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第三章 上陸

 イスタンブール・アタチュルク空港の出国手続きを済ませ、林五郎はトルコの地に足を踏み入れた。辺りを見渡すと、見慣れないトルコ語の表記に囲まれ、聞こえてくる言葉も英語ではないということを判別出来るのみであった。頼れる存在は、日本の古本屋で購入したガイドブックと、トルコ語と並べて表記されている英単語くらいであった。

 林五郎は携帯電話の電源を入れて、メールをチェックする。理央からミーチャの赤ちゃんの写真を催促するメールが入って来ており、親から送られてきた写真を転送することにした。明日の昼にはトルコを出国するつもりだ。あまり時間はない。

 林五郎は空港内でマクドナルドを探した。しかし、日本で見慣れた赤色の背景に可愛らしいエムの文字は、どこを探しても見当たらなかった。近くで見ると不気味な表情とも言えるピエロの姿ももちろんない。

 彼は、努めて平常心を保ちながら、空港内を歩き回った。このまま優に会えなければ、イスタンブールに行こうと考えていた。世界一美しいと言われるイスタンブールの夕陽を眺めながら、林檎を食べる。林檎を克服する。そして、林檎に纏わる全てのことを清算して、新しい一歩を踏み出す。そんな旅行にすることが出来れば、きっと価値のある旅になるはずだと、林五郎は考えていた。

 空港内をぐるりと一周して、目当てのハンバーガーショップがないことを悟った彼は、赤字の背景に、白の切り抜きで表現された、見慣れた英語表記のハンバーガーショップに入ることにした。

 早朝にも関わらず、この時間帯に到着する便も多いためであろう、それなりに店内は賑わっていた。林五郎はホット・チキンサンドと、トルコチャイを注文した。一番奥の隅っこの席に座り、チキンサンドを頬張る。日本にあるとはいえ、殆ど行くことのないハンバーガーチェーンだった。日本との味の違いがよく分からない。

「相席よろしいですか」

 林五郎は顔を見上げると、そこには涼川優の顔があった。いつもと変わらない、年齢よりも幼い容姿だ。小柄で細見であり、黒髪でショートカット。この国では、未成年に間違えられてもおかしくないだろう。

「マ、マクドナルドないじゃないですか!」

 彼は必至に声を出すと、ごめん、バーガーキングだったと、小さな声で返事をした。

「そこ、すごく重要ですから! 一文字も合ってないですから。もう、会えないと思っていましたよ。だって、飛行機6時間も遅延したんですよ。涼川さん、日本に帰っちゃったと思って、1人でどこを観光するか決めていたところです。ていうか、どうしてメール返してくれないんですか。飛行機が遅れたって追加で送ったメール、せめてあれには返信すべきですよ! そうだ、涼川さんは一週間で帰国する予定ってことは、もう出国ですか? そのために空港にいるんですか!」

