイツの満足する弁当が作れる気がしないのだ。

「きらの腕は、わしも一目置いておるのだがのう。怠け癖があるようで、困っておるのじゃ」

「お前が異常に食うからだろ!」

「ららは、喜んでおったがの?」

「ララさんと一緒にしないでくれ……」

 あの人は、別次元だろう。腕前も取り組み方も意識も。

「おお、やっぱり安いな」

 学食の券売機を見ると、かなりリーズナブル。とりあえず今日はうどん。俺はかき揚げで、雲は月見。

 おばちゃんに食券を渡すと、少し驚いたように俺の顔を見た。……しばらくは、こういう珍獣の扱いになるんだろうな。

「あら、もしかして噂の新入生? すごーくカッコいい子が入ったって聞いたわよ〜?」

「あ、それはあっちですね」

 俺は即答して後ろを示す。俺は『カッコいい』なんて、お世辞でも言われた事ないからな。

「あらヤダ、あなたも充分カッコいいわよ? 自信持って!」

「はあ……どうも」

 人生初『カッコいい』がこの超お世辞って、少し複雑。

「きらの容姿などどうでも良いが、わしは腹が減った」

 お前ホント空気読めよ。雰囲気が険悪になったらどうすんだ。

 だがこのおばちゃん、メンタルも相当強いらしい。視線を下げて雲を見つけると、

「おや、これまた随分と可愛らしい子だね。お人形さんかと思ったよ」

 明るく笑って雲の頭を撫でた。

「撫でるでない!」

 おばちゃんはおっとっと、と手を振ると、お椀を二つ置いた。

「お二人さん、中々面白そうだね。これからもごひいきにしてくれるんなら、サービスしてやるよ!」

 見ると、本来一つのかき揚げが二つ。月見うどんにはエビフライ。

「ありがとうございます」

 お礼を言うと、後ろでうどんを作ってくれた別のおばちゃんが呆れ顔を向けた。

「学食長……またロス出て怒られますよ?」

 え、この人学食長だったの? 偉い人じゃん。

「いーのいーの! 若い子はたくさん食べなきゃ! 近頃はダイエットとか流行ってるらしいけど、お腹いっぱい食べる方が幸せだよ!」

 その言葉は、俺や雲には深く刺さる。雲の過去を知るハズはないだろうが、こういう考えは、立派だと思う。

「本当に、ありがとうございます」

「うむ、礼を申す」



 うどんを持って、三人が待つテーブルにつく。

「何やら気に入られてたみたいだね」

「ああ、気さくな人でよかったぞ」

 さて、せっかくサービスしてもらったんだ。美味しくいただこう。

 ……うん、美味しい。これなら満足だな。……ああもう絶対に弁当作らないな、これ。

「ほう、ひよりの弁当は美味そうじゃな」

 食べ終わったお椀を脇に寄せ、雲が東風さんの弁当箱を覗き込んだ。……いや、食べるの早すぎだろ。俺なんて、まだ半分も食ってないぞ?

「そ、そうかな?」

 つられて見ると、いかにも女の子らしいピンクの小さい弁当箱には、焦げ目の全くない玉子焼きや串に刺さったミートボールなど、食欲をそそりそうなおかずが並んでいる。

「ひよは料理上手だもんね〜」

 そしてその横から、当然のようにおかずをつまみ食いするカナさん。

「え、まさか自作?」

「うん、一応……」

 マジかよ。お店に並んでても遜色ないレベルだぞ。

「よかったら、食べる?」

「いいのか? じゃあ遠慮なく……」

 玉子焼きを一つ、口に放り込む……うん、メチャクチャ美味い。

「僕も一ついいかな?」

「うん、どうぞ」

 結局、全員でおかずを拝借。

 ミラクルエイジに行った時も思ったが、本当に美味しい食事って、自然と無言になるんだな。

「えっと……九十八君は、自分でお弁当作ったりはしないの?」

「今の所、その予定は無いかなぁ。毎日は面倒だし」

「え、えっと……じゃあ、迷惑でなければ……私が、作ってこようかな、なんて……」

「? ごめん、よく聞こえなかった。もう一回言ってもらえる?」

「なななな何でもない!」

 凄い勢いで首を振られた。何を言おうとしたのだろうか……気になる。

「にしし〜、残念だったねひよ。きっとまたチャンスあるよ」

「そうだといいなぁ……」





 ランチを終えた後は、昼休みだ。俺たちは食べ始めた時間が早かったのか、一時間以上ある。

 東風さんやカナさんの女子陣は、ただ話すだけでも一時間は余裕らしい。……のだが、俺には無理だ。というワケで、腹ごなしも兼ねてグラウンドに出た。どうせ午後は運動するんだしな。

 今日一日解放されているらしい体育倉庫から、カナさんがサッカーボールを持ってきた。

「へーいきらっちパス!」

「ちょ――!」

 勢いがシュート並みなんですが!?

