ハロー、エディター ハロー、インタビュイー
一九九六年春、富樫亮介は大学卒業後に、とある地方の出版社に就職した。地元の中小企業の紹介や経済ニュース、街ネタなどが載った月刊誌を発行する社員二十五人ほどの小さな会社だ。その年は亮介を含めて新人が四人いて、例年より多いということだった。亮介は編集部、あとの三人は営業部所属となった。ただ、編集部であれ営業部であれ、新人の最初の半年ほどは業務にあまり変わりはない。雑誌社に勤める者として、まずは取材から記事化までの数をこなすことで仕事に慣れてもらう、というのが会社のスタンスだった。
入社初日から亮介たち新人は取材先を自分で探さなくてはならない。そこで先輩社員から「うちでは伝統的なんだ」と渡されたのが求人情報誌だ。それを走り読みしながら、『新店舗オープンのためアルバイト募集』、『支店拡張につき営業社員急募』といった見出しをチェックし、片っ端からそれら求人広告を出している会社に電話を掛ける。新店舗オープン、支店拡張、これらについて話を聞かせてくれませんか、という具合だ。
亮介は新人の中で一番早く、その日のうちに取材先が見つかった。ヒューマンクロス株式会社という物販店と居酒屋をチェーン展開する地元の企業で、店舗数を増やしている中、近くまた飲食の新店を中心街に出すということだった。
翌日、亮介はアポイントメントが取れた夕方の時間にヒューマンクロスの事務所を訪ねた。住宅街にほど近いオフィスビルの二階で、入ると女性社員に「社長を呼んでまいりますので」と言われて、会議室に通された。二十人くらいは集まれそうなスペースだったが、亮介にはそれが広いのか狭いのかわからなかった。直属の上司である清水浩平に「仕事は現場で覚えるのがベストだから」と背中を押されて来たが、初めてのことなので亮介はだんだん不安になってきた。楕円の会議テーブルの真ん中の椅子で小さな体をもっと縮めて待っている間、取材ノートを取り出して表紙を開き、清水と事前に設定した質問項目が書かれている一ページ目を見てはまた表紙を閉じた。それを繰り返していると、ノックがして男が入ってきた。
「おたくですか?うちの新店について聞きたいというのは」
脂ぎった顔をした体格のいい男が亮介の向かいにすわりながら低い声で言った。
「あ、はい。県民ニュースの富樫と申します」
亮介が名刺を差し出すと、「悪いが僕は今切らしていてね。続けてくれ」と男は素っ気なく答えた。
「では、新店の概要から」
「概要というのはどういうことを言っているんだ?」
「座席数ですとか、提供するメニューですとか」
亮介が取材ノートの質問事項を見ながら言うと、男が「ちょっと待ってくれ」と遮って会議室を出て行った。
再び一人になった亮介が、相手の突然の退席で何も考えられずに顔を上げていると、今度はノックもなく扉がガタンと開いた。さっきの男が少し早歩きで入ってきたかと思うと、その後にぞろぞろと人がついてきた。それぞれ大きな声で「失礼します」と言って、腰掛けた男の周りに立って詰めていく。年配者もいれば若者もいる。会議室に案内してくれた人とは違う女性もいた。
「いいか、みんな。今からこの富樫さんがインタビューをしてくれるとさ。よく見とけ」
男がひときわ大きい声を出すと、おお、と室内が一気にざわついた。そして、十数人の視線が亮介を射抜く。ただでさえ緊張していた亮介だったが、これで完全に出鼻をくじかれた。
「さあどうぞ。なんなりと」
「え?あ、はい。それでは、新店はどういった内容のお店になるのでしょうか」
「さて、どういった内容の店になるのかねえ」
「肉料理だったり魚料理だったりとかですか」
「肉料理だったり魚料理だったりとかなのかなあ」
「両方あるのですね?」
「…」
「決まっていないのでしょうか」
「いや、そんなことないよ。なあ、みんな」
男がそう言うと、居合わせた十数人がくすくすと笑い出した。その後も似たようなやり取りが続き、亮介は自分のペースもなにもあったものではなかった。亮介はへたれてしまって、その場がかなり長く感じた。もう最後にしようと思って亮介が「確認ですが社長様のお名前は」と男に尋ねると、周りの人々が一斉に拍手をし出した。その中で男が言った。
「勘違いしてもらっては困るな。うちの会社の代表はあちらの方だ」
男が隅に立つ女性の方に手を向けると、拍手がより一層強まった。今度はその女性が右手を少しあげると拍手はぴたりと止み、室内が一気に静まり返った。亮介には何が起こったのかわからなかった。
「杉本、もうおやめなさい。富樫さんがびっくりされているじゃないの」
その女性が男に言うと、男は「すみませんでした」と詫びてから、「おい、みんな出るぞ」と言って集まった人たちと一緒に退室した。ひとり残った女性が「失礼致しました。代表の清谷香織と申します」と言って亮介に深く頭を下げた。姿勢を戻した清谷は背が高く細身で、端正な目鼻立ちが印象的だった。雰囲気は三十代半ばくらいだった。
「先ほどの男は杉本賢一といいまして、当社の専務です。杉本には遊び心がありましてね。私はユーモラスだと思っているんですけど。だから何も気になさらないでくださいね。それと、今日のお仕事についてですが、お話は十分に聞けましたか。詳しい業務についてはすべて杉本に任せていますので、もう一度呼んでまいりましょうか?」
