第十五話 玉虫色の仮面
バチ バチ
余命わずかな電灯の悲鳴が静寂に孤立する中、俺は言葉を失った。
目から取り入れた視覚情報が脳内でバッファオーバーランを引き起こし、思考そのものが停止する。
だが、脳ではなく、もっと深いところが叫ぶ。
――警告、警告、警告。
――アレは、絶対に関わっちゃいけないモノだ。
俺達の目に飛び込んできたのは、寒空に惜しげもなく晒された背中と金糸のようなツインテールだった。
背面が腰の辺りまで、それこそ獲物に食らいつく肉食獣の顎のように開いたゴスロリドレスに身を包み、露わになったうなじから一続きになった白い肌が人工の光を受けて輝いている。
そんな現代日本の夜の公園というシチュエーションにマッチしてるのかしてないのか分からん存在が、地べたにへたりこんでこっちに背中を向けていた。
間違いない。スイを奪い返しに来た、黄泉國の手のヤツだ。
パリ ぷち ジャリ
――っ!?
何か、食ってる……?
「ひ……ぁ、あ……」
スイが漏らした、引きつった声。
「!」
ギュルン、と音が聞こえそうなほどの勢いで、その声に弾かれたようにゴスロリの少女が首を回転させる。
ガラス玉のような、一切の体温が感じられない眼球が、寸分の狂いもなく俺を捉える。
……って、何だアレ? なんかあいつの唇の端っこから黒いのが……
木の枝……にしちゃ細いし、ひからびたエノキ……んな訳無ぇだろ。何考えてんだ俺は……って、今ピクッて動いたんだけど、まさか……
アレ、虫の脚――
ぞくり、と、血管の中に直接冷水をぶち込まれたような錯覚を覚え、全身が激しく震え出す。心臓が刻む鼓動のリズムも変化し、冷や汗が全身から吹き出した。
ヤベェ、ヤベェ、あいつはヤベェ!
今までやり合ってきた中でも最悪の部類だ!
逃げる――いや、駄目だ! スイを連れて逃げ切れる保証が無いし、何よりアレから目を逸らすなんて無理! 一瞬でもあいつを視界から外したりしたら、確実にヤられる!
ゆっくりと、それこそ真上から糸で吊り上げられるように、筋肉や関節の存在を全く感じさせない動きでそれが立ち上がる。
袖口に向かうに連れて広がっていく袖と、パニエをあしらったスカートを妖しく翻し、それは、俺に正対する。
……正面からちゃんと見ても、やっぱりあの唇の端からはみ出てるの、ココナッツのスジとかじゃあないみたいだな……
「……今夜の月相は、弓張月」
一歩、俺の方に足を踏み出しながら、それは告げる。
「だから、あなたは大猿にはなれない」
……?
何だ、こいつは? 一体何を言ってる?
また一歩、それが近づく。
「あぁ、でもあなたには尻尾が無い。杞憂だった。それは弱点が無いということにも繋がるのだけれど。というか、元々あなたにはサイヤ人としての特性が顕現していないだけかしら?」
着実に間合いが詰められているにも関わらず、俺の体は何のアクションも起こさない、というか起こせない。
それ程までに強い殺意が、俺の体に鋼鉄のワイヤーのように絡みついていた。
「そんなに怯えないで。大丈夫。抵抗しなければ危害は加えない」
……それ、翻訳したら『抵抗したら殺す』ってことじゃねーか。
口を動かすことも敵わず、心中で悪態をついてみる。
抵抗しなければって……抵抗しない訳にはいかないじゃねぇかよ。
……ハァ、しょうがない。
そろそろ覚悟決めるか。怖がってても話は進まないし、何の得にもならん。そう思いこむのが、俺が編み出した恐怖に打ち勝つコツだ。どうにも後ろ向きな克服の仕方だが、諦めて恐怖を受け入れるってのはなかなか効果的なんだ。
あぁ、もう、いつもこうだ。貧乏くじは俺が引く。そういう星の下に生まれちまったんだろうな、俺は。ま、だいたいは俺が自分から貧乏くじを引きに行ってるんだけど。
どうせその辺で見てんだろ? ホント、恨むぜ、神様。
バチリ、と、俺達を照らしていた電灯が断末魔を上げ、周囲が闇に包まれる。
その瞬間、俺は確かに見た。
それの右袖からグニャリと節足動物らしき脚が伸び、全身のバネを爆発させるために過剰なほど膝を折り畳んだのを。
「スイ! 悪い!」
「え……きゃぁっ!?」
そこからほんの0コンマ数秒は何が起こったのか視覚的には把握できていない。
俺の起こした行動と言えば、ただ必死にスイを抱き寄せ、本能的に頭を低くして地面を転がるようにその場を飛び退いただけだ……でも、我ながら良い判断だったと思う。
両腕でスイを包み込むように庇いながら、無様に地を這う俺。
次の瞬間、砂を踏みつける音と、何かが空を切る音が混じり合う。
電灯が息をふき返すと、先程まで自分の頭が在った場所には、黄緑色の鋭利で巨大な前脚が存在していた。
あっぶねー、あのままボーッとしてたら首から上持ってかれてたんじゃねーか?