 横を抜けようとしたボールを、咄嗟に手で弾く。

「きらっち、ハンド」

「無茶言わないでくれ……」

 テンテンと転がったボールを、雲が拾った。

「きら、これは蹴鞠かえ?」

「あー、うん。間違ってはないな」

 むしろ現代の蹴鞠だよな、サッカーボールって。

「……ふむ」

 おもむろにリフティングを始める雲。ポーンと真上に上がったボールは、頂点に到達すると重力に従い落下。

「雲ちゃん、それを明星に向かって思い切り」

「何言ってんのお前!?」

「心得た!」

「ノリノリだな!」

 落ちてきたボールを、雲はこちらに向かってダイレクトシュート。蹴鞠にそんな遊び方無いよね!?

 だが蹴りどころが悪かったのか、ボールは俺の遥か頭上を越え百メートルほど離れた所に転がった。

「…………」

「…………」

「…………」

 雲、疾風、カナさんが揃って俺を見る。え、何その『取って来いよ』的な視線は。

「取って来なよ、明星」

「言っちゃったし!」

 ちくしょう、何で俺が。完全にとばっちりじゃねーか。



 トボトボ歩いてサッカーボールを拾うと、

「九十八君、大丈夫?」

 東風さんが声をかけてきた。ついてきてくれたのか? 優しい……。

「あー平気平気。疾風の性格は昔からだし、雲の横暴も今に始まった事じゃないから」

 いや、結構最近か……? 我ながら、メンタル強くなっている気がする。

「でもカナは……」

 申し訳なさそうな表情をする東風さん。……んん? 友達として、あの暴走を気にしているのだろうか。

「カナさんだって、面白がってるだけで悪気は無いからな。迷惑とかには感じないぞ」

「九十八君……。九十八君は、優しいね」

「……東風さんには負けるよ」

「わ、私は人見知りなだけだよ。あまり人と話さないから、暗いだけだと思う。それに、断る勇気も無いから……」

「そんな事ないって。そこは自信持って言える」

「そ、そうかな……」

「おう、断言する」

「……やっぱり、九十八君は優しいね」

 ぐ、結局最後はカウンターされてしまった……。やっぱり日和さんには勝てないな……。



「――お、なーんかいい雰囲気?」

「明星は単純だから、思った事そのまま口にしちゃうからね。東風みたいに純情な人は、コロッといっちゃう可能性があるね」

「ひよの場合、それが本望だけどね〜」

「東風の好意は、見て明らかなのに、それに気付かない明星は……どんな神経してるんだろうね」

「ま、いいんじゃない? アタシらは、ちょっかい出しつつ見守る感じで」

「そうだね。明星はともかく、東風には幸せになってもらいたい」

「おっ、じゃあ色々頑張っちゃおう!」

「ははは、よろしく」





 適当にボールを蹴ったり立ち話したりで昼休みを終えると、一度グラウンドに集合させられた。

 体育教師から簡単な説明を受け、解散となる。

 体力テストは基本ペアか三人で回り、屋外では、五十メートル走、ハンドボール投げ、持久走(男子千五〇〇メートル・女子千〇〇〇メートル)。屋内の体育館では、反復横跳び、握力、長座体前屈。順番は自由だそうだ。

 せっかくグラウンドにいるんだし、という理由で外種目から回る事にした。

 まずは五十メートル。女子三人がスタートラインに向かい、俺たちは計測係。

「――モクっち、勝負しない?」

「む?」

「負けた方がジュース奢り! どう?」

「ふむ、面白そうじゃな。乗った」

「よし決まり!」

 ……そのジュース代、払うの俺なんだけどなぁ……。

「ひよりはせんのかえ?」

「あーダメダメ。ひよは勝負になんないから」

「うぅ……。そうだけど……。カナは運動得意だし」

 東風さんは運動苦手そうだもんなぁ。

「じゃあお二人さん、計測よろしくね~」

 そう言ってカナさんと雲は、スタートラインに立つ。東風さんは次。

「よーい……ドン!」

 それを合図に飛び出す雲とカナさん。……いや、雲のスタートダッシュが異常だ。長い黒髪が水平になるほどの速度で、決して遅くはないカナさんをぶっちぎってゴール。

「これで良かったのかの、きら」

「あ、ああ……うん」

 そしてカナさんもゴール。

「モクっち速ぁ!」

 疾風がタイムを告げるより先に、驚きを爆発させる。

「こんなに速いなんて知らなかっ……」

 そこで言葉を切ったカナさん。何故かこっちを向いた。

「……きらっち~?」

「俺も知らなかったんだよ!人のせいにするなって!」

 雲って運動できたんだな……。こんなちっこい身体で、どんな運動神経だよ。

「むう……。まあ負けは負けだもんな~。しゃーない! 後でコーラでも奢ってやろう!」

「ありがたく頂戴するぞい」

「次は東風さんだな。――行くぞー!」

 俺が声をかけると、スタートラインで東風さんが手を挙げて応えた。

「よーいドン!」

 掛け声に合わせて、スタートダッシュ。……したように見えた。実際は、かなりめちゃくちゃなフォームでバタバタとした走り。

「ん~、相変わらずひよ遅いね~」

 確かに東風さんのタイムは芳しくなかった。だが、

「はぁ……はぁ……はぁ……去年より、速かった……!」

 一所懸命なら、それが一番だろ?