亮介としては満足のいく取材がまったくできなかったので、本来はもっと聞きたいところではあったが、その時はもう力が湧かなかった。亮介はどっと疲れて事務所を後にした。
翌日、亮介は出社してから自席で電話を掛け続けたが新しい取材先は見つからなかった。午後も遅くなると、清水が「君が昨日訪問したヒューマンクロスについては早いうちに記事にしておくように」とつついてきた。亮介は前の日のことを思い出しただけでも苦々しかった。取材ノートを開くと、『オープン日、6月予定→7月?』『座席、まだ数えていない?』といった記述ばかりで、確定情報がほとんどない。記事にするにはもう一度取材が必要だった。
亮介は改めてヒューマンクロスに電話をした。専務の杉本がつかまった。
「県民ニュースの富樫ですが」
「おお、君か。記事はもう出来上がった頃かい?」
「いえ、実はよければもう一度お話をお聞きしたいのですが」
「なんだって?まったく仕様がないな。まあ、君と僕の仲だ。何でも聞いてくれ。そういえば、オープン日はあれから社員と話し合って六月に決まったよ」
「そうですか。それと、席数等々ですが」
「悪いが今急いでいるんでね。明日また掛け直してくれ」
杉本はそう言って突然電話を切った。
次の日は入社から四日目で、亮介の同期たちも初めての取材を終えてきていた。新人の中で唯一の女性である田代佳子は「最初はドキドキしたけど、なにしろ先方の社長さんがかっこいいし、やさしくって。お話聞いててとっても楽しかったですう」と営業部の直属の上司に向かってはしゃいでいた。ほかの同期二人も無事に取材を済ませたことを報告し、さっそく各々の上司や先輩に指導を受けながら記事に着手していた。一方、亮介は再び杉本に電話をしてみたが、杉本の答えは「座席数は来週に決まる。それとオープンはやはり七月になりそうだ」とそれだけだった。亮介としては聞きたいことが山ほどあるのに、杉本はそれらに一切触れず、座席とオープン日の話にしても一向に前に進まない。
「なんで俺だけがこんな目に遭うんだ」
亮介はいまだに記事が書けていない事態に焦ってきた。というのも、二日後には週に一度設けられている記事の提出期限がやってくるからだ。入ったばかりの新人だからといって大目に見てもらえることはないと清水からも言われていた。いつまでも未着手でいられる余裕は亮介にはなかった。
亮介が慌てて別の求人情報誌を買ってきて取材先を探していると、ヒューマンクロスから電話が掛かってきた。相手は清谷だった。
「先ほど杉本と話すことがあって、富樫さんの件はどうなったのかと聞いてみると、ずいぶんと答えが二転三転しているようで。富樫さんきっと困ってらっしゃるんじゃないかと思ってお電話したんです」
「ありがとうございます。あれから何度か杉本専務には追加でお聞きしているのですが、はっきりとしたお答えが少なくて」
「そうでしょう。ですから私の方でわかる事でしたら、このお電話でお答えしますから。どうぞお聞きになってください」
杉本に任せていると話していた清谷がそう言うので亮介は驚いたが、清谷が次々と質問に回答してくれるうちに救われる思いがした。また、聞こえてくる清谷のやさしい声に、情けないとは思いつつも、亮介は目が熱くなった。その日、清水に教わりながら、亮介はヒューマンクロスの新店についての記事を書き上げた。終業時間はとっくに過ぎていた。
次の日、朝から受けた電話に亮介は一瞬言葉が出なかった。杉本が、今回は記事を載せないでほしいと言ってきたのだ。心を落ち着かせて亮介が聞いた。
「それは一体どういうことでしょうか。昨日、清谷社長からしっかりとお話をいただいたのですが」
「その清谷社長が掲載されるのが嫌だと言ってるんだ」
「そんな…」
亮介は当惑した。
「よろしければ、理由を聞かせてくれませんか」
「なんだと!君も聞き分けがないな。理由がないといけないというのか!」
亮介が受話器越しにそう怒鳴られた後、電話の向こうで振り返っているのか、杉本が急に静かになった。そして、奥で清谷が「早く終わらせてしまいなさい!」と吠えているのが亮介の耳に聞こえた。
「黙ってこっちの言うことを聞いたらいいんだ!」
再び杉本が声を荒げたとたんに、ガチャンと電話が切れた。亮介は受話器を持ったまましばらく動けなかった。杉本の声色が恐かったのもあったが、もっと言えば清谷が発した叫びが頭に残って、ほかのことは何も考えられなかった。正直、訳がわからなかったが、少ししてから、これが大人の世界なのかと思った。亮介にとっては自社以外で杉本や清谷が社会人になって初めての相手だったので、そう感じるのも無理はなかった。ヒューマンクロスに掲載を断られ、代わりの記事も見つからなかったので、亮介は入社早々、始末書を書くことになった。かたや、田代はその日、二件目の取材を済ませ、「ねえ、聞いてくださいよ。今度の社長はおじいちゃんでとってもかわいらしかったんですう」と自分の上司に話し掛けていた。