「へぇ……今の避けるんだ……私の見立てじゃ戦闘力は五ぐらいだと思ってたけど、上方修正してあげる」
カマキリの前脚と、バッタの後脚。
それの四肢らしき位置から伸びているのは、そうとしか形容できない物体だった。
人工の白い光をそのまま跳ね返す程艶やかなカマキリの右手を、唾液をたっぷりと絡めた舌で蠱惑的に舐り、バッタの両脚で地面を踏みならす。
……なるほどね。袖口がやけに広いのは、腕を変形させるためか……だったら最初からノースリーブにしとけよ。
「……スイ、ちょっと離れてろ。あと、絶対に一人で逃げるなよ」
立ち上がりながら、少し離れた場所のベンチを指し示す。
「……ささぐ、もしかして……!」
俺が無謀な戦いに身を投じようとしているのを悟ったのか、スイの顔が不安に歪む。
オイオイ、そんな顔すんなよ。そんなに俺って頼り……ない、よな……
「大丈夫。お前は何も心配しなくていい。あんなヒョロい女、俺が一瞬でこしあんまみれにしてやるよ」
スイを戦闘に巻き込むわけにはいかないが、スイがあまりに遠くで孤立したらアイツは絶対スイの方を狙うだろう。さっきの動きから考えて、あのゴスロリ女のスピードは俺より格段に上。つまり俺が時間を稼いでる間にスイを逃がし、応援を呼んでもらうってのも無理ってことになる。
それに、今相手は俺の口を封じたくてたまらないはずだ。だってそうだろう? 俺はこの島最大の戦力とコネクションを持ってる上に、スイの存在を知ってしまっているんだ。
要するに、俺がサシであいつをブッ倒すしか活路は無いってこった。ハッハッハ。泣けるね。
「……ぜったいまけないって、やくそくしてくれますか?」
「あぁ、約束だ。俺は嘘はつくけど約束は破らない」
「……ぜったい、ですよ?」
スイはどこか釈然としない様子だったが、諦めたように俺から遠ざかっていった。
「お別れは済んだみたいね。あくまで抵抗する、というスタンスとして受け止めて良いのかしら?」
悪役らしく空気を読んで突っ立っていたゴスロリが、待ち侘びたように地面を踏みならす。
こいつ、けっこうおしゃべりなのか?