「ちょっと、いっぺんに聞かないで。答えられないよ」

 優は笑顔を見せた。林五郎は浮足立っているのが自覚出来るほど、興奮していた。そして、優の普段見せない笑顔から目を逸らすことが出来ずにいた。

「では、一つずつ、ゆっくり質問しますね」

 林五郎は深呼吸した後、トルコチャイを口に含み落ち着かせる。

「涼川さんは、一週間で帰国するって言っていましたよね? それって、来週の月曜日からは研究室に行くってことですよね? ってことは、やっぱり、明日出国ですか?」

「林五郎くんはいつ出国する予定なの?」

 すぐに答えることが出来なかった林五郎は、財布の中にある帰りのチケットを確認した。

「明日です。明日のお昼頃です。それで、月曜日の朝に日本に着きますので、そのまま研究室に行く予定です」

 優は、目を大きくして、驚いた顔を作る。普段は、絶対にしない表情だ。

「林五郎くんて、本当に真面目だねえ。それじゃ、何も観光出来ないよ。ちょっと、チケット貸してくれる?」

 林五郎は言われるがままに、空港チケットを差し出した。

「これ、預かっておくね」

「え? 意味が分からないですよ。質問に答えてくださいよ! いったいいつ出国する気ですか。研究室が空っぽになっちゃいますよ」

「しっかり者の理央ちゃんがいるから大丈夫だよ」

 そういう問題か? 林五郎は、優のマイペースさに苛立ちを感じてしまう。

「俺のメールは読んでくれていたんですよね? 出発が金曜日になるメールです」

「うん。読んだよ」

「返事もらってないですよ」

「え? そうだっけ?」

 したはずなのになあと、優は困った顔をした後に、ごめんねとつぶやいた。

「最後の質問、いいですか」

「どうぞ」

「これから、何処に行くんですか?」

 優は、林五郎の顔を見ながら、うーんと、言った。

「どうしようかな。特に決めてないや」

 彼女はそう言うと、最後の一つである林五郎のポテトを口に運んだ。

「あ、じゃあ、私からも質問していい?」

 林五郎は優の切り返しに、心臓が飛び上がった。鼓動が早くなるのが分かる。

「い、いいですよ」

「ここは、どこでしょうか?」

「え?」

 しばらく黙って、考え込む。ひねりのある回答は一向に思いつかず、林五郎は仕方がなく、トルコと答えた。

「そう、正解!」

 優は林五郎の目の前にあるトレーを手に取り、出口の方へと歩いていく。なんだ、今の質問は。林五郎はその姿をあたふたしながらついていく。


 ○


 二人は国内便でイズミールに向かうことになった。イズミールとは、「エーゲ海の真珠」と言われている、イスタンブール、アンカラに続く第三の都市である。観光地の中継地点として名前は広く伝わっているが、あくまで中継地点であり、これといった名所があるわけではない。

 林五郎は、これから何が待ち受けているのか、想像が出来ずにいた。一般的な観光旅行ではないことは理解出来た。観光するのであれば、最大の都市であるイスタンブールや、カッパドキアが定番のはずだ。てっきり衣浦氏のいるアマスティアに行くのかと思っていたが、方角が全く違う。

 しばらくすると、わずか一時間のフライトにも関わらず、機内食が出てきた。トルコのサラダに、チーズとトマトのサンドイッチ、それにヨーグルトが添えてあった。

「このサラダ、羊飼いのサラダって言うのよ。角切りにした野菜に、レモン、オリーブオイルで味付けをしたもの。簡単に作れるから、私もよく作ったなあ」

「よく、作ったんですか?」

 優は林五郎の方を向いて、小さく微笑みながら頷いた。

「涼川さん、さっきチケットを買う時に喋ってた言葉、あれってやっぱりトルコ語ですか?」

「うん。そうだよ」

「話せるんですね」

「まあ、日常会話くらいならね」

 林五郎は頭を悩ませていた。どうして日常会話が話せるのだろうか。やはり、トルコによく来ていたということなのだろう。羊飼いのサラダは、衣浦氏のためによく作っていた、そういうことなのだろうか。改めて、林五郎は、左に座っている優の存在を意識した。彼女の存在を感じると、鼓動が高まるのが分かる。目を向けると、彼女は美味しそうにサンドイッチを頬張っていた。普段は無表情を決め込んでいるが、トルコに来てからの印象はそれとは全く違うものだった。今まで見ていた彼女は、いったい誰だったのか。林五郎は思わず質問した。

「なんか、すごく元気ですね」

「ん? どういうこと?」

 優は微笑みながらぽつりと言葉を返す。

「ほら、その表情とか。いつもはだんまりじゃないですか。日本にいる時と全然印象が違いますよ」

「だって、今日は旅行に来ているんだよ。鬱々と研究しているわけじゃないんだから」

「え? 鬱々と研究していたんですか?」

「まあ、本当は林檎の研究がしたかったからね」

「ええ? じゃあ、どうして博士課程に進んでるんですか?」

「んー、どうしてだっけねえ」と、優は誤魔化す。

 あれだけ熱心に研究していて、やりたくないはないだろう。林五郎は、優の言葉の真相を掴めずにいた。

「でも、研究に打ち込んでいるじゃないですか。前から思っていたんですけど、絶対に去年で卒業出来ましたよね? 発表出来る結果もたくさんあるのに、どうして? 他の研究室の人たちに、誤解されてますよ。俺、いつも悔しい思いをしているんですけど」