 女子陣にストップウォッチを渡し、続いて俺たち男子。

「いっくよー! よーい、ドン!」

 声を聞いた瞬間に、全力で飛び出す。横の疾風が後ろに流れ、そのままゴール。

「わお、きらっち速っ!」

「まあな」

 運動は昔から得意だ。運動会のリレーでは、いつも代表だった。

「ふう……相変わらず明星は速いね。まるで原始人のようだよ」

「お前それ、絶対褒めてないだろ……」

 ちなみに疾風のタイムは平均以下。コイツ、顔と性格以外は割と並みなんだよなぁ。



 次のハンドボール投げでも、

「モクっち、勝負だ! 今度は負けないからね!」

「受けて立つぞい」

「あ、でも今回は奢り無しね」

「わしはどちらでも構わんが」

「よく考えたら、モクっち負けてもリスク無いもんね。きらっちに被害及ぶのは面白いかもしれないけど」

 オイ。

 ――結果的に、雲は疾風より飛ばした。

「ぐぬぬ……モクっち強し……」

 カナさん敗北は、言うまでもない。



 グラウンド最後は、持久走。

「男子先にやってよ。長いんだし。アタシらは休憩してるね~」

 とカナさんに言われ、何故か男子二人が先に走る。

「明星の隣で持久走って、何のイジメなんだろうね」

「知らねーよ。二人しかいないんだから仕方ねーだろ。てか、応援されるだけありがたいと思えよ」

 疾風の持久走が始まるとなって、グラウンドにいた女子達が足を止めて黄色い声援を送っている。「小鳥遊く~ん、頑張って~!」とか「疾風く~ん、ファイト~!」とか。俺への声援全然無いんですが。

「容姿だけで判断した、周囲に合わせた評価は、あまり嬉しくないかな。明星だって、心から応援してもらった方が嬉しいだろう?」

「……それがいないから言ってんだろ」

「雲ちゃんは?」

「アイツは心から応援なんてしないだろ」

「声に出すだけが応援とは限らないんじゃないかな。――もう一人、も」

「は? 誰だよそれ」

「さあ? 明星が自分で気付くしかないね」

「……からかってるんじゃないだろうな」

「おっと、スタートみたいだね」

 上手くはぐらかされた気がするが、今はいいか。覚えていたら、後で訊こう。

「よーいドン!」

 早速疾風を置いていきながらも、実は俺は、長距離走はあまり好きではない。

 というのも、暇なのだ。走っている間が。意識が飛ぶほどの全力は出したくないし、徒歩と違ってペース配分なども考慮する必要がある。そうなると、あまり雑念に思考を割く余裕も無くなる。結果、ボンヤリした時間になってしまうのだ。

「――はい、九十八君あと一周!」

 まあ、千五〇〇メートルなら五分弱で終わるから、そこまで苦痛じゃないけどな。

 九割ほどの力でゴールし、タイムを聞くと疾風が終わるのを待つ。……アイツも大概マイペースだな。

「――いやあ、明星は速いね。二人で走ってたはずなのに、お互い孤独走じゃないか」

 完走直後だというのに爽やかな笑みを浮かべる疾風。どうやったら身につくんだそのスキル。

「……褒めるか皮肉るかどっちかにしろよ」

「じゃあ皮肉で」

「ってオイ」

「――へいきらっち、お疲れの所悪いけど、今度はアタシ達が走るから測定ヨロシク」

「ん、了解」

 カナさんからストップウォッチを受け取ると、スタートラインに立つ三人に手を振る。

「行くぞー。――よーいドン!」

 飛び出すのはもちろん雲。全力疾走じゃないから、一応ペース配分を考えてはいるんだろうが……凄いハイペースだな。持つのだろうか。

 二番手はマイペースカナさん。さすがに勝負はしないらしい。

 そして三番手は、

「ん~、東風は時間がかかりそうだね」

 ダントツでビリの東風さん。……俺、早歩きでも抜けそうだな。

「はっ……はっ……はっ……はっ……!」

 でもあれだけ真剣な表情だと、順位やタイムを度外視して応援したくなる。

「頑張れ東風さん。あと二周!」

 前を通り過ぎた彼女に、思わず声を掛けていた。生のスポーツ観戦って、こんな感じなのかな。

「はっ……! はっ……! ――うん……っ!」

 東風さんも、声援に応えるように若干ペースが上がった。

「うんうん。愛の力だね」

 コイツは何を言っているのやら……。

「――おや、曇ってきたね。夕立来るかもね」

 不意に、疾風が空を見上げて呟いた。釣られて上を向くと、確かに空が鉛色に覆われていく。

 それと同時に、雲がゴール。

「きら、わしのたいむとやらはどうじゃ?」

「ああ、文句なしの異常値だ」

「明星、日本語おかしい」

「プラスの意味でだよ」

 だって男子の平均タイムより速いんだもん。雲といい疾風といい、何でそんな爽やかな顔してんだよ。仮にも運動直後だろ。

「――あー! モクっち速すぎー!」

 悔しさ全開のカナさんもゴール。

「スタートした瞬間に負けを確信したね!」

 ちょっと嬉しそうなのは何でだ? 圧倒的すぎて気持ちが一周したのか?