「ん、まぁ、そうなるのかな。スイを連れて帰りたいんなら、俺の屍を越えて行け、なんてな」
「まさか。殺しはしないわ。後始末がめんどくさいもの。あ、でもあんまりしぶといようなら手足の四、五本もいじゃうかも」
それ、全部じゃねーか。
……さて。
「楽しいおしゃべりもこのへんにしとこうぜ。お互い、事が早く終わるに越したことは無いだろう?」
そう、俺にはまだ無事に家に辿り着き、薙に説教をかますという重大なミッションがあるのだ。こんなとこで時間食って『遅い! どこほっつき歩いてたのよこのバカチン!』なんて逆ギレされたらかなわん。
「その意見には全面的に同意するわ」
ゴスロリ女が、カマキリの前脚を折り畳み、顔の前で摺り合わせるように構える。
拝み虫、praying mantis、そして、preying mantis
そう、この祈るような体勢こそが、様々な異名の由来であり、戦闘態勢。
「ポーカーフェイス」
「え?」
「玉虫色の仮面。それが私の名前。あなたは?」
「言ったろ? 通りすがりのサイヤ人だって」
「……そう。それじゃ」
硬質なプラスチックが軋むような音を響かせながら、ポーカーフェイスがバッタの両脚を折り畳み、体を沈める。
「バイバイ」
それが戦闘開始の合図だった。
溜め込まれた下半身のバネを一気に爆発させ、人ならざるスピードでポーカーフェイスが肉薄する。直線的で一分の無駄も無く、それ故に極めて予想通りの動きだ。
ま、あんだけ分かりやすい武器を両腕にぶら下げてんだから、お次は――
「シッ!」
これまた予想通り、胸元にしまい込んでいたカマキリの腕を繰り出す。
俺はその攻撃に合わせ、ボクシングのダッキングのように身を屈めながらポーカーフェイスの側面を回り込むように回避した。
もちろん攻撃が空を切ったポーカーフェイスは、自身の体に宿った慣性を御しきれるはずもなく、前のめりになって停止する。
すぐ後に敵がいるこの状況で相手がとる行動っつったら――
「シャアッ!」
そう、適当に攻撃しがてら振り返るか、防御しながら振り返るかの二択しか無い。
んで、これまた予想通り、相手のとった行動は前者だった。
伸ばしたカマキリの腕を曲げず、空間を切り裂きながらポーカーフェイスが百八十度ターンする。
しかし空間を切り裂くカマキリの腕は、やっぱり空間を切り裂いただけに終わった。
表情に乏しいポーカーフェイスの顔が、わずかに歪んだ気がした。ま、俺からは顔の下半分しか見えていないから詳しくは分かんなかったけど。
相手が攻撃しながら振り向くと読んでいた俺は、ターンするタイミングに合わせてポーカーフェイスの目の位置に大きめの最中の皮を放り投げておいたのだ。いわゆる置き攻めってヤツ? ま、ちゃちな目くらましにしかならねーけどな。
ポーカーフェイスも、こんな相手の位置も分からずに適当に腕を振り回すだけの攻撃が当たるなんて思ってはいなかっただろう。でも、俺の姿勢や両者の距離といった、振り向けば確実に得られるはずだった視覚的情報までもシャットダウンされれば――
「くぁっ!?」
ポーカーフェイスが驚愕の声を上げ、とっさにその最中の皮を振り払う。
そうだ、視界の外から顔面に、しかも己の視界を遮る形で異物が飛んできたら、誰だってそうする。それが戦いに慣れた人間なら、特に。
時間にしてコンマ数秒のスキでも、必殺の間合いにおける命の取り合いにおいては、敗北するには十分すぎるだろう?
そしてそのスキを見逃してやれるほど、俺の右手は甘くねぇ!
「神の奇跡!」
さぁ喰らいな、極上の一撃をよぉ!