それからの亮介はすっかり萎縮してしまっていた。まず、居酒屋チェーンへの取材を避けるようになった。たとえ新規出店のネタを掴んだとしても、「僕は別を当たりますから」と言って、他の社員に譲るありさまだった。清水から「ネタをえり好みしている場合ではないはずだろ」と怒られても、居酒屋チェーンには頑なに寄り付かなかった。その清水は亮介に代わってその後のヒューマンクロスを追跡取材していた。清水によれば、ヒューマンクロスは、掲載を断った理由はわからないが、とてもいい会社で将来性もあるのだという。そして亮介に「富樫君ももったいないことをしたな」と言うのが口癖となっていた。それを聞くたびに、亮介は嫌な気分になった。また亮介は、取材先の社長が女性である場合も一歩引いてしまうようになった。拒絶はしないまでも、積極的に話を聞き出そうとはしなかった。こういった姿勢は、より亮介に悪循環をもたらした。亮介は居酒屋チェーンや女性社長に限らず、どこに行っても踏み込んだ取材が出来なくなっていった。一度会って話を聞くと、その後の追っかけをやることはなかった。記事の提出期限、そして提出しなければいけない規定本数も、ぎりぎりでこなすのが常態化した。もちろん、記事の中身も見れたものではない。清水からの叱責も増えていた。
その一方で、田代の活躍は目覚ましかった。田代が所属する営業部は広告を取ってくるのが本来の仕事だ。数十万とか数万といった価格で一ページや半ページの枠に広告を出してくれるよう、企業に頼み込む。当然、ノルマもあった。その中で田代は入社から半年もすると本格的に広告を獲得しだし、営業部に限らず年上の社員たちみんなをうならせていた。別の二人の新入社員はとうに辞めていたのだが、彼女の営業部の上司から「田代君には新人三人分の仕事をしてもらっているから助かるよ」と言われるほどだった。
一年目も終わりに近い三月のある日、亮介は仕事帰りに田代から「お疲れ会しない?」と食事に誘われた。二人は会社から歩いて、駅近くの焼き鳥屋に入った。田代は学生時代にチアリーディングをやっていたため、いまだに引き締まった体で、この日もパンツスーツで大ジョッキを飲む姿が妙に焼き鳥屋の中で映えていた。亮介と田代はほかの同期が辞めて以来、これまでにも二人で二、三度飲みに行ったことがあった。仕事中はぶりっ子である田代だが、亮介の前で酒を飲むとそうではなくなる。
「でさあ、結局この一年、岩本さんって私と面と向かっているときにずっとにやにやしてるのよ。気持ち悪いったらありゃしない」
田代が言う岩本というのは、彼女がはしゃいで話し掛けていた上司である。
萎縮が続く亮介だったが、田代と飲むときはいくぶん心が和んだ。田代はいつも社内の人間模様を肴にしていて、仕事それ自体のことは話題にしなかったからだ。うまくいっていない亮介にしてみれば、情けないとは思いつつ、仕事の話をしなくていいのはほっとした。その夜もずっと田代が面白おかしくしゃべっていたので、亮介も顔をほころばせていた。今日もこのままの話題で終わってくれたらいい、亮介がそう思った時、田代が「私、この一年の自分を褒めてあげたいんだよね」と言い出した。
「原吉田輸送には新規で入って、南部信金を口説き落として、うちの会社と疎遠だった北島興産の北島社長とも仲良くなれたしね。あ、ごめん、富樫君の前で仕事の話をしちゃったわね」
亮介は田代の言葉を聞いて、たまらなく悔しくなった。田代が話したように他人に誇れるような仕事が自分にはできなかったこともそうだが、「富樫君の前で仕事の話をしちゃった」と言われたことが胸に突き刺さった。それはつまり、これまで田代が亮介との酒の席で仕事の話をしなかったのは、田代が亮介にずっと気を遣っていたということだった。田代と別れてから亮介は何度も何度もそのことを考えながら、その日は普段使う電車に乗らず、千鳥足のまま帰宅した。
九七年四月、県民ニュースの編集長が代わることになった。
前編集長の西田は、亮介たち編集部に限らず社員全員の間で「編集長らしからぬ人」として有名で、雑誌づくりというよりは、総務や経理といった方面を得意としていた。人員が少ない県民ニュースでは総務部も経理部もなく、パートのおばさん二人を従えて歴代編集長が“総務部長”や“経理部長”の役もこなしていたから、ある意味ではそういう人間が出てくるのも仕方がなかった。実際、西田が地元の和菓子メーカーの管理部長に転職することがわかった時は、社内で「言わないこっちゃない」と言い合うのが流行した。
新しい編集長は、県民ニュースのオーナーである上村と旧知の間柄の人物で、橘由紀夫といった。六大学出身で、卒業後にそのまま東京で出版社に入社し、文芸誌や趣味系雑誌の編集長を務めたこともあった。ある一時期に体を壊したことを機に出版社を退職し、五十歳をすぎてからしばらく首都圏のタウン誌を手伝っていたところに上村から誘いを受けた。県民ニュースがあるのが妻の実家がある県でもあったことと、一人娘がちょうど小学校から中学校に移る時だったのも幸いして家族での移住を決断し、地方の月刊誌の編集長として新たな生活をスタートさせたのだった。
橘はまず、県民ニュースの社員たちと積極的にコミュニケーションを取ることにした。橘が東京の雑誌の編集長経験者ということで、社員たちには、「自分たちを導いてくれるはずだ」という期待と、「俺たちには到底かなわない本物が来た」という不安とが入り混じっていた。ところが社員たちが橘と直接話をしてみると、なんといっても彼の頭がスマートなところに驚かされた。だからといって知識をひけらかすような嫌味な部分はない。同等な関係のノウハウ共有といった具合で橘が接してくれたので、いつも話が弾んだ。そのため、「西田とはえらい違いだな」というように、あっという間に社員たちは橘を敬うようになった。白いものがあっても清潔感のある頭髪で、麻のジャケットをさっと着こなす姿に女性社員は早くもファンと化し、田代も直属の上司の岩本を差し置いて、すっかり橘とはしゃぐようになった。