「悔しい思い? それは嬉しいな、ありがとう」

 終始笑顔である彼女を見ていると、林五郎の心のしこりも次第に取れてきた。

「それにしても、私はそんなに熱心だったかな。林五郎くんや理央ちゃんには負けるけど。もちろん、北島君たちよりは、ちゃんとやってるけどね」

 北島とは、アフロ野郎のことだ。

「彼ら、結局、学会発表はしないみたいです」

「まあ、仕方がないよね。音楽が好きみたいだし」

「え? いいんですか?」

「いいじゃない」

 学会発表を全員でしようと提案したのは、優だった。

「あの話は、あの子たち以外の子たちに向けたものだからね。彼らに引きずられて、他の子たちも重ねるように適当にやっていたでしょ? 理央ちゃん以外はね。でも他の子たちは、本当は理央ちゃんみたいにやりたいんじゃないかなーって思うことがあってさ。だから、そういう意味では目標は達成出来たわけだし、いいんじゃないかな?」

「はあ」

「それにさ、私は彼らを否定する気はあんまりないよ。楽しいことも世の中にはたくさんあるしね。私は林檎が好きだし、トルコも好き。こうやって、何も決めないでなんとなく、雲のようにふわふわしながらする旅行も好きよ。それにほら、私たちだって、今こうして研究室をさぼって来ているんだから」

「それは嫌だから、俺は、明日には出国したいんですよ」

「林五郎くんは、何か趣味とかないの?」

 次に繋がる言葉は一向に出てこない。

「研究、ですかね」

「真面目だなあ」

 優につられて思わず林五郎も微笑む。彼らを乗せた飛行機は、今度は定刻通りに到着し、お昼前にイズミールにあるアドナンメンデレス空港に到着した。


 ○


 アドナンメンデレス空港から、電車で20分程度、彼らはイズミールの中心街に到着した。林五郎は、優の後をついて行くだけの金魚のフンのような状態であり、言われるがままにテラスのあるレストランに入った。

 彼女は、林五郎君に是非食べてほしいものがあるといい、林五郎には全く解読できないトルコ語で記載されているメニューを見ながら、現地の言葉で注文をしていた。彼は全く活躍の場がないことに居心地の悪さもあったが、何よりも、流暢な異国語を操り、楽しそうに会話する彼女を見ていると、その気持ちは風に吹かれて消え去っていく。

 しばらくすると、ウエイトレスはやってきた。透明のビンには、アルファベットでRAKIと書いてある。前菜はペースト状のものであった。それに、チーズとメロンらしきものが並べられた。林五郎にとっては、馴染みのないものであったが、それとは別に、驚きを覚えずにはいられなかった。

「これ、水じゃないですよね。お酒ですよね?」

「そうよ」

「昼から飲むんですか?」

「そりゃそうよ」

 彼女はそう言うと、一緒に運ばれてきたコップにその酒を注いだ後、冷たい水を入れた。コップの液体は、みるみると白濁していく。

「それ、すごい面白いですね!」

「でしょ? これ、ラクって読むんだけどね、お酒はトルコで一番有名なお酒なんだけど、水で割ると白濁するの。だからトルコでは、ライオンのミルクって異名もあるのよ」

「これって、どうして白濁するんですかね? きっと、何かの植物由来のモノが入っていて、それが界面活性効果をもたらしているのかな? どういう構造しているんだろう。面白いなあ」

「ねえ、少しは研究から離れたら?」

 優は思わず笑ってしまう。

「その、なんかペースト状のやつも、有名なんですか?」

「そうね、これはメゼって言うの。メゼは前菜って意味ね。一番有名なフムスっていうのを頼んだよ。ひよこ豆のペーストね。パンとの相性が抜群だから、パンと一緒に食べてもいいんだけど、私はお酒のお供としてよく食べるかな」