ポーカーフェイスの顔が、再度驚きに歪む。
向こうからしたら、顔面に飛んできた何かを払いのけたと思ったら、今まさに棍棒みてーな金太郎飴が振り下ろされてる真っ最中なんだから、そりゃあびっくりするわな。
「死ねェェェェェェェェッッ!」
バキャッ、と。
小気味良い音を響かせ、全身全霊を賭して振りぬいた金太郎飴がポーカーフェイス綺麗な脳天にクリーンヒットした。できればスイには見せたくなかったなぁ。
抱きしめるだけで折れてしまいそうなか細い少女の体が、腰から『く』の字に折れ曲がる。
手ごたえ十分っ! やったか――
そんな俺の分かりやすいフラグは、間髪入れずに回収されることになる。
ポーカーフェイスは崩れ落ちる体を黄緑色の両脚で支え、
「シャォッ!」
アッパーカットの要領で、俺の顎めがけて腕を振り上げたのだ。
「って、ぅおぉぅっ!?」
下方向から繰り出された前脚の一撃を上体を反らしてかわし、慌てて距離を取る。
「痛ったぁ~。ちょっとこれタンコブできてない?」
で、攻撃を受けた側はと言うと、右手(いや、前脚か?)の先で髪の毛を掻き分け、左手でちょいちょいと打撲部位をつっついていた。
おいおいおい、嘘だろ? 今殺す気で殴ったんだけど……そんな野球部のグラウンドから飛んできたボールが当たったみたいなノリで済まされるようなもんじゃねーだろ。
「ふぅ~。一応クワガタ食べといて良かったぁ。でなけりゃ脳味噌ブチ撒けてたかも。こんな美少女が相手なのに、結構容赦無いのね、あなた」
「虫食いながら他人の首刎ねにくる女に容赦なんかしてられるか」
虫愛づる姫君ってレベルじゃねーぞ。
「うんうん……なぁるほどなるほど。正直ブリーフィングで『右手から和菓子を出す能力』って聞いた時はふざけてんのかって思ったけど、なかなかどうして、まともな喧嘩が出来るのね、あなた」
「……右手に関する文句なら、俺じゃなくて神様にでも言ってくれ」
……しっかし、これはマズイぞ。今この場で出せる最大火力の攻撃を、最高の形で直撃させたってのにダメージが無いとなると……
「でも残念だったわね。今のがあなたの全力の一撃だったんでしょう?」
……バレちまってるか。
そうなんだよなぁ。こっちがどんだけ攻撃してもダメージが通らないのに、相手から一発でももらうとゲームオーバー……ぶっちゃけ、勝ち目無いんだわ。
でもまぁ悲しいかな、そういう絶体絶命ってヤツにも慣れてるんだけどさ。何だろうなぁ、俺どこで人生の難易度選択ミスったんだろう。
捧マストダイ。
……想像するだにナーバスになるわ。間違っちゃいないだけに。
「もう諦めて楽になっちゃえば? この状況、どう見てもチェックメイトってヤツよ」
ポーカーフェイスがドヤ顔(実際は無表情だけど、少なくとも俺にはそう見えた)で勝利宣言をかます。そりゃ向こうからしたらこんな不利益な小突き合い、時間の無駄以外の何物でも無いだろうしな。こうやって圧倒的な力の差を見せつけて心を折りにくるのも当然か。
うん、まぁ、そうだな。安い挑発には安い挑発を返してやるのが礼儀だろう。俺としちゃ、無駄話で時間が稼げるなら大歓迎だし。
「お前は一つ大きな勘違いをしてるぜ?」
ちっちっちっ、とキザったらしく舌打ちしながら、立てた人差し指を左右に振る。
それだけでポーカーフェイスの視線に身を焦がすような怒りが籠もったのがよぉ~く分かった。表情変えないクセに表情豊かだなこいつ。満月みてぇ。
「……その勘違いってやつ、詳しく教えてくれる?」
ガリッ、と音を立て、ポーカーフェイスが節足の先端の爪で地面をひっかく。こいつ、挑発しがいあるなぁ。
「お前はさっき、この状況がチェックメイトだって言ったな……」
「それが何? もしかして、チェックをかけてるのは私じゃなくて俺の方だ、とか言うんじゃないよね?」
いやいや、そこまで見え透いたハッタリは流石にかませねーよ。
「この状況はチェックメイトじゃない。分かんねぇのか?」
真っ直ぐに伸ばした人差し指をポーカーフェイスに向け、俺は宣言する。
「お前には、薙みたいな速さも、鉄馬みたいなパワーも、遊兎みたいな意外性も、満月みたいな物量も無い。そんなんじゃ何手打っても俺は詰まねーよ」
数秒の静寂が、この場に漂う。
そして俺の言葉の真意を理解した(と思われる)瞬間、ポーカーフェイスから殺気が溢れだした。
目には見えないし、音でも、匂いでも関知することは出来ない……けど、頻繁に切った這ったの場面に身を置いてると、こいういう『気』の流れみたいなのが、ある程度は見えるようになっちゃうんだよ。役者さんなんかは舞台上で『気』のやり取りをするらしいが……まぁそれは別の話だ。
「……面白い、面白いねあなた。こんな圧倒的に劣勢なのにも関わらず、私があなたを追い詰めることが出来ないですって?」
ポーカーフェイスのこめかみに青筋が浮かび、眼輪筋が震え出す。なんだ、やっぱりそういう人間らしい表情も出来るんじゃねぇか。
大体今までの口振りからして推測出来るが、こいつ、自分の能力に絶対の自信を持ってて、そんで格下相手に負け無しの生活を送ってきてるんだろう。
こういう手合いは特に、格下からナメられんのを嫌がるもんだ。
「あぁそうだよ。お互い決定打を持たず、俺は逃げようと思えば無限に逃げ続けられる」
別に見栄を張ってるんじゃなく、俺は割と真剣に、客観的に分析してこの結果をはじき出している。
だってそうだろう?