亮介も橘には好印象を持った。「今は苦労することも多いだろうが心配しなくていい。いつか力がついてくるから」と、橘が何かと気に掛けてくれたからだ。橘はすでに清水から亮介が鳴かず飛ばずであることを聞いており、亮介もそのことが橘に伝わっていることはわかっていた。入社から一年が過ぎても認められることもなく、いまだにその場しのぎのような仕事しかしていなかった亮介だが、橘に対して「この人になら褒められたい」と思うようになっていた。
橘が赴任して半月ほど経ったある夜、県民ニュースの顧問弁護士である我妻直治が街の小料理屋に橘を呼び出した。我妻は酒好きで知られていて、橘の歓迎会をやろうというのである。我妻からの誘いの電話に橘は「お声掛けいただきましてありがとうございます。ところで誠に勝手ながら、先生さえよろしけば、うちの若い者もご一緒してよろしいでしょうか」と返した。その直後に橘は、のろのろとワープロを打っていた亮介の横に来て、「富樫、今日は仕事は後回しだ。今すぐに出るぞ」と言って、半ば強引に亮介を連れて我妻が待つ小料理屋に向かった。
「しかし一体どうしたもんかねえ、最近の若者は。橘君もそう思わないかね」
ビールの大びんを一人で四本空けた後、焼酎ロックのグラスを片手に我妻が店中に聞こえるような声で言った。もう三回目の問いかけだった。キープしたばかりの焼酎ボトルは中身が半分以下になっている。好きな酒が進んでも、我妻は機嫌が悪かった。
「申し訳ありません。ただ、彼も彼なりに一生懸命やっていると思うのです」
橘がなだめるように答えた。やり玉にあげられているのは亮介である。我妻は橘が若い者を連れてくるというので女性社員だと思っていたところに、やってきたのが亮介だったことが面白くなかった。ただ、酒が入るうちに面白くない理由は変わっていった。亮介の覇気の無さがそれだった。亮介の役立たずぶりは我妻の耳にも届いていた。我妻は亮介と会うのは初めてだったが、おかまいなしに「しっかりやらないとだめじゃないか」と説教を続けた。ところが亮介はほとんどずっとうつむいたままだった。亮介にしてみれば、我妻に言われたことは痛いほどわかっていた。だけども悔しさで反論もできず、黙るしかなかった。それがますます我妻を不機嫌にさせた。
しばらくして我妻が突然、ドン、とテーブルを叩いて言った。
「もういい。会社を辞めるなら今のうちだぞ」
「先生、さすがにそのお言葉は少し酷じゃないでしょうか」
そういう橘に「かまわん。これくらい言わないとだめだ。このままだと橘君の重荷にもなるんだぞ」と我妻は返した。二人がちょっとした言い合いになっているさなか、亮介は静かに「失礼します」と言って席を立ち、トイレに行った。用を足してから手洗い器の前でため息をついていると、橘もトイレに入ってきた。橘は亮介と向かいあって上から見据えて言った。
「富樫、俺は今のお前の心の中まではわからない。ただ、もしも自分が変わりたいと思っているのだったら、自分自身が本気になることだ。ちょうどいいことに、我妻先生はどれだけ酔っても必ず翌朝六時にはご自宅を出られるそうだ。明日の朝、先生の家の前で待っておくことだな。それで自分の口で言うことだ。なんて言うかは決まっているだろう?」
亮介は思わずごくりと唾を飲んだ。
「さあ、先に席に行ってろ。俺が戻ったら二人で帰宅を促そう」
橘はポンと亮介の肩に手を置いてすれ違ってから、用足しに行った。すでに零時を回っていた。
翌朝、我妻がいつも通りに六時に自宅玄関のドアを開けると、亮介が背筋を伸ばして門の前に立っていた。両手ともこぶしを握り、まっすぐに我妻を見ている。
「おや、君は昨晩の」
「おはようございます。我妻先生。県民ニュースの富樫です。未熟者ですが、しっかりやっていきます。今後ともよろしくお願いします」
「そうか。いいことじゃないか。がんばりたまえ」
亮介は腰を折り曲げて我妻を見送ってから会社に向かった。それから一時間もかからずに亮介は県民ニュースが入居するビルに着いた。自分が一番乗りに違いないと思って、会社の鍵を借りに守衛室を訪ねると、後ろから肩をトンと叩かれた。亮介が振り返ると橘が立っていた。そして、「よお。いやに早いじゃないか」と言ってにやりとした。
亮介はそれまでとは打って変わって積極的になった。新ネタを率先して集め、一度取材に行ったところは必ずその後を追っかけた。ヒューマンクロスはそのまま清水が引き継いでいたが、そのほかの居酒屋チェーンについては亮介が自分からネタを探しに行った。もちろん女性社長に対しても、しり込みすることはなくなった。また、そうやってこれまで自分を萎縮させていた根本を克服していくと同時に、亮介は今まで関わってもいなかった地元の大手と呼ばれるところにも果敢に接触していった。そもそもとして大きな企業であれば、取材応対にしても回答をしてくれるにしても、きちんとしたところばかりだろうと踏んだのだ。