「じゃあ明星、僕達は先に避難してるよ。東風が終わったら、急いで来てね」

「ひよの事、ヨロシク~」

「濡れては敵わんからの」

 測定する俺と走る東風さんを見捨てて、三人は体育館へ行ってしまった。……まあ、いいか。本当に雨が降るとも限らないし。

「――と、東風さん、ラスト一周!」

「うん……っ!」

 苦しそうな表情だったが、力強く頷いた。あれだけ一所懸命だと、こっちも力が入る。頑張って欲しい。

「――ん、降ってきたか」

 ポツリポツリと、雨粒が降ってきた。雨脚が強まる前に、体育館に向かいたい所だ。

 そして東風さんゴール。拍手したい。

「お疲れ東風さん」

「うん……っ。九十八君がっ……応援してくれたから……、頑張れた気がするよ……っ」

「落ち着いてからでいいよ。あと、雨降ってきたし早めに体育館行った方がよさそうだ」

「ご、ごめんね……。もう、ちょっとっ……待って……」

 肩で息をする東風さん。この状態で今すぐ移動しろは、確かに酷だ。

「ゆっくりでいいから――」

 と言いかけた直後、

 ――ドザァッ、と。いきなり本降りになった。いや、というより土砂降りだ。

「こ、これは無理だな……。ごめん東風さん、行こう」

「へっ?」

 東風さんの手を掴んで立ち上がらせると、ひとまず目の前にあった体育倉庫へ向かった。



 東風さんの手を引いて体育倉庫に入ると、空を見上げる。

 まさしくバケツをひっくり返したような雨に、水煙が立ち込める。十数秒打たれただけなのに、すでに全身グッショリである。

「にわか雨だと思うからすぐやむと思うけど、しばらくは動けな……東風さん?」

 振り返ると、

「て、手が……手を……手、握っちゃった……」

 怪しく呟く東風さん。

「ごめん、もしかして痛かったか?」

「へっ? ううん! 違うの!」

「……何が?」

「……何でもないの」

 慌てた理由が分からない。何か気に触る事したかなぁ?

「そ、それよりも、雨……やみそう?」

「うーん、ちょっと今すぐにはやまないかなぁ?」

 ここから体育館までは百メートルほどだが、そこまでに屋根は無い。小降りならともかく、こう本降りだと厳しい。

「早くやむといいね……」

 隣に立った東風さんが、倉庫の外と俺の顔を交互に覗き込む。

「……あー、うん。そうだな……」

「? どうしたの?」

 明後日の方向を向いた俺に、東風さんがキョトンとする。

 ……いやね、東風さんもかなり濡れちゃっているんだよ。ピッタリ張り付いてブラとか丸見えなんだよ目に毒なんだよ!

「――へくちっ」

 と、東風さんがくしゃみをした。

「寒いの?」

「うん……少し……」

 半袖だし、まだ四月だ。ずぶ濡れだし、そりゃ寒いよな。

 とは言っても、運動するからとジャージは教室に置いてきてしまった。

「体育倉庫だし、タオルくらいないのか……?」

 このままだと風邪を引きかねない。せめて体を拭かないと――と倉庫を物色。

 だがサッカー、ハンド、ソフトなどのボールは大量に置いてあるが、タオルは無い。

「うーん、そりゃそうか……」

 よく考えたら湿気ありそうだし、カビ生えそうだもんな。

「見つかった?」

 後ろから声をかけてきた東風さんに、首を横に振る。

「いや、多分無さそう――」

 そう言いながらグローブが詰まった段ボールを動かすと、――“黒いヤツ”が姿を見せた。中々のサイズだ。

 「うおっ」と、さすがに驚いて声を上げ――られなかった。

「ひぅ………………っ!?」

 それよりも先に、東風さんが抱きついてきたのだ。

 ラリアットをかけられたかのように後ろから腕を絡められ、そのまま倒れてしまった。

「――いだっ!」

 倒れた拍子に後頭部を床に打ち付け――って前にもこんな事無かったっけ。

 ガタガタ震える東風さん。さすがに怯えすぎじゃないか……?

「ちょ……東風さん、落ち着いて」

 体育倉庫で重なって倒れ込み、抱きつかれる図。誤解を招くどころの話じゃないぞコレ。……あと、体勢的によろしくない。豊かすぎる弾力が、ムニュムニュっと。濡れているせいかほぼダイレクトに伝わってくる。……柔らかいなぁ……――じゃなくて!