「お前の攻撃、多分こっちから当たりにいってやらねぇと当たんないぜ?」
数秒の空白の時間の後、
ぷちっ、と。
張りつめていた何かが切れる音が聞こえた気がした。
ポーカーフェイスが陽炎のように体を揺らめかせる。
不意に、その白い両頬が内側から押し広げられた。
あ、そっか忘れてた。カマキリっつったら、まだアレが――
「スイ! 見るな!」
これから出てくるであろう物を察知した俺は、敵から目を離すことなく背中越しに叫ぶ。
……やっぱそうだよなぁ。カマキリの武器って言えば、前脚と『それ』がセットになってこそだよなぁ。
みちり、ぶちり、と肉の繊維を無理矢理引きちぎりながら、『それ』が現れる。
内側に向かって大きく湾曲した、刺々しい大顎。その下に控える、鋸状の下顎。
カマキリの武器といえば、多くの人は真っ先にその前脚を思い浮かべるだろうが、実はより強力な武器がある。それが、顎だ。
大型のカマキリにもなると、顎で小鳥の頸動脈を食いちぎり、捕食することもあるらしい。
その凶悪な捕食器官が、ポーカーフェイスの頬を耳まで引き裂いて出現した。
無理矢理に振り切っていた生理的な恐怖心が、再び体の芯から吹いて出る。
呼吸が浅くなり、指先がチリチリと痺れ出す。
……ヤバイ、ここまで切れっ早いなんて想定してなかったぞ!
鮮血に彩られた二対の顎が、ゆっくりと軋む。
「なら……やっテミロォオオオオォオォオオァアアァアア■■■■■■■■■■■――!」
その人間の声帯から発せられたとは思えない声、というか音の直後、視界が急速に変化し、背中から後頭部にかけて激痛が走る。
「捧っ!」
俺の名前を呼ぶスイの声も、靄がかかったようにはっきりと聞き取れなかった。
あまりの衝撃と痛みに、自分がポーカーフェイスに押し倒され、マウントポジションをとられているという絶望的な事実を把握するのに僅かな間が生まれてしまった。
嘘だろコイツ、怒りでパワーアップするとか、そっちの方がサイヤ人じゃねーかよ!
俺は咄嗟にポーカーフェイスの顎に打ち込もうと右手を突き出すが、
「甘ァァアぃいッ!」
カマキリの両腕にからめ取られて地面に縫いつけられてしまった。
「うぐぁああああぁあああああっ!」
痛い、痛い、マジ痛い! ヤベェ、コレ洒落になんねぇ!
「さっきは好き勝手言ってくれたわねぇ……」
俺に見せつけるように大顎を開き、俺の首筋に顔を寄せるポーカーフェイス。
「スイ! 逃げ――」
「逃げたらこの人を殺すわよ」
俺の声を遮るように放たれた残酷な宣言が、スイをその場に押しとどめる。
つーか、そもそも……
「どうせあの子が逃げたところで、あなたを殺してから追いかければ済む話なんだけど」
……だよなぁ。
スイが俺に構わず逃げたとしても、この状態だと俺の喉笛が食いちぎられるのにも数秒とかからない。俺が反応し損なう程のスピードを相手に、数秒のアドバンテージがあったところでスイが逃げ切れるはずがないのは自明の理だ。
つまり、詰み。
……クソッ、またかよ。結局、俺はまた、何もできないまま――
「哀れねぇ……あんな無関係の、あなたにとって何でもないものに関わらなければ生き長らえたものを……」
「………………」
喉まで出かかった否定の言葉が、吐き出されることなく俺の中に溶けていく。
視界の端に捉えたスイの頬には、一条の涙が伝っていた。
ここで俺が、はっきりと相手の言葉を否定し、スイは俺にとって何なのか宣言できていたら、今頃スイにあんな――寂しげな顔をさせずに済んだのだろうか。
「どうせ出逢って一日も経ってない他人でしょう? あなたが命を懸けるには薄すぎる関係だと思うけど?」
握り拳に、自然と力が入っていく。
噛みしめた唇から、鉄の味が広がる。
……どうして
どうして俺は、スイのあんな顔を見ておきながら、何も言い返せないんだ。
どうした捧。嘘でも良いから何か言えよ、オイ――
「あの子のことなんか忘れちゃえば良かったのよ。昔そうしたみたいに」
………………………………
――あ?