動機はどうあれ、大手への接触は亮介を大いに助けた。新商品、拠点開設、設備投資、決算、人事など、会社の規模が大きければニュースに遭う機会も当然増える。加えて、大手企業の人々は人脈も広かった。「あそこが今度面白いことをしているから聞きに行くといい」と話をもらい、紹介してくれた会社に亮介が行くと、そこもまた別の会社のネタを教えてくれたりした。
直接的な紹介によって、亮介はそれまで縁が無かったさまざまな会社の幹部や社長に会うことが増えた。また、いつの間にかそれは夜の世界にも広がり、街の有名なクラブのママとも顔を会わせるようになった。水商売、特に高級クラブともなると、経済人の出入りも多いため、言える言えないは別にして、相当数のネタが浮遊しているものだ。情報交換の相手としては打って付けだった。しばらくすると、富樫がクラブママと会っている、と社内で噂が立ち始めて、「情報交換じゃなくて体の交換でもしてるんじゃないか」などという、上手くもない冷やかしを受けることもあった。クラブママとは決してやましい関係ではなかったので、亮介は冷やかされる度に、「かもしれませんね。だったらすごいことでしょう?」といなしていた。いつしか田代も亮介に「ずいぶんとたくましくなったじゃない」と言うようになっていた。
ネタがたくさん拾えるようになってから、亮介はだらしのなかった頃とは比べ物にならないくらいに記事化の量が増えた。また、一つひとつを仕上げるスピードも上がった。その頃になると、編集長の橘から記事の指導を直接受けることもあった。
ある時、亮介は、街から一番近い離島で開催されたお見合い旅行についてのグラビア記事をつくることになった。島の青年たちのために自治体が初めて予算化をして、街の結婚適齢期の女性を招待した模様を、亮介が一泊二日で同行取材したものだ。期間中、亮介は島の青年たちと参加女性たちとの交流をひたすら写真に収め続けた。亮介はそれらの写真を会社の自席で並べて、どれをメーンに使ったものかと思案していた。亮介が優先的に考えていたのは、島の海岸に落ちるきれいな夕日の写真だ。青い海と島の美しい海岸線は有名で、ちょうどその写真の端には青年の一人が参加女性の一人と肩を並べて座っている姿も写っている。そのとき、亮介の席に橘がやってきた。
「このあいだの旅行のグラビアだな」
「ええ。ちょうど今、メーンの写真を選んでいるところなんです」
亮介は自分が撮ってきたほかの写真も見せながら二日間の内容を橘にあらかた説明した。すると、橘が「じゃあ、メーンはこれだろう」と一枚の写真を手にとった。それは体験イベントの一環で青年たちと参加女性たちが一緒になって、島特産のそばを打っている写真だった。背景は古びたそば屋の厨房で、雑然としていてお世辞にもきれいな写真とは言えない。それを見て亮介は、うそだろう、と密かに思った。そして、「そうでしょうか。私はこっちの方がいいと思うのですが」と夕日の写真を示した。
「だったら実際にそれを使ってみるといい。ほら、ちょっと来てみろ」
橘はその写真を持って、亮介を連れてコピー機の前に立った。「うちの雑誌の大きさだとこの写真なら七〇%くらいだな」と言って、縮小コピーをとる。
「で、こうやって実際に貼ってみるのさ」
橘は雑誌と同じサイズのレイアウト用紙に写真のコピーを貼ってみせた。亮介がいいなと思って選んだその写真がレイアウト用紙の上に乗ると、美しい写真ではあるがどこか違和感があった。
「これだとまるで観光パンフレットだろ?そうじゃなくて、青年たちと女性たちの交流を伝えないとな」
亮介はそれを聞いてはっとした。今度は橘が選んだ写真を同じようにコピーして貼ってみた。夕日の写真より賑々しさと楽しさが伝わってくる。どちらがいいかは一目瞭然だった。
「頭の中で考えるより、実際のサイズで配置してみるとイメージがはっきりする。そうすると使える写真かそうでないかの判断もできる。俺はグラビア記事をつくるときは今までずっとこのやり方だったけどな」
亮介にとって、一気に目の前が開けた瞬間だった。
またある時、亮介は編集後記についても橘から学ぶことがあった。編集後記は雑誌の巻末などに記される編集者のあとがきで、亮介はその月の編集後記がまだ書けていなかった。またも自席で考えているところに橘がやってきた。亮介が、書く内容がなかなか決められないことを伝えると、橘が「そりゃそうだ。しっかり悩んだらいい」と返した。
「身近な話をつかみにして世相を斬るってのが本来の編集後記だからな」
橘は背中を向けて亮介の席から離れながら続けた。
「一度、みんなには言おうと思っていたんだが、昨日おとといあったようなことだけをすらすらと簡単に書いてたんでは、それはただの日記ってもんだぞ」
たしかに橘の書く編集後記は生活の身の回りの視点から始まって、その時々の時事問題に言及していた。一方の亮介は、いつも悩んだ末に結局は取材先で印象深かった人についての感想を書くことが多かった。編集後記についてまで上司や先輩から教わることがなかったので、亮介は橘の言葉を聞いて、ここでもはっとさせられた。ふと横を見ると、清水が顔を赤くしてうつむいていた。息子の七五三の際に酔っ払って義父に叱られた、というのが先月の清水の編集後記だった。
