母ちゃん星
晋一が突然「川に行こう」と言い出したのは、夕飯の後片付けをしていた時だった。
「今日は空が明るいから、蛍狩りには向かないよ」
そう言ったりつ子に対し、晋一は「違うよ」と答えた。
「星を採りに行くんだよ」
幼い弟の突拍子もない答えにびっくりして色々問いかけたものの、弟はその問いかけには答えないで、「速く川に行こう」と繰り返すばかり。
りつ子は仕方なく、母屋の離れにある作業場で害獣避けの罠をこしらえていた父に断って近所の小川までやって来たのだが………。
「もう帰ろうよ」
「もうちょっと!」
先ほどから何度も繰り返されているやりとりに、りつ子はため息をついた。
「もう足が疲れちゃったよ」
「もうちょっと。姉ちゃんは、そこで座って待ってて」
全くいうことを聞いてくれない弟にりつ子は口をとがらせた。
今日の晋一はいつにも増して聞き分けがなくて困ってしまう。
一方の晋一は、りつ子の様子に気をとめることもなく川の浅瀬に座り込み、星の光を受けて時折キラキラ光る川面に何度も何度も手をやっては引っ込めてを繰り返している。こうなっては飽きるまで、梃子でも動かない。
きっと無理矢理連れて帰っても、その後ふてくされて機嫌の悪い晋一と過ごさなければならないだろう。
りつ子は、晋一に付き合ってここにいるか無理矢理連れ帰るかを天秤にかけ、結果的に川原に腰をおろすことにした。
小さな背中を見守っていると、その袖口が既に川に浸かっていることに気がついた。
最初こそ注意すれば水をつけないように気をつけようと意識していた晋一だったが、今はそんな注意も記憶から消えてしまったらしい。
帰ったらすぐに晋一をお風呂に入れて、着物も乾かさないと。
はやり病でりつ子が母を亡くしたのは先の冬のこと。それからというもの、10をいくつも超えない年にして、りつ子は幼い弟の面倒をみながら、家事をせねばならなくなった。
とはいえ、医療の発達していないこの時代、はやり病で家族を失うことはめずらしいことではなく、年上の者が幼い弟妹の面倒を見、家のことをするのは当然というのが一般的な感覚だった。
この間嫁いだ隣の家のお姉さんだって、今のりつ子よりもっと早くに母親を亡くして幼い頃から弟たちの面倒や家事などをしていたし、他にも父を亡くして幼いながらにクワやらスキを持って働いている子もいる。
皆生きることに必死な時代だった。
りつ子自身もそんな日々に何の疑問を抱くこともなく過ごしていた。
ただ、今みたいに何もせずにいると、フとどうしようもない気持ちが胸に溢れてくることがある。
その気持ちが何なのか、りつ子にはよくわからない。
ただ、形容しがたいぐちゃぐちゃした嫌な気持ちがぐちゃぐちゃのまま胸からあふれ出していくような感覚に、どうしたらいいのかわからなくなるのだ。
りつ子はそんな今の自分の顔を晋一に見られないよう、空を仰いだ。
空には一面の星。きらめく星の間を天の川が流れていた。
去年もここで空を見上げた。
去年は3人。
今年は2人。
去年は母と手をつないで来た道を、今年は弟の手を引いてやって来た。
想いにふけるりつ子の瞳に星が一筋流れていった。
「………お母ちゃん………」
その小さな呟きは、大きな声で掻き消えた。
「姉ちゃん!見て!僕、星をとったよ!」
ハッとして晋一を見たりつ子に対し、弟が誇らし気に見せたものは、白くて小さな石だった。
「綺麗ね。だけど、ただの石でしょ?」
たぶん水面に映った流れ星に手をやって偶然拾った石だろうとりつ子は思った。
「違うよ。流れ星が僕のところに降って来たんだよ」
そうして、晋一は無邪気に笑った。