「そ、そろそろ離れてくれると……」

「む、無理! あんな大きなのがいたら、もう動けない……!」

 と、さらに腕に力を込められる。か、顔近い……! 怯えた顔も可愛いが、これ以上こうしているワケにもいかない。窒息する。

「ほ、ほら東風さん! 外! 雨弱くなってる!」

 やはり通り雨だったのか、すでに雨は小降りになっていた。た、助かった……。

「雲たち待ってるだろうし、早く行こ――ぉう!?」

 言葉の途中で東風さんは急に立ち上がると、俺の手を引っ張って倉庫から飛び出した。

 そ、そんなに怖かったのか……。

 決死の表情で走る東風さんを見ながら、そういえばさっきと立場逆だなぁ、とボンヤリ考えた。





「お、ひよときらっち来た。雨大丈夫だった〜?」

 体育館に着くと、入り口で待っていてくれたカナさん達が手を振った。

「見た感じ、あまり大丈夫じゃなさそうだね」

「濡れておるな。冷えんかえ?」

 だがGの恐怖のままに逃げてきた東風さんは、

「カナ……!」

 カナさんへと飛び込んだ。

「おおっとぉ? どしたのひよ」

 強くハグする東風さんに、

「ん〜よく分かんないけど、よしよし」

 カナさんはその頭を撫でる。

「んできらっち、ひよに何したの?」

「俺が悪人前提!?」

「だってきらっちから逃げてきたんでしょ?」

「違う違う! ちょっとGが出てな……」

「G? ――ああ。ひよ、虫苦手だもんね〜」

 楽しげに、しかし優しく笑ったカナさんは、もう一度東風さんの頭を撫でる。

「てかひよ、ビッショリじゃん。風邪引くよ? よく見なくてもきらっちも」

 よく見ないのかよ。

「カナさん、ジャージ貸してくれないか?」

 五人で唯一ジャージを着ているカナさんにそう訊くと、

「えっ……? きらっちに……?」

 自分を抱くように腕を交差すると、嫌そうな顔をした。

「違うから! 東風さんにだよ!」

「あ、なーんだ。ひよにか。まあ知ってたけど」

「…………」

「でもひよ、濡れた服の上から着たら、気持ち悪いんじゃない?」

「うーん確かに……。かと言って、そのままいるワケにもいかないしな……」

「わ、私は別に……。九十八君も、同じだし……」

「俺は身体丈夫だから、平気」

「――ならば脱げば良かろう」

 悩む俺たちを呆れたように一瞥した雲が、東風さんの体育着の裾を引っ張り上げた。

「くくくくく雲さん!?」

 身長差的に脱がすまでには至らなかったが、真っ白いお腹がこんにちは。

「何やってんだお前は!」

 慌てて後ろから抱き上げ、引き剥がす。コイツ軽いな。

「む、何をするかきら。降ろさんか」

「お前が何してんだよ!」

「濡れたままが気持ち悪いと言うておった故、脱がすしかなかろう」

「だからっていきなり実践するなよ!」

 ホントごめん東風さん。中途半端に腕を上げたまま、固まっている。

「でも、確かにモクっちの言う通りだよね。……脱ぐしかないよねぇひよ」

「か、カナ……」

 うわ、ここにも楽しそうな人が……。

「まあアタシも鬼じゃないからね。この場で脱げとは言わないよん」

 それは悪ノリの域を超えてるな。友情を疑うレベルだぞ……。

「ちょうどよくあそこに用具室があるから、あそこで着替えてきなよ」

 カナさんが指差した先には、マットやボールがしまってある用具室。確かにあそこなら、扉閉めれば人目にはつかないが……、

「倉、庫……」

 東風さん、若干のトラウマ。

「じゃあきらっち、付き添い」

「いやいや! 男の俺が付き添っても意味ないだろ!」

「カナ……」

「んも〜、しょーがないなぁ。ひよは世話が焼けるんだからまったく〜」

「ご、ごめんね。ありがとう」

 並んで歩く二人を見ていると、やっぱり仲良しなんだなと感じる。カナさんは暴走半端ないけど、それでも面倒見がいいのだろう。

「――ええっ!?」

 ……という東風さんの、絶対に何かあった声は聞かなかった事にしよう。



 数分後、半袖のカナさんと『千倉』と書かれたジャージを着た東風さんが出てきた。濡れているにも関わらず、丁寧に畳まれた体育着を抱いている。

「いやーごめんごめん。ひよを説得してたら遅くなっちゃった」

「説得? 着替えるだけなのに、何の説得が必要なんだ?」

「すぐに分かるよん♪」

 ……まあいいか。考えるのも怖い。

「じゃあ気を取り直して、体育館種目の計測も始めようか。握力が空いてるみたいだから、そこからでいいかい?」

「オッケー。行こう!」

 というワケで握力へ。

 東風さんが握力計を握ると、

「んっ…………っ!」

 顔を真っ赤にして力を込める。

「――っはあ!」

 物凄くやり切った表情で見せられた数値は、――九キロ。

「いくらなんでも非力すぎでしょひよ!」

「一桁だとは思わなかった……」

 まあ、逆に凄いよな。全力で九キロって。――ちなみに九キロの平均年齢は八歳らしい。



 続いては長座体前屈。

「きら、背中を押してくれんかえ?」