入社二年目の正月も過ぎ、亮介は少しずつだが記事の腕前を上達させつつあった。そんな時、めったに実現しない大きなインタビュー案件が県民ニュースに舞い込んできた。話を持ってきたのは亮介である。相手は国内有数のシステム会社の現地法人トップである大和電産株式会社社長の新山俊郎だ。「YAMATO」は日本人の誰もが知っているブランドで、現地法人とはいえ、大和電産の企業規模はこの地方では圧倒的だった。これまで県民ニュースは見向きもされなかったが、亮介が情報交換していたクラブママの計らいで実現したのだった。亮介が編集長席で橘にその旨を報告すると、立ち上がった橘が亮介の腕をぐっと掴んで言った。
「よく引っ張り出したな。えらいぞ」
えらいぞ―。亮介はこれまで橘に直接的にそんな言葉を掛けられたことはなかった。この人に褒められたいと思っていたことが、このとき初めて実現した。
新山へのインタビューは橘の判断で十数ページにわたる大々的な記事に仕上げることが決まった。取材日までは二週間あったので、亮介は橘から大和電産を徹底してリサーチしておくように指示された。その日からさっそく調べようと亮介が残業をしていると、同じように会社に残っていた田代が寄ってきて「ちょっと話があるんだ」と言った。すぐ済むから、と田代は亮介を促し、事務所近くのファーストフード店に連れ出した。
「まずは大和電産の件、おめでとう。すごいじゃない」
「ありがとう。たまたまだよ。話をもらったときはびっくりしたけどね」
コーヒーをすすりながら亮介は答えた。
「記事はかなりの分量になるんでしょう。富樫君、前と違って今ずいぶんと忙しそうだけど大丈夫なの?」
「前と違ってって言ってくれるなよ」
「あはは、ごめんなさい。でも本当に大変なんじゃない?」
「簡単ではないだろうけど、きっと大丈夫だよ。さっき決まったことだけど、今回のインタビューには橘編集長も一緒に来てくれることになったんだ」
「へえ、そうなの」
「うん、だから編集長がどんな風に話を引き出すのかを見れるってのが楽しみでね。インタビューが決まったことよりも、編集長と一緒に取材できることの方が嬉しいかもしれない」
「前にも言ったように富樫君ってたくましくなったけど、今はなんだか子供みたい。よっぽど心待ちにしてるのね」
田代は喜ばしいような、ほっとしたような、そんな顔で亮介を見ていたが、次の一言から表情が曇った。
「富樫君が忙しくしている時に急に呼び出して申し訳ないんだけど、実は私、今週いっぱいで会社を辞めることにしたの」
「えっ?」
亮介は予想もしなかった田代の言葉に、口が開いたままになった。
「しばらく前から体調が悪かったんだけど、いよいよしんどくなっちゃって。私のそういうのに気付かなかった?」
まったく気付かないよ、と亮介は思った。田代は相変わらず先輩社員を驚かすペースで広告を獲得し続けていて、とても忙しそうに亮介には見えたからだ。強いて言えば、橘とはしゃぐ回数が少しだけ減ったかな、とも思ったが、それも単に亮介が以前より仕事に身が入るようになったから気づかなかっただけかもしれなかった。いや、それよりも田代自身が忙しく仕事をこなしていて、いちいちはしゃぐ暇も必要もなくなったのだろう、と亮介は思い直した。
「それにしても四人いた同期が二年足らずで俺一人になるのか。さみしいな」
「なに言っているの。前の富樫君ならそんなのもショックで仕事に引きずりそうだけど、今はもうそんなことないでしょう」
「たしかにそうだ。驚いたし、さみしくもなるけど、辞めるのは君がもう決めたことだからな」
そう言ってから亮介は、自分は自分がやるべきことに集中しよう、と心に誓った。
「今度のインタビュー、富樫君の晴れの舞台だね。仕事っぷり、見てみたかったけどなあ」
そう言って田代が手を差し出した。
「私、先に辞めちゃうけど、応援してるよ。富樫君なら上手くできるから。ほら、握手」
「ああ。きっといい仕事するよ。約束する」
亮介は田代の手を握り返した。
田代が退職してから一週間が過ぎた日、橘と亮介は昼過ぎに大和電産本社に着いた。街のウォーターフロント地区に建つ二十階建てのビルだ。
ロビーの受付で入館のための専用カードを受け取り、駅の改札口のようなゲートにかざしてから、橘と亮介はエレベーターホールに進んだ。そこでは新山の女性秘書が出迎えていて、一緒に十九階まで上がった。「こちらでございます」と秘書が案内してくれて橘と亮介が応接室に入ると、そこには外の海の景色を抱えた窓が全体に広がっていた。
「すぐに新山が参りますので少々お待ちください」
秘書が出て行ったとたん、亮介が「いい眺めですね」と漏らした。眼下には人工のビーチが見える。
「応接室というにはかなり広いですし、やはり大きくて有名な企業ともなるとこういうものでしょうか。でも橘編集長だと東京時代に立派なところには何度も訪問されていますよね?」
「まあ、たしかにそうだが、こちらもかなりのもんだよ」
二人が窓を向いて話していると、背中越しに扉が開いたのにあわせて「いやあ、初めまして新山です」とかん高い声がした。橘がさっと振り返り、「失礼致しました。すばらしい景色に見入っていまして。県民ニュースの橘と申します」と言って頭を下げた。亮介もそれに続いた。
新山は亮介と同じくらいの上背で、髪はほとんどなかったが笑顔が柔らかかった。名刺交換が済み、新山に続いて橘と亮介が腰掛けてから後に、新山が口を開いた。