「これは星だよ。母ちゃん星。『星になった母ちゃんをかえして下さい』って七夕様にお願いしたから、きっと叶えてくれたんだよ」
晋一は白い石をぎゅっと握り締めた。
それからというもの、晋一はどこに行くにも母ちゃん星を放さなかった。
食事も風呂もどこに行くにもずっと一緒。
晋一が白い石を「母ちゃん星」と呼び、それに向かって「母ちゃん、母ちゃん」と話しかけるのは異様な光景だった。
父や周りの者もその度に嗜めていたが、それでも頑なな晋一に「そのうち止めるだろう」とやがて何も言わなくなった。
りつ子も皆と同じように嗜めるのは諦めたものの、晋一の母ちゃん星を「母ちゃん」と呼ぶには抵抗があった。しかし、それを「石」と呼べば晋一が怒るので「星」と呼ぶことで落ち着いた。
異様な光景も慣れてしまえば日常の光景となり、そのうち晋一を見て「今日も母ちゃんと一緒か」なんて軽口を言う人も出てくるようになった。
すると、聞かれた晋一もそれは嬉しそうに答えるのだ。
まるで母が生きていた頃と同じように。
ある夜のこと。
夜中に目を覚ましたりつ子は、無性にのどがかわいて寝床を出た。蒸し暑い晩だった。月の明かりが灯す廊下を、目をこすりながら歩く。そこに、中途半端に開いたふすまのむこうに、テーブルに突っ伏して眠る父を見た。
机の上には、酒ビン数本。コップが2つ。
「お母ちゃん、お酒あんまり呑まないのにね?」
テーブルの向こうにある仏壇に語りかけ、机の上を片付け始めると、父が動いた。
「お父ちゃん?寝るんなら布団でお眠りよ」
父の目蓋がわずかに開き、りつ子を見やる。
父は小さく母の名を呼び、再び目蓋を閉じた。
「化けて出たか。お前が病気で苦しんでいる時に何もしてやれんかったもんなぁ。幸せにしてやるなんて言いながら、結局苦労ばっかりで………薬も買ってやれず………死なせてしまった。」
肩を震わす父の言葉は、だんだんと力を失くしていった。
「………楽な暮らし、お前にさせてやりたかったよ………」
どきん、どきんと心臓が大きく音をたててうるさい。落ち着かない気分のまま父の肩に上掛けをかけると早足で部屋に引き返した。
部屋の中の息苦しさに窓を開けると新鮮な空気が流れ込んできて、ほっと息をつく。
瞳が冴えてしまった。りつ子は窓辺から見える空を見た。
月の綺麗な夜だった。
星はその輝きに負けてしまい、あまり見えない。
亡くなった人が星になるなどと、誰が言い出したのだろう。
帰って来ない現実を受け入れるために、手の届かない星に想いを託したのだろうか。
いつまでもいつまでも、この家から母が消えることはない。
母ちゃん星を心の拠り所にする晋一。
母の仏壇の前で酔い潰れる父。
そしてりつ子自身も、朝起きて炊事場に行く度に、母の姿を求めている。
あてもない考えに首を振り、布団を蹴飛ばして寝ている晋一に近寄ったりつ子は、その光景にドキリとした。
例の星が落ちていた。
闇の中、青白く浮かび上がって見えるその星が、りつ子には死に際の母の手に見えた。
りつ子は急いで晋一の布団を直すと、頭から布団をかぶった。
その日、りつ子が眠りにつけたのは、東の空が白み始めた頃だった。
人が奇妙な行動を取り始めると、その行動は噂となり多くの人の知るところとなる。
晋一が母ちゃん星に向かって話しかける行動はまさしく奇妙な行動に当てはまり、良くも悪くも人の目に注目されることになる。
それは、いつもなら晋一のような小さな子供など気にもとめない少年たちが、噂を聞きつけやって来たのが始まりだった。
「たいへん、りっちゃん!しんちゃんが、おみやさまの橋のところでケンカしてる!」