「ていうか、このお酒くさっ!」

 その表情を見て、優は嬉しそうにする。

「臭いでしょ? でも、それがいいのよ」

 林五郎は、恐る恐るラクを口にする。以外と口当たりはスムーズで、何とも言えない甘味があった。甘ったるいわけではないので、確かにすいすいと飲めてしまうお酒だ。次に、フムスをスプーンで食べてみる。見た目は決して良くないが、素朴な味わいが口に広がった。思わず、うまいと言う言葉が漏れる。

「林五郎くんは、世界三大料理を知っている?」

「中華料理とフランス料理かな?後は……」

「そう、その二つは正解。あと残り一つは?」

 林五郎は負けず嫌いであった。ここはなんとしても当てたかった。

「日本!あ、イタリア、スペインかな?」

「全部外れだよ。なんでこの質問出したのか、ちゃんと意図を理解しているの?」

「え? トルコなんですか?」

 賛否両論あるらしいけどねと言い、彼女はラクを口にする。

 その後も、様々なトルコ料理を満喫した後、彼らは町に出た。綺麗な青空が広がっており、海沿いは、リゾート地を思わせる南国の植物が植えてある。観光名所であるコナック広場の時計台を見た後、アサンソルという観光名所にも足を運ぶことにした。辺りを見渡すと、びっしりと可愛らしいアパートが立ち並んでいる。

 イズミールとは、坂の街であった。海岸線からいきなり丘が始まっているような立地に、多くのトルコ人が住んでいる。しばらく歩くと、断崖のような丘をバックに聳え立つ建物が見えてきた。

「これが、アサンソルね。エレベーターに乗って、丘の上まで運んでくれるの。面白いでしょ」

「エレベーター?どうしてこんなところに?」

「ここは坂の街でしょ?だから便利なエレベーターってわけよ。大昔に、お金持ちの人が大変そうにしている住民たちを見て、作ってくれたんだって。ここは夕飯を食べてから上ってみよう。もう一か所、行きたいところがあるんだけど、いい?」

 ダメという選択肢もないだろう。林五郎は言われるがまま、今までと同じように優の後についていった。その場所とは、アサンソルのすぐ傍にある民家であった。玄関の呼び鈴を押すと、髭を生やした恰幅のよい男性が出てきた。そして大きく口を開けて、満面の笑みを浮かべる。

「ユウ!」

 彼女とその男性は抱き合った。再会を喜んでいるようだ。あれ、イスラム教なのにこんなことしていいわけ? 林五郎は疑問が生まれたが、宗教に関する知識があいまいのため、判断することが出来ない。二人は会話をしているが、林五郎には何を話しているか分からないため、いったいどういった関係なのかも全く判断出来ずにいた。この人が衣浦氏なのか。いや、いくらなんでもそれはないだろう。

 優は何やら林五郎を見ながら彼と話をして、そして彼は握手を求めてきた。林五郎は訳も分からず握手をして、出来る限りの愛想笑いをした。ようやく、優は彼の紹介をする。

「オルハン・パムクさん。友達よ。ここで画家をしているの。私がイズミールに住んでいる時に、すごくお世話になったの」

「え?」

「だから、友達よ。画家をやっているの。今日はね、久しぶりに彼の絵が見たくて、どうしてもここに来たかったんだ。きっと、林五郎くんも気に入ってくれると思うから」

 そういうと、二人は部屋の奥へと入っていた。林五郎も遅れずに彼らについていくが、脳内を言葉が駆け巡る。住んでいた? トルコに?