皮膚が粟立ち、瞳孔が開くのが自分でも分かった。
腹の底から熱い何かがこみ上げてくるのとは裏腹に、思考だけが冷たく研ぎ澄まされていく。
「な、何よその顔……」
圧倒的優位に立っているはずのポーカーフェイスが、わずかに顔を引きつらせて仰け反る。
……その顔?
その顔って?
今俺は、どんな顔をしているんだ?
いや、そんなことは、どうでもいい。どうでもいいんだ。
「さっきの……『昔そうした』っての、どういう意味だ?」
ポーカーフェイスの両目を下から真っ直ぐに見据えながら、俺は問い返す。
「どういう意味も何も、あなたとあなたのお友達は……っていうか、この島の人間達ならみぃんな――」
薄桃色の唇と、大きく裂けた顎の隙間から紡がれたその言葉は、残酷で、残酷で、残酷過ぎて――
「大切な物を忘れるのは得意でしょう?」
俺の心を真っ黒に塗りつぶすには十分すぎた。
「それじゃ、お別れね」
ポーカーフェイスが俺の喉に食らいつこうと、再度首筋に顎を寄せる。
そのタイミングに合わせて、肉が裂けるのも構わずに無理矢理拘束された右腕を引き抜き、俺は眼前の真っ赤な口内めがけて右手を突っ込んだ。
「おごっ、ぁ、か……!?」
ポーカーフェイスの喉の奥から、掠れたうめき声が漏れる。
しかしそれを好機と受け取ったのか、それとも本能がそうさせたのか――巨大な顎が、俺の右手首に食い込み始めた。
切っちゃいけない血管が切れたのか、エラい量の血が俺の腕を伝って落ちるが、腕を食いちぎられている最中でも、俺は以外と冷静だった。
ま、いいさ。腕の一本や二本。
お前を、この手で殺せるなら――
イメージしろ、イメージしろ
俺の願いを、俺の力を
右手に全身の血液を集めるイメージで――
俺は、魂を吐き出すように、
告げる。
「死ね――「ウチの連中に何してくれてんのよこの腐れマ○コォォォォォッ!!!」
しかし、研ぎ澄まされた俺の殺意はものの見事に雲散霧消した。
ポーカーフェイスの頬に鋭く折り曲げられた膝が食い込み、一瞬で視界が見慣れたスパッツに覆われる。
「あーあ、人がセンチな気分に浸ってるっていうのにあんたって奴は……どうしてこう、毎度毎度おとぎ話のヒロインよろしく厄介ごとに巻き込まれんのよ……」
俺の顔を跨ぐようにして仁王立ちするそいつは、紛うことなく我が家の特攻隊長、薙だった。
……どうでもいいけど、お前その体制だとスカートの中丸見えだぞ……
ばつが悪くなって視線を横に向けると、今まさに顔面を打ち抜かれて吹っ飛んだポーカーフェイスが、無様に横たわって大地とキスをしていた。
この状況だけを切り取ってみたら、確実に俺ら裁判で負けるんだろうなぁ……
「あー、ありがとよ薙。助かったわ……」
「お礼なんかいいわよ。それより、それ」
あくまで俺を見下ろす体制を変えず、薙は俺の右手を指した。
「スイに見られる前に、それ、しまったら?」
言われるがまま、俺は右に目を向ける。
視線の先、俺の右手の中には、長さ五十センチはあろうかという鋭利な飴の刃が握られていた。