近所の子から晋一がいじめられていると伝え聞き、りつ子が駆けつけると、晋一より頭一つ背の高い少年たちが囲んでいた。
「やーい、嘘つき!これが母ちゃんだって?どう見たって石じゃないか」
「嘘じゃない!それは母ちゃんだ!返せ!」
どうしてそれが面白いのか、晋一の星を頭上に掲げた少年がもう片方の手で晋一を押さえつけ、周りの少年たちもくやしがる晋一をからかって遊んでいた。
「こらー!」
ほどなく近所の兄貴分の子がやってくると、少年たちはばつの悪い顔をして、蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。
助けが入ったことに胸を撫で下ろし、りつ子が晋一のもとに駆け寄るが、それにも気付かぬまま晋一は一人の少年に全力でしがみつき、「母ちゃんを返せ!」と繰り返す。
足をとられた少年は、舌打ちして石を振り上げた。
「こんなもん、返してやるよ!」
叫ぶなり、橋の向こうに放り投げた。
石は………母の色を灯す白い石が、放物線を描きながら暗い橋の下へ落ちていく。
それは一瞬の出来事。
「母ちゃん!」
その声は晋一だったのか、りつ子自身のものだったのか。
「姉ちゃん!」
伸ばした手の向こうにある白い石。それは確かにあるはずなのに、けれど届かず、闇の中に消えて行く。その耳に晋一の声が聞こえた気がした。
目を覚ますと、そこはいつもの寝床だった。晋一の泣きべそ顔が側にある。
手をやり、頬の涙をぬぐってやった。
「晋一、ごめん。星、なくしちゃったよ」
「何言ってんだ。姉ちゃんまで星になっちゃったら、嫌だよ」
「晋一の言う通りだ。運良く助かったから良かったものの、下手したら死んでいたぞ」
視線を巡らすと、父がそこにいた。
その顔を見た途端、りつ子は謝らずにはいられなかった。
「お前が生きていてくれて、よかった」
父は、それ以上怒らなかった。
いつも忙しい父が、その日はりつ子の側にいてくれた。
父とりつ子と晋一が過ごす家の中。その中に母だけがいない。温かさの中に感じる、寂しさ。この風景もこの感情、「日常」の中に溶け込んでいく。
今日のことですっかり疲れたのだろう。いつもよりずっと早くまどろみだした晋一を連れて布団へ向かうりつ子に父が呼び止めた。
差し出されたのは、父とは不似合いな小物入れだった。
「これ………お母ちゃんの………?」
「今日からはお前のだ。さぁ、今日はお前も大変だったから、もう寝なさい」
それだけ言って、背を向けた。
「ありがとう………おやすみなさい、お父ちゃん」
晋一を寝かせ、静かな部屋の中、蝶と花の絵があしらわれた小物入れを改めて眺める。
確かに記憶にある。母の大事にしていた小物入れ。父からもらったものだと言っていた。
母の大切な思い出が、今この手の中にある。
「………晋一の気持ちがわかった気がする」
手を伸ばしても届かないものよりも、確かな形を欲しがったのかもしれない。
ふたを開け、漂う香りにはっとする。
「………お母ちゃんの………におい」
元気だったその姿。
鮮明に思い出した微笑みに、涙が溢れた。
死んだ母の星は必要ない。生きる笑顔を思い出せた。
その日、りつ子は優しい匂いに包まれて眠りについたのだった。
それから数日経ち、日常が戻っても、晋一は再び母ちゃん星を探そうとはしなかった。
「母ちゃんは空の星に戻っただけだ。母ちゃんだって、その方がいいに決まってる。そこなら姉ちゃんや父ちゃんのことも見守れるだろ?」
そう言って。
あの日を境に「僕」ではなく、「オレ」というようになった晋一。
蛍狩りの季節はもうすぐ終わる。
りつ子は晋一と、小川に続く道を並んで歩いた。