 部屋に入ると、筆洗油の香り――灯油のような匂いだ――が部屋の中に立ち込めていた。パムク氏は油絵を得意としているようで、いたるところに絵が飾られていた。その絵は、全て農園をテーマに描いたものであり、オリーブ、オレンジ、イチジク、それに林檎の絵も飾られていた。その絵は確かに素晴らしかった。太陽を浴びた明るい色相の絵がとても多く、すがすがしい風の音が聞こえてくるようであった。

「どう? 素敵でしょ」

 林五郎は、頷く。

「玄関に、飾っておきたい絵ですね」

「そうでしょう? 何か、いただける絵がないか聞いてみるね」

 そういうと、優はパムク氏に話しかけた。パムクは林五郎を見ながら笑みを浮かべて二度頷き、部屋の奥から小さなキャンバスに描かれた絵を持ってきてくれた。キャンバスには、テーブルの上に静かに佇んでいる林檎の姿があった。あの林檎と似たような姿をしていた。林五郎は、ため息のような声を出す。

「うーん。林檎の絵ですか」

「なに? 嫌? この絵もパムクのタッチの良さが現れていて、すごくいいと思うんだけどな」

 パムク氏は別の部屋に行き、戻ってきた時にはお皿に林檎を盛ってきてくれた。この絵に描いた林檎と同じ種類のものだそうだ。優はさっそく一口食べて、これ以上ない表情を浮かべていた。林五郎は、微笑むだけで、一向に食べようとはしない。

「お腹いっぱい?」

「いや、そうではなくて。実は僕、林檎アレルギーなんです」

「え? そうなの?」

 優はびっくりした表情を浮かべる。そして、しばらく沈黙があった後、パムク氏と会話を始めた。パムク氏は了承を得た表情を作り、再び台所に消えた。現れた時には、他の果物を持ってきてくれた。

「さくらんぼと洋なしもあるって。これなら食べれる?」

「あ、これは大好きです」

 そう言って、林五郎はさくらんぼを口に運んだ。甘酸っぱい味が口の中に広がる。美味しいですといい、パムク氏に笑みを浮かべると、彼も笑顔で返してくれた。言葉は通じなくても、なんとなく意志疎通出来るのが不思議だ。

「この農園の絵を見ていると、懐かしくなってきちゃうな」

 優は良き時代を偲んでいるようだった。それは、トルコ時代の生活がですか? と聞きたくなるが、それを聞くと、この魔法のような幸福感が一瞬にして消え去ってしまうような気がして、口に出すことが出来なかった。林五郎は、言いそびれていた告白――ステップ1――のことをとっさに思い出していた。

「僕は、あんまりいい思い出ないですけどね」

「農園に?」

「僕の実家は、青森で林檎農園を営んでいるんですよ」

「え! そうなの?」

 予想通りの反応に、林五郎は笑みを浮かべた。

「私の実家も、林檎農園なの」

「え? そうなんですね。だから、林檎好きなんだ」

 優はそうよと言い、お皿に盛りつけてある林檎に再び手を伸ばす。今は空き地になっている、という話はしないようだと、林五郎は彼女の言葉を追っかけていた。罪悪感が横切るが、林五郎は顔を振って、その想いを振り切ろうとする。

 結局、その林檎の絵は優が貰うことになり、彼と再びハグをして、パムク氏の家を後にした。外に出ると、すっかりと日が暮れており、辺りは闇に包まれ始めていた。どこに泊まるのか聞くと、こっちよと言い、再び林五郎は彼女の後を追うことになった。

 どおりでこの街に詳しいはずである。いったい、どれくらいの期間住んでいたのだろうか。誰と?と、考えが頭に浮かぶ。正解は一つしかないが、その答えを思い浮かべることはしたくない。しかし、思い浮かべないわけにもいかなかった。

 二人は、アイレ・オテルと書かれた宿に到着した。中に入ると、優は再び歓声を上げて、宿を経営するトルコ人の女性と抱き合った。林五郎は、だんだんと疎外感を感じ始めていた。建物の中は古めかしいが、中は綺麗に片づけられていた。奥の部屋はやたら騒がしく、楽器の音、そして香ばしい匂いも立ち込めていた。

「林五郎くん! 私たちを歓迎して、今日はパーティーを開いてくれるんだって。事前に予約しておいて正解だったね。トルコの家庭料理が楽しめるし、さっきのラクもまた飲めるよ。それにね、ここの宿の人は演奏が出来るよ。トルコ音楽が生で聴けるなんて、すごい貴重だよ」