「……すでにペッタリ折れているのに、そこからどうしろと?」

「家主の力の見せ所じゃな」

「どんだけ家主万能なんだよ!」

「きらっち〜、ひよもお願い」

「……ていうか、背中押すのってルール違反だよな」

「細かい事は気にしちゃダメだって! 後できらっちも押してあげるから!」

「へいへい……」

「九十八君、お願いします」

「いいけど……東風さんも柔らかいじゃん」

「でも、私はここで稼がないと……」

「東風さんはホント頑張るよなあ。真面目だよ……っと」

「んん〜……っ」

「じゃあ、残るは明星だけだね」

「……ああ」

「ありゃ? きらっちテンション低くない?」

「その理由はすぐに分かるよ、カナさん」

「じゃあ、押すね、九十八君」

「お手柔らかに……」

「――そんなひよの後ろからドーン!」

「あがぁ! 腰がぁ!」

「だ、大丈夫九十八君!?」

「ってきらっち、身体固っ!」

「……柔軟だけは、苦手なんだよ……」

「やー、ごめんごめん。てっきり百八十度いくものかと」

「それ、もう人間やめてるぞ……」

 それと気付かないフリをしたが、相変わらずフニフニだった。東風さんの胸部、よりダイレクトな感触だったような……気のせいか。



 その後立ち幅跳びを済ませると、最後の反復横跳び。

 俺たちは奇数なので、誰かが二人分を数えるか一人が自分で数えるかどちらかなのだが、

「アタシそんなマジでやらないし、自分で数えられるからいーよ」

 それでいいのかという意見はさて置き、まずは俺と疾風。

「ん〜相変わらずきらっちは俊敏だね〜。カニみたい」

「さっきから褒められてる気がしないんだけど……」

「褒めてないもん」

 えっ……?

「アタシが言ってたのは、純粋な感想だよ?」

「……嬉しくない真実をどうもありがとう」

 運動量以上に疲弊して女子陣とチェンジ。

「よーいハイ!」

 掛け声と同時に、人間離れした速度で動き出す雲。……あれ、俺より速いかもしれないな。カナさんはマイペースに、恐らく疲れない程度にヒョイヒョイと動く。

 ……だがそれより何より、

「はっ……はっ……はっ……!」

 真剣にステップを刻む東風さん。本人は気付いていないようだが、胸部の揺れが凄い事になっている。さっきの背中の感触から、まさかとは思ったが……。見ちゃいけないのだろうが、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。ごめん、東風さん。

「ふ〜……」

 軽くかいた汗を拭いつつ戻ってきた東風さん。

「お疲れ東風さん――」

 俺が記録を伝えようと近付くと、彼女の背後から、ススス、とカナさんが接近。

「サービスシーン! イエイ☆」

 と、東風さんが着るジャージのジッパーを一気に引き下ろした。

 ジィィィィィィィッ、と。反応すらできなかった東風さんの真っ白い柔肌が露わになっていく。

 同じくフリーズしていた俺の目の前で、ジッパーは一番下まで下ろされる、

「あっ……!?」

 その直前に、東風さんが我に返った。

 ジャージの裾を押さえ、今日一番の速度でターンすると一言。

「カナ!」

「どうどう。――せっかくのシチュエーションなんだし、アピールしない手は無いでしょ?」

「だからっていきなりはビックリしちゃうよ!」

「でも同意の上で脱いだんでしょ?」

「そ、それは……」

「“その凶器みたいな胸、使わないワケにはいかない!”って言ったじゃん。濡れちゃったし一石二鳥だったし」

「うう〜……でもぉ……」

 二人の会話が端々に聞こえながら、俺は暴れる心臓を抑えていた。

 東風さん、まさかとは思ったがジャージの下に何も着ていないようだ。確かに濡れた下着を着ていたら、乾いたジャージもあまり意味を成さないだろうが……ホントにやるモンなんだな。実行しちゃう東風さんが凄いのか考えたカナさんが凄いのか。

「明星だって、眼福だったし悪い気はしてないでしょ?」

「流れるように思考に割り込むな! 何も言ってねーだろ!」

「目は口ほどに物を言う。――ニヤけてたよ?」

「うそだろ……!?」

 俺は不可効力で喜ぶ変態だというのか……!?

「カナぁ……絶対九十八君に、変な人だと思われちゃったよぉ……」

「あーはいはい落ち着け。まったくこの二人は……」

「似た者同士、とはよく言ったものだね」



 それから教室に戻った後、カナさんがコーラの缶を雲に手渡した。

「ハイモクっち」

「これは……何じゃ?」

「何って、約束のコーラ。アタシは約束は守るからね~」

 おそらく雲が訊いたのは、コーラそのものの方だと思うが……分からないよな。

「ありがたく頂戴する」

 と雲は缶を受け取るが、

「……空かぬ」

 プルタブに苦戦。結果、ギブアップしてこちらによこした。ま、そんな気がしたよ。

「ほらよ」

 プシュッと気持ちいい音がして缶を空けると、雲に手渡す。

「うむ。恩に着る」

 受け取った雲は、そのまま傾けて一気飲み。――っていやいや!?