「これまでなかなかご縁がなかったようでごめんなさいね」
「こちらこそ貴重な機会をいただきましてありがとうございます。私どもは貴社を取り上げさせていただくのは初めてですので、紹介を兼ねて貴社の概要全般を誌面にできれば幸いです。難しいことはお聞きしませんので」
橘が微笑みかけると、「そうですか。そりゃあよかった」と新山が答えた。笑顔のままだったが、さっきよりもふっと力を抜いたように亮介には見えた。
「さっそくですが、近々、新システムをリリースされるそうですね」
橘の質問が始まった。新システムについては亮介が事前にリサーチしたことから判明したもので、その話題からインタビューがスタートしたことに亮介は誇らしい気持ちになった。
「そうなんですよ。完成までずいぶんと時間がかかったんですけどね」
新山はそう言ってから新システムについて語った。官公庁向けのもので、更新シーズンにあわせて旧来のものを全面的に改良したのだという。橘は開発にかかった費用や人員規模についても尋ねた。これも亮介のリサーチをもとに事前に決めていた質問だった。新山がそれらに答えると、橘が「そうすると三カ年計画にも貢献しそうですね」と言い出した。三カ年計画だって?と亮介は心の中で叫んだ。事前のリサーチではそんなことはわからず、初めて聞く情報だった。
「あ、それね。よくご存知ですね」
新山はそう返して、「言える範囲で」と断りを入れてから計画の内容を話した。そんなものがあったなんて一体どうやってわかったんだろうかと亮介は思いながら、しばらく新山よりも橘の方を向いていた。
それからの橘の質問は、亮介がリサーチで得た情報を一段も二段も飛び越えた知識をもとに繰り出された。亮介には後からわかったことだが、三カ年計画についても、橘が独自の情報網で大和電産の関係者から掴んでいたものだった。その後の橘の質問に、新山も「あ、それもね。本当によく知ってますね」と感心しながら答えていた。新山の応対は終始好意的で、亮介が予想していたよりもずっと多くのニュースソースが集まった。亮介は充実した取材に満足するとともに、豊富な情報量と知識をもとに質問を続けた橘に感服した。
会社の概要についての聞き取りが一段落すると、今度は新山の略歴について聞いていった。そこから橘は亮介に質問を任せて、自分自身は新山への相槌に専念した。亮介は新山の幼少期から学生時代、YAMATOグループに入社してからなどを順に尋ねた。思い出話になったためか、新山は最初よりもずっと饒舌になり、「あ、それね。そうそう、あのときは苦労したなあ」、「あ、それもね、大変でね」などと、話が進むペースが遅くなってきた。揚げ句、「あ、そういえばあれは何だったっけ。えーと、当時流行していたあれですよ」と別の話題に飛んでいったりもした。いつまでも終わる気配がなかったが、それでも橘は聞き続けた。きっとそれが“橘流”なんだろうと思い、亮介も新山の話に耳を傾けていた。
ところが、インタビューの開始から二時間を過ぎたあたりから、橘は少しずつ相槌に力がなくなってきていた。それは亮介にも感じ取ることができた。また、亮介自身も徐々に疲れてきた。三時間近くになろうとした時、橘が意を決したように「最後にご趣味を一言だけお願いします」と発した。
県民ニュースでは経済人を取材した際には必ず趣味を聞くことにしている。誌面に載せるか載せないかに関わらず、趣味の話というのは経済人の間でなにかと話題になるからだ。大手のトップである新山ほどの人物の趣味ともなると、出来る限り聞きたいものだが、「一言だけ」と限定したところをみると、話がいつまでも続くことにさすがの橘も我慢ができなくなっているんだな、と亮介は思った。ところが新山が「趣味ですか?あ、それだとね。せっかくだから詳しくお話しますよ。ええとね」と続けたものだから、橘は慌てて「いや、一言だけでけっこうですよ。これ以上新山社長のお時間をいただくのは申し訳ありませんので」と制した。亮介もそれにあわせるように頭を下げた。
「いいのいいの。気にしないで。ええと、それでは場所を移しましょう。ついてきてください」
新山が立ち上がって退室すると、橘と亮介は顔をあわせた。お互い困惑した顔だった。そして、しかたなく新山の後を追った。新山は秘書に「上に行っているから」と伝えてから橘と亮介を連れてエレベーター横の階段を上がった。
最上階の二十階はフロア全体が社員食堂になっていた。夕方になろうとしていたが営業中で、食事をとっている社員も何人かいた。新山は「さあ、こちらにどうぞ」と隅の方のテーブル席を橘と亮介に案内した。
「何か食べますか?ここはなんでも美味しいですよ」
新山はそう言ったが、橘も亮介も食欲は湧かなかったので断った。
「では私だけ甘えていいかな」
新山は注文カウンターに向かうと、しばらくして、盆にカツ丼を二つ乗せて戻ってきた。橘と亮介はまた顔をあわせた。
「私、今年で六十だけど、けっこう食いしん坊でね。お昼もカレーライスと天ぷらうどんを食べたんですよ。じゃあ、ちょっといただきます」
新山は手を休めることなくかき込み、あっという間に両方の丼を空にした。
「新山社長のご趣味というのは、お食事ですか」
橘がそっと尋ねた。
「あ、それね。いや違うの。食事ではなくてね。これからお見せしますよ」