 優がすごくはしゃいでいるのが分かる。林五郎は、そのエネルギーに負けないように、元気な振りを必死にしていた。部屋は、幸い別々であった。林五郎は自分の部屋に入り、1人きりになった。大きなため息をつく。

 もうダメだ、辛過ぎる。

 彼はそう独り言を言うと、頭を抱えて項垂れた。すると、鞄の中から振動音が聞こえてきた。携帯電話だ。表示を見ると、理央からの着信であった。出るかどうか迷っているうちに、電話は切れてしまった。すると、再び理央の文字が表示された。

「もしもし?」

 林五郎は呼びかけをしてみたが、沈黙が訪れた。心地よくない、空気から怒りを感じることの出来る沈黙だ。

「どうして、トルコに行くって正直に言ってくれなかったんですか?」

 その問いに、林五郎はうまく答えることが出来ない。

「実家に帰るとか嘘までついて。ひどい、どうして嘘つくの」

「だって、そうでもしなかったら、きっと許可してくれなかっただろう」

 それに、ミーチャに子供が生まれたのは事実だ。心の中で言い訳を紡ぐ。

「別に、私の許可なんて必要ないでしょ。だから、嘘なんてつく必要ないのに!」

 理央は、声が震えていた。林五郎は悪かったと反省の言葉を口にしたが、もう遅いよと、すぐに返答が返ってきた。

「どうせ林五郎さんのことだから、衣浦さんのこと、聞かないで旅行しているんでしょ? 情けないったらありゃしない。どうして、そんなに回り道ばっかりするのよ」

「悪かったね。俺はそういう人間なんだよ」

「衣浦さんが、優先輩の旦那さんってことは聞いた?」

 林五郎は、身体全体に電気が走った。感覚が失われていくのが実感出来る。口を動かすのがやっとだった。

「それは知らなかったな」

「ごめん、直接聞く方がよかったね」

 いいよ、ありがとう。林五郎は消えていくような細い声で、理央の言葉に返答した。電話を切った後、林五郎は呆然としていた。そして、優が部屋に迎えに来る前に、彼は辺りの様子を見渡しながら、この宿を後にした。


 ○


 彼は今まで来た道を辿った。途中、ラクが売っているのを見つけて、彼はラクを2本購入した。お金はきっと払い過ぎただろうが、そんなことはどうでもいいだろう。海沿いまで歩いて、潮の風に当たる。丘の方を見上げると、様々な色の光が煌めいていて、まるで星空を見ているようだった。ラクをビンのまま、飲む。まるで、映画に登場する海賊がラム酒を飲むように飲む。彼は映画の撮影をしているような錯覚を覚えた。踊らされてトルコまで来た、哀れな男役だ。見事に演じきったと独り言を言い、林五郎は再びラクをあおる。

 林五郎は一際煌めく建物を見つけた。その麓まで、彼は再び足を運ぶことにした。到着すると、それは画家のパムク氏を訪問する前に立ち寄ったアサンソル(エレベーター)であった。夜間にも関わらず開放されており、警備員の姿もなかった。林五郎は、そのエレベーターに乗り込んだ。ゆったりとしたスピードで、丘のてっぺんへ上っていく。

 エレベーターから出て、テラスの端まで行くと、イズミールの夜景が一面に広がっていた。海から丘を眺めたのとはまた別の美しさだ。海沿いを境に煌めきが連なり、生活を営むアパートが優しい光を発している。

 林五郎は2本目のラクを飲みながら、空を見上げた。空にも、夜景に負けないくらいの、美しい星空を見つけることが出来た。そこで、林五郎は気が付いた。

 そうだ。あの林檎を最初見た時は、こんな感覚だった。あの林檎の表面に記されている跡が、まるで星空のように見えたんだよ。星空から顔を戻すと、目の前に優の姿があった。


 ○


 林五郎は優の姿を見続けることが出来なかった。すぐに逆を向き、イズミールの夜景に目をやる。すると、林五郎の肩にもたれかかるような恰好で、優は隣にやってきた。言葉はない。林五郎も、何を言葉にしていいか、思いあぐねていた。