「――むぐぅっ!?」

 案の定むせた雲は、吐き出す事だけは堪えてゆっくりと嚥下した。

「ゲホゲホゲホッ! な、何じゃこの劇物は!?」

 コーラを毒薬みたいに言うなよ。

「あー、モクっちって炭酸苦手な人?」

「苦手というか、普段飲まないからな」

 江戸時代にコーラは無いだろうし。

「で、できれば、他の吸い物にしてもらえんかの……」

「はいはーい。じゃあこのコーラはアタシがもらうね」

 ゴクゴクとコーラを飲むカナさんを見て、

「なんと……かな、恐ろしいのう……」

 今までで一番の戦慄を見せた座敷童だった。

 ――この日から、雲の嫌いなモノにコーラが追加された。

















 徳巡学園に入学して一週間が経った。授業も随時開始され、難しそうな内容に頭を痛める日々を送っていた。

 そんなある日のLHR。今日で二回目だが、毎回この時間って何をするのか分からない。言い換えると『学級活動』になるらしいが。

「えーそれでは各自班を作って下さい」

「班? 何の?」

 福田先生の言葉に、俺は首を傾げる。すると隣の東風さんがクスクス笑った。

「四月末にある、自由遠足の班だよ。入学式の日に先生言ってたよ? 九十八君、もしかして話を聞くの苦手?」

「まあ得意ではないな……」

 入学式の日か……。あの時は雲が乱入してきたせいで、他の事に構っている余裕無かったからな……。

「にしても、自由ってどこまで自由なんだ? 色々と漠然としすぎなんだが……」

「基本的に全部自由だよ、明星」

 こちらの席に近寄ってきた疾風が微笑む。

「メンバーも場所も自由! 自分達で計画するんだよ!」

 同じくやってきたカナさんが楽しそうに俺の机を叩く。

「と言っても、学校で点呼を取ってからの出発だから、あまり遠くには行けないけどね」

「じゃあ、まずは班のメンバーからか……」

「あれーきらっち、今からメンバー探すのん?」

「いや、メンバーは自分で組むって言ったじゃん……」

 早くしないと、ぼっちになる可能性もあるぞコレ。

 するとカナさんはチッチと指を振る。

「ここにいるじゃないの! きらっちの目は節穴かっ!」

 自分を示し、ドーンと割と平坦な胸を張るカナさん。テンション高いなぁ……。遠足絡みだからかな?

「と、いうわけだよ明星。よかったね、メンバー探しに奔走しなくて済んだよ」

 何だか見透かされたようでいい気分じゃないな……。

 それで遠足のメンバーだが、俺と、

「――アタシとひよはいつでもセットだかんね!」

「わわっ、カナ……」

 カナさんと東風さん、

「僕も」

 疾風と、

「きらがいるならわしもじゃな」

 爆睡魔、座敷童。コイツ、日本史の授業以外は基本寝ている。一週間しか経っていないのに、先生も諦める豪胆っぷりだ。全くもって、何故入学できたか謎である。一度話してみたいぜ学園長。

「じゃあこの五人でいいのかな?」

 疾風の声に賛同したいのは山々だが、こちらをチラチラと見る姿がいくつも。中には積極的にコンタクトを取ろうとする女子もいて、

「ね、ねえ小鳥遊君、もしよかったら、私たちと一緒に……」

 と寄ってくる。

「ごめんね、この五人で決めちゃったから、また今度ね」

 だが疾風はアッサリと断る。

「に、九十八君も一緒に是非」

 俺のオマケ感が凄い。

「俺もこのメンバーで行くよ」

 気心知れた面子の方が、気が楽だ。人見知りというほどではないが、カナさんのようにフレンドリーではないからな。

「ごめんね!」

 最後にカナさんがそう言うと、彼女たちは引き下がった。カナさんは、俺たち以外にも付き合いが多い。恐らく、もうクラスの全員と仲良くなっているだろう。気が付けば俺たちと一緒にいるのに、一体いつ交友を深めたのだろうか……。

「……みんな、凄いなぁ。人気者で、リーダーシップ取れて、堂々としてる」

 何となく肩身狭い思いをしている東風さん。自分が場違いとでも思っているのだろう。考えすぎだって……。

「俺は東風さんといて楽しいし、東風さんといたい」

 ボソッとフォローすると、

「!? 〜〜〜〜〜〜っ!」

 顔を真っ赤にして、口をパクパクさせた。そしてそのまま下を向いて縮こまってしまった。反応が面白いが、ちょっとキザだったかな……。

「ほほーん、ムッツリヘタレだと思ってたけど、きらっちも意外と言うじゃん!」

「そんな認識だったのか……」

 ちょっとショックだ。

「時にきら、“えんそく”とは何じゃ?」

 雲のセリフ。どうでもいいが雲、現代でその質問はアホ丸出しだぞ。

「みんなでお出かけだ」

「ほう! それは楽しそうじゃ!」

 いきなり駈け出す座敷童。

「待てい! 話聞いてたかお前! 遠足は今日じゃないぞ!」

「ならばいつじゃ!」

「それは……いつだっけ?」

「明星、話聞いてたのかい?」

 ぐぬぬ……このイケメンめ……!