新山はもう一度カウンターへ行って折り返してきた。今度はミニトマトが山盛りになったボウルを手にしている。席に着くと、橘と亮介に顔を近づけた。
「私ね、占いをやるんですよ」
新山がにたりとした。それまでの笑顔とは違っていた。
「かかっちゃいけないから私そっちに行きますね」
新山は立ち上がって橘と亮介の側に回ってきた。そして、自分自身は椅子に座り、橘と亮介を新山の少し後ろに立たせた。
「まずは私の明日の運勢からいきましょうか。いやあ、これはよさそうな形だなあ」
新山はボウルからミニトマトをひとつ取ってテーブルに置いた。そして、こぶしにした右手で突然上からミニトマトを叩いた。ばふゅっ、と音がした。
「おおう、こりゃいいや。吉と出ましたよ」
橘と亮介は首を伸ばしてテーブルを見ると、ミニトマトが無残に潰れている。汁や種が周りに飛び散っていた。
「この潰れ方や皮の破れ方でね、吉兆を見るんですよ。私のオリジナルなんですけどね」
橘も亮介も黙ったままだった。
「それじゃあもうひとつ。次は明後日ね」
新山は別のミニトマトをテーブルに置いてから、また叩いた。さっきと同じように、ばふゅっと鳴った。
「あれえ。悪くないんだけど小吉だ。残念」
亮介は、座っている新山の胸のあたりをそっと覗き込むと、背広にもネクタイにもワイシャツにも汁がかかっていた。
「私、これが楽しくてねえ。じゃあ明々後日をもうひとつ」
ばふゅっ。亮介は恥ずかしいのか悪いことでも見ているようなのか、味わったことのない気持ちがしてから、静かに周りを見回した。食事をしている社員たちはこっちを気にもしていない。すると年配の食堂スタッフの女性が新山に近づいてきた。
「社長!またそれやっているんですか。あんまり食べ物を粗末にするもんじゃありませんよ。こう毎日毎日やられたら掃除も大変なんだから」
呆れた風のもの言いだった。
「ごめんなさいね、まあそう言わずに」
新山は懲りた様子を見せない。
「よろしければ橘さんの今後の運勢も見てみましょうか」
「いえ、私は結構ですから」
「まあまあ、いいじゃない。ほら、この中から取ってみてください」
橘はしぶしぶミニトマトをひとつ掴んで新山の前に置いた。新山がこぶしを下ろす。ばふゅっ。
「こりゃあすごい。大吉ですよ。これから偉功を立てられるんじゃないですか?」
橘の目が一瞬だけ大きくなったが、その後は何も反応を示さなかった。
「あれえ?なんだかちょっと浮かない顔ですねえ。なんでしたら相談に乗りますよ。私これやっているときは色々なものが見える気がするものですから」
新山が橘の方を向いてにたりとした。
「いや、本当にもう結構です」
橘の言い草がさっきより少し強くなった。新山は頃合いとみたのか、切り上げを持ちかけた。
「そうですか。おっと。お二人ともこの後にお仕事がおありでしょう。お戻りになってください。私はもう少し占いたいものがありますから」
ばふゅっ。ばふゅっ。ばふゅっ。橘と亮介が席を離れても、新山はミニトマトを潰し続けた。
一カ月後、新山のインタビュー記事は趣味に触れなかったこともあって、当初の予定より少ない分量で最新号に掲載された。量が少なくなったとはいえ、亮介にとっては複数ページの記事作成は貴重な経験だったし、なにより橘が制作にあたって色々と教えてくれたことが嬉しかった。ただ、新山の占いの光景がこのときになっても亮介の中にこびりついていた。
その新山が突然、県民ニュースに連絡してきた。今回のインタビュー掲載のお礼を橘と亮介に直接言いたいので今から訪問したいということだった。
新山の来社時間が迫りつつあった時、橘が新山には会わないと言い出した。急なことで亮介は驚いたが、実は亮介も出来れば会いたくないと思った。新山の、特にあの占い中の新山を思い出すと、なんとも形容し難い気持ちになる。それが再び会うことを躊躇させた。橘もきっとそうなんだろうと亮介は思った。しかし、地元を代表するような大手のトップが礼を言いに来るというのだ。相手にしないわけにはいかなかった。亮介は橘を説得したが、橘は承諾しなかった。結局、橘は所用で不在ということにして、亮介ひとりが新山に会うことになった。亮介はどうなることかと思ったが、いざ面会が始まると占いはなく、他愛も無い会話ばかりで済んだ。ただ亮介は、最後に「橘編集長によろしく」と言った新山の笑顔がにたりとしたものになっていた気がして、気味が悪かった。
新山が帰った後、亮介は編集長席に戻っていた橘に詰め寄った。
「敬遠したくなるお気持ちもわかりますが、先方がわざわざ足を運んでくれたんですよ。途中で投げ出すようにあんなに固辞されるなんて、橘編集長らしくないと思います」
初めてそんな口をきいて、直後に亮介は出過ぎたことをしたと思った。けれども橘の答を聞いてみたかった。ひょっとしたら一喝されるのではないかと覚悟もした。すると橘は、にこやかな顔で「富樫の言う通りだよ。ちょっと頼もしくなってきたなあ、おい。これから俺の出る幕なくなっちゃうな」と立ち上がりながら、亮介の腕をポンと叩いた。そして、席を離れ際に「それじゃあ」と言って亮介と握手をしてから事務所を出て行った。
それ以来、橘は姿を見せなくなった。以前から引き出していた会社の金を持って、身ごもった田代と一緒に街を出たらしい、と噂が流れた。
了