「ごめん。衣浦さんのことは、知らないと思ってたから。きっと、そのことだよね?」

 林五郎は、何も言うことが出来なかった。知らなかったら、言わなくてもいいのか。まあ、確かに言わなくてもいいことなのかもしれないなあと、空想するように彼は夜景を眺める。

「誤解してほしくないんだけどね、」

「ちょっと待ってもらっていいですか?」

 林五郎は、必死に、言葉を絞りだす。告白のステップ2だ。ここで言わないと、一生言えなくなってしまう。

「俺がトルコまで来た理由は、林檎なんですよ。ほら、アフロ野郎が潰した、あの林檎です。トルコの林檎だったんですよね。俺、林檎が大嫌いなんですが、あの林檎だけは特別に感じて。どうせ食べるなら、あの林檎を食べてみたかったんです」

「どうして、林檎が嫌いなの?」

 優も、イズミールの景色を見ながら、ポツリと言葉を紡いだ。

「恥ずかしい話ですよ。俺って、すぐに顔が赤くなるでしょう? それで、小学校の時にいじめられていたんです。林檎ほっぺの林五郎ってね。親も安易ですよね。林檎農家だからって、林五郎ですよ? そんなことしたら、青森県には林五郎だらけになっちゃいますよ。まあ、調べてみたら、殆どいませんでしたけどね。俺は、この名前を呪っていましたよ。でも、名前を変えることは出来ない。林檎を嫌いになるのは、必然でしたよ」

「何か、決定的な出来事があったの?」

「ありましたよ。青森県だから、小学校の時に、林檎農園への林檎狩りがあったんですが、その時に、共食いだって馬鹿にされましてね。あまりに腹が立ったんで、俺はその林檎をそのガキ大将にぶん投げたら、頭にヒットしちゃいました。3センチ縫う大怪我ですよ。それから、俺のあだ名は林檎魔人に昇格しましたけどね。結局俺はその後、逃げるように関東に出てきたんですよ。あの日以来、林檎は口にしていないですね。でも、」

「でも?」

 優は、優しく林五郎の話を聞く。

「でも、すごくかっこ悪いじゃないですか」

 優は言葉に出さずに、首を小さく振って見せる。

「当時は、辛かったですよ。でも、俺はずっとその過去から逃げているんですよ。それが情けなくて。やっぱりこのコンプレックスは克服したいって思ってて。だから、あの林檎を見た時は、驚きましたね。どうしてなんだろう。すごく優しい感じがしたんですよね。この林檎なら食べれるなあって」

「これでしょ?」

 優は、あの林檎を持っていた。酔っぱらって、饒舌になっていた林五郎であったが、一気に酔いがさめる思いがした。無言で優からその林檎を手渡される。

「衣浦さんに会ってきたんですね」

 君はどこまで知っているのかな。と優は呟いた。

「林五郎君が教えてくれたから、私も過去のこと、教えてあげるよ。でも、結論は逆だから面白いね」

「逆?」

 林五郎はよく意味が分からなかったが、優はゆっくりと語り出した。

「私の実家はね、富山県で林檎農園を営んでいて、私が中学生くらいの時かな。多崎教授が一緒に品種改良の共同研究をしないかって、私のお父さんに持ち掛けてきたの。私のお父さんも、私たちの大学の卒業生だし、じゃあ一緒にやろうってことになって、品種改良の検討が始まったわ。でもね、なかなかうまくいかなかった。衣浦さんがこの研究のリーダーになって、殆ど私たちのうちに居候する形で研究に取り組んだんだけど、ダメだったんだよね。結局、全部枯れちゃって。しかも、トルコから運び込まれたウイルスに侵されたって噂がたっちゃって、私たちの家は、完全に村八分になったの」