「ひよが言ってたでしょ? 四月末だって」

 そういえばそうだった。

「正確には、四月の三十日だね」

「自分達でプラン考えるんだっけか……。そもそもどこに行くんだ?」

 するとカナさんが、得意げに笑みをこぼす。

「ふっふっふ……。その辺はお任せあれ。もう目的地は考えてあるんだ〜」

「お、どこだ?」

 神奈川や首都圏は全然詳しくないから、知っている場所なんて無いだろうが。

「ズバリ……横浜!」



「――まあ、横浜へ?」

 放課後、ミラクルエイジへ。

 注文を受けたララさんに遠足の事を話してみた。

「ララさんは、横浜行った事あるんですか?」

「ええ。横浜はお洒落で美味しいお店がたくさんあるので、お休みの日によく行くのよ」

「へー。オススメの場所とかありますか?」

「それを決めるのは皆よ? せっかくの遠足なんだもの。計画も楽しみの一つだと思わないかしら?」

 む……それもそうか。こういう計画した事ないから、慣れないな。

「コラきらっち。ララさん忙しいんだから、引き止めちゃダメでしょーが!」

「そ、そうか。すみません」

 確かに店内には、他にも何組かお客がいる。バイトが何人かいるとは言え、基本ララさんが調理するみたいだし、無駄話で引き止めたらお店が回らなくなってしまうだろう。

「ふふふっ。まだそこまで忙しくないから、大丈夫よ」

 いつも通りのニッコリ笑顔で一礼すると、ララさんは厨房へ引っ込んだ。

「さーてララさんに言われた通り、計画するよ計画!」

 そう言うカナさんだが、俺は横浜なんて空港からの通り道で車窓から眺めたくらいだ。“現在の”に限るが雲も当然。なので、計画も立てようがない。

 カナさんは知り尽くしているような口ぶりだが、疾風や東風さんはどうなのだろうか。

「僕は何回かあるよ。案内できるほど詳しくはないけどね」

「私も同じ……かな」

「となると、頼みはカナさんだけか……」

「アタシも詳しくないよ? 横浜とか遠いし」

「……え?」

 さも当然のように言い放たれた言葉に、俺は絶句した。

「む、何さきらっち。その反応は」

「いや、だって迷う事なく横浜とか言うから、てっきり詳しいのかと……」

「用事も無しに、横浜まで行くワケないでしょーが! 交通費いくらだと思ってんの!」

「えぇぇ〜……?」

 何で俺、怒られたんだ……。

 カナさんはドヤッと胸を張ると、

「知らない場所に行くからこそ、楽しみがあるんじゃない!」

「…………」

 この無計画っぷり、急に不安になってきた……。



 不安を覚える遠足の企画は、

「大丈夫! お任せあれ☆」

 という不安だらけのカナさんに任せる事に決定し、ケーキをいただいてミラクルエイジをあとにする。……結局、何も計画できていないな。

 その帰り道、誰かのケータイがポップなメロディを奏でた。

「な、何じゃ!?」

 ケータイをよく知らない雲が、慌てふためく。俺の背後に隠れ、辺りを見回す。……いや、動けないように両手でガッチリ固定しているし、身代わりにする気だなコレ。

 ともかく着信音は俺ではなく、雲はそもそも持っていない。となると、

「ご、ごめんね。マナーモードにするの忘れちゃってた……」

「もー、どんくさいなぁひよ。授業中鳴ったら大変だったよ?」

「うん、気をつけるね……」

 ケータイを取り出した東風さんは、少し離れて耳に当てた。電話らしい。

「もしもし? ――うん、元気だよ。今は友達と一緒。――うん。カナと、知り合った人たち」

 ご家族かな?

「どうかしたの? ――えっ? それじゃあ……」

 何かあったのか、少し慌てた様子の東風さん。

「うん、うん、分かった。――大丈夫! 何とかするから」

 そう言って電話を切った東風さんは、こちらに向き直る。

「パパさんママさん?」

「うん……」

 事情を知っているらしいカナさんの言葉に、東風さんは頷く。

「実は……私のお父さん、今北海道に単身赴任中なんだけど、風邪引いちゃったみたいでお母さんが面倒見に行ってるの。もうすぐ飛行機で帰ってくる……はずだったんだけど……」

 尻すぼみになる言葉。すると疾風がケータイを取り出し、ニュースを検索。

「あらら、“強風で新千歳空港、機能停止”だそうだよ」

「そうみたいなの……」

「って事は東風さんのお母さん、帰ってこられないのか?」

 東風さんは一人っ子だと聞いた。つまり今夜は、誰もいない夜を過ごさないといけないのか……。

「どうする? またうち来る?」

 初めてではないのだろう。カナさんの申し出に、しかし東風さんは首を横に振る。

「春休みにお世話になったばかりだし、申し訳ないよ」

「ひよは変なトコ真面目だよねー。別に気にしないのに。――まあ本人が引け目感じたらくつろげないし、しょーがないか」

 ごめんね、ありがとう、と笑った東風さんに、雲が心配そうな目を向ける。

「ひより……独りなのかえ?」

「大丈夫! そこそこ料理だってできるし、明日には帰ってくると思うから!」

 グッと両手を握って、さらに紡ぐ。

「たった一日の辛抱だよ!」

 その一言で、無理している事がハッキリと分かった。

「ひより……」

「だ、大丈夫だってば雲さん!」

 だが雲は納得できない表情。コイツは『独り』に敏感だからな。放っておけないのだろう。

「ん〜つまりひよは、前にお世話になってるからアタシの家には来たくないんだよね?」

「そこまでは言わないけど……頻繁にお邪魔したら申し訳ないから」

「だから気にしなくていいのに……」

「親しき仲にも礼儀あり、だよっ」

「……ま、それはいいや。――それなら、まだお世話になってない家なら問題ないってコトだよね!」

「へ? うん……。そうなるけど……」

 東風さんも俺も、カナさんの意図が分からない。付き合い短いけど、経験からあまりいい予感はしない。

 カナさんが楽しそうな顔の時は、特に。

「なら簡単じゃん! つまり――」

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