 だから、衣浦農園は空き地だったのか。ようやく理解することが出来た。

「でもね、ここは本当にお恥ずかしい話なんだけど、必死になんとかしようとする衣浦さんに私は恋をしてしまって、ほら、私って突然思い立って行動しちゃうところがあるでしょう? 今回のトルコ旅行もそうだよね。だからね、私は婚姻届を手に入れて、あとは衣浦さんが判子を押せばいいところまで書いて、トルコに飛び立つ前に彼のもとに走ったの。そしたら、普通の大人なら、印鑑押さないよね。でも、彼は笑いながら捺印して、トルコに飛びだっていったわ。当時の私は若いから、もう舞い上がっちゃってそのまま市役所に行って、結婚を事実化しようと奔走したわ」

「そうか、それで結婚したんですね」

 そう林五郎は言うと、くすくすと優は笑い始めた。

「そんなわけないでしょう? 私は当時、高校生だよ? 未成年が1人で婚姻届けを持って行っても、受け取ってもらえないよ。親に没収されて、捨てられちゃった」

 なんだよ。結婚していないじゃないか。理央は、多崎研の噂話を真に受けたのだろうか。しかし、今のマイペースな彼女からは想像出来ない姿だった。 

「でも、捨てられたからといって、黙ったままでいる私ではなかった」

「だから、トルコに飛び立ったんですか。え? 高校生の時にですか?」

「高校三年生の時ね。大学受かっていたけど、すっぽかして、そのままトルコに行ったの。でも、すっごい楽しかったんだよ。衣浦さんには、全く相手にされずに、アマスティアには一度行ったきりだったの。帰れと言われて終了。悲しかったな。でも、そんなすぐに日本に戻れないじゃない。だから、私はこのイズミールにやって来て、多感な青春時代を謳歌したの」

「どれくらい、いたんですか?」

 2年くらいかなと、彼女は答えた。なんだかおかしい、彼女の年齢が計算しても合わない。

「だから私、本当はもっと年上なのよ」

 そういって、優は再びくすくすと笑った。

「そんなことがあったのに、よく林檎を嫌いにならなかったですね」

「そう、そこなのよ。そこが林五郎くんと違うところだったね。林檎には罪がないわけでしょ。嫌いになったら負けたような気がして、私はむしろ大好きでいようって思ったの。もちろん、林檎を思い出すと、彼のことを思い出しちゃうこともあるから、それはそれでとても辛かったんだけどね」

 彼女の方に目をやると、優は夜景の遠くをぼんやりと見つめていた。きっと、今彼女は衣浦氏のことを考えているのだろう。そう思うと、林五郎の心は締め付けられる思いがした。

「じゃあ今回は、その衣浦氏に会いにいく旅、だったんですね」

「そんなわけないでしょう?」

「え?」

 林五郎は、間抜けな声を出してしまった。

「この林檎だって、確かにアマスティアに行って買ってきたけど、衣浦さんには会ってないわ。私はさ、この林檎を食べて、本来の自分を取り戻したかったんだ。この林檎の完成を機に、私も、新しい一歩が踏み出せるんじゃないかなって思って。北島君のおかげで、それは一旦おじゃんにされちゃったけど、昔の自分を取り戻すんだったら、大胆にトルコに渡ってみるもいいなと思って。本当、トルコにこれてよかったな。今ではちょうどよかったなって思っている」

「じゃあ、どうして俺のことを誘ってくれたんですか?」

 それ、普通聞く? そういって困った顔を林五郎に向けた。林五郎は、顔が真っ赤になる。

「本当だ。林檎ほっぺの林五郎くんだ」

「からかうのはやめてください!」

 彼はそう言いながら、手に収まっている林檎を見つめた。

「林五郎くん、本当は林檎アレルギーじゃないでしょ?」

「どうして分かったんですか?」

「林檎アレルギーの人は、サクランボや洋ナシも食べれないのよ。よく覚えておきなさい」

 林五郎は、林檎を夜景の美しさに重ねてみた。きっとこの林檎は、人を導く大きな力を持っていたんじゃないだろうか。林檎の透き影には、いろんな物語が詰まっていて、その魅力をもって、この地まで導いてくれたのかもしれない。林五郎は、そんな風に思いたかった。

 林五郎は、笑みを優に向け、その後、その林檎にかじりついた。

 再び笑みを浮かべて優の方を振り向くと、優はその口にそっと口づけをした。


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